※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
『亜空間通信』1031号(2005/06/20)
【NHK抜本改革の拙稿に応じ毎日新聞記事「受信料問題で問われる日本国民の品性」紹介あり論評す】
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
転送、転載、引用、訳出、大歓迎!
阿修羅の掲示板で、わが投稿、「NHK抜本改革に向け小異を捨て大同に付く決意を表明」にフォローがあった。
阿修羅掲示板は、以下の主旨である。
http://www.asyura2.com/index.html
阿修羅
情報解析
・その情報が 誰によって 流されているか?
・その情報が なぜ今 流されているか?
[中略]
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
このサイトは、投稿してくれる人、運営費協力してくれる人、アクセスしてくれる人、管理する人、等によって運営されています。
[後略]
私は、かなり以前に、わが「ホロコーストの大嘘」説が、阿修羅掲示板に掲載されていることを知り、その後、多忙に紛れて疎遠になっていたが、911事件以来、頻繁に覗き、投稿している。NHkに関する議論は、以下のように、政治・選挙の掲示板に、交通整理された。
以下は、わが投稿に対する毎日新聞記事とそれへの論評のフォローである。
Re: NHK抜本改革に向け [Mainichi Web News の変なNHK介護論文]
http://www.asyura2.com/0502/senkyo9/msg/1102.html
投稿者 noblesse oblige 日時 2005 年 6 月 17 日 14:54:12: 5lHnGu.l1fNVQ
(回答先: NHK抜本改革に向け小異を捨て大同に付く決意を表明 投稿者 木村愛二 日時 2005 年 6 月 16 日 21:47:48)[中略]
[筆者=西 正]
[中略][デジタル放送の課題:NHK受信料問題で問われる日本国民の品性]
■提供される作品の品質との兼ね合い
■問われる日本人の品位
[中略]
内容的には、首尾一貫性の乏しい「公共放送事業者としてのNHKの重要性」論と、極めて主観的な「受信料不払い運動が日本人の品位を損壊させる」論とからなっているにですが、その文章構成の稚拙さの割には異様な自信を漲らせています。
小生は思わず、「この筆者は、かの森内閣時の、首相国会答弁指南書の主だな」と思ったものです。
そういえばあの時の「指南書」氏は、NHKの内閣記者会メンバーだった。
左すれば、この変な介護論文氏「西正さん」はほんとに「毎日の人」かい?
更に、左すれば、
「NHK介護運動」は、「あっちとこっちの当局」と「全日本じゃあ馴れズム」の共同事業体によって推進されているのかな?
[後略]
このフォロー投稿者は、毎日新聞の記事の主旨には、疑問を呈している。
以下が、独自に入手した上記の毎日新聞記事の全文である。
http://www.mainichi-msn.co.jp/it/coverstory/news/20050526org00m300115000c.html
デジタル放送の課題:
NHK受信料問題で問われる日本国民の品性NHK受信料不払い者数の拡大には、明らかに便乗・タダ乗り組の参加が見られる。スクランブル化による完全有料放送化も検討に値すると思われるが、わが国独自の制度を維持することの価値も再考されるべきなのではなかろうか。【西正】
■提供される作品の品質との兼合い
公共放送たるNHKが必要なのか、不要なのかといったことは、今さら議論されるべきことではないだろう。ユニバーサルサービスの充実度はもちろんのこと、災害時などにNHKのニュースにチャンネルを合わせる人の数を見れば、いかに信頼された放送を行っているのかは明らかなことだからである。
しかし、NHK受信料不払い者数の拡大が沈静化しなければ、公共放送として、高視聴率の期待しにくい番組や身体機能に不自由を抱える人向けのサービスを展開することが難しくなってくる。スクランブルをかけることによる完全有料放送化も検討せざるを得なくなっていくと思われるが、今の受信料制度を続けていく方向での解決が望ましいことは言うまでもない。
一連の不祥事を起こしたことについてのNHK側の謝罪の姿勢は、十分にうかがえたと思われるが、英国のBBCの視聴料とは違って、NHK受信料の場合には、不払いのまま視聴することへの罰則が無いせいか、一度不払いに転じてしまった人が改めて支払うようになることが期待しにくい。
要支払い世帯数の8割超が実際に支払いを行ってきた現実からすると、これまでだって不払いのまま視聴している世帯にペナルティーをかけずに放送してきたのであり、今になって100%の支払いを求めるのもおかしな話ではあり、またそうした事実を以って不平等だとする議論を新たに展開するほどのことではないのかもしれない。
結局はモラルの問題に行き着くことであり、不平等な事態を引き起こしている側が開き直って、その数を拡大させているとすれば、それが本格的にNHKを窮地に追い込んでしまうほど日本人のモラルが低下していないことを信じるしかない。
そもそもは、NHKが提供する番組のクオリティーについて、国民がどのように認識しているかが重要になる。良質な作品を提供している限り、今の受信料制度を維持していくことは可能なはずである。
作品の品質をベースとして考えると分かり易い。よく「番組の質が下がったから、受信料を払わない」と言う人もいるようだが、それは明らかに逆であると思われる。「そうやって払わずに済ませる人がいるから、番組の質が下がったのではないか」と考えるべきなのではなかろうか。だから、仮に今の視聴料収入があるにも拘わらず、それにしては質の低い番組ばかりを放送していると考えるのであれば、NHKに対して不満をぶつけることも必要になろう。
しかしながら、それはあくまで作品の品質についての話であって、ほんの一部の不心得者が起こした不祥事について、いつまでも不払いを主張するのとは筋が違う。どの業界のどの企業にも、必ず不心得者は出てくる。その度に不買運動が起こるかもしれないが、企業側が誠実な対応を取り、必要不可欠な物が提供されている限り、不買運動はいずれ収まることになる。お金を払わなくても手に入るのをいいことに、必要不可欠な物を無料で利用し続けようという理屈は、不祥事を起こした不心得者と変わらないのではないか。
そういう意味で、NHKの提供している作品を見れば、大多数の人は良質な番組が多いと評価していると思われる。質の低い番組が皆無であるとは言わないが、悪い面だけを見て評価をするのではなく、良い面を認めたうえで評価をすべきなのではなかろうか。それは民放に対しても同じことであろう。テレビやラジオと接している時間は限られているわけであり、その限られた時間を費やすに値すると思われるだけの作品が提供されていれば、それで十分なはずである。質の良し悪しの評価にも個人差がある。おのおのの評価は、各人の視聴可能時間との兼ね合いで尺度を決めればよいということだ。
■問われる日本人の品位
受信料を支払う人と支払わない人との間の不平等の議論では、仮に自分だけが払わなくても全体に大きな影響があるわけではないと考える人の累計が、どの程度になるのかが問題なのである。日本は民主主義社会である。選挙の際に、自分だけが投票に行かなくても、全体に大きな影響はあるまいと考えて、投票に行かない人の累計が選挙自体を無効にしてしまうようでは、とてもではないが民主主義は成り立たない。
選挙を有効とするのに必要なだけの投票率が確保されるべきであるように、公共放送を維持していくだけの受信料も確保されるべきである。受信料の見返りとして提供される番組の質への評価は、厳しくあって構わない。
NHKの収入源を税金にすれば、支払い率の心配は無くなるが、税収によって賄われるようになれば、それは国営放送ということになる。国営放送局を持つ国々が、民主主義社会に多いか、社会主義社会に多いかを考えれば、NHKが公共放送として成り立っていることの意義は明らかであろう。英国のBBCの視聴料不払いにはペナルティーが科せられる。海外の人から見れば、NHKの受信料制度は、なかなか理解に苦しむところであるようだが、日本的なよい仕組みであると感心されることも多い。特に、米国の公共放送のように、同じような仕組みながら非常に小規模な局になっている例と比較すれば明らかなように、NHKが存続していく仕組みは日本人のモラルの高さを象徴するものとして高く評価されている。
たとえは違うかもしれないが、日本の全国各地には、畑で採れた野菜などが、料金箱の横に並べられて、無人で売られている光景を目にすることが多い。だれも見ていないからといって、お金を入れずに野菜だけ持っていく人はいないという前提だ。そうした光景が消えていくほど、日本人の道徳観が下がるようでは、もはや国民としての品位が問われることだと言えるのかもしれない。
NHKの受信料制度は、海外にも例を見ないものであり、日本人のモラルの高さを示すものだと述べた。だからこそ、大事にすべきなのである。世界中のジャーナリストが今、静かな目で、この問題の行方に注目している。放送は文化である。日本が世界に誇れる文化を守っていくのも壊してしまうのも、日本国民次第だということを忘れてはなるまい。
折しも今日から技研の公開が始まる。NHKが受信料を生かす形での研究成果を再確認する良い機会である。
そこで、私は、目下完成間近の拙著『放送メディアの歴史』から、「受信料」問題と「公共放送・NHKの抜本的改革」の部分を抜粋する。
『放送メディアの歴史』では、最近の事件、2004年7月のNHK紅白プロデューサー醜聞暴露以後の放送メディアの騒動を、最初に位置付けた。放送メディアの歴史と理論の関しては、具体的な事実の解明を重視したが、NHKに関しても、放送メディア全体に関しても、論じなければならない問題点は非常に多い。
山積する諸問題の中でも、決定的に重要なのは、公共放送・NHKの制度の抜本的な改革である。古い表現だが、「焦眉の急を告げる」問題である。昨年来の騒動では、「受信料不払いの激増」が、視聴者の市民にとっても、NHKの職員、集金の契約者にとっても、一番身近な、頭の痛い問題であった。
「受信料」問題は非常に複雑である。この複雑さは、NHKの複雑、曖昧模糊の象徴であり、ひいては、日本の放送メディアの中心的な問題である。
今回も、受信料問題に関して、NHKの企業内労組、日放労の去就が問われたが、最大の問題は、現在の数字で、1万1千人の正規の職員が組織する労組の基本的な性格である。
日放労は、日本型の企業別組合の平均値であって、組合の基本的な要求は「労働条件」であり、その中でも基本的かつ決定的な要求は、賃金である。このことを確認することが、最も重要である。その賃金の基本的な源泉は受信料収入なのである。正規の職員ではない「歩合制」の受信料集金人の労組にとっては、受信料は、さらに重大な、決定的死活問題である。
日本テレビの労組役員だったこともあり、NHKの多くの友人知人を持つ私は、この問題点の根本的な解明を重視する。日放労にとっても、受信料集金人の労組にとっても、受信料問題は、まさに「泣き所」なのである。
ところが、この「泣き所」の位置付け、解決策は、どの評論家または研究者の論を見ても、曖昧模糊(あいまいもこ)なのである。この「曖昧模糊(あいまいもこ)」の性格は、基本的に、NHKそのものの存在の「曖昧模糊(あいまいもこ)」に発している。
拙著『NHK腐蝕研究』では、受信料問題に「第二章」を設け、36頁を割いている。発行年度の1981年までに公刊されていた関連の単行本や雑誌記事のほとんどを読み、熟考した。
『NHK腐蝕研究』を執筆し、発表した時期には、当時は朝日新聞の現役記者だった本多勝一の単行本、未来社刊、『NHK受信料拒否の論理』が版を重ねていた。
別途、佐野浩著、晩声社刊、『NHK受信料を払えぬ理由』があるが、本多勝一は、小金井市の市議会議員、「NHK視聴者会議」の代表者、佐野浩の受信料不払い運動を「ネタ」にしたのである。
本多勝一にも、佐野浩にも、受信料を賃金の源泉とする人々への配慮、連帯の姿勢は見られない。実に無責任な「正義の味方」を気取る大衆迎合、煽動でしかないのである。
NHK本体は、佐野浩のNHK視聴者会議を、以下のごとく、徹底的に敵視した。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/nhk-3-1.html
『NHK腐蝕研究』
第三章 NHK=マスコミ租界《相姦》の構図
NHK広報室の黒い水脈とゲッペルス広報窒長
・伏魔殿・NHKを、「あなたのNHK」「みんなのNHK」などと売りこむには、相当な図々しさがなくては勤まらない。そして図らずも、NHKにこの人材ありと、“広く報れわたる”事件が発生したわけである。一九七一年一月二十五日、『週刊文春』(3・1)が「NHK開局以来の大捕物」という特集記事を組む大事件。それ自体も、いまもなお脈々と続く「NHK視聴者会議」の代表者、佐野浩(小金井市議)らへの暴行・警官二十名出動の逮捕、十三日の拘留という語り草。しかし、NHKの黒い水脈が吹き出たのは、そのあとの『週刊文春』の取材からであった。
「こういうヤツラヘの対策? そんなものはなにもない。NHKの受信料とは、放送法で契約とし支払いの義務を明文化されたものじゃないか。それを払わないヤツラは、われわれがマトモに相手にすべき人間じゃないね。
だからボクなんぞも、こんなヤツラには会わないよ。なにが会う必要があるか、こんなカネも払わないヤツラに。
佐野なんてヤツは売名運動ですよ。ディック・ミネなんてヤツが、白己宣伝のために反NHK的発言をするのとまったくおなじだ。ディック・ミネなんて、自分のツラを鏡にうつしてみろってんだ。テレビに出られるツラかい。
佐野は小金井の市会議員選拳に出るために、ああやってワザとつかまったんですよ。こっちはチャンと地元から情報をとってあるからわかるんです。
それをバカな新聞記者がマにうけて、デカデカ報道するんでアイツは大喜びですよ」(『週刊文春』’71・3・1)
NHK視聴者会議とは、この事件の前年に小金井市の文化人有志が結成したもの。NHKに対して八項目からなる質問書を出し、回答を求めていた。一向に返事がないので、当時の内幸町のNHK会館を訪れ、回答があるまで待つと伝えた。もちろん、何等の武器も携行せず、暴力行為に及んだわけではない。それなのにNHKは、“不退去罪”だとして、いきなり丸の内署の警官隊を導入したのである。十三日間という長期拘留にも問題はあるが、ともかく、“不退去罪”は成立していない。NHKのやり過ぎは明らかであった。
ところが、この過剰警備の余勢を駆ってか、当時のNHK前田会長の右腕とか左脚とかいわれるほどの実力者、理事待遇という飯田次男広報室長の口から、とんでもない台詞が、それこそ傍若無人、ジャカスカ飛び出してきたのだ。
すでにあげた長口舌にも、問題点は多い。視聴者を馬鹿にしているだけではない。タレントを何だと思っているのか。電波独占の思い上がりが、言外にあふれ出ている。現実にも、タレントでNHK受信料不払いを公言する例が見られないのは、こういうNHKのファッショ支配あればこその現象である。つぎには、市議云々である。つまり、NHKは、視聴者会議への回答をせず、どう手を回してか、佐野浩(当時は学習塾経営)が小金井市議に立候補することを知っていたのである。大方、サツ回りの記者を使った仕事だろうが、それを中傷の材料にするなど、下の下の仕業といわねばならない。
しかも、視聴者運動へのバリ雑言だけでは足りず、飯田次男は、こういい切った。
「ボクは、新聞記者のヤツラがNHKの組織の批判などするとここへ呼びつけてどなるんだ。『おまえら、たかが新聞記者のブンザイで、NHKの組織がどうのこうのといえる身分かよ!おまえらはできた番組だけを批評してりゃそれでいいんだ』とこういってやるんですよ」(同前)
これだけなめられた新聞記者も新聞記者だが、さすがに、これは聞きとがめて、謝罪文を取った。前田天皇の忠犬、飯田室長は、この暴言で受信料支払い拒否者を激増させ、ついに引責辞職に至るが、のちに顧問、小野元会長並みの待遇をされている。
このNHK“不退去罪”騒動が起きた年、一九七一年は、いわゆる1970年安保闘争、全共闘の大学紛争が激発した年の翌年である。いわゆる「過激派」または「新左翼」の大量発生で、労働組合運動にも政党政派の組織、市民運動にも、いわゆる「ゲバ学生」上がりが、大量進出した。私は、当時、労働組合の役員だったから、彼らの存在、横行は、非常に迷惑だった。日放労の内部にも、この種の党派があり、日放労は、佐野浩らのNHK視聴者会議を「過激派」扱いしていた。民放労連でも、佐野浩らへの共感を表明する者はいなかった。
本多勝一の『NHK受信料拒否の論理』に対する反応も、これとほぼ同じだった。簡略に言えば、企業別組織の労働組合の運動とは、異質だったのである。
「正義の味方」を気取る佐野浩と本多勝一に共通する「敵」は、根拠薄弱な「受信料」を徴収するNHKであった。
佐野浩の正体は、その後、NHKの「暴言」の通りに、小金井市の市議会議員になったことで、まず、証明された。
しかも、「3つの補助事業団体への補助金の一部が『市民の権利を生かす会』に環流した疑い」に関して、地方自治法100条の規定により調査」(小金井市議会だより、平成10年5月7日)中に「佐野浩議員辞職」(小金井市議会だより、平成10年7月28日)となったのである。
この種の「反体制商売人」によるNHK批判は、逆効果を生むのである。
毎日新聞の記事は、このような曖昧、複雑な「受信料」問題に関する抜本的な議論を展開する上で、無視、軽視すべきではない。
以上。