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7月3日午後の催し「チェチェン離散民(ディアスポラ)とカザフスタン」では、映像作家の岡田一男さんが、カザフスタンでのチェチェン離散民(ディアスポラ)についての取材映像を上映する予定です。
日本では旧ソ連時代の強制移住はほとんど知られていませんが、今のチェチェン戦争の根にはそれがあります。真相が究明され、真剣な謝罪がされなくては、今の戦争には終わりはないでしょう。また、強制移住先で出会った人々の物語には、多民族の共生の可能性が感じられます。
この催しでは、少し時間をかけて、カザフスタンでのさまざまな映像を見ていきたいと思っています。参加費1000円ですが、留学生は半額(500円)です。会の後は、同じ場所で懇親会を開きます(会費300円)。ぜひご参加ください。
詳しい情報はこちらでどうぞ: http://www.jca.apc.org/tlessoor/chechennews/event/index.htm#20050703A
(大富亮/チェチェンニュース)
『私はチェチェン人です。ですからチェチニアは、私の想いであり、哀しみであり、夢でもあります。希望と言っても良い。でも、カザフスタンもまた、祖国なのです。強制移住を経験した諸民族は二つの祖国を持つことになったのです。よくわれわれはこういうことを口にします。「われわれには二つの祖国がある。カザフスタンとチェチニアだ」と』(アフメード・ムラードフ、カザフスタンのチェチェン人)
今日のチェチェンニュースでは、チェチェン人とカザフスタンの関係を、何本のインタビューをもとに、描き出してみようと思う。そうすることは、チェチェン問題について、ロシアでもなくチェチェン現地でもない、別の方向からの光をあてる作業になると思う。うまくいけば、チェチェン問題が、すこしクリアに見えて来るだろう。聞き手は岡田一男さん、作家の姜信子さん、チェチェンの映像作家ザーラ・イマーエワだ。
1930年代の終わりから第二次大戦の終結の頃にかけて、旧ソ連の中央アジアの国、カザフスタンには、さまざまな民族が強制移住させられた。最初にここに連れてこられたのは、沿海州に住んでいた高麗人(朝鮮半島系の住民)だった。
「・・・1937年に、私たち極東の高麗人は、日本のスパイだという濡れ衣を着せられました。そして、NKVD(内務人民委員部=当時の秘密警察)のあげた極東からの高麗人追放計画をスターリンが承認しました」そう語る高麗人の建築技師のヤコフ・ペトロヴィッチ・ツォイは、幼い日に極東からの数千キロを貨車で運ばれた。
「ウシトベに着いたとき、そこはまったく木の生えていない荒野でした。ラクダだけが食うことのできる棘だらけの草が、風に舞っていました。人家というか、建物は一切ありませんでした・・・われわれは悪いのは、意地の悪いNKVDの連中で、まさかそれをやらせているのが、スターリン自身だったなどとは考えにも及ばなかったのです。・・・当時のスターリンは、神そのものでした」
苦境に追いやられた高麗人たちだったが、農業技術と持ち前の勤勉さで徐々に荒野を開墾し、力をつけていた。そのあと、さらにほかの民族が強制移住させられて来た。カラチャイ人、ヴォルガ・ドイツ人、イングーシ人、チェチェン人。この人々はみな、敵に協力して「ロシアに背いた/背くかもしれない民族」として、住む土地を奪われたのだった。
カザフスタンのアルマトゥに住む老いた守衛、サイディー・ムサハーノフは、移住に使われた貨物列車に詰め込まれ、チェチェンから追放されたときのことを回想する。取材チームは、移送当時とおなじように、走る貨車の中でこのインタビューをした。そのためか、記憶は細部にわたっている。
写真7:サイディー 10歳の時、強制移住を体験した。飢え、寒さ、渇き、屈辱。走る貨車の中で、彼は辛い想い出を語り続けた。酷い青臭い臭いの「ニガヨモギ」を昔懐かしい美味と感じるのだと彼は言う。(フォトギャラリーをご覧下さい)
「その朝は、大粒の雪が降っていて、あっという間にひざま近くまで積もってきた。我が家には兵隊が二人でやってきた。5時頃だった・・・彼らが言うに、『大急ぎで支度しろ。お前らは移送されるんだ』 どこへとは言わず、『移送だ。大急ぎで!』と言うだけさ。驚いた母さんは、 『長持ち』の方へ飛んでいった。昔は、何でも大切なものは、大きな木製の 長持ちに入れていたものなのだよ。お母さんは、指輪だの、帯だとか、 花嫁衣裳だとかを、そこにしまっていた。そこへお母さんが駆け寄ったら、 兵隊が自動小銃を、彼女の脇腹に力いっぱい突きつけた。驚いた彼女は、 悲鳴を上げて跳び退いた。僕は、そのころ10歳だったけど、壁の絨毯に掛け られていた父さんの短剣の方に跳んで行こうとした。でも母さんに銃を突き つけていた兵隊に殴り飛ばされた。兵隊はその短剣を自分の長靴に入れて いた。
母さんは、呆然として何も支度を出来なかった。僕は、緑色の運動靴、底が ゴムの奴を履いたままだった。上は短いズボンに、半そでのシャツのまま だったよ。膝まで雪が積もっているって言うのに。兵隊の一人が家に残り、 僕たちはもう一人の兵隊に外に連れ出された。広場中、あちらからも、 こちらからも人々が追い立てられていた。広場の中央には白いシューバ (外套)を着た指揮官の大佐が立っていて、彼が兵隊たちを『早くしろ、 早くしろ!』とせきたてていた。
・・・自分たちの貨車の中で死んだのは4−5人だった。若い女の子が腎臓の発作で死んだ。女の人たちが沢山死んだのは、トイレになかなか行けなくて、膀胱が破裂したためだと後で聞いた。われわれの社会ではとても作法が厳しいから、女の子たちは恥ずかしくて、我慢に我慢を重ねてその末、苦しんで死んでいったんだ」
高麗人の建築技師のツォイはこう言う。
「もう雪が融け出す頃でしたが、まるでダンプカーで運んできて放り出すかのような、コーカサスの諸民族の強制移住が行われました。手始めに送られてきたのがチェチェン人でした。ほとんど準備もなしに移送が行われたのでしょう。彼らは丸裸同然でした。受け入れを命じられた集団農場は、大あわてで納屋や物置などを整理して、とにかく泊められる場所を確保して、トウモロコシや小麦粉だの食料の配給券を手配しました。
・・・いまでこそ、私はチェチェン人も同じ人間だと冷静に考えられるのですが、当時の印象は違いました。チェチェン人たちは飢えているばかりか、周囲に対して敵意をむき出しにしていました。こちらが懸命になって食料を手配し、彼らを助けようとしているのに、こちらのものを盗むのです。たとえば、高麗人の大切に飼っている、たった一頭しかいない雌牛を盗んで、屠殺し、喰ってしまったりする。そんな目にあった一家は、それはもう大災難です。生活がすっかり狂ってしまう。・・・そういう点で彼らは、先住の高麗人や他の住民とのトラブルを頻発させました」
そんなチェチェン人に対して、血気盛んな高麗人の若者たちは喧嘩を挑み、たいていは数の力で圧倒したという。捕らえたチェチェン人に何をしても、彼らは絶対に口を割らず、仲間の名前を言わなかった。高麗人のツォイはこう続けた。
「・・・最近のチェチェン戦争を見るとき私は考えるのです。お互いに理解することが大切だったのだと。一般論としてチェチェン人を悪い連中だと言うのは間違ってる、と私は自分の経験から言いつづけています。喧嘩と喧嘩の間には、仲のよい付き合いがあったのです。心を通わせたとき、チェチェン人ほど信頼できる友人はいないというのも事実でした。毛虫だってむげにつぶそうとすれば反撃してくるでしょう。チェチェン人が激しく抵抗すると言っても、彼らが始めた戦争ではないのです。・・・自由を彼らに与えて、好きなように暮らせるようにしたら良いではないですか?武装して戦っているゲリラ連中はさておいて、一般住民は、本当に可愛そうですよ」
写真5:朝の第14村。アブドゥルハリムが、牛を野良に出す。カザフ人の牧童が牛たちを放牧地まで連れて行く。地平線の彼方の山向こうは中国領のジュンガリアだ。(フォトギャラリーをご覧下さい)
今でも、民族全体を良いものと悪いものに分けるという、ひどいやり方が続いている。昔チェチェン人は、敵のドイツに協力したとレッテルを貼られ、民族自体が追放された。事実かどうかは、どうでもよかった。今も、チェチェン人は「イスラム原理主義のテロリスト」のレッテルを貼られて、民族全体が弾圧されている。支配民族のロシア人が「悪い民族」だったことはない。私たちは日本にいても、知らず知らずのうちにそういう見方に慣らされているような気がする。
ところで、カザフ人たちはどうして、これだけの多くの異民族の流入に耐えられたのだろうか。カザフ人で、カザフスタン国立図書館長を務めるムラート・アウエーゾフはこう言う。
「(ソビエト時代の)1930年代初めに農業集団化が強行されました。その中でカザフスタンでは、戦争でもない平時に人口の1/3が失われるという大飢餓が引き起こされました。困難を逃れるため、多くのカザフ人が、中国、イラン、ロシアなど周辺国に逃亡したり、移住したりせざるを得ませんでした。・・・私が思うにカザフ人は、大飢餓の時期に、母親が生き延びるために、幾人かいるこの何人かを犠牲にしなくてはならないような悲惨を経験したため、迫害されたり、流刑になった人々の苦しみや痛みをともに感じる、同情心を養っていったのです」
チェチェン人たちの強制移住は、フルシチョフの「雪解け」の時代に解除され、多くがチェチェンに戻っていった。彼らはカザフスタンの人々の同情を忘れていなかった。ムラート氏の父親で作家のムフタル・アウエーゾフの生誕百年にあたる1997年、ユネスコは各国でその文学をたたえる式典を開いたが、まったく別に、廃墟になったグロズヌイでも、チェチェン人たちの発意で記念式典が開かれたのだった。
「色々な民族がカザフスタンで苦しい時代をわれわれと共にしました。その経験は、高麗人、ポーランド人、ドイツ人、ギリシャ人とそれぞれ、民族的な特性によって、実にまちまちですが、われわれの場合、彼らのその後の運命、現在の状況にも無関心ではいられないのです。このようなわれわれの感情が、チェチェン共和国イチケリアの英雄的な戦いへの共感となっているのですが、それを文学の世界で見事に表現したのが、詩人のラファエリ・ニアズベコフ(ニアズベーク)の詩篇です」
ニアズベコフの詩篇は、カザフ語からロシア語に訳され、チェチェンのゲリラたちはそれをポケットに入れて戦いに出て行ったのだという。文学が、チェチェンの独立運動を支えていたのだ。のちにチェチェンの大統領となったマスハードフは、ニアズベコフに「民族の誉れ」章を贈っている。
チェチェン人、カザフ人、高麗人はカザフスタンで出会った。それは自分たちの意志によるものではなかったが、共生を選ぶほかなかった。苦しみながら分け合う姿がそこにあった。
スターリンの死によって、ある人々は故郷へ戻り、ある人々はその移住先に腰を据えることを選んだ。そして、チェチェン戦争によって、人々は再会した。カザフに住むチェチェン人の知識人、ワイナハ協会議長のアフメード・ムラードフはこう言っている。
「チェチェン人に起こっている事は、他の民族に過去に起こったことと何ら変わるものではありません。ただチェチェン人は激しく抵抗しているというだけです。そして、マスハードフ陣営とカディロフ陣営と二つに・・・人々の心の内を分裂させられました。しかし、それはまだ全体とはなっておらず、分裂・分断はうまくいかないでしょう。チェチェン人は現実主義者ですから、犯罪者集団なんかならいざしらず、そのような流れには乗りません。・・・私たちはここに住む高麗人たちと非常に良好な協力関係にあります」
「国家」や「民族」に、過去の犯罪の責任をとることはできるのだろうか。筆者自身は、戦後に生まれた日本人として、日本が第二次大戦で犯した犯罪には、直接の責任は負えないと感じていた。しかし、加害者は遠い土地での犯罪を忘れることができても、被害者と子孫たちは、その犯罪の結果の中で今も生きている。
インタビューを受けた誰もが避けているように、ロシア人を「悪い民族」として断罪することには意味がない。けれど、強制移住にしても、チェチェン戦争にしても、してきたことの責任は誰かが取らなくてはならず、それは、犠牲の上に生きている人々のはずだ。
ヤコフ・ツォイ(高麗人): http://www.jca.apc.org/tlessoor/chechennews/dl/20050703distri_yakov.pdf
アフメード・ムラードフ(チェチェン人): http://www.jca.apc.org/tlessoor/chechennews/dl/20050703distri_muradov.pdf
サイディー・ムサハーノフ(チェチェン人): http://www.jca.apc.org/tlessoor/chechennews/dl/20050703distri_musakhanov.pdf
ムラート・アウエーゾフ(カザフ人): http://www.jca.apc.org/tlessoor/chechennews/dl/20050703distri_auezov.pdf
最近、ロシア文学関係の講演会の案内をしましたが、 「チェチェンニュースを読んで来ました」と言ってくださる方がいたようなのです。うれしいです。 今後も、チェチェンに関係のあるイベントは、積極的に紹介していきたいと思います。 ootomi@mist.ocn.ne.jpまでお知らせください。 「チェチェン総合情報」のイベントページに日付順に掲載し、タイミングがあえばイベント情報でも配信します。
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