[シリーズその4:気の遠くなる困難を抱えながらも前進し始めた土地改革]
貧農に土地を:不法占拠者から土地所有者へ
−−勝利した貧農が農業労働者との共闘を模索−−

「おれたちの条件は農業労働者の条件に似ている。
おれたちは、彼らといっしょに組織し共闘する方法を考え出そうとしてるんだ。」

ボバレス地区で新たな土地を手に入れた耕作者ダマシオ・アリエッチェ


(1)  先の大統領罷免国民投票で、チャベス大統領は信任を勝ち取りました。もともとこの制度は、新しい憲法を制定する時に、チャベス自身が提案したものでした。チャベス反対派は、2002年4月の軍事クーデターにも、同年末からの石油サボタージュにも失敗した挙げ句、国民投票という合憲的な手段を使って、チャベス大統領を追い落とすことにしたのですが、これは、むしろチャベス大統領にとっては喜ぶべきことでした。現職の大統領に対して任期途中で罷免ができる制度を設定している国などほとんどありません。それが現実に機能したことで、ベネズエラの政治制度における民主主義的な性格を全世界に知らしめることができたといえるでしょう。反対派はチャベス大統領があくまでも国民投票を拒絶すると考えて、反チャベスキャンペーンを展開しようとしていました。しかし、国民投票は現に実施され、かつてない多数の人々が投票所につめかけ、投票のために何時間も並ぶという忍耐を示しました。そして、チャベス大統領は揺るぎない勝利を獲得しました。
 
 この勝利の背景には、チャベス政権が、かねてから掲げてきた施策を次々に具体化し、その変革の過程を現実に加速化させてきたことが挙げられます。その最も端的な表れが、このシリーズで紹介してきた医療・教育の分野での前進です。
 しかし、「シリーズ3」で紹介した記事でのトラック運転手の言葉にもあったように、医療や教育の充実だけでは、貧困を克服できるわけではありません。しかし、今回ここに紹介する土地改革は、よりいっそう根本的な経済問題の解決へと前進していくものとなるでしょう。そしてそれ故に、国内の寡頭勢力およびそれと密接に結びついた米国の支配層の憤激を招いています。

(2) ベネズエラの土地改革は、ベネズエラ革命における最も根本的な変革の一つです。1999年に制定された新憲法の中では、農民が土地を持つ権利と市民が食料の安定供給を保障される権利とが謳われています。それは、チャベス政権にとっては単なる努力目標ではありません。2001年11月、その具体化に向けて、「土地および農業開発法」が制定されました。その法律は、土地所有の規模に制限を設定し(1個人5000ヘクタール以内)、遊休地に税金をかけることで、そうした土地を収用し、それを土地を持たない農民に分け与えることを定めました。土地を持たない数多くの農民が、この法律を利用して、土地を手に入れてきました。
 土地のない農民たちが生きていく手段として、使用されていない土地を占拠して耕作を行うということが以前から行われていました。(それは、ベネズエラだけでなく、ボリビア、エクアドル、グァテマラ、ブラジル、ホンジュラス等のラテンアメリカ各国で、農民運動の一形態として広く行われています。)彼らは、不法占拠者として、ある時は警察や軍隊に、ある時は所有者の雇った暴漢に、強制的に排除されてきました。しかし、「土地および農業開発法」は、彼らに、占拠した土地の所有権を与えたのです。すでに七万五千人の農民がこのようにして農地を手に入れてきました。

 サン・カルロスでは、土地を奪われた先住民族が、土地のない農民と手を結んで何十年にも渡って闘い続けてきました。広大な土地を生活の場としていたひとつの民族が数人の一家族にまで追いやられてしまうほど、これまでの政権下における先住民に対する支配・抑圧は過酷なものでした。土地を取り戻そうとする先住民は、自分たちが耕す土地を得ようとする農民とともに、土地を占有し、実質的な土地の利用を行ってきました。これまでの政府はすべて彼らを犯罪者、不法占拠者として扱いましたが、チャベス政権の下で、彼らは長い間求めてきたことを実現させることができたのです。
  
(3) ベネズエラは長い間、寡頭勢力の支配する極端な貧富の差に苦しんできました。ベネズエラ独立の祖ボリーバルは志半ばにして故国を追われ、多くの農民の暮らしは独立以前より悪化しました。1850年代にエセキエル・サモラが農民に土地を与えることを目指し、農民たちを率いて蜂起しました。しかし、サモラもまた闘いの途上で敗れてしまいました。
※現在、このサモラの名にちなんだ農民たちの組織がいくつも作られています。また、2003年2月に農地改革のプロセスを促進するために政府が立案した計画も「サモラ計画」と名づけられています。チャベスは農民解放の英雄サモラを讃えて、このように言っています。「サモラはサンカルロスで死んだのではなく、私たちとともに生きている。サモラはサバンナになり、人民になっている。」「サモラは、ベネズエラの大地に希望の種、平等と尊厳の種を蒔いたのだ。」(2003年1月10日コヘデス州サンカルロスでの演説『ベネズエラ革命』より)

 1960年代に米国の支援で進められた「進歩のための同盟」という農業改革も、大土地所有制度を終わらせるどころではなく、かえってそれを近代的なものにしました。農業は機械化され、アグリビジネスの利害で動くようになりました。その一方で、競争から取りこぼされた大多数の農民は、わずかばかりの土地すら手放す羽目に陥り、貧富の差はいっそう広がりました。1959年のキューバ革命で追放された大土地所有者の中には、ベネズエラに安住の地を見つけ、革命前のキューバと同様の特権的地位を確保し続けた者もいました。
※この春、チャベス政権の転覆を企てていたコロンビア準軍事組織が摘発され、逮捕されましたが、その組織が集結していた広大な農場の所有者、ロベルト・アロンソもまた、そのようなキューバからの亡命者でした。
参照『チャベス政権、コロンビア準軍事組織を摘発。米国が裏で糸を引くクーデターを未然に阻止

 1970年代に入ると、政府は石油産業に政策の重点を置くようになり、地方の農村は、さらに忘れ去られてゆきました。生産基盤を失った農民が、職を求めて都会へとなだれ込み、都市のスラム街の住民を形成するようになりました。

(4) このように長い間、大土地所有者と米欧系アグリビジネス企業の利害に基づいて農作物の生産がおこなわれてきたために、ベネズエラの食料生産は非常にいびつなものになってしまいました。現在、ベネズエラは必要な食料の70パーセントを輸入しています。石油サボタージュの時には、石油生産の停止で数十億ドルの損害を被っただけでなく、「非常識な一部の企業家たちが小麦粉の生産をやめ、米とトウモロコシを買い占めた」ことによって、緊急の食料輸入にも数十億ドルの費用を必要としました。
 「私は憲法、国家元首の権限および大統領の責任において、人民が飢餓に陥ったり、子どもが薬や牛乳がないため死んだりするのを許すわけにはいかない。」と、チャベスは2003年1月10日の演説で訴えました。
 「土地および農業開発法」の目的は、土地を分配することだけではなく、それを通じて農業生産の拡大を図ることにあります。さらに政府は、国営のスーパーマーケットを開設することによって、「市民が食料の安定供給を保障される権利」を現実のものにしようとしています。それは、こうした“経済クーデター”の試みに対抗する武器にもなるのです。

 チャベスの反対者は、この施策を私有財産制度を否定するものだと激しく非難しましたが、チャベスは、これが貧農のためだけの施策ではないと主張しています。
 「私たちは変革政策を続け、農民に土地、貸付資金、機械を与えていく。小農だけに与えるのではない。中規模・大規模の生産者であっても、それが真の生産者でベネズエラのために働き、祖国のために胸を痛める民族主義的な営農者であるならば、同様に与える。陰謀を図ったり、クーデターを仕掛けたりして人民への食糧供給を拒否するのではなく、反対に人民のために食料を生産する者には、小農同様に与える。」(2003年1月10日の演説より)
 しかし、実質的に最もこの法律で恩恵を受けているのは、貧農層であり、それゆえに、大土地所有の寡頭制支配層が激しく反発しているのです。

 ところが、その一方で、チャベスのこうした政策を利用して、チャベスを支持することによって、その見返りに自らの特権を維持しようとする者が現れています。いわゆる“勝ち馬に乗る”勢力です。これは、歴史上、様々な革命の腐敗を招いてきた原因の一つです。しかし、ベネズエラ革命においては、その危険性が、闘う人々の間で、克服していくべき課題としてすでに意識されています。

 土地を自ら闘いとった農民は、自分が「小土地所有者」になっただけで満足しているわけではありません。彼らは、闘いを通じて、自らを変革しています。そして、その農民たちの能動性をチャベス政府は積極的に組織しようとし、農民たちは政府の積極的方策と結びつこうとしています。政府の支援のもとで土地を獲得した農民たちの最も意識的な部分は、政府が組織し経営する国営スーパーマーケットと意識的に結びつこうとしているのです。さらに彼らは、大土地所有者の下で賃労働をおこなう農業労働者に共感を寄せ、彼らとの共闘を追求しています。女性たちは、その積極性を遺憾なく発揮し、現在の事細かな仕事や識字運動を取り仕切ることから、将来に向けての計画を描くことまでを責任を持って担当しています。

 チャベス政権がいかに人民の立場に立った政策を打ち出したとしても、それが単に上から恩恵的に与えられたものであれば、政権が変われば元の木阿弥になってしまうことでしょう。しかし、自ら闘い取ってきたことであれば、命を懸けてでもそれを守り抜こうとするでしょう。“土地か死か”という農民たちのモットーは、その決意を表しています。

(5) ここに紹介したレポートには、チャベスの「ボリーバル土地革命」が容易に成し遂げられるものでないこと、前途に待ちかまえる気の遠くなる異常な困難をくぐり抜けて行かねばならないことをも、同時に示しています。大牧場経営者・農業資本家・アグリビジネスによる農産物価格のダンピング、大規模な農業投資を行う国家資金の不足、外貨準備を取り崩さねばならないこと、やっとのことで土地を得た農民が今度はありとあらゆる生産手段(トラクター、ポンプ、種子、肥料等々)の欠如で苦しんでいることなどが、レポートには書かれています。
 それだけではありません。その他、土地を獲得した農民がどうやってその土地を大土地所有者の“傭兵”の暴力支配からその土地を守っていくのか、土地庁のサボタージュや各地方の州政府に巣くう膨大な反対派・大土地所有者・寡頭制支配層の仲間たちの妨害を押しのけて土地を耕し農作物を生産していくのか等々、考えただけでしんどくなってしまいます。

 しかし彼ら土地を得た農民は、同じ境遇の農業労働者と共闘して、自らの土地と生活を守り抜く決意を断固として示しているのです。レポートは言います。
 「これらの困難な課題にもかかわらず、インタビューを受けたほとんどの農民は、反対派がチャベス政権を倒すのを防ぐのに、もし必要ならば、武器をも取るつもりだ」と。「土地か、死か」というスローガンの意味合いを噛みしめたいと思います。

 「帰りの船を焼き払ってしまったから、戻ることはできない。この革命を強固にし、深化させていこう。それが唯一の道であり、他に道はない。」(2003年1月5日カラカスにおけるチャベスの演説より)
※参考『ベネズエラ革命−−ウーゴチャベス演説集』(現代書館)翻訳解説 伊高浩昭
※LAND REFORM IN VENEZUELA
http://www.yachana.org/reports/venezuela/landreform.pdf
※Venezuela :the promise of land for the people (Le Monde Diplomatique,October 2003)
http://mondiploma.com/2003/10/7venezuela

2004年8月27日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局


翻訳紹介:
7万5千人の農民が土地名義を勝ち取る
−−大農場主は土地改革法の実施を阻止しようとする−−
Byアルヒリス・マラパニス「ミリタント」記者
The Militant Vol. 68/No. 15 April 20, 2004
http://www.themilitant.com/2004/6815/681503.html


 サン・カルロス(ベネズエラ)−−「12月23日に、私たちはこの土地を手に入れました。」とフビル・ヤウカは、この新しい農場で語った。「翌日までに、約250人の農民とその家族が引っ越して来ました。私たちは今、耕作に適している39,000ヘクタールの土地の、誰からも異議を申し立てられることのない所有者です。私たちはそれをフェンスで囲みました。また、私たちは、大土地所有者が私たちから暴力的に奪った広大な土地の残りの所有権を取り戻しているところです。」

 3月16日に「ミリタント」の記者にこう語ったフビル・ヤウカは、先住民ヤウカ民族の最後の末裔であるヤウカ・ファミリーの6人兄弟のうちの1人である。他の多くの農民たちの支援によって、この家族は、25年間の闘いの後に、最近、北西ベネズエラのコヘデス州の州都サン・カルロス郊外の肥沃な150,000ヘクタールの土地に、ヤウカ民族に所有権があることの公式認定を獲得することに成功したのである。

 ヤウカの人々は、自分たち自身のためだけに土地を望んでいるわけではないと表明した。彼らは、協同組合を組織して進んで耕作しようとしている土地のない農民にそれを分け与えるつもりだと述べた。そして、彼らは現にそうしているのである。

 ベネズエラ中の何万もの農民が、非常に困難な闘いを通じて、昨年のうちに同様の成功を勝ちとった。彼らは、2001年11月に可決した「土地および農業開発法」の規定を利用したのである。

 この法律は、ウーゴ・チャベス大統領に率いられる政府によって実行された最も論争の的になっている方策のうちのひとつである。その履行を目指す農民による闘いは、ほとんどの大資本家、地主、および彼らのワシントンにおける同盟者たちの、すさまじい怒りをかき立てた。

 ベネズエラの「国家土地庁(INTi)」)」によって発表された数字によれば、2001年秋から2003年末の間に、ほぼ75,000人の土地を持たない農民の家族が、500万エーカー(1エーカー=0.40ヘクタール)の土地の所有権を得た。15,000人を越える農民が、2003年の最後の四半期に土地名義を獲得した。それは土地の分配が加速していることを示している。さらに、多くの者が、低い利率で政府系機関から融資を得た。

 しかしながら、これらの農民たちは、生産を拡張し多様化させることにより彼らの収益を確固たるものにしようと闘っているが、そこで大きな障害に直面している。大牧場経営者、他の農業資本家およびアグリビジネスによる、2001年法の実施の速度を遅らせたり妨げたりするためのキャンペーンだけでなく、市場における彼らの生産物の低価格は、多くの場合、農民の闘いをくじき、後退を余儀なくさせている。

ヤウカの人々はどのようにして要求を勝ち取ったか
 2年前に政府によって土地名義と融資を約束された後も[訳註:2001年11月に「土地および農業開発法」が制定されたことを指す。]約400家族の農民がサン・カルロス地区の土地のために闘い続けてきた。「ミリタント」記者がこの闘いについてはじめて知ったのは、2002年7月にここで開催された農民会議の時であった。最近ヤウカ族の土地に移住してきた農民の多くは、その会議に参加していた人々であった。

 その後、昨年10月にそこを訪れた際には、この闘いが行き詰まった状態になっていたことが明白であった。これらの農民たちの土地要求は、先住民ヤウカ・ファミリーの要求を解決することと結びついていた。ヤウカ・ファミリーは、大牧場を含む150,000ヘクタールの土地はもともとヤウカ民族のものであり、当時の政府に支持された資本家的地主によって暴力的に盗まれたものであるという証拠を、自分たちは持っていると主張した。しかし、その時、我々が聞いたところでは、「INTi(国家土地庁)」へのヤウカの人々の請願は耳を傾けられなかったという。

 農民リーダーの一人アンヘル・サルミエントは、2002年夏に「ミリタント」記者をその地区にはじめて案内してくれたのだが、今回は、新しい「フアン・ヤウカ農業キャンプ」へ我々を直接連れて行ってくれた。そこは農民が昨12月以来ずっと占拠している土地に築かれたものである。200家族を越える農民たちが、年末にこの土地に移動し、牧場を経営する資本家によって現在耕作されていないかあるいは、牛の牧草地としても使用されていない部分をフェンスで取り囲んだ。これらの家族のうち約50家族が、3月16日(「ミリタント」の取材日)の夜にそこにいた。彼らは熱心にこの最初の勝利について話した。

 「サモラ協同組合後援会」の代表、エドゥアルド・マルカーノは、ほぼ25年間ヤウカの人々の土地の闘いに関わってきたと述べた。彼のグループは、エセキエル・サモラにちなんで命名された。サモラは、スペインに対するベネズエラ独立の闘いのリーダーであり、土地を接収して農民にそれを与えるために闘ったのである。彼は、サン・カルロスの戦いで殺された。

 「ベネズエラで新大統領ウーゴ・ラファエル・チャベス・フリアスの登場によって獲得した変化のおかげで、私たちは大地主が隠していた文書を明るみに出す事ができました。」とマルカーノは述べた。昨年、農民は、何人かの味方になってくれる弁護士を説得して自分たちの代理人になってもらった。弁護士は、国有地が含まれていない以上、ヤウカの人々の請願は「国家土地庁(INTi)」の枠組み外の一般法廷で解決されうる個人的な要求だと主張した。農民の直接行動はその地区で広範な支持を勝ち取った。

 裁判所は、150,000ヘクタールについて、ヤウカの人々の要求を認めた。そして、彼らが3ヶ月前に占拠した39,000ヘクタールに対する権利証書を既に与えた。

 大部分牧草地として土地の残りの部分を使用する17人の農業資本家がいる、とマルカーノは述べた。「そのうちの2家族だけが、ものすごくでかい“テラコヒエンテ”なんですよ。」“テラコヒエンテ”というのは、「土地強奪者」という意味の嘲笑的な造語である。この2家族のうちのひとつは元将軍ホセ・ラファエル・ルーケの一族に由来している。ルーケ元将軍は、1900年代初めのフアン・ヴィセンテ・ゴメス独裁政権下でコヘデスの知事をしており、ヤウカ族のほぼ半分の土地を強制的に奪ったのだ、とマルカーノは述べた。

 「私たちは法廷に訴える準備をしています。彼らがヤウカの人々から現在の市場価格で土地を購入するか、あるいは荷物をまとめてとっとと出て行くか、どちらかの命令を勝ち取れるように。」と彼は付け加えた。

 農民たちは、さらに国家警備隊の中で何人かの将兵の支持を勝ち取った。農家出身の国家警備隊軍曹ロセアナ・ルーゴは、彼らの警備の責任者になることを志願した。この行動が、農民たちによる昼夜兼行の警戒とあいまって、ここまで治安を維持し、資本家地主に雇われた暴漢を遠ざけている、とマルカーノは述べた。

 「フアン・ヤウカ農地委員会」の代表トゥリオ・デルガドは、農民たちがその地区の多くの人々から食物、水、薬の寄付を受け取ったと述べた。「これは決定的なことです。」と彼は付け加えた。「この農地にはまだ電気と水が引かれていないのですから。」

「土地か、死か」
 エステル・アグードは、農民たちの間で土地を配分することやその他の計画に責任を持つ、女性ばかりの委員会を組織している。ほとんどの農民が識字学級に参加しており、まもなく、近くの「協同組合教育国立専門学校」で、様々な作物の播種や収穫における彼らの技術を向上させるための講習をはじめるだろう、と彼女は述べた。アグードによれば、2年前には、新しい土地の獲得に参加した農民たち200家族の間で、その約75パーセントが読み書きができなかったという。「今や、だれもが識字学級にいるわ。そして、わたしたちの目標は、わたしたちみんなが、少なくともハイスクール卒の資格を得ることにあるのよ。」と彼女は付け加えた。彼女らは、トウモロコシ、米、ユッカ、野菜、その他の作物を育てることや、また、牛や他の動物を飼育することを計画している。

 「わたしたちは、これまで自分たちが成し遂げてきたことに、とても喜びを感じているの。」とアグードは述べた。「わたしたちは闘い続けるわ。わたしたちのモットーは“土地か、死か”なの。でも、わたしたちはもっと大きな計画を持っているのよ。」

 その計画には、農民たちが勝ち取った土地に、空調付きの倉庫を建造することが含まれている。彼らは生産物をそこに貯蔵し、「メルカル」と呼ばれる政府系スーパーマーケットの新しいネットワークに売ることができるようにしようと計画しているのである。農民たちが彼らの側に新しく獲得した地元のエンジニア、レイナルド・アルベロは、この春にプロジェクトを始めるための融資をもう少しで確保できるところだと述べた。「さらに、私たちは、動物飼料を作るための加工工場の建造を計画しています。」と彼は言う。

 「ミリタント」記者は、現在国中で湧き出たかのように出現してきている多くの「メルカル」店を訪れた。これらの店では、基本的な食品の価格−−米から食用油、粉ミルクまで−−は、市価よりも20から50パーセント低く抑えられている。例えば、鶏肉は、ほとんどの「メルカル」で、週に2・3回、1キロ当たり2000ボリーバル(1ポンド当たり 0.47ドル)で売られている。私営のスーパーマーケットと比較すると、そこでは、1キロあたり3600ボリーバル(1ポンド当たり 0.85ドル)かかる。「メルカル」店は多くの労働者地区の中で、補助金付き管理価格での食糧配給に取って代わっている。その食糧配給は最近まで国家警備隊によって行われていたのである。多くの労働者が言うには、ただ一つの難点は、政府が割当量を決めているので、誰もがこれらの店で一ヶ月ごとに購入できる品物の量に限界があるということである。しかしながら、我々の聞くところでは、現地通貨ボリーバルの切り下げが一因でインフレが高まり続けているので、「メルカル」ネットワークは何百万人もの勤労者への大きな支援であるという。公定為替相場では1米ドルは1920ボリーバルであるが、それに反するものとして闇市場では、現在1米ドルに対して2700ボリーバルで交換されている。

 国内で消費される全食品の約65パーセントはカナダ、米国、ブラジル、その他の国々から輸入されている。それで、ボリーバルが切り下げられるたびに、それは勤労者にとって壊滅的な結果をもたらしてきた。

 他の地方と同様、サン・カルロスにおける農民のリーダーたちは、こう述べている。輸入食品への依存を最小限にするために、国内の食品加工産業を発展させるための大規模投資を政府が行うべきであると彼らは要求してきたということである。そしてそれは、より根本的な農地改革および農業生産の多様化を伴うような変革が必要なのである、と。マルカーノが言うには、これらの要求の結果、政府は昨秋、中央銀行に対して、そのような投資を始めるために外貨準備から10億ドルを引き出すように求めたということである。この戦線に関しては、本質的なことはまだ始まっていないように見える。

ロス・カニソスの挑戦
 農民たちが土地のための強固な闘いを通じて得た獲得物の矛盾した性格が、コヘデス北部の広大な農業地帯、ヤラクイ州のベロス地区におけるロス・カニソス農場協同組合の取材で、少し明らかになってきた。

 約400家族の農民がロス・カニソスで生活している。昨年10月のそこでの取材で、「ミリタント」記者は、これらの家族のほとんどが16年にわたる長い闘い−−それには1998年にチャベスが大統領に当選する以前の国家警備隊との激戦も含まれていた−−の末、土地の所有権を手に入れたことを知った。これらの農民のうち35家族は、ロス・カニソス生活協同組合に加盟している。この組合では昨年、FONDAFAから融資を得て、彼らの最初のトラクターを買うことができた。FONDAFAはそのような融資を提供する政府機関である。

 生協の代表者であり、その地域の闘いの中心的なリーダーであるナポレオン・トルトレロが3月16日の取材で語ったことによると、協同組合の会員数は、ほぼ半分の18家族に落ちこんだという。

 ロス・カニソスのもう一人の農民リーダー、ビクトル・トレリェスが述べたところによれば、たいていの場合、これは、約束された政府の援助を得る過程に時間がかかることに起因しているということである。最初の融資額7700万ボリバル(40,000ドル)は、その半分がトラクターを買うのに使用され、たとえ農民がその土地の真下に多くの水を見つけたとしても、井戸掘りを完成させて潅漑のためにポンプを買うのには、十分ではなかったとトレリェスは述べた。このことは、より乏しい収穫物を意味し、生計を立てることができない現状に対する挫折感の増大を意味した。資本主義的市場の作用から彼らが直面している苦境のもう一つの要因は、ヤラクイ州の州都サン・フェリペの「“エスクアリドス”によって支配されている」企業から彼らが種子や肥料をすべて買わなければならないということである。トレリェスによれば、それは彼らに法外な価格を課すのである。“エスクアリドス”(下劣なもの)とは、親帝国主義的なチャベス反対派を支持する者のことを言うのに、ここで一般的に使われている言葉である。彼らが自前で種を育てられる自前の温室をもつための資金を手に入れるには時間がかかるだろう、とトレリェスとトルトレロは述べた。

 「新しい住宅ユニットの建設も速度を落としました。」とトルトレロは言う。「地元の契約者が、そのようなプロジェクトに割り当てられた財政資金を、私腹を肥やすために流用するからです。」昨年の時点で、ロス・カニソスでは新たな40軒の家が完成したが、これは必要とされるものの10パーセントに過ぎないし、新たな建設は今のところその兆しすらない。協同組合は、この問題に正面から取り組んで、政府への要求のイニシアチブをとることを試みてきた。その要求とは、政府から農民たちに必要な物資を供給し、家の建設を地元の労働力や「キューバにおける労働部隊のようなもの」に任せることである、とトルトレロは述べた。トレリェスが言うには、彼は15年間建設現場で働いてきたし、この地域には彼のようにこの仕事を行うのに必要な技術を備えた者がたくさんいるということである。

 そうした問題にもかかわらず、闘志にあふれたこれらの農民たちは落胆したようには見えなかった。そしていくつかの獲得物を指し示したのだった。グレゴリオ・ゴメスはロス・カニソス生活協同組合の一番新しいメンバーのうちのひとりである。彼は10エーカーの彼の土地でサトウキビを育てている。彼は得意げに自分のトラクターを見せてくれた。それは彼が今年FONDAFAからの融資で手に入れたもので、協同組合の二番目のトラクターであった。「おれは、自分自身ではとうていこのための資金を手に入れることはなかっただろうね。」と彼は述べた。同時に彼が指摘したのは、昨年電化されたロス・カニソスの集落から約2マイル離れた彼の農場の仮小屋にはまだ電気は引かれていないということであった。「それは闘いだ。」と、ゴメスは言う。

 トルトレロは、「エセキエル・サモラ全国農業調整委員会」−−ロス・カニソスで活動家たちが所属している全国農業組織−−の目的は、国中の土地を持たない30万家族の農民たちに土地を分配することであると述べた。2000年までは、約1000人の大地主が耕作地の85パーセント、合計7500万エーカーの土地を支配していた。約35万家族の切羽詰まった農民たちは、各自3〜50エーカーの土地を所有して、野菜や他の主な作物の約70パーセントを生産していた。2001年に政府は、上記以外の使用されていないが耕作に適している7500万エーカーの土地の国有化を発表し、農民にそれを分配すると約束した。

 しかしながら、土地のためのこの闘いは農村地方における階級対立の一部にすぎない。

農業労働者を組織する必要
 近くの町での昼休みに、トルトレロは「ミリタント」記者に、通り過ぎていく一台のトラックを示した。そのトラックには、サトウキビを刈り取る労働者がいっぱい乗っており、雑草を燃やした畑でサトウキビを刈り取っために、皆すすだらけだった。これらの労働者はほとんどの場合、農業資本家のために働いている。農業資本家たちの圧倒的多数が、この地方における「バチスタ主義者」であるとトルトレロは言う。彼らは元々キューバの資本家であり、1959年にキューバで労働者と農民が大衆的な革命によってフルヘンシオ・バティスタ親米独裁政権を倒した後、カリブ海の島から逃げて、ベネズエラへやって来たのである。

 サトウキビ刈り取り労働者には、月の最低賃金である20万ボリーバル(100ドル)すら下回る報酬しか支払われないし、最悪の労働条件に直面している、とトルトレロは言う。「私たちは、どうすれば彼らの組織化を支援し、彼らと共に闘えるかを考えているところです。」と彼は述べた。「それは私たちが資本家の力に対抗できる手段のひとつです。」

 ヤラクイ州西部のララ州ボバレス地区を3月15日に訪れた時にも、農業労働者を組織し、階級的搾取を終わらせるための闘いにおける主要な同盟者として彼らを扱うことが必要なのは明白であった。

 ボバレス地区の小さな土地を耕作しているダマシオ・アリエッチェが「ミリタント」の記者に語ったところでは、新しい農地改革法の規定を履行させる闘いの結果、過去2年間に約200人の彼と同じような農民がその地区の土地名義を獲得したという。「しかし、おれたちの誰もがまだ融資を獲得できていない。」と彼は述べた。「おれたちの条件は農業労働者の条件に似ている。おれたちは、彼らといっしょに組織し共闘する方法を考え出そうとしてるんだ。」

ボバレスの主な産物は、大部分は丘斜面上で育てられたパイナップルである。パイナップル生産者の多くは、エディクソン・イサラのように、中規模の農民である。彼の父親は、主要にパイナップルを栽培する畑をほぼ200エーカー所有し、約20人の労働者を雇用している。パイナップルは非常に労働集約的な作物であって、労働者は、一日の大部分を、低いパイナップル・ブッシェルの世話をするかあるいは果物を収穫するために腰をかがめて作業しなければならない。「私たちは、労働者を優遇しようとしています。」とイサラは述べた。彼の説明によれば、彼の家族はチャベス政権の強い支持者であるという。「望む者は一区画の土地を得て生産と収穫に責任を負うことができます。そのことで、彼らは賃金に加えて、最後に販売から収入を得ることができます。」イサラは、彼の父親がこれらの労働者に一日約6,000ボリバル(3ドル)を払うと述べた。だが、それは最低賃金の約半分である。

「これは私たちが闘っていることの一部です」とアリエッチェが述べた。

 これらの困難な課題にもかかわらず、インタビューを受けたほとんどの農民は、反対派がチャベス政権を倒すのを防ぐのに、もし必要ならば、武器をも取るつもりだと述べた。

 「反対派の人々は、チャベス以前の40年間、政権を握っていました。」とトルトレロは述べた。「もし彼らが戻ってきたら、私たちがこの数年で獲得した土地名義、トラクター、その他一切合切がなくなってしまいます。私たちが土地を占拠し、去ることを拒絶した時、彼らは私たちに軍隊と警察を差し向け、さらにはこのあたりの川に毒を流すことまでしたのです。私たちは決して彼らを立ち戻らせるような真似はさせません。」

 この闘いの不可分の一部として、大農場主とアグリビジネスマンの経済力に対抗するための組織化があるという。彼らの中のかなりな部分が政府与党の一部を構成していたり、チャベス政府を支援してその見返りとして自分たちの利益を守ろうとしていると、トルトレロ、アリエッチェ、マルカーノは述べた。

 サン・カルロス郊外の新しい「フアン・ヤウカ農業キャンプ」における農民たちは、彼らの初期の勝利に沸き立ち、闘いの次の段階の準備をしている。大牧場経営者に、荷物をまとめて立ち退くか、あるいは土地を購入してヤウカの人々にその代金を払うか、という選択を突きつけている。牧場経営者に買い取らせることができれば、その資金で、農民協同組合はより速く彼らの土地を開発できるだろう。この闘いは、一段と高い山になるであろう。