1999年11月祭研究発表「見つめようこどもから―子どもと教育―」

2章 学級崩壊

担当:近藤麻世


 発展途上国とは異なり、日本では教育制度や学習環境が整備され、子供たちには「教育を受ける権利」が与えられている。にもかかわらず、学校現場では学級崩壊・いじめ・不登校など様々な問題が起きている。ここでは問題の一つである学級崩壊を取り上げ、子どもと学校との関係について考えてみたいと思う。

1:クラスで何が起きているのか

@ある一年生のクラス

 教師歴約三十年のヒデコ先生は、九十八年春から一年生を持っている。ひらがなを大きく黒板に書いていると、男の子が一人歩み寄ってきた。先生の横に立ってチョークをにぎると、お絵かきを始めた。「だめやないの。シンジくん。今みんなで勉強してるんやから」そうたしなめると、シンジくんは「なぜだめなん?」といわんばかりにきょとんとした目で見返して来た。それが一週間に何度となく繰り返される。

 授業中、他人のノートにいたずらがきをする。他人の鉛筆や消しゴムを平気で使う。書き取りの指導をしていて、「先生の言うん(文字)ばっかり書くのいやや」と騒ぎ出したこともあった。休み時間は、しょちゅう「ど突き合い」のけんかだ。髪の毛がぬけるほど引っ張りまわし、歯形が残るほど腕にかみつく。給食を手早く済ませ、答案の採点や連絡帳への記入を済ませていたら、「なんで先生は、好き勝手なことばかりすんの」と言いだした。ヒデコ先生は今まで2,3年に一度の割合で低学年を担任してきたが、この一年生

ほど面食らったことはない。(人物名は仮名)

Aある6年生のクラス

 九十七年の春、ユウスケ先生は荒れる六年のクラスを引き受けた。男子の十人以上が教室を出たり入ったり。六月になると、女子の中にも無断で教室を飛び出し、トイレにこもってひそひそ話をする子が出てきた。ほかの先生たちに教室へ追い込んでもらわないと授業が始まらない。やっと始まっても、机の上にはノートも教科書も出ていない。暇つぶしに彫刻刀で穴を掘り、壁には落書き。教室の後ろではボールを投げ合っている。

 給食の時間。力の強い男の子が、勝手におかずを二杯分盛り付ける。給食室にある献立の見本から、勝手にデザートを持ち出す子がいる。ちぎったパンや、トイレから持ち出したせっけんを投げ合う。

 テスト用紙を配っても、名前も書かずに紙飛行機にして投げ飛ばす。採点して返してもらったテストもそのまま捨ててしまう。床はすぐにゴミの山になった。それでいて、「こんなん授業受けたってわからんもん。ちっともおもろない」などと言う。ほうき・ドア・本と備品が次々と壊された。けんかも頻繁で、止めにはいろうとしたら、興奮した男子がユウスケ先生の腕時計を柱にうちつけて割ろうとした。黒板に牛乳びんを投げつけ、破片が教室に飛び散ったこともある。

 一学期も後半に入ると、車を運転しての通勤途中、その日一日を想像して体が硬直し、もう疲れ切っているのが自分でもわかった。二十年を超える教師生活で経験がないほど息詰まる毎日だった。 (人物名は仮名)

「学級崩壊」朝日新聞社会部 1999

2:学級崩壊とは

@全国に広がる学級崩壊

 「学級崩壊」という言葉は九十七年夏ごろから教育専門誌などに登場するようになり、翌九十八年に多くの新聞・テレビが取り上げ、大きな問題として浮かび上がった。「学級崩壊」に明確な定義はないが、一般的には、担任がいくら注意をしても私語や立ち歩きなどをやめず、物理的に授業が成り立たないことを指すようである。その実情は明らかではないが、一九九八年度の大阪府教育委員会の調べによると、大阪市以外の市町村の小学校全体の7%の学校で、学級崩壊状態のクラスがあるというデータが報告されている。メディアがこの問題を取り上げる以前は、学級崩壊はもっぱら教師個人の力量不足にかかわる問題とされ、学校・教育委員会の内部で封印されていた。今でも、「学級崩壊は、担任に問題があるから起こるのだ」と言い、この問題を担任の力量不足だけで片付けようとする人はいる。しかし、メディアの報道によって深刻な実態があぶりだされ、学級崩壊とは、個人の力量を超えた、根深い要因も絡んで起きているものであるとの見方が広がっている。そして、メディアの学級崩壊報道に距離をおいていた文部省と教育委員会も、第一線の校長先生から実情を聞くなど、より詳しい実態調査を進め、改善策を考え始めた。

 子どもたちをうまくまとめられず、授業ができないという先生は昔からいた。父母たちが騒ぎ出し、学級担任からはずされるということもしばしばあった。しかし、こうした事例の原因は、経験不足で十分な指導力が身に付いていないなど教師にあった。一方で、今問題となっているのは、学級崩壊が新人・ベテランの学級を問わず起きていることである。力量を備え、経験も豊かな教師のクラスが突然、崩壊状態になることは決してめずらしくない。今問題となっている学級崩壊は、都市部・農村部を問わず、全国のどこの学校・学級で起きても不思議ではないのである。

A低学年と高学年の学級崩壊

 低学年と高学年の学級崩壊ではタイプが異なる。低学年の場合、そもそもクラスという一つのまとまりの中で集団生活を送ることができない子どもが増えている。授業中は机に向かって座り、先生の話を聞くという基本的なことが理解できていない子どもが多い。机に向かって座るという行為自体ができず、机の上を歩いたり、床に寝そべったりする子どももいる。先生が嫌いだからいうことをきかないというわけではない。学校の集団行動のスタイルに慣れていないのである。ちょうど幼児が学校にやってきた感じである。

 一方で、高学年の崩壊は、担任を拒否し授業を妨害するという性格が強い。専門家の中には、高学年の学級崩壊を「先生いじめ」と呼ぶ人もいる。授業が始まっても先生の指示を無視して机の上に教科書を出さない、先生の配った印刷物を破る、授業中にお菓子を食べる、勝手に教室から出ていく、という行動をとることで、授業を成立させない。先生の困惑する様子を見て喜ぶ子ども、先生をかわいそうだと思いながらも、グループからはずされるのがこわくて仕方なくいじめに同調する子ども、学校自体に無関心でいじめを傍観している子どもなど、子どもの様子は様々であるが、学級の中で教師が孤立してしまっている。

 学級崩壊とは、突然表情を変えて暴れ出す子だけの問題ではなく、クラスという場の問題である。ストレスをためているのは、クラスで核となって暴れている子どもだけではない。いじめに仕方なく同調している子どもや傍観している子どもなど、周りの子どもたちも教師、友達、家族との関係でストレスを感じている。ただ、子ども自身、なかなかそれが言葉にならず、周囲に伝えられずにいらだっているのだろう。

3:魅力ある学校へ

@ 子どもと教師の関係を問い直す

 今、学校では教師と子どもがどう関係を結ぶかが問題になっている。子ども一人一人の問題が多様化、重層化し、多くの子どもが自分にあった教師と一対一の人間関係を築くことを求めている。この現実を見つめた時、一人の担任がクラス全員の子どもを統率し、ほとんどの教科を教える「学級担任制」ではもう無理がある。また、「学級王国」と呼ばれるように、「学級担任制」では担任に学級の全てがまかされている。そのため、担任はクラス内で問題が起きても、他の先生に助けを求めにくい。他の先生も管理職の指示がない限り、自分以外のクラスに口を出すことはしない。担任は自分の学級を侵されたくないし、また他人の学級を侵したくもない。このような学級担任制では、崩壊したクラスの担任は自分だけで解決しなければならず、つらい状況に置かれる。

 こういった事情を考慮して、最近ではチーム・ティーチングが増えてきている。チーム・ティーチング(略してT・Tともいう)とは、複数の先生がチームを組んで生徒を教えることである。このT・Tにも様々なスタイルがある。二人の先生が一緒に一つのクラスを教えるスタイルがすぐ頭に浮かぶが、それだけではない。理科が不得意な先生と社会が不得意な先生が組んで、二クラスの合同授業にし、一方の先生が中心になって教え、もう一方の先生が補助にまわるというスタイルや、二クラスを三人の先生で担当して算数の授業を行う場合、子どもたちを理解度に応じて三グループに分け、レベルに応じて指導するというスタイルもある。また、子どもたちをいくつものグループに分け、それぞれが地域のことについて調べる課題を与え、複数の先生が、グループのいくつかを分担して見て回るという指導の方法も考えられる。

 神奈川県のある公立小学校では九十八年度の一年間だけ、五・六年をひとまとまりに考え、専科の教師をこの二学年に集中させてみんなで担うチーム体制をとった。これは九十七年度に五年生のクラスで学級崩壊がおこったため、新年度の人事を決定するさいに考え出された案であった。まず、子どもたちを一つの学級に縛らず、教科ごとに三つから六つのグループを作った。クラスで集まるのは二時間だけで、図工・音楽など五年生と六年生が一緒に授業を受ける時間もあった。また、算数では習熟度別にM0〜M4までの五つのグループを作った。そして、教科のグループ分けも算数の所属も子どもに決めさせた。授業も先生が一方的に教えるだけではなく、社会では自分でテーマを決めて発表したり、図工では自分で課題を決めて作成したり、算数や理科では実験を多くとりいれた。子どもたちの選択を重んじる指導方針は授業だけではなく、遠足にも反映された。自分達で時刻表や入場料を調べて企画を出し、それぞれのグループに分かれて行った。このように、この学校では九十八年度だけ、クラスを壊して子どもたちをバラバラにし、子どもの選択の幅を広げるシステムを取り入れた。これは子どもを一つの学級に縛らず、様々な人間関係を体験できるようにしようと考えられた制度である。

(「2学期6年生時間割表」の図が挿入されていた)

A親と教師の関係を問い直す。

 学校は子どもと教師との関係だけではなく、親と教師の関係を見直すことが必要である。学級崩壊を起こしたクラスの中には、へとへとになった先生を母親達が支えたケースがある。ただし、親達の協力を得られた先生というのは、クラスが崩壊する以前から親と連絡を密にとり、親からの信頼を得ていた先生である。親と教師との関係が弱い場合には、いきなり召集をかけられ荒れた様子を告げられた親は、「ああ、やっぱり」とうなずきあい反発しか感じないようである。

 中央教育研究所(多湖輝理事長)が平成七年四月に行った「子供の教育に関する保護者の意見調査」によると、「子供の学校での様子や友だちとのかかわり方について、よく知っていると思うか」という質問に対して、「あまり知らない」(18%)、「知らない面も多い」(65%)と、八割以上の親が自信がない。そして、学校での様子を「先生から教えてもらっている」と答えた親は、千五百人余りの回答者のうち、6%にすぎなかった。親と教師の間のコミュニケーションがいかに少ないかがよく表れた結果である。

 学校教育の主役が子どもである以上、「子どものことをよく知ること」は、親にとっても教師にとっても教育の基本である。親と教師の両者が共に子どものことを知るためには、お互いの協力が不可欠である。学校公開日を増やす、学級通信をこまめにだすなど、日常の細かなことを大切にし、親と教師の信頼を構築していくことが必要である。

B生涯学習

 今、文部省の改革は「生涯学習」をキーワードに進んでいる。この生涯学習という視点に立つと、学校教育は長い人生のひとコマにすぎないのだから、学校がすべてを抱え込む必要はなく、子どもの教育は家庭や地域と分担して進めるものであるということになる。そして、学校教育ですべての知識を教え込むのではなく、生涯にわたって学び続けることの出来る能力や態度を身につけることが大切だというのが主な考え方である。

 この考え方に立って文部省が打ち出したのが、教育内容の大幅削減である。二〇〇二年の四月から完全学校週五日制を実施し、授業時間や教える内容を減らす。ただ、教育内容を減らした分、将来自分の力で学習する力を養うための「総合的な学習の時間」を導入する。この授業では教科書がなく、何をするかはそれぞれの学校の判断に任せられている。例えば、学校のある町について調べたり、商店で働く人に話を聞いたり、福祉施設の手伝いをしたりと、教科の枠を超えた内容になる。生活に根ざした体験学習を増やすことで、子どもたちの生きる力を養っていこうとするのが文部省の「生涯学習」の考え方である。

4:子どもと学校・教師

 学級崩壊の原因として様々なことがあげられる。一般にはよく、家庭のしつけに問題がある、先生・学校に問題がある、子ども文化の変容・情報化社会に関係があるなどと言われている。一つ一つの学級崩壊のケースにもよるだろうが、これらの原因には誰もがうなずけるのではないだろうか。ただ、ここで一つ私が注意したいのは、学級崩壊はこういった様々な原因が絡んで起きているということである。一つだけに原因があるわけではない。私達は子どもの問題となるとすぐに、親が悪い、学校が悪いと親や学校に責任をなすりつける傾向がある。一つのことに責任をおしつけ、それで問題を片付けてしまうというのは危険だと思う。

 ただここで、学校だけに責任をおしつけるわけにはいかないと述べた上で私が問題として取り上げたいのは、「学校が子どもの変化についていけていないのではないか」ということである。最近では、学級担任制に限界を感じチーム・ティーチングを取り入れる学校も増えてきている。また、もうすぐすれば教科書を使わない「総合的な学習」も始まる。教育内容や制度に関して言えば、少しずつではあるが変わってきていると言える。しかし、「先生がまじめで一生懸命やっているのはわかるけれど、いかにもズレている」「学校はリアルじゃないところ」と言う子がいるように、子どもと学校・教師のズレは大きい。「みんな、仲良く」を目標に掲げる先生達が、子どもにとっては建前ばっかりとうつるようだ。子どもと教師のズレについては、教師の高齢化も関係している。教師の年齢の全国平均は今、40歳をこえている。先生の中には、生徒の両親よりもずっと年上の人がいるだろう。子どもと教師・学校のズレをどうするべきなのか、これに対する具体的な解答は私には分からない。しかし、学校側が子どもとの間にズレがあることを認識し、少しでも子どもの感じていることに耳をかたむければ、それは現状を変えるきっかけになると思う。

《参考文献》

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