京大ユニセフクラブ1998年研究発表「こころの国境線〜ニューカマーと私」
私達は、夏前から外国人に話を聞きに行ったり、読書会をしたりして学んできました。最終的にテーマごとに分かれ、各自が自分のテーマについて、深めていき、原稿を仕上げました。冊子の総括として、座談会をして締めることにしました。
参加者: | |
片田 真志 | 法学部 1回 |
原田 勇輝 | 法学部 1回 |
角田 望 | 農学部 生産環境科学科 1回 |
石原 正恵 | 農学部 生産環境科学科 2回 |
石川 雄久 | 総合人間学部 人間学科 2回 |
石川:ユニセフクラブでやっているのが、第三世界の人達のことだよね。そういう、遠い所にいて、普段なかなか見えない人達のことを扱うというのは、抵抗感があるというか、空虚なものに感じられた。それに比べて、日本にいる外国人のことは、もっと見えやすいものだと思った。あと、外国人問題っていうと、過酷な条件下にある労働者っていうのがよくいわれるけど、そうではなくて、生活者として、普段暮らしている人達として、彼ら・彼女らを見ていきたいと思った。で、最初は在日の人達の生活について、本国の人達と、日本の彼らの比較をやろうって思ったんだけど、韓国の人達の状況っていうのがうまく入ってこなかった。そのとき、NGO訪問でAPTに行ったときに、国際結婚で、アジアの女性と日本の男性の意識の違いを言われてドキッとしたことを思い出し、じゃあ、そっからはじめてみようかということで、国際結婚を扱うことにした。片田君は、なんで労働者をやろうとしたんでしょうか。
片田:最初にあった外国人労働者に対するイメージというのは、本文にも書いたけど、言葉などの文化的なこともあったけど、制度の壁がある上に過酷な労働条件の下働いているという状況、そういうのに苦しんでいるというものだった。で、ユニセフクラブだから、日本と他国との関係に関する問題だし、やってみようかと思った。それと、当事者に話を聞きたいと思ったんだけど、他の国に行って話を聞けるかというとそれは難しいわけ。だから日本にいる外国人のことをやってみようと思った。
石川:え、じゃあさ、今まで外国人労働者の状況を見てきてそれをレポートしたいという意識があったのか、それとも、本で読んだ知識から、こういうのを扱いたいという意識だったのか、そこらへんはどうなの。
片田:少しは話に聞いていたし、在日の人の話もわりと聞いていたし、本よりも先に、人の話を聞いたというのが大きい。
石川:それをもっとみんなに伝えたかった?
片田:そう。それにもっと詳しく知りたかったし。
角田:私の場合、やっぱりどこか日本の外に興味があったからユニセフクラブに入ったっていう部分があると思う。かっこよくいったら、援助とか国際協力、海外の井戸掘り、協力隊で海外に行くということがいろいろ考えられる。(編注:うーん、かっこいいなぁ)でも、そういうことって大抵、他の人にこういうことやってるんだよって言った時に、かっこいいね、って言われる種類のものですよね。どっかそういうことを求めていた自分に気がついてしまった(気づいちゃいましたか…)。一方、たとえば在日の人についてやっている人って、すごく地味だと感じてしまう。あるいはオーバーステイの人を、いろんな意味で世話するというのもそう。そういう、どっちかっていうと地味な仕事をどっか避けて通って、「国際化」と称して華やかなかたちでまとめていた自分に気づいて、それで考えてみようと思ったのが、この研究発表に関わろうと思った理由。そのなかで学校の話題にしたっていうのは、わりと単純な理由なんです。私が通っていた学校には帰国子女が多くて、その子達から外国でどうやって過ごしていたかっていうのをわりと聞いていた。逆に、日本の学校に帰ってきたら、その子達はどうなるんだろうというのが、全く想像がつかなくて、知りたいな、と思ったということです。石原さんも、帰国子女というテーマではじめたみたいなんですけど、どうですか。
石原:(苦笑)そうねぇ、最初はごみよりか興味があるなぁという(笑)程度(ごみ班の人達がかわいそう)で、あまり考えていなかった。自分のテーマを決める前に、いろんなとこ行って話を聞いたりしているうちに、私なりのテーマがないかなと思って、探していって、これに決めた。あと在日の人の問題を扱ってもよかったんだけど、すごく歴史とか勉強していかないと難しい問題だな、というか、デリケートな問題だなって思うし、そこいらでどうしても逃げてしまったというのもある。全体のテーマが「ニューカマー」になったということで、ちょっと正当化できたかな(笑)
角田:ニューカマーって、見た目も違うし言葉も違うし珍しいから、興味の対象になりやすい。自分もそういう好奇心から始まったっていうのは否定できない。でも日本にいる外国人のことを考えようと本当に思ったら、その人達が珍しいからというのではなくて、その人達が普通に生活していくなかで普通の人として抱える問題を考えなきゃいけないな、って思いました。
原田:僕は別にこれといって動機があったわけではないんですけどね。はじめは誘われるままについていったわけ。外国人労働者の話を聞きに行って、自分の知らない世界としてこんな世界があるんだってことを知った。あそこに行った時、かなりのショックを受けた。韓国の男性の話で、西成の近くにある病院では、外国人に対しては医療費を2倍や3倍とって当たり前だと聞いて、なんでそんなことが起こってるのか、なんでそれがまかり通っているのかと思ったから、このテーマを選んだ。あと、外国人の障害者はどういう状況にあるのかっていうことにも興味があったけど、労働者として外国人の障害者が来ることはまずありえないだろう。もし外国人障害者が存在するとしたら、生まれつきによるものか労災によるものかで、数としては少ないんだろう。だから、結局障害者っていうほうは研究発表としては出てこなかったけれども、医療についていろいろと調べていたら、あんなこともある、こんなこともあるといろいろ知った。他人についていって見識や視野が広がってよかったと思う。
石川:絶対量が少ないっていうのは違うかな。労働災害にあっている人っていうのは多いと思うし、そういう人が結構釜ヶ崎に流れ込んでくるっていう事情もある。外国人労働者が労災にあっているっていうのは、話としてはよく聞くよね。
原田:僕が言いたかったのは身体障害者の方ではなくて精神薄弱者の方なんですけどね。
石川:さっき角田さんが外国人、特にニューカマーは興味を引く対象だって言ったけど、そのわりには、原田君が言うように、今まで全く目に入ってこなかったというのは、矛盾するような気がするんだけどねぇ。
片田:ユニセフクラブとしては、南北格差をやるんだと言って、多国間はもちろん、1つの国の中でも南北格差があらわれ出しているという本だって読んだりする。なのに、日本のなかでの経済格差というものに、どちらかというと目を背けているように思える。より身近なんだから、そっちのほうに興味が向くのが自然なのに、なんかこう、外へ外へという感じが前からしていた。(ふむふむ)
石原:何でかなあ。
片田:それはたぶん、たとえば釜ヶ崎の労働者だったら、食糧をあげて純粋に喜んでくれる、歓迎してくれるという感じではないからでしょう。海外の餓死しそうな子どもを見て、かわいそうだな、何とかしてあげたいな、と思ったとき、食べ物を持って行けば、喜ばれるでしょう、多分。でも、国内の経済格差の問題はご飯持ってってもそれだけで満足してくれない部分がある。援助する側が感じることもあるし、いろんな要求を直に言われるかもしんない。援助することに楽しみを見出すんだったら、アフリカなり何なり、貧しい国に行ってするほうが、扱いやすいのかもしれない。
角田:自分に関わりのある人・視界に入ってくる人を助けるのは当たり前で、やらなかったらマイナス。でも外国のことだったら比較的関係ないから、援助したらいい人だねって喜んでもらえる、っていう感じかな。それは、あるだろうな。たとえば、在日の問題や従軍慰安婦、釜ヶ崎のこととかでビラが配られているのを見ると、しんどいなって思ってしまう。たうまりさ、関わり出すと、
石川:自分を否定していかなきゃいけないつらさ
角田:がある。
片田:だって、日本国内だって、経済格差だけ見ていっても、問題は山のようにあるのに、どちらかといえば、それは扱わずに、っていう状況でしょ。
石川:絶対にそうだよな。途上国の子ども達のほうがひどい状況だからという理由だけで外へ、外へ、っていうことではないもんなあ。
角田:イメージでも絶対そうでしょ。在日のことを一生懸命研究している人に比べて、途上国へ行って、現地の子ども達と暮らして、というのは
片田:むっちゃいい人、っていうイメージ。英雄扱いというか。(それで英雄になれるんなら、途上国に行って、子ども達と戯れていようかなぁ)
角田:だから自分も、それに憧れるという面はある。昔からあったし。何かをしてあげるというときに、自分も得るところがあるっていうのは大事な要素だとは思う。でも、そういうことばかりを求めて、国内の問題を避けているのかもしれない。ナントカ問題といっても、結局は人と人とのことだから、優しさとか、そういう気持ちの問題なんだろうな。しんどい部分もある程度引き受けなきゃっていう・・
片田:絶対どんな問題にも、ちょっとだけであっても、自分は関係しているやんか。自分はどっち側にいるとかいう程度であっても。なのにそれを、見てみないふりをするというか、自分とは関係ない問題にするという人ばっかりだと、そういう人達が虐げる人達っていうのが出てくる。
石原:そんなにみんな、関係ないと思っているのかな(石原さんがいなかったら、どういう風に話が展開したのか、それもまた楽しみ)。たとえば、外国にどんどん出ていこうとして、身近な問題を見ないようにするということの1つの理由は、イメージが違うじゃない。外国のことなら明るくて、国内のことなら暗いというイメージがある(苦笑)。そのイメージというのは、自分がそういう身近な問題に関与しているし、何かしなくてはならないという後ろめたさがあるから、余計暗いイメージがでてくるのかもしれない。
一同:ああ。そうかもしれない。
石原:自分は関係ないよと思っている人もいるかもしれない。
原田:それに付け加えていいたいのは、入管法が目をそらすことへの言い訳になるということ、彼らは違法なんだということで、切り捨てることができる。
片田:扱わなくてもいいというか。
角田:勉強するのが嫌だなと思ったときに、勉強している人をみるとその人を嫌だと思う。心の中でやらなきゃいけないと感じていることに対して、熱心にやっている人をみると、その人を嫌だなって思う。たとえば、在日の問題を一生懸命やっている人に対して、罪悪感とまではいかないけど、やらなきゃいけないのに、やってない、つらいな、と遠ざけてしまう。石原さんが言うように、関心を持っていることの裏返しじゃないかな。
石原:うん、身近だから、一旦考え出してしまうと、ものすごく自分の生活が揺れてしまうっていう恐れはあるよね。あとそれを正当化するために、たとえばデモをしても事態はあまり変わらない、もっと効率的にやったら、とか考えるわけ。(悪い人だね)
片田:そう思うけど、実際には自分ではなにもしないわけ。
石原:しないわけね。
角田:すごい身近な問題として向こうは言ってくるから、考えなきゃって思う。でもそれは、考えてない人はすごく悪いっていう罪悪感に訴えている。
原田:いや、そうだけど、時間は限られているんだから、活動はしなくても、それを知っておくってことには、意義はある。(まともな意見だ)
一同:うんうん。
角田:外国人の問題だったら、問題としていきなり見せつけられると目をそむけちゃうから、仲良くしようという程度でもいいと思うんですよ。あるいは普段から触れ合うとか。人と関わりを持っていれば、その相手に対して関心を持っていられる。
石川:関わりを持とうとさえしない人っていうのも、実際問題として結構あるでしょ。たとえば京大にさあ、在日の人達との交流会のビラが貼られていたけど、あれだって結構目を背けたものの1つと思う。一緒に交流しようという動きはあるんだけど、こういう問題をやっている自分達だってこうだから、ましてや他の人達なんて。でも逃げ口上だよな。
石原:逃げ口上。うーん。逃げ口上だけど、そういうところはやっぱりあるやろ。だって、いくら身近な問題でも、そのすべてに興味を感じるとは限らない。
角田:それはそれぞれだから。最初に聞いたみんなの動機でも、石原さんは自分が帰国子女だから、片田君は外国人労働者の話を聞いたことがあった、原田君は父親の関係上障害者問題に興味があった、私は帰国子女の学校に通っていたっていう何かの関わりがあって、そっから発展しているわけだから、それぞれの個性を大切にしたらいいんじゃないかなあ。
石原:それでも罪悪感、残んないかねぇ。(さっきまであんなこと言っときながら、今さら善人ぶられても、ねぇ)自分はこっちを選んでこっちを見捨てた、っていう。今回だって、外国人班の人達はごみ班ではなくて外国人班を選んでしまったわけだし。
石川:かといって自分達が扱っている問題を捨てられると、その人達は間違っているんだ、と思っちゃう。
角田:新歓合宿のときも言ってなかった?南北問題をやっているんだ、何で興味を持たないんだ、っていう言い方が悪いかどうかっていう。「この人は私達のせいでこんな状況なんだ、悪いと思え」って押し付けるのは、いいのかどうか。
石原:でもそれでその人が罪悪感でやったとしても、長続きしないし、いい結果を生まないと思う。
片田:主体的に1つの運動に関わっていこうと思ったら、時間をかけなきゃいけない。でも、パンフ1枚手にとって読んだだけでも他人の意見を聞けるわけでしょ。南北問題だったら、まったくそれに関わらずに普通に生きている人に、「こういう問題があるんだよ、目を背けないでください」と言うことは、その人に主体的に関われということではない。むしろその人の生活のなかに南北問題が見えてくるわけだから、その人なりに自覚してもらえればいいんじゃないかな。その人に現地に行って援助しろとまで、望んでいないわけだから。バナナを買うときに、ちょっと思うようになったというのでいいと思う。
原田:同じように外国人を知ることで、外国人に対する差別的な見方も減るだろう。
「5.『自分』と『彼ら、彼女ら』」へ |