テラコッタの証言
ナイジェリアの南部地帯には、すでに紹介したように、多くの騎馬帝国が栄えていた。ベニンとかイーフェとかは、黄銅美術でも有名だ。
ところが、この地帯のすこし北に、ノクという地名の錫鉱山があった。そして、この鉱山の採掘現場から、大量のテラコッタ(焼き粘土の意)、つまり土製の人物像(日本のハニワに似ている)が出土した。これはノクの小像文化ともよばれているが、このテラコッタには、鉄の鉱滓(カナクソ)がこびりついていた。しかも、コルヌヴァンはこう書いている。
「いくつかの発掘地点では、通風管の破片、鉄の鉱滓、溶鉱炉の痕跡が、実際に発見された」(『アフリカの歴史』、p.158)
つまり、動かしようのない鉄生産の証拠がでてきた。そして、この事実もわたしの考え方のヒントになったのだが、土器またはテラコッタの製作と鉄の溶鉱との結びつきが暗示されている。同じカマをつかっていたために、テラコッタにカナクソがこびりついたもののようだ。
ところで、このノクの鉄器文化の年代は、どういうことになっているのだろうか。わたしには、この地点に関するたった1ケ所のデータの研究方法が、いかにも不可思議に思えてならないのである。一般には、このノクの鉄器文化の年代を、紀元前300年ごろとする学者が多いのだが、わたしは、その年代のきめ方に、異論をさしはさみたい。そして、もっとずっと早かったのではなかろうかと考えている。
というのは、ノクの一地点で4つの炭化した木片が採集された。そして、カーボンテストの結果、紀元前約3500年、2000年、900年、紀元後200年という年代を示した。ところが、最初の2つの数字は除外されて、あとの数字の中間が採用されている。しかも、丁度真中は紀元前350年となるはずなのに、すこしけずって、紀元後300年という仮説が発表され、それが「定説」として取扱われている。これはどういうわけであろうか。しかも、さらに奇妙な事実がでてきた。何冊かの本に、資料の取扱い方のくいちがいがでてきたのだ。
まず最初に、このノクの4つの木片を採集して、カーボンテストにかけたのは、イギリス人の考古学者、ファッグである。デヴィドソンは、さきにあげた4つの年代測定の結果を書き、古い方の年代を捨てた理由について、こう説明している。
「『最初の2つの年代は』とバーナード・ファッグは注釈をつけている。『ほぼ確実に、それ以前の沈澱物から生じたものだ』」(『古代アフリカの発見』、p.50)
なぜ「ほぼ確実」なのだろうか。「それ以前の沈澱物」とはどういうことだろうか。ファッグは、4つの木片を採集するときに、それぞれの状態に、いささかなりとも差異を見いだしていたのだろうか。カーボンテストにかけるまでは、同格に扱っていたのではないだろうか。論理的には、紀元前3500年を示した木片の方が、鉄器文化と同時期のもので、ほかの3つの木片の方が、あとから、その後の何千年のうちに新しく生え、くちていった木の根の破片だったのかもしれない。しかも、このノクは、熱帯降雨林、つまり、一番植物の繁茂がはげしいところなのだ。
ところが、この疑問を抱きつつ、コルヌヴァンの『アフリカの歴史』をよんでいたら、そこでは、木片の数が3つにへり、紀元前3500年に相当する数字が、消え失せていた。コルヌヴァンは、フランスのアフリカおよび海外研究・資料蒐集センターの所長である。彼は、あらゆる個所で、くわしいデーターをあげている。そういう資料の活用者が、どこでまちがったのだろうか。
この「現代の謎」をとく鍵のひとつは、デヴィドソンが編集した資料集、『アフリカの過去』の中にあった。そこには、ファッグ自身が書いた別の文章、つまり、さきにあげたデヴィドソンの『古代アフリカの発見』に引用されたものよりも、あとに書かれた論文が抄録されていた。
おどろいたことに、そこでは、紀元前2000年頃という数字さえ消滅していた。しかも、注意して読むと、紀元後200年、つまり一番おそい年代を示した木片は、いわゆるノクの小像文化、または鉄器文化の最盛期よりは、はるかにおそい年代のものだったのである。
ファッグはこう書いている。
「いままで小像を出したことのないようなそれこそもっとも若い推積層のなかに、灰色の粘土にすっぽりつつまれた"もとのままの位置" [訳文では傍点による強調。原文はおそらくイタリックであろう] で、しっかりした胴体の材をいくつか発見するのに成功した。これらの標本を分析した結果、ほぼ紀元200年ごろというのが適当な日付けであることがわかった。小像の材が発見された下方の砂礫層から出たものは、ほぼ紀元前900年を示した」(『アフリカの過去』、p.66)
これによると、紀元後200年という数字は、小像文化期の、もっとも新しい年代を示していることになる。しかも、胴体に木材が使ってあるように、若干、手のこんだものである。
それゆえ、紀元後200年という数字は、ノクの小像文化という芸術的様式が、この年代までつづいたということは示しているとしても、鉄器の発生年代をきめる手掛りにはなりえない。この数字の方こそ、採用してはならないものなのだ。
つぎに、なぜ紀元前3500年と2000年の数字が捨てられたのか、ということだが、まるで理由が記されていない。本人に聞いてみなければ、これ以上のことはわからない。しかし、傍証としてあげることができる事実には、すでにのべたように、イギリスの歴史・考古・技術史学者の頑強な、紀元前1500年頃という年代のヒッタイト起源説がある。この仮説的主張を捨てて、新しい角度から見なおすことなしには、古い年代数字の評価はできないわげである。
しかし、ノクのテラコッタは、まだまだ沢山、地中に眠っている。鉄の鉱滓をつけて、カーボンテストに必要な木片をともなって、やがて新しいテラコッタが出現するであろう。
さて、わたしは土器製作の副産物として、鉄の発明を位置づけた。それゆえ、この発明がそれほどに困難なものだったとは考えていない。火によって土を変えるわざを知っており、一方で、樹木の伐採などをしていた人々、つまり、鉄の発明の主体的条件をもっており、固い金属、または固い道其を必要としていた人々には、早くから、この発明をする必然性があった。しかも、すぐそばには、世界中でも稀にみる状態の粘土から岩盤までの、すぐれた鉱石がころがっていたのである。
それゆえ、わたしは、紀元前6000年頃には、中央アフリカあたりで、鉄の発明が行なわれていたと想定しておく。しかも、紀元前4000年頃には、その鉄がエジプトにも到達していたのではなかろうかと思う。さきにあげたゲルゼの先王朝の王墓からでた鉄のビーズ玉は、いまのところ、もっとも古い直接的な手掛りである。素直に解釈するならば、この鉄のビーズ玉は、紀元前3600年頃、人々がすでに、円い小さな鉄の玉をつくり、それに穴をうがつことさえ知っていたという事実を示している。
だが、エジプト周辺には、鉄鉱石があまりなかった。また、簡単に特殊合金鋼をつくりだせる「古鉄土」の鉱床もなかった。オリエント方面に遠征しても、そこの鉱山からとれる鉄鉱石では、軟鉄しかできなかった。炭素鋼の発明以前のエジプトでは、どういう解決法が求められたであろうか。