勅令「阿片謀略」
その1:「極秘」資料出現
初出:昭和が終って 『噂の真相』(1989.5)
大日本帝国アウシュヴィッツのナンバーワンに数えられるべき「阿片戦略」は、東京裁判で告発され、判決文でも事実認定されながら、なぜその後、「抹殺」されたままになっていたのだろうか。
東京神田の古書店に3つのダンボール箱が現れた。売主の身元は伏せられている。だが中身の古びた書類は、紛れもなく、蒙古連合自治政府の日本人元高官、経済部次長の旧蔵資料であった。「軍」「官」「民」挙げての湮滅作戦を免れた当局資料の奇跡的な出現に、長年の研究者は興奮を押え切れない。
戦後43年を経て、第1級の「極秘」当局側1次資料が、有無をいわさず立証する日中15年戦争期最悪の国家犯罪秘録。「幻の阿片帝国」蒙疆(もうきょう)傀儡政権(1937年~1945年)の全8年史が、いま、日本人全体に問直す。(文中敬称略)
北京の路上に「凍死体」がゴロゴロ
このテーマに関する筆者の思い出は敗戦直前の北京に遡る。当時は国民学校(いまの小学校)3年生だから、かなりの記憶がある。
北京の冬は寒い。公園の池がそのままスケート場になる。だから冬の思い出が多いのだが、そのなかでも特に不気味で強烈な映像をとどめているのが、路上に放置されたままの「凍死体」である。学校へ通う道に、ゴロゴロという印象なのである。
頭の中には映像と一緒に、その当時の日本人の大人の説明が植え付けられていた。
「支那人は昼間から阿片吸って怠けとる」
と、……。阿片窟で息を引取った身元不明の「いん者」(いんじゃ、阿片中毒患者。[「いん」の漢字がコ-ドにないので、ひらがなで代用])が、路上に放り出されていたのである。
しかし、まさか自分の国の日本が、国家政策として中国で阿片の増産を督励し、軍事機密に重用し、輸出さえしていたとは……。
東京裁判(正式には極東国際軍事裁判)では当時の阿片窟支配人がこう証言していた。「日本の占領中、北京には約 274の阿片窟、2万3000人の登録乃至許可済阿片吸飲者、8万の非登録吸飲者、時折阿片を吸飲に来る10万人がいた。盧溝橋事件以前は阿片は公然と売らしていなかった。然るに日本軍占領数ヶ月ならずして……日本軍により阿片の販売が公認された。……占領後吸飲者の数は占領前の10倍以上になったに違いない」
判決文は、「禁煙政策」を潜称した日本の「専売機関」について、「麻薬からの収入を増加するために、その使用を奨励する徴税機関にすぎなかった」と断じている。
さらに皮肉な論評も加えられている。
「いやはや、日本の侵略者たちは、何とまあ独特な……侵略方法……ヨーロッパの盟友ナチスでさえ考えおよばなかった……名案を思いついたのである。その結果、何十万人の人々が阿片の犠牲になり、その反面何億ドルもの金がとぎれることなく侵略計画の需要に応じるために日本の国庫に流れ込んだ」(スミルノーフ/ザイチェフ著、『東京裁判』、大月書店、1980年)
共著者の一人であるスミルノーフは、執筆当時は最高裁判所長官。ナチス・ドイツA級戦犯を裁いたニュールンベルグ裁判ではソ連首席検察官補佐、東京裁判ではソ連次席検察官をつとめた。原著は初版十万部がたちまち売切れるベストセラーだったという。