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『亜空間通信』1078号(2005/08/19)
【NHKアウシュビッツ5日間シリーズ広報の混乱で今晩から明早朝の2回は連続の奇怪な事態の背後】
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転送、転載、引用、訳出、大歓迎!
本日、日経のテレヴィ欄を見て、こりゃあ何じゃと驚いた。現在、監視中、放送法違反で提訴も辞さぬ覚悟のBBC制作アウシュビッツ・シリーズが、昨日は3回目だったのに、「TVハイライト」欄では、いきなり、5回目の最終回(深夜0時15分)になっている。
4回目は、どこへ消えたのか。わが抗議が届いて、放送予定を変更したのか。いや、鉄面皮、テフロン加工のNHKが、そんなことをするとは思えない。
何度か、問い合わせたところ、以下のNHKオンラインの宣伝文句のごとくに、4回目は、午後11時からで、5回目は、事実上は本日の深夜だが、一応、明朝の午前0時15分からとなっている。
五日間の放送予定の宣伝だったのだが、一応、これで、五日間にはなる。
主たる内容は、アイヒマン裁判でも紛糾した「ナチとシオニストの協力関係」、ハンガリーから移送されたユダヤ人の問題なので、その件にかんしての反論は、本通信の末尾に付す。
http://www3.nhk.or.jp/omoban/main0819.html#20050819001
アウシュビッツ
後11・00~11・45、深夜0・15~1・00
(4)「加速する殺戮(りく)」後11・00~11・45
[副題] Frenzied Killing第4回は、ハンガリーから移送されたユダヤ人の大規模な殺戮と、ナチスが連合国側に対して仕掛けたある策略を取り上げる。
1944年春、ナチスは、形勢不利になった戦局を打開しようと、100万人のユダヤ人の命を、1万台のトラックと交換したいと連合国側に提案する。交換で得たトラックをソビエトとの戦いでのみ使用すると宣言することで、連合国の足並みを乱そうと考えたのだ。しかし、連合国側はこの提案を拒絶する。
一方、アウシュビッツでの大量虐殺が連合国の知るところとなり、イギリス軍やアメリカ軍では、アウシュビッツの殺害施設への爆撃が検討されたが、ついに実行されることはなかった。その間にも、アウシュビッツにはハンガリーのユダヤ人が続々と移送され、春から初夏の間のわずか数週間で、30万もの人々が虐殺された。
最終回「解放と復讐(しゅう)」深夜0・15~1・00
[副題] Liberation and Revenge最終回は、アウシュビッツの衝撃的な終焉に迫る。あわせて、当事者たちの戦後の軌跡に追う。
1945年1月27日、ソビエト軍がついにアウシュビッツを解放。しかし、待ち構えていたのは、大量虐殺の痕跡と、衰弱しきった数千人の囚人たちだけだった。
戦後、連合軍などにより、敗戦を察知して逃亡した親衛隊員たちの追跡が始まる。水兵に変装して逃げたアウシュビッツ所長のヘスは、イギリス軍の情報機関に捕まり、裁判ののち、アウシュビッツに特設された絞首台で処刑された。しかし、生き残ったアウシュビッツの親衛隊員のうち、裁判にかけられた者はわずか1割に過ぎなかった。
一方、帰郷したユダヤ人たちは、自宅を他人に占拠されていたり、財産を奪われていたりと、解放されてもなお、過酷な日々が終わることはなかった。
[原題] AUSCHWITZ-THE NAZIS & THE FINAL SOLUTION
[制作] イギリス・BBC/アメリカ (2005年)
以上の筋書きでは、ムッソリーニのファシストやナチとシオニストの協力関係が、隠されている。
以下は、拙訳『偽イスラエル政治神話』の関係箇所の抜粋である。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-10.html
『偽イスラエル政治神話』
2章:二〇世紀の諸神話(その1)
1節:シオニストによる反ナチズム運動の神話
[反ファシストを裏切るムッソリーニとの会談]
ムッソリーニがイギリスに対して抱く敵意を察知したシオニストの指導者たちは、一九二二年に彼との連絡を付けた。ムッソリーニは一九二二年一二月二〇日のローマへの行進のあとで彼らに会った(『密使/エンゾ・セリーニの生涯』)。
ヴァイツマンは一九二三年一月三日と一九二六年九月一七日に、ムッソリーニに会っている。世界シオニスト機構の議長、ナフム・ゴールドマンは、一九二七年一〇月二六日に、ムッソリーニと会談した。その時、イタリアの指導者は、こう語った。
《私は、このユダヤ人国家の創設を援助する》(前出ナフム・ゴールドマン『自伝』)
この協力関係は、それだけですでに、国際的な反ファシストの戦いへの破壊行為を構成していた。それは、すべてのシオニストの政策を、パレスチナでのユダヤ人国家建設という唯一の計画に従属させるものである。この政策は、以後、戦争中も一貫して、ヨーロッパのユダヤ人に対するヒトラーの迫害が最も凶暴になった時期においてさえも、追求され続けた。
ハンガリーのユダヤ人の移送の際には、シオニスト機構の副議長、ルドルフ・カストナーがアイヒマンと、つぎのような条件で取り引きした。アイヒマンの方は、パレスチナでの将来のイスラエル国家の建設に“役立つ”資本家、技術者、軍人など、一六八四名のユダヤ人のパレスチナへの出発を許可する。カストナーの方は、アイヒマンが四六万人のハンガリーのユダヤ人に、アウシュヴィッツに収容されるのではなくて、単純な移転だと信じこませるのを黙認する。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-11.html
[取り引き相手のナチを救ったシオニスト]
ハレヴィ判事は、アイヒマン裁判の際に、カストナーが、彼の取り引き相手だったナチを救うために裁判の邪魔をしたと指摘した。ニュルンベルグ裁判でのカストナーの証言によって、ヒムラーの手先で騎兵将校のクルト・ベッヒャーが処罰を免れていたのである。
判事は明言する。《カストナーの証言には真実がなく、誠実さが見られない。……カストナーは法廷での証言で、ベッヒャーのために裁判の邪魔に入ったことを否定した際、意識的に偽証をしている。その他にも、彼は、重大な事実を隠していた。ベッヒャーのための彼の出廷手続きは、ユダヤ機関および世界ユダヤ人評議会の要請によるものだった。……カストナーを出廷させる推薦状が、彼自身によるものではなくて、やはり、ユダヤ人機関および世界ユダヤ人評議会によるものだったことは、明白である。……だから、同盟国は、ベッヒャーを釈放したのである》
アイヒマン裁判の終了後、イスラエルの世論は沸騰した。日刊紙の『ハアーレツ』の一九五五年七月一四日号では、モシェ・ケレン博士が、《カストナーは、ナチとの協力に関して告発されるべきだ。……》と書いた。だが、夕刊紙の『イディオット・アハロノート』(55・6・23)では、それが不可能だという事情を、つぎのように説明していた。
《もしもカストナーが裁判に掛けられたなら、その審議の場で暴露される事実によって、統治機構全体が国民の目の前で崩壊する危機を招くだろう》
暴露されると危険を招く事実とは、カストナーの行動が彼の独断によるものではなくて、まさしくその審議が行われていた時期に閣僚の椅子を占めていた別のシオニストの指導者との、同意の下に行われたという経過であった。カストナーの発言と醜聞の破裂を避ける唯一の場面転換は、カストナーが姿を消すことだった。彼は実際に都合良く、裁判所の階段の上で暗殺されて死に、その後、政府が最高裁に、彼の名誉回復の請求を行った。この請求は認められた。
[後略]
ファシスト、ナチ、シオニストは、ともに、アメリカ・ユダヤ資本が、「反共」の名目で育成した「醜い双子」の関係だった。この奇怪な事態の「真相の深層」に迫ることなしには、歴史の真実も明らかにならないし、教訓は得られない。
以上。