いんなあとりっぷ増刊号『羽仁進 アフリカ動物写真集 野生の生と死」
第5巻7号(通貫54号)昭和51(1976)年5月20日発行 P176-182掲載
アフリカ巨人伝説
木村愛二(アフリカ古代史研究家)
1 サハラ岩壁画の驚異
1959年、パリの美術界、歴史学界は、一大センセーションにつつまれた。
いまでは乾ききった沙漠の岩山、サハラの真只中のタッシリ・ン・アジェールから、先史美術の色彩模写画がもたらされたのである。そこには、狩猟、農耕、牧畜などの有様が描かれていた。いまでは絶滅したサハラの狩猟動物、そして、その後の調査では、合計6千頭にも達する牧畜牛の群、馬を駆る男たち、1頭立ての戦車、舟にのる男たち、らくだ、等々。
岩絵、浮彫り、そして遺跡と出土品のかずかずは、サハラの先史を、高らかに物語りはじめた。かつてサハラには、緑なす沃野がひろがり、豊かな生活がいとなまれていたのである。
サハラこそ、うたがいもなく、旧約聖書にうたわれたカナンの地であった。言語学者は、すでに、イスラエル語などのセム語は、サハラに起源を持つと主張しているのだ。
さて、旧石器文化の中心が、アフリカ大陸にあったことは、もはや動かしがたい定説となっている。これにくわえて、サハラ先史美術の発見以来、新石器文化も、農耕文化も、牧畜文化も、さらには金属文化さえも、すべてアフリカに起源を持つと断言する仮説が、つぎつぎに発表されるようになった。
世界史または世界文化史は、アフリカを中心にして、全面的に書きかえられなければならなくなってきた。サハラ先史美術の発見は、まさに、9回裏逆転ホーマーの感がある。
だが、サハラ先史の主役、サハラ文化人たちは、どういう人種に属していたのであろうか。
「黒人だったんだなあ。古代文明をつくったのは、黒人だったんだなあ」
ある日本のジャーナリストは、サハラ先史美術の前に立った時、この想いが胸につきあげてきたと告白している。アフリカの黒人または黒色人こそが、壮大なサハラ文化のにない手であった。彼らは、その動かしがたい証拠を、1万年の絵画記録として、岩壁に刻みつけていたのである。
サハラの砂丘の中には、まだまだ、巨大な過去の謎がうずもれているにちがいない。いまたしかにいえるのは、岩壁にのこされた馬と戦車のルートをつなぐと、見事なサハラ縦断路があぶりだされてくることである。
これらのルートの先に、サハラ文化の痕跡は、のこっていないのだろうか。
2 巨石文化の担い手イベリア人
有名な、イギリスのストーン・ヘンジを建設した人々は、「短身、暗色の皮膚、長頭の人種」であった。また、おとなりのアイルランドのケルト伝説は、先住民が「缶の黒い海洋民族」であり、ガラスの塔を建てた、とつたえている。
これらの人々が残した巨石文化の遺跡をたどると、イベリア半島の南端に達する。そのため、彼らは、イベリア人とよばれている。
だが、同じタイプの巨石文化の遺跡は、ジブラルタル海峡を渡り、サハラの戦車のルートを南下したところ、ニジェール河中流域からも、ぞくぞく発見されている。とくに、ガンビアで発見されたものは、イギリスのストーン・ヘンジと同じ型のものである。しかも、一説によれば、ストーン・ヘンジの巨石は、アフリカ産のものであるという。最近の岩石学の発達により、たとえば京都盆地で発掘された4世紀ごろの石棺の石材は、九州の阿蘇火山から切りとってきたものであることなどが、正確に割りだされるようになった。これと同じ調査が、ちかく、巨石文化に関しても、行われるであろう。
戦車ルートの、もう一方の先には、クレーテ島がある。この島を中心に、紀元前3000年ごろから栄えたミュケナイ文明の建設者たちは、自らの彫像を残している。それらは、彼らがアフリカに起源をもつ、「ほっそりとした、肌の黒い、黒髪の」人々であったことを物語っている。
華麗をきわめたミュケナイ文明の主流をなす人々は、アフリカ大陸の出身者であったのだ。
この事実は、また、ミュケナイ文明の後継者であるギリシャ文明の神話、伝説に、明瞭に刻みこまれている。
紀元前五世紀の、ギリシャの歴史家ヘロドトスは、ギリシャの神々のほとんどすべての系譜を、エジプトに求めている。そして、海神ポセイドン(馬の神格化でもある)は、リビア(現在のリビアを中心に、アフリカ大陸全体を示す)から受けついだのだ、と説明している。さらに、ギリシャ神話の世界は、面白いことに、アフリカ大陸を中心としている。そこでは、陸地はひとつしかなく、その中心をナイル河がつらぬいている。そして、ナイル河の源をなすオーケアノス(大洋・英語のオーシャン)は、巨人(タイタン)神のふるさとであり、巨人(タイタン)神は黒色人であったというのだ。
わたしの解釈では、オーケアノスは、ニャンザ(ヴィクトリア)大湖である。その周辺に現在も住む黒色の巨人グループの謎については、のちにふれる。
3 エジプトの初代ファラオは黒人
サハラ文化の、もうひとつの発展は、古代エジプト文明である。
ここでもヘロドトスは、エジプト人の「色が黒く、髪がちぢれている」という、貴重な証言を残してくれた。古代エジプトの国家形成は、紀元前3500年ごろのことである。それから3000年もたって、なおも、エジプト人(支配階級)は、アフリカ黒色人の特徴を明確につたえていたのである。
物的証拠は、ありあまるほどある。
まず、ナイル河下流域から出土した約800の頭蓋骨(先王朝期のもの)の、約3分の1は、ヨーロッパ系人類学者によってさえ、「ネグロイド」に分類されている。わたしは彼らの分類法には大いに疑問を提出しており、ほとんどすべてがアフリカ黒色人だったのだ、と考えている。
彫像ものこっている。初代のファラオとされるナルメルの像、第2王朝のジゼールの像、第4王朝のカフラーの面立ちを写したといわれる大スフィンクス、これらの示すものはいずれも、アフリカ黒色人以外の何物でもない。
さて、絵文字の記録で世界最古のものは、古代エジプトのパレットである。これには、ファラオ・ナルメルの名が記されている。ナルメルの功績をたたえるこのパレットの解釈は、以下の2つの説にわかれている。
① 上エジプト(南部)が下エジプト(北部)を征服した記録。
② すでに上下王国の統一を完成したエジプト帝国が、メソボタミアの両河地帯にいたるまでの、オリエント諸都市をしたがえた記録。
わたしは、第2の解釈に賛成する。パレットに描かれた長髪の人物像は、エジプト人ではない。このスタイルは、エジプト絵画でつねにアジア(オリエント)人の典型となっている。牡牛は、ファラオの象徴である。牡牛の角でこわされている城壁のつくりは、オリエントの都市遺跡の型とそっくり同じである。長い首をからみ合わせている2匹の豹の画は、ウルク期とよばれるメソポタミア先王朝文化期の諸都市の、シンボルマークであった。この記録は、アフリカによるアジア征服の記録である。
ところで、エジプトのビラミッドに眠っていた記録は、南方の国、プーントとの交易の歴史を物語っている。紀元前3000年ごろから、紀元前1500年ごろまで、何度も、プーントの国の名が出てくる。
4 エジプトより古い黒人帝国プーント
古代エジプト人は、ナイル河をさかのぼったり、紅海を南に進んだりして、プーン卜の国に達していた。しかし、『魏志倭人伝』の邪馬台国にいたる道筋のような、方向、距離を記した記録は残っていない。もっとも、方向や距離が記されていてさえ、古代史論争がますますエスカレートするのだから、話としては似たようなものであろう。
だが、エジプトにとってのプーントの国は、中国にとっての邪馬台国よりも、はるかに重要な位置をしめていた。『倭人伝』は、魏の『三国志』のうち、『東夷伝』の末尾に書かれたものである。ところが、プーントの国との交易の成功は、エジプトの神殿の壁画に、麗々しく浮彫りの絵巻物として大書されるような、一王朝の歴史の中でのトップ記事であった。
紀元前2500年ごろ、古代エジブト第5王朝のファラオ・サフラーは、「8万枡のミルラ、6千2百斤のエレクトン(金と銀との合金)、2千6百斤の貴重木」を、プーントの国から持ちかえったことを記した。紀元前1500年ごろの女王、ハトシェプストは、プーントの国との交易の成功を誇り、大神殿の3面の壁に、その有様を浮彫りの画として残した。プーントの珍品のリストの中には、ミルラ、黄金のほかに、子牛、雄牛、象牙、黒檀の本、南方豹の皮などが記されている。
さて、古代エジプトとともに古いプーントの国はどこにあったのであろうか。
ここでも、2つの仮説が立てられている。
① 現在のソマリア北海岸、アデン湾に面し、アラビア半島と向かい合うあたりにあった、とする説。
② 現在のローデシア(アフリカ人側は、「ジンバブウェ」の国名を主張)あたりにあった、とする説。
この第1の説は、従来、ヨーロッパ、アメリカの学者が主張してきたし、日本の西洋史学者も、丸うつしにしてきたものである。第2の説を強力に主張しはじめたのは、アメリカの黒色人学者やアフリカ人の学者である。そしてわたしは、第2の説に賛成である。また、すくなくとも、絶対にソマリア近辺ではありえない、と確信している。
ソマリアや、となりのエチオピアあたりにも、牛、象、豹などの動物はいたようである。しかし、この点でも、ソマリアが象牙、豹の皮の特産地であったという証拠はない。その上、ミルラの正体はよくわからないのだが、黄金、黒檀(こくたん)の木に関するかぎり、ソマリア近辺の特産品ではなかったことが、はっきりしているのだ。
それにひきかえ、ウガンダからジンバブウェ(ローデシア)にいたるアフリカ内陸高原地帯は、ハトシェプスト女王のリストにあげられた珍品を、すべて産出する。ほかにも、浮彫りに描かれたプーント王(女王説もある)などの風俗は、第二の説に有利である。
また、さらに決定的な事実を、別の碑文が語っている。
紀元前2300年ごろ、古代エジプトの貴族ハルクーフは、ナイル河の上流へむけて、往復8カ月もかかる旅をした。彼はその記録を、自分の墓石にきざませた。ハルクーフは、第4回目の旅で、「踊る小人の神様」を連れて帰り、ファラオに献上した。バトゥワ人(ピグミー)が踊り上手であることは、よく知られている。彼らは、中央アフリカの森林地帯に住んでいる。古代の居住範囲も、あまりちがわなかったであろう。
ところが、ハルクーフはそこで、「イセシの時代に宝物係のブールデットがプーントから連れて帰った小人と同じような踊る小人の神様」、という表現をしている。つまり、かつて、プーント王国からエジプトに、踊る小人の神様が連れてこられたという、当時よく知られた事実があったのだ。ブーントもやはり、中央アフリカにあったという、何よりの証言がここにある。
つぎに、黄金やエレクトン(金銀の合金)と一口にいっても、輸出するほどの量をこなすためには、かなりの程度の鉱山業や、手工業的な冶金技術がなければならない。
図のように、ジンバブウェ(ローデシア)を中心として、古代・中世の遺跡、金・銅・鉄・錫などの鉱山跡が無数にある。(大ジンバブウェは、あまりにも有名なので、ここでは紹介を省く。しかも、大ジンバブウェは後代のものである。)鉱山跡は、推定6、7万ヵ所ではないか、といわれるほどである。考古学的な調査は、まだ緒についたばかりだが、すでに紀元前後のデータが出はじめている。古いものほど数がすくないのは当然だから、調査がすすめば、古代エジプトの初期と一致するようなデータが、ぞくぞくと出てくるであろう。
しかも、おどろくべきことには、さらに南方のスワジランドで、4万3千年前(カ―ボン14による)というデータを示す鉄鉱山さえ発見されている。もっとも、これをにわかに、鉄器文化の年代というわけにもいくまい。赤い顔料のベンガラは、酸化第二鉄であり、硫化鉄鉱石を熱するとできる。そして、狩猟民が顔や身体に色をぬり、また、岩絵を描くことはよく知られている。だから、4万3千年前の鉄鉱山は、絵具の原料を得る場所だったのかもしれない。もうひとつの証拠物件として、アンチモンが登場する。アンチモンはすでに、紀元前4000年ごろから、陶器の壺の装飾用絵具の成分として使われていた。また、紀元前2300年ごろの古代エジブトの王女のミイラは、アンチモン入りの白粉(おしろい)入れを、副葬品として持っていた。そして、アンチモンは、ジンバブウェ(ローデシア)の特産品である。
これらの顔料の成分を含めた金属文化は、アフリカ内陸に発祥の地を持つものではないだろうか。これまた、人類文化史上、最大の謎のひとつである。
技術上の問題についても、すでに1880年代、ドイツの技術史家であり、製鉄業者の息子でもあったベックが、『鉄の歴史』全3巻の大著の中で、製鉄起源地をアフリカに求め、スーダンあたりの土着の製鉄法に注目している。また、ジンバブウェの南西のマプングブウェの遺跡からは、精巧そのものの金細工が発掘され、ヨーロッパ人の技術者を驚嘆させている。
また、世界史を論ずる上で、プーント王国の位置づけは、強調しすぎるほど強調してもいいだろう。知られるかぎりで世界最古の帝国、古代エジプトが、その成立のはじめから、最も重要な交易の相手国としていた国であるプーント、もしかするとエジプトよりも古い国家だったかもしれないプーント、この国の位置を定めえずしては、世界史の本当の幕は開かない。世界史におけるプーント王国の位置づけは、日本史における邪馬台国の位置づけと似ている。
邪馬台国には、「親魏倭王」の金印が与えられていた。これに類するものさえ、ジンバブウェから発掘されている。ザンベジ河のほとりから、古代エジプトの神オシリスの小像が発見され、これには、紀元前15世紀のファラオ、トゥトモシス3世の碑銘が刻みこまれていた。トゥトモシス3世は、ハトシェプスト女王の甥に当たり、これまた、プーント王国との交易をつづけた記録をのこしている。
上・左から「メロエ文字」「ジゼル第二王朝のファラオ」
下・左から「ナルメルのレリーフ」「プーントの兵士たち」
上・左から「スフィンクスは黒人の顔である」「初代ファラオとされるナルメルの像」「メロエ文字」
下・左から「エジプトのファラオ、ラムセス2世像」「今もある部族で行われている黒人の髪型」「アフリカ古代都市地図」
5 シバの女王の国
「シバの女王は主の名にかかわるソロモンの名声を聞いたので、難問をもってソロモンを試みようとたずねてきた。……そして彼女は金120タラントおよび多くの香料と宝石とを王に贈った。シバの女王がソロモンに贈ったような多くの香料は再びこなかった」(『列王紀上』、10章)
このシバの女王の国をめぐる論争も、プーント王国の場合と同様である。むしろ、シバの女王の国自体が、プーント王国の後継者のひとつと考えてよいだろう。
ここでも一説は、アラビア半島の一土侯国を主張し、一説は、ジンバブウェを主張する。わたしは、現在のザイールのシャバ(旧カタンガをむかしの地方名にもどす)州に、目をつけている。シャバとは、現地のリンガラ語でもスワヒリ語でも、「銅」の意味である。そして、シャバ州には、やはり数万ヵ所の鉱山遺跡があり、いまもなお、銅やウラニウムをはじめ、あらゆる金属を豊富に産出している。
もうひとつのヒントは、旧約聖書の章句の中にある。
「シバの女王がソロモンに贈ったような多くの香料は再びこなかった」のである。ソロモン王は、紀元前10世紀、海洋民族のフェニキア人と同盟を結んでいた。フェニキア人は、紀元前3~2世紀のポエニ戦争にいたるまで、地中海からインド洋にかけて、海上貿易の独占権を握っていた。シバの女王の国がアラビア半島あたりにあったとすれば、「香料は再びこなかった」ということは、ありえない。
さらに、ここシャバ州からも、紀元前7世紀と年代づけられる、オシリス神小像が、発見されているのである。
6 謎の国オフィール
フェニキア人は、本来、インド洋を舞台に活躍していたのである。彼らが地中海にのりだすのは、ソロモン以後のことである。
1920年代には、フェニキア人の植民都市として有名な、カルタゴの神殿遺跡の発掘調査が行われた。
タニットの神殿とよばれる聖所には、女神像を刻んだ見事な石棺が、おさめられていた。石棺の中の遺体は、調査の結果、あらゆる点からみて、アフリカ黒色人の特徴をもっていた。フェニキア人が女神と仰ぐ、高貴な女性は、アフリカ黒色人であったのだ。
また、フェニキア人に富と力をもたらしたのは、タルシシとか、オフィールとかよばれる、遠い謎の国であった。そこには、金、銀、銅、鉄、錫、象牙などが、豊富にあった。
わたしの考えでは、タルシシは、のちのアラビア人が「ザンジの国」とよびならわした東アフリカである、オフィールは、現在のモザンビーク南部の海港都市、ソファラである。
モザンビークは、ザンベジ河をはじめとする大小の河川によって、ジンバブウェやシャバ州とつながり、海上貿易の拠点となっていた。
フェニキア人自体も、出発点を東アフリカに持っていたのである。アフリカ黒色人を貴族にいただくフェニキア人は、シャバ(シバ、サバともいう)の女王を大船にのせ、ソロモンの国まで押し渡ったのである。
左から「古代製鉄炉跡」「17世紀のロアンゴ王国の壮大な都(オランダ人のスケッチより)」
7 消えた巨人種の王国
フェニキア人についで、旧約聖書に登場するのは、エチオピア人である。2世紀の学者プトレマイオスがつくった世界地図では、アフリカ大陸の中心部を、「エチオピア・インテリオール」とよんでいる。エチオピアの中心部なり内部、という意味である。現在のエチオピアとは全くちがう。現在のエチオピアは、アビシニアとよばれていたのだが、近代ヨーロッパ人が、このアビシニアだけをエチオピアとよぶようになったため、それを国名として採用したのである。ちょうど日本が、国際的に、ジャパンで通しているのと同じことである。
さて、ヘロドトスは、エチオピア人に大変な敬意を払っていた。そして、エジプト人はメロエからきた、と書き残した。メロエとは、現在のスーダンにあった古代都市で、そこも、ヘロドトスの理解によれば、エチオピアの一部であった。つまり、ヘロドトスは、エジプト人がエチオピア人から発している、と考えていたわけである。
ところで、わたしの考えでは、ジンバブウェやシャバあたりの金属文化が、四方にひろがっていったのである。そのルートには、ザンベジ河経由の東アフリカ海岸まわり、ベヌエ河(ニジェール河の支流)経由の西アフリアまわり、そして、ナイル河くだり、などが考えられる。古代のルートは、水運を利用する場合がほとんどであることは、よく知られている。西アフリカやサハラ地帯では、チャド湖(いまよりはるかに大きい内海)と、周辺の河川が大きな役割を果したにちがいない。
ナイル河の水量も、また、いまよりはるかに豊富であった。現在でも、若干の岩州を爆破した結果ではあるが、河口からウガンダまで、汽船が通る観光ルートが開かれている。古代の小船は、豊かな流れにのって、とぶように走りまわっていたにちがいない。
ナイル河くだりの中ほどには古都メロエが栄えていた。メロエは、古代の黒色人帝国、クシュの首都のひとつであった。
紀元前8世紀、現在のスーダン北部を中心地とするクシュ帝国は、ナイル河口からニャンザ(ヴィクトリア)大湖にいたる、史上最大の帝国をうちたてた。その範囲はアフリカ大陸の4分の1に達していた。この間、約1世紀におよぶ時期を、エジプト史では、クシュ王朝もしくはエチオピア王朝と、よびならわしている。そして、この王朝の支配者はまぎれもないアフリカ黒色人であったこのことに、異論をさしはさむ学者は、いまや皆無である。
このクシュ帝国も、また、華やかな金属文化の中心地であった。古都メロエには、ギリシャ・ローマの古代遺跡をしのぐ、石造の大建築物、レンガづくりのピラミッドなどの遺跡が残っている。発掘調査は発見されたものの10分の1であり、砂丘と化した周辺部には、まだまだ秘密がかくされている。
しかも、メロエには、鉄鉱石のボタ山がいくつも、3000年の風雨、砂あらしに耐えて、30メートルもの高さでそびえ立っている。
クシュ帝国の栄光の残映は、いまもなお鮮やかに、旧約聖書の章句にきざみこまれている。ソロモン王のもとに栄華をほしいままにしたイスラエル王国は、前8世紀になって、アッシリア帝国の侵略にふみにじられようとしていた。クシュ帝国とエジプトの軍勢は、イスラエルの要請にこたえて、アッシリアにたたかいをいどんだ。「イザヤ書」は、クシュ(エチオピア)の戦士によせるイスラエル人の強い期待を、つぎのようにうたい上げた。
「ああ、エチオピアの川々のかなたなる、ぶんぶんと羽音のする国、この国は葦の船を水にうかべ、ナイル河によって使者をつかわす。とく走る使者よ、行け、川々の分かれる国の、たけ高く、膚のなめらかな民、遠近に恐れられる民、力強く、戦いに勝つ民へ行け」
クシュ帝国は、2度にわたって、アッシリアの侵略をはねかえした。しかし、3度目の大戦にやぶれ、ナイル河デルタ地帯を明けわたした。以来、クシュは、古都メロエを中心とする範囲を守り、独得の文化圏をつくりだした。のちのギリシャ・ローマ軍の侵入をはばみ、4世紀ごろまで栄えた。クシュ人は、エジプトのヒエログリフを採用し、そこから独得のアルファベット文字を発展させた。日本人が漢字から、ひらがな、カタカナをつくりだしたのと同じことが、アフリカ内陸でも起こったのである。それも、日本の場合より、1千年は昔の話であった。
クシュ帝国の栄光は、ながく古代人の記憶にとどめられた。ギリシャ神話・悲劇は、エチオピアに神々の中心地をおいており、「聖なるエチオピア人」とうたっている。
まことに残念なのは、大旅行家・大歴史家のヘロドトスが、古都メロエを目指しながら、途中で引きかえしてしまったことである。しかし、ヘロドトスは、エジプトで耳にしたエチオピア人についての話を、沢山書き残してくれた。ヘロドトスがエチオピア人によせた敬意の高さは、『歴史』の中の、つぎのような文章に見ることができる。
「カンピュセス(ペルシャ王)が使者を送った当のエチオピア人というのは、世界中で最も背が高くかつ最も美しい人種であるといわれている。その風習は多くの点で他の民族と異なっているが、ことに王制に関してつぎのような慣習がある。全国民の中で最も背丈が高く、かつその背丈に応じた膂力(りょりょく)をもつと判定される者を、王位に就く資格があるとするものである」
このエチオピア王の一族は、マクロビオイとよばれていた。マクロビオイの意味は、長弓を引く人とも、長命の人とも、解釈されている。背の高い人の意味かもしれない。いずれにしても、彼らは、ギリシャ神話の人巨神、タイタンの一族を思わせるのである。
マクロビオイとよばれた人々は、本当にいたのだろうか、または、どこかへ消えたのであろうか。この疑問に対して、わたしは、いや、消えてはいない、と答える。
中央アフリカには、現在も、平均身長2メートル以上の巨人グループが数10万人もいるのだ。しかも、ウガング、ルワンダ、ブルンジ、タンザニア西部では、つい最近まで、その巨人グループが、王族・貴族層をなしていた。また、はるか1万2千年前、ニャンザ大湖のほとりには、背の高い人種と、背の低い人種が一緒に暮らしていた。発掘された人骨の化石が、その事実を物語っているのである。
アフリカ内陸の巨人貴族には、数千年の歴史の謎が秘められているのだ。
古代アフリカ史の謎は深い。たとえば、「洪水伝説」やアトランティス大陸につらなる謎もある。
ニャンザ大湖の西方にあるルヴェンゾリ山(5125メートル)は、紀元前6000年ごろ、大爆発をおこしている。火山灰におおわれた広大な裾野のはずれからは、それ以前の新石器文化の遺跡が発掘され、イシャンゴ文明と名づけられた。
ルヴェンゾリ山の大爆発は、周囲の湖沼、河川をうずめ、ニャンザ大湖の水をせきとめたにちがいない。そして、アフリカ諸民族の神話には、「箱舟」が物語られているのだ。
現在までに発見された最古の「洪水伝説」は、シュメール語の粘土板に書かれたものである。箱舟で難をのがれた人物は、ジウスドラとよばれており、彼は、ディルムンの地に渡る。
「アヌとエンリルはジウスドラを慈しみ、神のような生命を彼に与え、神のような永遠の呼気を彼にもたらした。それから王なるジウスドラ、植物の名と種子の保持者を、渡りの地、ディルムンの地、太陽の昇る場所へ、彼らは住まわせられた」(平凡社刊『未知の古代文明ディルムン』より)
ところで、同じシュメールの伝説は、彼らの祖先が「南の海」からやってきた、と語っている。この2つの話を合わせると、「大洪水」がおきたのは、「南の海」の彼方でのことである。この「南の海」は、東アフリカまでくだって考えてもよいのだ。伝説以前の人類でさえ、いや前人類でさえ、アフリカから世界中にひろがっていったのだから。
ルヴェンゾリ山の大爆発と、大洪水をのがれた人々は、ニャンザ大湖を東に渡り、ケニア山(5194メートル)のふもとに達した。まさに、「渡りの地」であり、「太陽の昇る場所」である。
ルヴェンゾリ山も、ケニア山も、ほぼ赤道直下に、東西に相対している。かつては、ともに活火山であった。この二つの活火山の中間に住む人々にとっては、太陽は火を吐くケニア山の頂上から昇り、火を吐くルヴェンゾリ山の山頂に沈んでいくのだった。そして、ギリシャの神話的詩篇『オデュッセウス』には、「速くに住まうエチオピア人、世の果てに、日の神ヒュペリオーンの沈む所と登る所に別れて住むエチオピア人」、という表現がでてくる。
考古学的発掘の結果、ケニア山のふもとにも、イシャンゴ文明と対応する、ナクル文明が発見された。そののちにも、巨大な土塁や、石造建築、灌漑(かんがい)農場、道路などがきずかれており、金属文化が栄えていたのである。
西アフリカ文明や、南西アフリカの大都市については、ふれる紙数がなくなった。東アフリカには、まだ、大道路網の謎があるし、南アフリカには、石造の巨大なダムと水道の遺跡がある。いずれも、今後の発掘調査に待つところが大きい。
拙著『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』(74年、鷹書房刊)では、できるだけ出典を明らかにしたし、それまでに眼を通した参考文献もリストアップした。御参照願えれば幸いである。また、いわゆる古代史ブームが、世界を舞台に、とくにアフリカ大陸へむかうことを願うものである。