『亜空間通信』1007号(2005/05/08) 阿修羅投稿を再録

ホロコーストの大嘘シオニストに脅され続けたドイツ人は戦後60年でアイデンティティ回復か

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『亜空間通信』1007号(2005/05/08)
【ホロコーストの大嘘シオニストに脅され続けたドイツ人は戦後60年でアイデンティティ回復か】

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 転送、転載、引用、訳出、大歓迎!

 ヒトラーを資金援助したのが、ブッシュ爺らが代理人の米・ユダヤ資本であったことが、以下の最新情報によって、明らかになった今、第二次世界大戦とその戦後史の評価は、逆転の様相を濃くしている。

http://www.asyura2.com/0311/war41/msg/400.html
全米マスコミが60年間隠蔽しつづけた“爺ブッシュとナチスの腐れ縁”が政府公文書ではっきり確認された
投稿者 佐藤雅彦 日時2003年10月18日

 ジョージ・ブッシュの祖父で、イエール大学の「骸骨団」秘密結社の会員だったプレスコット・ブッシュは、ハリマン財閥と組んでナチス・ドイツに秘密資金援助をしていた「ならずもの」の黒幕一派のメンバーである。

 上記表題のニュースを『ニューハンプシャー・ガゼット』紙が報じている。ブッシュ家とナチスとの腐れ縁については、勇気ある独立系の調査報道ジャーナリストによって、かなりの詳細が伝えられてきたが、主要メディアはそれを黙殺してきた。(今も黙殺している……。)

 この記事には、プレスコット・ブッシュやハリマンと、ナチスのパトロンだった産業資本家との腐れ縁の大雑把な輪郭が書かれている。その詳細について、米国のジャーナリストたちが暴露してくれるのを期待したいところである。

 しかしそうした話題よりも興味深いのは、米国のメディアがこの腐れ縁を見て見ぬ振りして、独立系のジャーナリストたちの努力の成果を罵倒したり踏みにじってきたことが、この新聞記事で“内部告発”されていることである。

 独仏の関係は微妙であるが、「フランス語圏」の有力紙、「ラ・リベルテ」が、「ドイツ人」というアイデンティティの現状を紹介しているのだから、面白い展開である。この1)記事の最後に指摘されている日本の毎日新聞の記事、2)は、日本人が戦後にマッカーサーに馬鹿にされたままの精神年齢、12歳であることの証拠なのか、実に情けないことである。ゆっくりと比較して読まれたい。

1)------------------------------------------------------------
http://blog.livedoor.jp/media_francophonie/archives/21165599.html
フランス語圏プレスの記事の紹介と翻訳

2005年05月07日
「ドイツ人」というアイデンティティ

60 ans apres la libration, les Allemands se sentent nouveau fiers de leurs pays
解放から60年後、再び祖国を誇りに思い始めたドイツ人

5月6日付け ラ・リベルテ Thomas Schnee(ベルリン)

5月7日は第二次世界大戦のヨーロッパでの終戦記念日です。その戦後60周年で、ドイツではじめて「ドイツ人」というアイデンティティが肯定的に語られ始めてきているというリベルテの記事をご紹介します。今のところネット上にソースはありません。実はこの記事はもうひとつ別の記事とセットになっており(「Les trous de memoire de l'histoire danoise」デンマーク史の記憶の穴、こちらはネットで参照できます)、そちらではデンマークで終戦直後にドイツ難民(その多くは婦女子)が見殺しにされたという問題を取り上げています。

(翻訳はじめ)

「私はヒトラー・ユーゲントの一員でした。でもそのことを恥ずかしいとは思っていません!」

ローマ法王ベネディクト16世選出の翌日、ドイツ人ヨゼフ・ラッツィンガーのヒトラー・ユーゲントの過去に触れた英国各紙に対し、ドイツの大衆紙ビルド・ツァイトゥングは大見出しでこう応じた。ビルド紙は1ページぶちぬきで元「HJ(訳註:ヒトラー・ユーゲントの頭文字)」団員らの証言と、第三帝国のドイツ人専門家である歴史家ヨアキム・フェストの指摘を掲載した。

ビルド紙はこの挑発的な見出しの下で、1936年にドイツ青少年のための公式組織になったヒトラー・ユーゲントへの所属が、1939年に10歳から18歳までのすべてのドイツ人に対して義務化されたことに言及している。所属を拒否した者の両親は投獄され、罰金刑を課せられることになっていた。「彼らはただの子どもたちで、犯罪者ではありませんでした」とフェスト氏は説明する。

問いを発する

これほど微妙な問題に対して、これほど明解な回答を与えれば、今から数年前ならおそらく記事にはならなかっただろう。ドイツ人たちが彼ら自身の過去に向き合い、語るやり方はずいぶん変わった。そして、今ほど過去がその存在感をアピールしている時はない。歴史家の著作や小説、様々な証言やドキュメンタリー、映画に新聞記事と、過去はすさまじい勢いで次々に現れている。まるでこれまでは問題ではなかったものに対して突然問いを発し始めたかのようだ。ドイツでタブーであり続けていたあらゆるテーマ、とくにドイツ人犠牲者や集団責任の程度について、あるいはすでに研究がかなり進んでいる様々なテーマについて、その再検討が始まっている。これらの問題へのメディアの注目度の高さは、強制収容所の解放、あるいは終戦から「60年目の大波」によって引き起こされたものだ。メディアはこの波を誇張はしたけれども、メディアそのものが波を引き起こしたわけではなかった。そしてこの新しい現象は徐々に「戦中世代」が世を去っているという事実、あるいは戦後世代の「過去を知りたい、自分のものにしたい」という渇望だけから説明できるものではない。「すべてをぶちまける」という欲求は、「統一された平和なドイツ」の中で表現の場を与えられた。1945年以後、ナチズムへの反動として建設された政治的・社会的構造は、ドイツ民主共和国(訳註:旧東ドイツ)にように消滅したか、あるいは西ドイツにおける社会主義的な市場経済モデルのように強く批判されている。

穏やかな対決

世代の移行と、それに付随する記憶の義務の担い手の移行は、罪悪感から自由になった世代だけが関与しているわけではない。これは、統一されてヨーロッパの一員となったドイツというポジティブな枠組みの中で、ドイツ人としてのアイデンティティ探求が非常に強まっている現在に特徴的な現象だ。おそらく戦後初めて、「ドイツ人」というアイデンティティとの対決が、ドイツで静かに進行している。この対決は、ドイツ人の彼ら自身、また彼らの国に対する態度の変化を生み出しつつある。ベルリン在住の40歳の画家イレーネは「年とともに、自分の立場が変化したことに気づきました」と説明する。「まだ若かった頃、外国で私は恥ずかしさを感じていました。自分が野蛮人であるように感じていたんです。当時、学校では多くの時間を割いてナチズムについての授業が行われていました。ナチズムについては今でもあの頃と同じくらいたくさん語られますけれど、自分がドイツ人であると言うことに恐れを感じることはなくなりました。私自身の中で、ある種の平和が見出されたんです。ドイツ人でない人に、この感覚を解ってもらうのは難しいと思います。でも、ドイツ人にとってドイツの過去との対決は、家族の生活や、教育や、政治意識や、社会的な関係などあらゆるものを条件付けていたんです。でも今では、もはや過去にはとらわれずに自分自身の将来について考えることができます。ともかく、少なくとも以前ほど過去に呪縛されてはいません」

(翻訳おわり)

Posted by media_francophonie at 06:22 │Comments(1) │TrackBack(0)
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この記事へのコメント
このテーマについては本日、日本時間の七日の毎日新聞が大きな特集を組んでいます。
しかしこのテーマを日本人は自らのアイデンティティーの問題として考えたことは、ただの一度も無かったのではないかと思います。

2)------------------------------------------------------------
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/europe/news/20050507ddm010030042000c.html
戦後60年の原点:
シリーズ・あの日を今に問う(その3) 「謝罪」背負うドイツ

<「謝罪」背負うドイツ/「歴史」苦悩する日本>

◇和解と統合、選んだ欧州

 欧州全体に戦渦をもたらした第二次世界大戦が終わり、欧州は平和へと歩み出した。しかし、米ソ対立による東西冷戦が欧州を引き裂き、その後40年以上、重い「鉄のカーテン」で欧州を分断し続けることになった。核戦争の最前線で恐怖におびえる中で欧州が選んだのは、和解と統合を手探りで進める道だった。【ベルリン斎藤義彦、写真も】

 ドイツは戦後、米英仏ソ4カ国に分割占領されたが、48年にソ連が西ベルリンを封鎖。49年には東西両ドイツ国家が成立。同年に北大西洋条約機構(NATO)、55年にワルシャワ条約機構の軍事ブロックに分かれ、東西分断が固定化された。さらに61年にはベルリンの壁が築かれ、人の交流も断絶した。

 厳しい冷戦の中で西独が選んだのは、周辺国やユダヤ人に謝罪と補償を行って和解を進めるとともに、欧州統合を推進することだった。「戦争を起こしたドイツが欧州で生きるには他に選択肢がなかった」とラウ前ドイツ大統領は話す。

 まず仏と63年、仏独友好・協力条約(エリゼ条約)に調印、歴史的な和解を達成した。首脳が年2回会談するほか、若者の交流事業や姉妹都市提携に取り組むことになった。この後「仏独枢軸」が欧州統合のけん引車となっていく。

 仏独は戦争の原因だった石炭や鉄鋼生産自体を共同管理することを試み、52年ベネルクス3国やイタリアとともに欧州石炭鉄鋼共同体を設立した。これが58年、欧州経済共同体に、67年には執行機関である欧州委員会と、立法決定機関である閣僚理事会を持つ欧州共同体(EC)に発展。さらに安全保障や司法・内政の統合を目指し93年、欧州連合(EU)が発足した。EUは04年、中東欧まで拡大し、25カ国、人口計約4億5000万人の巨大な組織に変ぼうした。

 一方、ドイツが冷戦の中で東欧諸国と和解するのは困難を極めた。ブラント政権(69~74年)は東欧諸国と緊張緩和をはかる「東方外交」を展開。70年にポーランドとの国境を認め、首相がワルシャワ・ゲットーの犠牲者の記念碑前でひざまずき、謝罪を表明した。また東独と関係正常化して73年に国連に同時加盟した。

 その後東欧に民主化運動が拡大し89年にベルリンの壁が崩壊。90年に悲願の統一を果たした。

◇今も続く補償、捜査--ナチスの罪

 ドイツはこれまで「ナチの不正」に対する戦後補償に取り組んできた。米英仏の占領軍は終戦直後、不当に奪った財産の返還を命令し、56年の改正連邦補償法などを基に現在も約7万人の被害者に年金を払い続けるなど、補償合計額は02年までで約600億ユーロ(約8兆4000億円)に及ぶ。

 補償の主要部を占めるのは年金で、02年だけで年5億4500万ユーロ(約763億円)に上り、約85%が国外被害者に支払われている。対象は迫害を受けたユダヤ人などで、02年末で約7万8000人が月500~800ユーロ(約7万~11万円)を受け取っている。

 さらに強制労働の被害者や強制断種、医学実験、安楽死などさまざまな被害者にも主に一回きりの補償が行われた。冷戦終結後の92年からは、旧東独の被害者にも補償を開始。ポーランド、ウクライナ、ロシアの被害者補償のため93年ごろから各国に基金が設立された。

 一方、戦争犯罪の追及については58年、独南部ウルムでの裁判で、現在のリトアニア領で秘密警察などがユダヤ人数千人を虐殺した事実が表面化したことを機に、各州の司法相が「ナチス犯罪追及センター」を設立。国外占領地域での戦争犯罪追及に乗り出した。

 センターは国外の捜査・情報機関から情報提供を受け、犯罪の詳細を調べて地検に資料提供する。当初、検事や裁判官など100人以上の態勢で、約1万6000件、約10万人を対象に捜査を実施し、約6500人が有罪判決を受けたが、戦犯は80~90歳代と高齢化し死亡している場合も多く、捜査は難航。現在は20人程度に縮小されたが、捜査は継続する予定だ。

 ナチ戦犯(殺人罪)の時効延長・廃止については独連邦議会で賛否が対立した末、79年に時効が廃止され、現在もナチ戦犯が起訴されている。

◇長引く補償裁判--「二重収奪」受けたユダヤ人

 ナチス・ドイツによって、財産を奪われたユダヤ人による戦後補償裁判は、戦後60年になる今年も続いている。争われているのは旧東独に属していた土地で、旧ソ連の占領と旧東独による国有化が40年余りにわたって続いた歴史が、戦後補償を遅らせている。

 「私の家族はナチスによって、そして共産主義者によって再び犠牲になった。ソ連の犯罪や共産主義による苦しみには注意が払われていない」。米国人のバーバラ・プリンチピさん(74)は怒りを込めて話す。プリンチピさんは、当時ベルリンなどでデパートを経営していた「ウェルトハイム」一族の子孫の代表だ。

 ウェルトハイムは現在もその名を冠したデパートが西ベルリンの一等地にあるが、ユダヤ人の資本をナチスに近いドイツ人に強制的に格安で売却させる「アーリア人(ナチスが作り出した人種概念)化」の犠牲になり、37年までに当時の経済相の友人に売り渡された。一族の大半は米国に移住せざるをえなかった。

 戦後、一族の東ベルリンの土地はソ連が接収、その後、東独に国有化された。一方、西ベルリンのウェルトハイムは売却され、最終的に小売り大手・カールシュタットクベレ社に所有権が移った。

 90年の東西両独統一で土地は独政府から持ち主に返されるはずだった。しかし所有者確定に時間がかかったうえ、一族と同社が継承権を裁判で争う事態に発展。今年3月、ベルリン行政裁は同市中心部にある4000平方メートル、時価総額1700万ユーロ(約24億円)の土地について、一族側に継承権があるとの判決を下したが、同社は4月、異議申し立てを行った。

 一族が元々所有していた土地は、ベルリンの新名所ソニーセンターに隣接するなど一等地ばかり約50カ所、数ヘクタールに及び、推定時価は計5億ユーロ(約700億円)とされる。高額なだけに継承権争いは長期化する見込みだ。

 同社は51年に当時のウェルトハイムの所有者が一族に対し、約2万ドルを支払い、継承権を譲り受けた点を強調。「ナチの不法は認めるし、一族の心情は理解するが、当社に継承権がある」とあくまで譲らない構えだ。

 一族のドルバ弁護士は「当時の支払いは西ベルリン分に関するもので、現在争われている旧東独分は無関係だ。同社は『アーリア人化』で格安に利益を受けた道義的責任を忘れ、裁判をいたずらに長引かせている」と批判する。プリンチピさんも「お金の問題ではない。私たち一族の苦しみは、何をもっても代えることができない」と話している。

◇揺らぐ歴史認識--ナチスからの「解放」に異議

 ドイツが無条件降伏した5月8日は、ナチス・ドイツに侵略された諸外国だけでなく、ドイツ国民にとってもナチスからの「解放」だとされてきた。しかし、こうした歴史観では、ドイツ人が戦争で被った暴力や犠牲が十分語られないとして「解放史観」に異議を唱える声が出始めている。

 「どうしてドイツ人の犠牲者はのけ者にされたままなのか。『解放』という言葉では、犠牲者を悼むのに十分でない」。ベルリン市南西部にあるシュテーグリッツ・ツェーレンドルフ区議会で今年2月、保守政党・キリスト教民主同盟(CDU)所属のヒッペ議員(32)はこう訴えた。

 同議員の祖母は障害者で、ナチスによる抹殺の対象にされたが祖父に助けられて難を逃れた。一方降伏直後、ソ連兵が祖母を襲い暴行しようとした。必死で助けようとした祖父が撃たれかけたところを知人に助けられたという。「確かに、強制収容所のユダヤ人にとっては解放だった。しかし爆撃で殺され、暴行を受け、後に旧東独の共産主義に支配されたドイツ人にとっては解放ではない。ドイツ人の心の中には葛藤(かっとう)がある」と話す。

 ヒッペ議員は、今年1月、地元テレビのインタビューで、極右政党・ドイツ国家民主党(NPD)の主張は「すべて間違ってはいない」と発言。激しい非難を浴び、所属政党の除名審査が始められた。NPDは今年、連合国軍による空爆をテロと非難。「ドイツは解放されたのではない」とキャンペーンを展開した。その主張に賛意を示したのだ。野党は「戦争を始めたドイツの罪をうやむやにしている」と非難するが、同議員は「ユダヤ人虐殺の罪があまりに重いため、これまでドイツ人の犠牲が十分に語られなかった。ドイツ人は思考停止せず、正直に議論すべきだ」と反論している。

 さらに同区議会では、CDUなど与党が、降伏の日にちなみ、「解放」を評価すると同時に、「ソ連軍がもたらした苦しみ」や「(連合国軍による)無意味な爆撃の犠牲者」を悼む決議案を提出。また、べーバー区長(CDU)が、ナチからの脱走兵には「(純粋に抵抗しようとしたのでなく)すねに傷がある」と非難し、大きな批判を浴びた。その後CDUは決議文から連合国軍への非難部分を削除、区長も発言を撤回するなど軌道修正を余儀なくされた。

 同区長は「軽率で『地雷原』に入ってしまった」と強調するが、同区議会緑の党のフランケ・ドレスラー議員は「保守政党は、票を掘り起こそうと意図的に市民の戦争に対する複雑な思いを悪用している。これは極右に扉を開く、危険ないたずらだ」と非難している。

◇極右「ネオナチ」台頭--「謝罪に終止符」訴え

 ドイツではネオナチと呼ばれる極右政党が勢力を伸ばしている。極右は8日、ナチスの無条件降伏の記念日にベルリンで「謝罪に終止符を」などと訴えるデモを計画、支持層の拡大を図ろうとしている。これに対して独連邦議会は3月、ナチの犠牲者を中傷する集会を特定の場所で禁じる「集会法」改正案を可決した。しかし集会の自由との兼ね合いから極右のデモを封じるのは難しく、逆に極右を勢いづかせる懸念も出ている。

 極右政党・ドイツ国家民主党(NPD)はブランデンブルク門の近隣に建設中の「欧州でのユダヤ人虐殺記念碑」周辺で、ユダヤ人や周辺国に謝罪し続けているドイツ政府の姿勢を批判するデモをベルリン市に届け出た。同党は昨年、旧東独のザクセン州議会選で、失業対策の不備などを訴えて多くの若者の支持を集め、同州で初めて議席を獲得。旧東独のブランデンブルク州議会選で議席を維持した極右政党・ドイツ国民連合(DVU)と、来年の連邦議会選で共闘する方針を決定した。

 与党関係者によると、極右が降伏の日を悪用することに危機感を抱いたシュレーダー首相が集会法改正の検討を指示。与野党が3月、同法と刑法の改正に乗り出した。ナチスの犠牲者の記念碑などの周辺で、犠牲者の名誉を傷つける集会・デモを禁止する一方、ナチを正当化・称賛し、犠牲者を傷つける者に禁固刑を科す法案を可決。3月中に急いで施行させた。

 しかし、NPD幹部は「デモに支障はない。議会が無料で我々の宣伝をしてくれた」とほくそ笑む。同党の主張が改正法違反かどうか不明確なうえ、記念碑周辺以外での集会は可能だからだ。ベルリン市は改正法で同党のデモを直接禁止するのを断念。他の集会や工事現場があることを理由にデモを目立たない場所に移すよう同党に要請した。同市のケルティング内相は「同党の主張は憲法違反だが集会の自由は認めざるをえない」と話す。

 野党・自由民主党は「改正は極右と戦う姿勢をアピールするためのアリバイ。効果はなく集会の自由が無用に制限されただけだ」と批判する。

 ベルリン以外の都市でも、改正法の有効性に疑問が出ている。独南部のブンジーデルではナチの幹部で87年に獄死したルドルフ・ヘスの墓があるため、極右が毎年、生誕記念日に集会を開いている。参加者は年々増え、昨年は4000人を超えた。ザイサー郡長は「ナチをたたえることになり、改正刑法で集会阻止は可能」と話すが、ポップ市長は「犯罪の立証は難しい」と危惧(きぐ)する。

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◇平和語る言葉、失うな--外信部長・岸本卓也

 ベルリン中心部に6年前から建設が進められた「欧州でのユダヤ人虐殺記念碑」が10日に除幕する。約2万平方メートルの広場に高さ2メートルほどのコンクリート柱が約2700本も並ぶ。柱には何も書かれていない。深い無念がこもる柱列が歩く者の心に苦悩を刻むという。

 600万人のユダヤ人が犠牲になった史上最悪の犯罪は戦後のドイツ人を苦しめてきた。その過去と向き合うことは奈落の底に落ちるような恐怖と戦う勇気がいる。だが、記念碑の計画は市民から生まれ、国会が承認した。

 敗戦国の日本とドイツを比較して中国や韓国の人々は「日本はドイツの謝罪の潔さを見習え」と言う。国連安全保障理事会の常任理事国候補について中韓両政府は「ドイツはふさわしいが日本は疑問だ」と言う。

 日独の戦争責任への対応は異なる。ユダヤ人絶滅を図った罪を「民族の罪」として背負うならば、ドイツ人は民族として全員が処罰されても不服は言えない。だから、ドイツ人は「民族の罪」ではなく「個人の罪」として謝罪する。ナチス幹部に罪を負わせねばドイツ人は生きていけない。

 一方、日本は「一億火の玉」が敗戦後に「一億総ざんげ」となり、「個人の罪」はあいまいになった。日本人の手で戦争責任者と一線を画することがないまま、国民一人一人が「民族の罪」を負わねばならなくなった。ドイツ人とは別の苦悩を日本人は抱えている。

 ドイツ人に過去への直視を説いたワイツゼッカー元大統領も回顧録で述べている。「過去と向き合うことは日本人にとって重大だが、そのための正しい道を見つけることは日本人自身の問題だ。(中略)どの民族も独自の状況に置かれ、他の民族と比較できない」

 ドイツ人に比べて日本人が無責任とは思わない。だからといって、隣国の人々の不満を無視するわけにはいかない。反日感情が消えない現実を見れば、日本人の真摯(しんし)な心情が十分に伝わっていないことを認めなければならない。

 小泉純一郎首相は先月のアジア・アフリカ会議で「痛切な反省と心からのおわび」を表明した。だが、この言葉は戦後50周年当時の村山富市首相の談話をそのまま引用している。この10年間、日本の政治指導者は過去の問題について何を隣国に伝えてきたのか。

 政治家だけの問題ではない。「戦争を知らない世代」が増える日本社会に平和を呼びかける言葉がしだいに失われてはいまいか。焼け跡で涙を流して平和を願った日本人の心情を忘れてはいまいか。ドイツ人を苦しめる宿業の恐怖を察することは難しいだろうか。戦後60年の今、そのような問いに答える努力が求められていると思う。

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◇周辺国との対話続けよ--独前首相補佐官、ホルスト・テルチク氏(64)

 私はドイツ統一(90年)の際、コール前首相の補佐官として周辺国との交渉にあたった。その際、最も留意したのは「人々は決して歴史を忘れない」という点だった。

 ドイツは戦争を始め、多数の市民やユダヤ人を殺害した。被害者の世代が死んでも、次の世代がその苦しみをテーマにしていく。ドイツが忘れても被害者側は決して忘れない。ドイツは周辺国に常に罪を語り、過ちを繰り返さない姿勢を示さなければならなかった。

 ドイツは戦後、東方の領土の3分の1を失った。私たちが取り組んだのは、戦後決まった国境を画定することだった。旧独領から追放された国民には強い不満があったが、それを説得したのは、周辺国の理解がなければ祖国の統一もあり得なかったからだ。

 コール氏と私は「和解のシンボル」を示すことを試みた。ベルリンの壁が崩壊した直後の89年11月、ナチスへの抵抗運動の拠点だったポーランド・クシュチュバで、マゾビエツキ・ポーランド元首相と「和解のためのミサ」を行い、両首脳が抱き合った。コール前首相は長年の宿敵が和解を果たしたと感じ、マゾビエツキ元首相も兄弟のような感覚を持ったという。コール前首相はその日のうちにユダヤ人虐殺が行われた強制収容所・アウシュビッツで花をささげ、ドイツの歴史的な責任を明らかにした。

 両国間には、確かに大きな心理的な障害があった。しかし、コール前首相は、ためらいや敵視はなくせるはずだと確信していた。

 政治はシンボルを示すことで動く。人々の心を政治家がまじめに受け止めていることを行動で示すことで、人々の理解が得られる。

 戦後の西独外交には二つの基本方針があった。米国との同盟関係構築と、仏との友好をばねにした欧州統合だ。統合がなければ、戦争を避け、ドイツの平和や自由を保障することができない。また、欧州が世界で競争するには市場統合しかなかった。

 コール前首相はドイツ統一を「後戻りできない」よう深化させることを目指した。共通通貨ユーロを導入し共通市場を広げ政治統合を始めた。

 中東欧にまでEUが拡大した今、かつて国境画定に不満を述べた「追放民」も、故郷の東欧の町で自由に土地が買える。しかし実際には、そこは貧しい地域で、わざわざ土地を買うドイツ人は少ない。国境の意味がなくなり、領土の議論は現実味がなくなりつつあるのも、欧州統合の成果だ。

 日本への助言は難しい。ただ我々の経験から、周辺国との和解を進めるためには、過ちを二度と繰り返さない姿勢を示し続けると同時に、「共に働く機会」を作るため対話を続けることが必要だと思う。【聞き手・斎藤義彦】

毎日新聞 2005年5月7日 東京朝刊

 以上。


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