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3月8日にチェチェン共和国大統領アスラン・マスハードフが殺害されてから早いものでもう2ヶ月以上になる。マスハードフ殺害に関してはおびただしい数の報道、声明、そして「真相」というものが、ロシア語のウェブ上に流されてきた。その中で日本のマスコミには、ほとんど無視されてしまったが、注目すべきものが幾つかあった。一つは、90年代以来、マスハードフの長年のライバルであったシャミル・バサーエフが語ったマスハードフ殺害に関するマスハードフ自身とロシア側の動きに関するもの。
原文:http://www.kavkazcenter.com/russ/content/2005/03/18/31501.shtml
訳文:http://groups.msn.com/ChechenWatch/general.msnw?action=get_message&mview=0&ID_Message=1625
もう一つは、マスハードフが殺害の直前に語ったチェチェン語によるビデオインタビューを分析した女性ジャーナリスト、タイサ・イサーエワ(SNO情報センター所属)の記事である。
バサーエフは、マスハードフの強い主張を受け入れて、ベスラン事件以降、自分たちの「破壊活動」(実質的には決して称賛できないテロ行為だが)を抑制した。マスハードフの和平提案の再構築は、昨年秋から始まっていた。そのきっかけは、クレムリン側から西側を経由してもたらされたとバサーエフは指摘する。この和平工作は西側にいるチェチェン側の代表たち(在外チェチェン政府総代表であるウマル・ハンビーエフ保健相、特使であるアフメド・ザカーエフ文化出版情報相ら)と頻繁に連絡を取る必要性をマスハードフにもたらし、衛星携帯電話やSMS(携帯メール)による連絡に対する警戒心を次第に薄めさせた。また一方的な停戦は、マスハードフが山岳部で戦う各級野戦司令官たちと頻繁に連絡する必要性をさらに増した。
マスハードフは、第2次チェチェン戦争開始以来、全く軽武装のごく少数の側近と機敏に行動してきた。アフマード・アフドルハーノフ司令官の率いる、いわゆる「大統領警護部隊」とも現実には別行動であった。彼の最大の武器は、人民の支持によって支えられ、意表をつくような場所を転々とし、ロシア側に尻尾を掴まれないということだったのだ。しかし、頻繁な衛星携帯電話や、携帯メールでの連絡が、ロシア特務機関によるマスハードフの居所割出しを可能にしてしまったとバサーエフは見ている。バサーエフはマスハードフの殺害にチェチェン側の裏切り者は存在しなかったと断言している。が、ロシア治安機関にはそれが是非とも必要だったと裏事情をも明かしている。ロシア側は昨年来、マスハードフとバサーエフの居所を当局に通報したものには10億ドルの報奨金が与えるとしていた。マスハードフ殺害に当たって、「裏切り者」を捏造することにより、報奨金を国家から支出させ、モスクワの国家保安委員会(FSB)上層部と現地のFSB関係者が山分けしたのだとバサーエフは解説し、こうした行為が、チェチェンにおける戦間期以来の誘拐事件で、しばしば行われて来たやり口と同一だとも指摘している。ちなみにこうした手口の実態をロンドン在住の元FSB中佐、アレクサンドル・リトビネンコも自らの体験に基づいて証言している。
タイサ・イサーエワの記事は、バサーエフ発言が真実に近いことを裏付けるものだ。彼女は、マスハードフが死の直前に残したチェチェン語によるビデオインタビューの分析から、ロシア側がマスハードフに交渉実現を匂わせて欺いた事実を暴露している。マスハードフには、複数の西側政治家を通じて、ロシア側がチェチェン側との交渉を模索しているという情報がもたらされていた。ロシア首脳部の「意志」は、ドイツとスイスの外相、ポーランドの大統領から欧州評議会、そこからウマル・ハンビーエフ保健相を通じてマスハードフのもとに伝えられた。このためマスハードフは、ロシアとの交渉には、ハンビーエフがあたると明言した。これまで、マスハードフの対ロシア交渉は、ロンドンのザカーエフが専らあたってきた。しかし、経緯に鑑み、マスハードフはこの交渉にはハンビーエフが当たるとした。
こうしてロシア側は、マスハードフを罠にかけただけではなく、チェチェン平和実現を願う諸外国をもペテンにかけた。ポーランド外務省がマスハードフ殺害に関し、これがロシアの行為を単純な愚行ではなく、はっきりとポーランド政府の立場から犯罪的と明言したのは、このような背信行為に抗議してのことであった。ロシア側は、それまで執拗に妨害してきたロシア兵士の母委員会連合代表団とアフメド・ザカーエフ特使らチェチェン政府代表団のロンドンでの2月下旬の会談実現を敢えて妨害しなかった。これもまた、善意の表れではなく、マスハードフ抹殺に向けた手の込んだ罠の一環だった。
マスハードフ殺害については、様々な諸説が流された。中立的なジャーナリズムはチェチェン戦争下においては存在しにくい。その中で中立的であろうと努力しているティムール・アリーエフの「チェチェン社会」紙は、上記2説と併せて「裏切り者の通報」説と、数日前の東部山岳地帯ノジャイ・ユルトでのカディロフ部隊による殺害説を紹介している。裏切り者の存在説は、ロシア側がチェチェン抵抗運動とマスハードフの権威を傷つけ、貶めるため、執拗にばらまいているものだ。わざわざ写真が発表され、しかも特殊部隊撤収時に爆破され、証拠を抹殺された「マスハードフが潜んでいた地下壕」や、「側近の銃器取り扱いの不手際による銃器暴発」、「降伏を拒んで部下に射殺された」などなど、さまざまな説がまことしやかに流された。
バサーエフは、マスハードフが今年になって首都グローズヌイと丘陵を挟んだ北隣のジョイクル・アウル村(トルストイ・ユルト村)、スウォーロフ通り1番地のムサ・ユスーポフ家の中庭に建てられた離れで、側近3名とともに暮らしていたと明かしている。ユスーポフ家の家人は、この中庭の離れには全く近づかなかった。ノジャイ・ユルトなど他所での殺害説は、ユスーポフの細君が、「マスハードフの遺体が、どこからか持ち込まれたものだ、マスハードフが自宅にいたなどありえないでたらめだ」と強硬に主張したことに基づいている。バサーエフによれば、彼女には自宅の離れにマスハードフがいるなど、想像を絶することだった。チェチェンの習慣では、客人の静穏を乱さぬよう、女性が男性客の前に姿を見せないのは、ごく普通のこととしている。もう一つやりきれないロシア側の仕打ちを書き加えておこう。マスハードフを匿っていた家の主人、ムサ・ユスーポフが報復として酷たらしい拷問の後に殺害されたことを。ロシア当局はごまかしを続けているが、トルストイ・ユルト村の村人は、村はずれで無惨にうち捨てられたムサの遺骸を目撃したと証言している。
マスハードフの殺害が、ロシアとチェチェンをどこへ導こうとしているのか?−これは大きな問題だ。チェチェン側はすばやく対応した。ロシアマスコミが、次の指導者は、常にマスハードフのライバルとして存在してきた「過激派テロリスト」、バサーエフだろうか?それとも南西戦線司令官の「ギャング」、ドク・ウマーロフだろうか?はたまた、西側に受けの良い国外のアフメド・ザカーエフだろうか?それとも97年に副大統領となったワヒ・アルサーノフか?きっと仲間割れが現実化するだろうと論議をするのを尻目に、殺害の翌日3月9日に、はやくも最高シャリアート議長のアブドゥルハリム・サドゥラーエフを後継指導者と公表した。
原文:http://www.kavkazcenter.com/russ/content/2005/03/09/31224.shtml
訳文:http://groups.msn.com/ChechenWatch/general.msnw?action=get_message&mview=0&ID_Message=1615
2002年7-8月、当時公開はされなかったが、チェチェン共和国の戦時下の最高執行機関である国家防衛評議会(GKO=MS)が設立されるにあたってマスハードフ自身が推して、最高指導者の不慮の際(死亡あるいは敵の捕虜となり指揮を執れなくなった場合)の職務継承者を最高シャリアート議長と決定していた。GKO=MSは、サドゥラーエフ最高シャリアート議長を新たな大統領、全軍最高司令官と布告し、その任期は戦争終結後の自由で民主的な選挙の実施までとした。バサーエフは、この布告に続けて声明を出して直ちに新大統領への忠誠を誓った。チェチェン国外にいるGKO=MSメンバーであるハンビーエフ保健相や、ザカーエフ文化出版情報相らも、それぞれ談話や声明で、新しい指導者がサドゥラーエフであることを確認した。
2002年の夏のGKO=MS設立にあたっての拡大会議は、イチケリア憲法の戦時規定に基づいて南東部山岳地帯ベデノ地区の森林に国内で戦う各級野戦司令官、政府閣僚、国会議員、地方行政官などを集め、3週間以上にわたって行われた。ここで重要なのは、第2次チェチェン戦争の初期、2000年春に、グローズヌイをロシア軍に奪われて以来、マスハードフ派とバサーエフ派に二分されて、あるいは孤立した小グループとしてバラバラに戦っていた独立派が、マスハードフを最高司令官とする統一指導部を初めて打ち立てたことなのである。この拡大会議で参加者は、イスラム法(シャリーア)に基づいた誓約(バイアート)を交わし、最高司令官がイスラム法を遵守する限りにおいて、その意志と命令への絶対服従を誓った。その夏のチェチェン独立派の攻勢はめざましいものだった。グルジアのパンキシ渓谷で部隊再建を図っていたハムザト・ゲラーエフ司令官配下の500名を超す部隊も、幾手にも別れて大コーカサス山脈を越えて、チェチェン国内への帰還を果たした。彼らの持ち帰ったPZRK(超小型携行式地対空ミサイル)で数多くのロシア軍ヘリコプターが撃墜された。
しかしその秋、バサーエフはモスクワでのノルド・オスト事件への関与により、自ら独立派指導部から去った。自らの行為が誓約に触れるものである以上、それはバサーエフにとって唯一の選択肢だった。注目すべきは、バサーエフは個人として、チェチェン政府の責務から解かれたが、他のバサーエフ派の面々は、そのまま政府・軍に留まったのである。そしてマスハードフは、バサーエフのテロ行為を批判し、バサーエフに関する審理を最高イスラム法廷(シャリアート)に委ねた。これまでシャリアートの判断というものは、公表されていない。しかしそのシャリアートの責任者は、後継を託されたアブドゥルハリム・サドゥラーエフその人だった。
3月9日のサドゥラーエフを後継者とする発表に引き続いてGKO=MSは、15日付けで声明を発して、国外で活動するザカーエフ文化出版情報相が、「バサーエフはチェチェン共和国指導部と無縁の存在」と語っていることは事実に反するとした。そこでは、バサーエフはGKO=MS軍事委員会の議長であるとし、マスハードフが今年の初めに、2002年秋に解任したバサーエフをGKO=MSの構成員に戻していた主張されていた。GKO=MS軍事委員会は、野戦司令官たちのシューラ(合議体)であり、彼らの決議なしには、最高司令官による代表者解任も、本人の辞任も無効だとも主張されていた。これに対してザカーエフは、「バサーエフのGKO=MS復帰について、正規の通知を受けて来なかった」、「GKO=MSの主張は、2002年秋のマスハードフの発言、バサーエフの自身のすべての職務からの辞任という声明とも矛盾する」と指摘し、「新最高指導者の判断により、自分は信任されるのかどうかも不明」と最終的なコメントを避けた。事態の展開はあたかもマスハードフの死去によって、すべてはバサーエフ派の思惑に従って進行していくのか?といった事態となった。
振り返って見ると、2002年10月のモスクワ劇場占拠人質事件、2004年9月のベスラン学校占拠人質事件への自らの関与を認めるバサーエフが、チェチェン抵抗運動とは全く無関係という説には、事実関係において、かなりの無理が含まれていた。マスハードフ本人は出席しなかったが、2003年初夏に、夏季攻勢作戦を徹底するため、各級司令官クラスまで含めて300人という大規模な司令官会議が南西戦線司令官ドク・ウマーロフ主宰により、チェチェン西部の山麓森林部で開催された。そこにはゲラーエフ、アルサーノフら、前年まで国内の戦列から外れていた大物指導者たちも参加した。そこにバサーエフも出席したばかりか、会議後あたかも会議を代表するかたちで会議の成果について談話を発表したのである。もし彼が当時もGKO=MS軍事委員会の実質的な代表であるならば、それは全く不思議なことではなかった。
さらに2004年6月下旬にチェチェン西隣のイングーシ共和国全域で大規模な政府庁舎・軍警察施設への襲撃事件が発生した。この事件は、ドク・ウマーロフ、シャミリ・バサーエフ両司令官が共同して行った大作戦で、地元イングーシの抵抗運動戦士たちも参加していたが、主力はチェチェン軍で、その作戦参加者は、500-600名に上った。この作戦でバサーエフが指揮する部隊は、イングーシ内務省庁舎を制圧し、その武器庫から、文字通り運びきれないほど大量の武器弾薬を獲得した。7月下旬、チェチェン西部の山麓森林地帯で、マスハードフとバサーエフが同席して、戦利品武器のチェチェン軍への引き渡し式が行われた。正式に二人の同席が確認されるのは2002年夏以来久々のことであった。マスハードフはこの直後、8月1日、最高シャリアート議長サドゥラーエフを伴ってビデオインタビューに臨み、チェチェン抵抗運動の活動範囲がチェチェン国外に広がったことを正式に認めた。
それでは、マスハードフの殺害でチェチェン武装抵抗運動は、バサーエフ派一色になってしまったのであろうか?事態はそんなに単純ではない。新大統領サドゥラーエフは、先に紹介したザカーエフの反論声明の直後、同じ3月15日に、チェチェン国民への呼びかけの中でマスハードフの策定した路線を継承することを厳粛に誓った。また、在外代表たちを含むすべての現行チェチェン政府要員への信任を宣言した。さらに22日には諸外国への呼びかけの中で、西欧諸国の様々なチェチェン平和への取り組みを高く評価し、諸外国の中で、唯一政府レベルで公然とロシア政府の行動を犯罪的と非難したポーランド政府と国民に感謝を表明した。またローマ法王ヨハネ・パウロ2世の死去にあたってはラツィンガー枢機卿団長(現ベネディクト16世)あてに丁重な電報を送り、ローマ法王がチェチェン平和達成に心を砕いてきたことを高く評価した。これらの新指導者の言動は、ロシア政府が流した戯言が、低級な嘘であることをはっきりと証明した。いわく新指導者は実はアラブ人である。ワッハビストである。バサーエフの傀儡に過ぎない・・・。
このようなチェチェンの状況に対し、アメリカから同じ4月1日、全く正反対の評価をした二つの論説が公表された。一つ目は、ヘリテージ財団のロシア問題研究者アリエル・コーヘンのもので、二つ目は、「チェチェンに平和をアメリカ委員会」の声明で、これには同委員会共同代表で国際地政学者のズビグニュー・ブレジンスキーのコメントが付されていた。両者における唯一の共通点は、ロシア政府によって仕組まれたマスハードフ殺害が感心できる行為ではないという一点だけで、コーへンは、マスハードフの死により、民族解放闘争としてのチェチェン独立運動は消滅したので、残るのはイスラム過激派による全コーカサスのイスラム化であると考える。これは、アメリカにとっても脅威となるものであるから、アメリカ政府はプーチン政権に協力してその抹殺をはからねばならないとブッシュ政権に、実質上チェチェン撲滅に手を貸すことを勧告するものであった。
岡田さんのメールアドレス: kazuokada1@hotmail.com
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