1999年11月祭研究発表「見つめようこどもから―子どもと教育―」
担当:菊澤聖子
第二次世界大戦後、世界各国で共通して、教育は爆発的に開発、発展し、初等教育はもとより、中等、高等教育も未曾有の発展を遂げた。科学技術の急速な発展に伴い、知識の水準も上昇した。その結果、経済的に裕福な層は、初等教育はもちろん、中、高等教育を受けられるようになる。さらに、学歴主義が進行し、農村より都会に、農業より工業を、肉体労働より頭脳労働を求める傾向が強くなると、職業専門系の学校より普通進学系の学校へ、生徒が集中し、学校は高等教育機関への進学準備の機能を果たすようになる。さらに、「大学卒業学歴」は近代的労働部門に参入するための必須条件になると、大学入試競争が激化し、日本と同様に、あるいは、それ以上に激しい受験戦争が見られるようになる。 このように、エリートを養成するような教育を受ける裕福な層があるかと思えば、一方で、経済的貧困層では、識字教育をはじめとする、初等教育をも受けられない状況がある。このような、教育機会の格差が問題だと思われる。
日本社会においては、「教育を受ける権利」は、ほぼ、望む以前に与えられるようになったため、実生活において、教育の必要性を痛感することは少ないだろう。それどころか、それを「権利」というよりもむしろ「強制」だとみなす人もいるかもしれない。しかし、よく考えてみると、「学校」という場で、「読み、書き、そろばん」を学ぶ機会が与えられたからこそ、今、こうして一人の人間として生きていくことができるのではないか。
例えば、今、仮に、初等教育を受ける機会がなかったために、文字がよめないとしたらどうだろうか。道端の看板も読めない、新聞が読めない、本が読めない・・・文字からの情報は一切断たれてしまう。 実際に、世界各地で、文字が読めないことによって、借金の証文がよめなくてだまされたり(高利貸)、不当な契約書に拇印を捺してしまい、自分の土地や家を失ったり、説明書が読めないために、母親がミルクと間違えて、農薬を赤ん坊に与え、死なせてしまったという事例が数多く起こっている。また、字をよく読めない人への差別があり、非識字者であることで受ける屈辱感は大きい。 誰もが文字を読めるだろうという前提で作動している現在の国際社会にあっては、非識字は深刻で、命を脅かすことさえあるのだ。さらに、豊かな芸術や文化を楽しんだり、それに啓発されたりできず、学ぶ楽しさ自体を享受できない。このように、非識字によって、被る不利益は非常に大きいわけだが、この非識字は、まさに、教育の権利を奪われていることによる。この意味で、現代社会において、教育は、人間が人間として生きていくために必要不可欠なものだといえるだろう。
人間として、生きるということは、他者や、自然、文化、歴史といった世界との関係を取り結んで、生きるということです。だから、人間として発達するには、現実の世界と意識的に会話していくことが必要なのです。教育の本質はまさにここにあり、それは、現実の抑圧的状況から人間を解放することなのです。そのための手段としての識字という行為を通して、人は現実を認識し、世界を変えるために立ちあがるようになるのです。 (パウロ・フレイレ) |
教育と死亡率、とくに、子どもとの死亡率との間に、明らかな相関関係がある。これに関して、女子教育によって、女性の意識を高めることで、社会全体にプラスの影響を与えることが確認されている。子どもの死亡率を低下させ(女子の就学率が10ポイントあがると、乳児死亡率が出生1000人あたり、4.1低下し、女子の中等教育就学率が同じだけ上がると、乳児死亡率はさらに、出生1000人当たり5.6低下することが期待できる。)、子どもの栄養や健康状態を改善するだけでなく、人工の増加率を引き下げる。これは、教育を受けた女性が晩婚で、子どもの数が少なくなる傾向があることによる。(ブラジルでは、読み書きのできない女性は平均して6.5人の子どもを生むが、中等教育を受けた女性の場合はそれが2.5人である。)さらに、保険や衛生、栄養の重要性を知っていれば、家族が予防可能な病気にかかったり、予防可能な原因で命を落とすのを避け、生産力を高め、経済的、社会的安定を増すことができる。
以上のように考えてみると、「教育を受ける」ことによって、単に、「読み、書き、そろばん」の技能を身につけるというだけでなく、人間として、尊厳を持って生きていく自信と誇りを得、自己だけでなく、自分を取り巻く社会に問題意識を持つようになるということが、非常に大きい。
今、世界人口のおよそ6分の1にあたる10億人が読み書きができず、その大部分が女性である。このような状況が生じているのはなぜなのだろうか。
まず、一つ目に、子どもの生活の貧困さがあげられる。子どものうちから自立して生活しなければならないほど貧しい家庭の子ども、親や兄弟のために、学校に行かないで、働かなければならない子ども、文房具や制服を買ってもらえない、学費を払ってもらえない子どもなど、貧しさの度合いはさまざまだが、経済的な貧しさが教育の機会を奪っている。 さらに、親が読み書きができなかったり、学校教育を受けていなかったりすることが、親が、教育について無知、無関心であることの原因であり、それが子どもの教育機会を奪っていることもある。
学校が住まいから遠く離れていたり(通学に1時間、2時間もかけなければならない子どもたちもいる。)、教室には十分な机、いす、あるいは、黒板がなく、また、トイレや電灯がないところもある。教師は薄給であるため、よい人材が集まらず、教師にやる気がない場合がある。このような、学校環境をめぐる物理的条件が、子どもたちを学校から遠ざけたり、学校や勉強に興味を失わせている。
これらの問題に対しては、
しかし、これで本当に十分なのだろうか。以下の例を見てみよう。
見栄のための教育? 〜西アフリカの例〜父母に、子どもたちが教育を受けるに当たって、必要なものを問うと、「校舎」「勉強机」「椅子」「制服」という答えが返ってくる。 一方、子どもたちに聞くと、「鉛筆」「ノート」「教科書」「本」。 何をもって教育とするかに、大人と子どもではこれだけの差がある。「教育」はあくまで、「教える意欲」と「学ぶ意欲」との間に生じる相互成長の過程である。そのような相互の意欲を失わせてしまうものが、物理的環境の不整備であってはならないので、必要最低限の設備の整備は必要だが、それをとりちがえては本末転倒である。校舎だけは立派だが、内実が伴わない・・・教育の体裁を最優先すればそのような状況もおこりかねない。 |
セネガルのジガンショー市に住む10歳の靴磨きの少年、アサネのことば「学校に行く必要なんかないよ。学校で何が学べるんだ。僕は学校へ行っている子どもたちのことを知っている。家族が授業料を払い、制服を買えば、教育をうけることになるんだ。だけど、彼らは何もしてないよ。家族の役にたたないんだ。農業や商業のことは何も知らない。僕だって読み書きが大切なことは知っている。だけど、だれかが僕を学校へ行かせようとしたら逃げ出すよ。」 |
この例が示すように、学校に行くことができても、学校での教師の質の低さが教育対する需要を低くしている場合がある。 例えば、学校で教えられる内容は、子どもたちの生活とはかけ離れた内容であることが多い。算数や国語の教材も、必ずしも子どもたちの身近なところからとられているわけではないので、興味がわきにくく、アサネのように、学校の存在意義がわからないといったことになる。さらに追い討ちをかけているのが、小学校からの厳しい試験であり、試験での成績が重要視されていることも子どもたちの圧迫感を強めている。 このように、学校が楽しい場所ではなく、過密で暴力的(体罰、厳しい戒律)な場所で、子どもの能力を高めるのではなく、子どもを危険にさらし、子どもの創意や好奇心を押しつぶしていることがある。そして、このようになってしまう根本には環境が悪条件であることがあるのである。
その一方で、「楽しい学習」「柔軟性を備えた学校」を目指す新たな試みもある。インドのマドヤプラデシュ州では、教員のエンパワーメントプログラムを通じて、人々に、教室が持つ可能性を知らせ、教員と生徒の従来の関わり方を変えることを目指した教員養成方法が実施されている。教員は最初から計画立案に携わるので、このプログラムを自分のものだと考えて参加する。教員は、ほかの教員から、新しい考え方を学び、新しい教材(色鮮やかで魅力的な教材)や、「楽しい学習」を目指した異なった教授法(歌や踊りを取り入れる、手づくりの簡単な教材を使う、なぞなぞ、グループ活動を取り入れる、など)に接し、相互協力を体験することができる。 このようにして、教師も授業を楽しみ、教えることに意欲的になれば、新しい空気を教室に持ち込むことができ、子どもたちも楽しんで学べるようになる。さらに、親は学習が適切で、効果的で、楽しいものになれば、子どもを学校へ行かせるようになり、特に女子や働く子どもの就学率が高まった。「子どもがよく学び、学校へ行きたがるようすを見ると、親やコミュニティは、教師や学校を支援するようになるのです。」教師のエンパワーメントと楽しい学習はインドの残りの州だけでなく全世界が学ぶべきものである。
コロンビアの「エスクエラ・ヌエバ」(学校名)では、期末試験をパスしてからではなく、自分のペースで一連の目標を達成できたときに、次の学年に進めるようにしている。そのため、留年はない。生徒は留年という屈辱を避けられるだけではなく、病気や農繁期に働かなければならない場合はそれを終えてから学習を再開できる。
フィリピンのコルディデラ地方では、「コルディデラ移動授業」が行われている。これは、教員が「学校」を背中に背負って子どもたちのところへ行って授業をするもので、この結果、危険な山や谷を超えて、学校に行かなくてすむようになった子どももいる。
このような柔軟性を備えた、地域の条件に即した方法で、すべての子どもの教育のニーズを満たす工夫がなされている。このような試みには、これから「学校」という教育を提供する場のあり方を模索していくの当たり、学ぶべき点が非常に多い。「途上国」「先進国」にかかわらず、校舎をたてて、とりあえず「教育」を受けられる状況にすればよいというのではなく、その質が非常に問題になってくる。「質」を無視した教育は、「形」としてきょういくを整えただけであって、それは子どもたちにとっては、教育ではない。
日本では、子どもは幼稚園のときから、よりよい社会的地位を求めて、果てしのない厳しい競争の中で成長する。これは、教育機関がその名声にしたがって、上から下まで、序列をつけられているためで、学校の名声は「よりよい」「有名な」大学や企業に入る卒業生の数で決まる。ほとんど、非人間的ともいえる忍耐力や克己心を身につけたものだけが出世することができ・・・子どもは学校を中途退学したら、社会的に存在価値がなくなるかもしれないことをよく知っている。 ザンビアでは生徒は毎朝、平均数キロを歩いて通学する。食事もせず、つかれ、栄養不足や栄養失調で、・・・汗をかき、学校に着いてもすぐに授業に集中できない。・・・教員は教育が不十分で、意欲がなく、給与が低い。教員は英語が下手だが、それでも、英語でおしえようとする。・・・自分が教える科目についての知識がなく、授業の仕方はまずく・・・教室の防音や換気は悪く、教室は暗く、チョークもなく、黒板は汚れ、ノートや鉛筆もない・・・学校は現実からかけ離れた世界で、生徒を取り巻く社会環境や生徒が成人してから参加する労働市場とはほとんど何の関係もない知識をむりやりにつめこもうとする。 「世界子供白書 1999・教育」 |
現在、基礎教育として通用しているものは、子どもにとって、真の意味での「教育」となっているのだろうか。教育制度や学習環境は整っているものの、「学ぶ」ということが、「受験のため」「偏差値をあげるため」となり、子どもたちが楽しんで学ぶことを奪われてしまっている日本。子どもたちの学習意欲が、学習環境の不整備によって殺がれている途上国。目指すべき教育のモデルはそのどちらにもみられない。 子どもが教育を受けるのは、先に見たように、人間として生きていくために、日常生活に役立つ知恵、知識を身につけるだけではなく、子どもたちが自分自身の夢を実現できる可能性を開くためだといえよう。つまり、子どもたちが生きていく上で、自ら道を選択し、自分自身の人生を開拓していくという可能性が、彼らを取り巻く環境や状況によって、妨げられることがあってはならないのである。そしてまさに、「学校」(とくに初等教育を提供する学校)とは、子どもたちが、このような夢を探し、そして、それを引き伸ばせるような場、つまり、子どもたちがさまざまなことを経験することで、興味のあること、自分が夢中になれるものを見つけ出せるきっかけを与える場なのではないだろうか。子どもたちは興味のあることに対しては、目を輝かせ、自ら学ぼうとするものだ。「みたい!」「聞きたい!」「知りたい!」。これは、人間の本質的な知的欲求なのである。
このような、「知的欲求の芽」を育むためには、「子どもの主体性を第一にする教育」を目指すべきだろう。具体的には、先に見たような、新たな試みのように、子どもが楽しめる、そして、自ら考えることができる授業内容に学ぶべき点が多いように思われる。子どもたちが、「学校」という場で、新たな刺激を得ると同時に自分の能力を見出して、自信と誇りを得ることができるならば、これ以上に大きな教育的効果はない。
ただ、この教育的効果は、即効的ではなく、長期的な視野にたたなければ見えにくいことが多い。人々が「豊かに」生きていける社会を築いていく上で、教育が重要な鍵をにぎっているにもかかわらず、政府からそれに見合うだけの投資がなされにくいのも事実である。このような教育の特質を理解した上で、これから、途上国も先進国もともに、「教育」の、そして、「学校」の有るべき姿をもさくしていかなければならない。
「教育とはすべてを忘れ去った後に残るもののことを言う」〜どれだけ多くの知識を持ち、「よい」学歴を手に入れ、「よい」仕事に就くための手段が教育なのではなく、人間としての尊厳に気づかせるものが「教育」なのである。
世界はすべての子どもたちを教育するために今後10年間に平均して、さらに毎年70億米ドルの資金を必要とする。だがこの額は、米国で毎年化粧品に使われるよりも、またヨーロッパで毎年アイスクリームに使われるよりも少ない。 「世界子供白書1999・教育」 |