鉄鍛治師の未裔
ドイツの製鉄業は、イギリスやフランスよりも古い歴史をもっていた。
なぜかというと、中世のドイツ諸国は、神聖ロ-マ帝国の中心になっていた。この帝国は、古代ローマ帝国の遺産を受けついでいたし、バルカン半島にものびていた。そして、バルカン半島の山岳地帯は、古代からの製鉄業の中心地であった。
ところが、バルカン半島の周辺には、謎めいた歴史がある。
まず、面白いことに、このあたりの製鉄地帯の地名と、旧約聖書にでてくる伝説的な鍛冶師の名前とか、古代エジプト語の金属や鉄のよび名とかが、結びつくのである。わたしにも、別に確証があるわけではないが、一応紹介してみたい。
まず、旧約聖書では、鍛冶師の先祖は、タバルカインということになっている。「タ」をのぞくと、バルカインとなり、バルカン半島のよび名にそっくりである。そして、バルカンとは、この半島北部の鉄鉱石がとれた山脈のよび名にはじまっている。鍛冶師の山、とよばれていたのではないだろうか。
また、「タ」というのも、古代エジプト語の「ター」が、土地のことを意味しているから、鍛冶師の土地というよび名が、人名になってしまったのかもしれない。
つぎに、ベックの『鉄の歴史』によると、古代エジプト語では、金属また鉄のことを、バ、バー、バーエネペ、ベト、などとよんでいた。そして、古代エジプト語の直系であるコプト語では、鉄を、ベニペとよんでいる。
さて、バルカン半島の西部にあるアルバニアは、古代に製鉄が行なわれた山岳地帯を含んでいる。バニアは、ベニペと結びつく。しかも、不思議なことに、アルバニアはもう1ケ所あった。現在は、ソ連邦アゼルバイジャン共和国になっているのだが、古代にはここに、アルバニアという国があった。ここも、やはり、製鉄地帯を含んでいる。
また、このふたつのアルバニアの中間にはアルメニア(現在はソ連とトルコに分割)がある。このアルメニアこそ、イギリス人の歴史家や技術史家が、鉄の発明された地帯だと主張しているところだ。だが、バ行とマ行とは、すぐにいれかわる。日本語でも、サビシイといったり、サミシイといったりする。メニアがベニアだったと考えると、これも、ベニペに結びつく。
話が少しとぶが、フランスとスペインの国境地帯、ピレネー山脈も、古代の製鉄業の中心地だった。ところが、ここにも、バースク民族がいる。どうも偶然とは思えない。
さて、アルメニアはヒッタイト王国の本拠地でもあった。ウマの項でのべたように、ヨーロッパ系の学者は、この王国に特別な関心をよせていた。
だが、すぐ近くのソ連邦グルジャ共和国には、かつて、コルキスとよばれた古代王国があった。これは、序章で紹介したように、ヘロドトスによれば、「色が黒くて髪が縮れている」コルキス人の国だった。ヘロドトスは、この方面にも旅行をしており、自分の眼でたしかめている。そして、コルキス人自身が、エジプトからきたことを認めたとも書いている。これはどういうつながりになるのだろうか。
コルキスというよび名は、さらに、現在のコーカサスという山脈のよび名にもなり、コーカサス地方にもなり、例のコーカソイド(白色人種)という使われ方もしている。そして、なぜヨーロッパ系の学者が、コーカソイドという用語をつくりだしたかというと、このコーカサス山脈は、ギリシャ神話の舞台だったからである。
コーカサス山脈で、神の国から火を盗んで人間に与えた英雄、プロメテウスが、岩山に鉄の鎖でしばりつげられ、ワシに肝臓をついばまれる話は有名だ。もしかすると、これも、火を盗んだのではなくて、火を使って鉄をつくる製法を盗んだ鍛冶師の一族の伝説なのではないだろうか。また、ワシとタカとは同じワシタカ科の仲間であり、タカは、古代エジプトの主神、ホルスになっていた。これも、鉄鉱山と鍛冶場を守るエジプト軍の兵士の意味だったのではないだろうか。しかも、バルカン半島のアルバニア人は、ワシの息子(シキベタル)と称しており、このあたりの最古の民族とされている。なにやら意味ありげな感じがしてくる。
さらに、このコーカサス山脈からアジアの内陸草原をみると、トルコ(モンゴルも含む)系の民族がいる。彼らは、鉄鍛冶師の子孫であるという伝説や儀礼をもっている。そして、ある時、鉱山の岩壁を爆破して、平原に進出したのだ、とも語り伝えている。これも、もしかすると、エジプト軍のきびしい監視の下ではたらいていた鉱夫や鍛冶師たちが、反乱を起したということかもしれない。
では本当に、古代エジプトがこのあたりを支配していた事実はあるのだろうか。
まずへロドトスは、古代エジプトのファラオ、セソトリスが、ヨーロッパまで遠征し、スキティア人をも従えたと書いている。スキティア人とは、現在の南ロシアの平原にいた騎馬民族のことである。そうだとすれば、当然、コーカサス地方は、征服された地帯に含まれたにちがいない。ヘロドドスは、セソトリスとしか書いていないのだが、エジプト史学者によれば、12王朝のセソトリス3世(前1887~1850)は、たしかにオリエントに進出している。
また、フランス人のエジプト史学者、ヴェルクテールは、すくなくとも、18王朝のトゥトモシス3世(前1504~1450)以後の、オリエント支配を認めている。ヴェルクテールの表現を要約すると、この時代、ミタンニ、アッシリア、バビロニア、ヒッタイトの諸王国は、エジプトに貢物をおくることになった。そして、エジプトは諸王国の王族や貴族の息子たちを、エジプトに人質としてつれ返り、教育をした上で、エジプト文明をつたえる使節として送り返した。ヒッタイト帝国の興隆はこののちである。
このような、古代エジプトによるオリエントや現在のトルコあたりに対する支配の事実は、いろいろな証拠物件もあり、ひろく認められている。また、ナイル河の下流域には鉱山がない。そこで、エジプトからは何度もシナイ半島に銅鉱山開発の部隊を送っていたという古記録もある。時には何千人もの部隊を送りこんで、長期間の滞在を可能にしていた。
立川昭二が『古代鉱業史研究』であげている例によると、紀元前1800年頃のアメネムハット3世の時代に、農夫、水夫、鉱夫、アジア人、石工による284名の遠征隊が記録されている。また、紀元前1160年頃のラムセス4世の時代に、支配人、書記、石工、鉱夫、シリア人、警吏、兵士による8357名の遠征隊がだされており、このうち、5310名が兵士(士官を含む)であった。アジア人とかシリア人とあるのは、牧夫の意味であろう。
以上の事実からみれば、いわゆる鉄のヒッタイト起源説は、単なる第二次中心地の誤認でしかないだろう。唯一の論拠になりうるものは、古代エジプト人、またはアフリカ人が鉄の製法を知らなかったという仮説的主張以外にない。しかし、あれだけの古代文明をきずいた民族に、どうして鉄の製法が発見できなかったわけがあろうか。本当にそんなことがいえるのだろうか。
なお、オリエントをはなれる前に、もうひとつの謎を指摘しておきたい。というのは、立川昭二の『鉄』という本によれば、ヒッタイトの故地から、鋼鉄の短剣が出土し、紀元前2300年と年代づけられた。この短剣の成分をしらべると、ニッケルなどの含有量が高く、隕鉄の利用という可能性もあると説明されている。しかしまず、この2300年という数字は、まだヒッタイトの侵入以前である。この短剣は、本当に隕鉄を含んでいたのであろうか。どこで、だれの手によってつくられたものであろうか。