米州サミット:米国主導の新自由主義への痛打
――ベネズエラを先頭とするラテンアメリカの政治的力関係の変化を反映――

「ここがFTAA(米州自由貿易地域)の墓場となる」


"Argentina Indymedia(http://argentina.indymedia.org/)"より

■ ブッシュ大統領が11月15〜16日、訪日した。小泉首相はこの訪日に間に合わせるために、地元や国民への説明も合意もなしに米基地再編と『中間報告』を勝手に決め、食の安全を無視して米国産牛肉の輸入再開を強引に決めた。訪日当日、ブッシュと小泉は高らかに「蜜月」を演出した。しかし、その10日前、ブッシュは追われるようにアルゼンチンで開催された米州サミットから逃げてきたのである。

 11月4〜5日、アルゼンチンのマル・デル・プラタで第4回米州サミットが開催された。主要議題は貧困問題で、公式スローガンは「雇用を創出し貧困と闘い民主主義を強化する」というものであったが、そこにおける焦点は、FTAA(米州自由貿易地域)をめぐる米国と主要南米諸国(ベネズエラ、ブラジル、アルゼンチン)との対立であった。
 結果は、米国の敗北。最終文書には、交渉の再開と反対の両論が併記され、事実上交渉は凍結、FTAAは完全に頓挫した。反ネオリベラリズム勢力の、サミットの内と外での結束した闘いの勝利であった。
 しかし米国がこのまま引き下がるわけはない。あらゆる手段を使って必死の巻き返しに出るにちがいない。反FTAAの急先鋒であったベネズエラへの米国による政治的干渉、傭兵などを使ったチャベス大統領の暗殺、最悪の場合は軍事介入等々の危険は依然として続いている。不断の警戒と闘いの継続によって、それを封じ込めていくことが重要となっている。


■ FTAAは、南北アメリカ大陸とカリブ海地域全域を統一市場として経済統合しようとするもので、1994年の第1回米州サミットで構想が提起され、2001年第3回サミットで確認されたスケジュールでは、2005年に交渉妥結し発効するとされていた。しかし、米国主導の新自由主義にもとづいたFTAAに反対する運動と勢力が強まり、交渉のメドすら立たない状況で今回のサミットを迎えることとなったのである。
 新自由主義にもとづく経済統合は、FTAAに先行して米国、カナダ、メキシコを統合する北米自由貿易地域(NAFTA)が1994年から実施に移された。そのもとで貧富の差がますます拡大し、特にメキシコで労働者、農民、先住民の生活破壊が顕著に現れた。ラテンアメリカ全域でも、80年代から米国の新自由主義的経済政策の押しつけが途上国経済と人民生活を破壊してきた。それに対する反発と闘いが、90年代に入って次第に高まってきていた。そこへNAFTAによるメキシコ経済と人民生活のいっそうの破壊と荒廃を見せつけられたのである。90年代後半から反新自由主義の闘いは大きく高揚しはじめ、2000年代に入って大きなうねりとなり、新自由主義にはっきりと反対する政権が次々と登場するまでになった。
※参照:「ブッシュ政権、ベネズエラ革命と“左傾化”の新たなうねりの中で覇権後退に危機感」(05.9.6 署名事務局)

 今回の米州サミットでは、ブッシュは頓挫しかけているFTAAを復活再生させようともくろみ、ベネズエラのチャベスを先頭とする反ネオリベラリズム勢力は、それを葬り去るために闘った。マル・デル・プラタは、その決定的な対決の場となったのである。ブッシュの思惑は完全に破綻した。それは、サミット後のチャベスの次のような皮肉たっぷりの論評に象徴的にあらわれている。「今日の偉大な敗者はジョージ・W・ブッシュであった。彼は傷ついて立ち去った。皆さんは彼の顔に敗北と書いてあるのを見ることができるでしょう。」


■ 90年代後半から強まった反グローバリゼーション・反ネオリベラリズムの闘いの中で、ラテンアメリカ人民は、米国が主導する米州サミットに対抗して「人民サミット(People's Summit of the America)」を組織してきた。公式サミットでは唯一排除されているキューバも、ここには大代表団でもって参加している。今回も第4回米州サミットに対置して、11月1日から第3回米州人民サミットを開催し、11月4日の首脳会談開始に照準を合わせて抗議行動を展開したのである。アルゼンチンとラテンアメリカ全域から5〜7万人の人々が結集した。そのスローガンは次のとおりである:いずれも米国による中南米への帝国主義的・新植民地主義的・債務奴隷的支配に対する“ノー”である。
◎「FTAAノー」と諸国民統合の推進
◎「軍事化ノー」と国民主権擁護
◎「対外債務ノー」と飢餓など「社会的債務」の解決
◎「貧困ノー」と富の分配。


 米州サミットの公式スローガン――「雇用を創出し貧困と闘い民主主義を強化する」―― がFTAAの飾り物になるのではなく、実質を伴うものとなることを担保したのは、民衆と固く連帯したベネズエラ大統領チャベスであった。彼は、公式サミットではFTAA反対のロビー活動を精力的に展開し、人民サミットではFTAAを葬る演説を行った。「我々は皆、シャベルを持ってやってきた。なぜならここマル・デル・プラタがFTAAの墓場となるからだ。」と。


■ ブッシュは、敗北を悟って、最終文書が出される前にアルゼンチンを立ち去った。そして予定されていたブラジル、パナマを訪問したが、ブッシュの移動とともに抗議行動も移動した。ブラジルでは、首都ブラジリアと6つの主要都市で抗議行動が行われ、「出て行け、殺し屋ブッシュ!」「ヤンキー・ゴー・ホーム!」が叫ばれた。パナマでもブッシュの肖像が焼かれた。
 今回の米州サミットで明らかになったことは、イラク反戦と反ネオリベラリズム・反グローバリゼーションの闘いが結合して、米国ブッシュに痛打を浴びせるまでになったということである。FTAAを挫折させるまでになったラテンアメリカにおける政治的力関係の変化は、ますます加速しながら進展していこうとしている。

 以下は、今回の米州サミットの様子を伝える2本の記事の翻訳紹介である。最初は、米左翼系紙「ワーカーズ・ワールド」からの論評、もう一つは、独立系メディア・「サンフランシスコ・ベイ・エリア・インディミーディア」に掲載されたルポである。

※ このページの写真はすべて、"Argentina Indymedia"(http://argentina.indymedia.org/) から。

2005年11月21日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局





[翻訳]
ブッシュは恥をかいた 運動がFTAAを頓挫させたので
by デイヴィッド・ホスキンズ
2005.11.10
(「ワーカーズ・ワールド(http://www.workers.org/)」より)

http://www.workers.org/2005/world/argentina-1117/


 米国大統領ジョージ・W・ブッシュは、11月4〜5日、アルゼンチンの海岸都市マル・デル・プラタで、冷淡な出迎えを受けた。彼を冷淡な態度で出迎えたのは、社会主義キューバを除く西半球34ヶ国のリーダーの会合である二日間の歴史的なサミットにおける、彼の仲間の大統領たちであった。

 しかしながら、街の大通りやサッカースタジアムでは、出迎えはもっと白熱したものであった。数万人のアルゼンチンや他のラテンアメリカの人々が、ベネズエラのウーゴ・チャベス大統領とアルゼンチン人であった伝説的革命家チェ・ゲバラの追憶とに歓呼の声をあげながら、ブッシュと「米州自由貿易地域(FTAA)」をこきおろした。

 第4回米州サミットは、「貧困と闘い民主主義を強化するために雇用を創出する」という野心的なタイトルの下で11月4日に開かれた。

 米国の支配階級は、イラクにおける植民地主義的冒険への国際的および国内的な意義ある支持を獲得することに失敗し、イラクのレジスタンスを敗北させることができずにいることからくる痛手に依然として苦しんでいるのだが、このサミットを、ラテンアメリカ全域での新自由主義の強化と拡張という目標へ前進することに利用したいと望んできた。

 米国の多国籍資本の利益を代表しているブッシュ政権にとって、この会合は、FTAAに対する西半球全体のコンセンサスを追求する機会を提供するものであった。この貿易協定は、北米自由貿易協定(NAFTA)と同じような諸関係に基づいてつくられている。その諸関係は、発展途上諸国の経済にとって破滅的なものであることがすでに明らかとなっている。

 今年の3月に、米国政府は、西半球での帝国主義的方策に抵抗する諸国の国家主権を掘り崩すための手段としてFTAAをためらうことなく利用するということを公然と明らかにした。

 ハーバード・クラブでのスピーチで、米国のアルゼンチン大使リノ・グチエレスは、「ハイチへ軍部隊を」送るために活動していることで、「またベネズエラとボリビアの民主主義システムの存続を保証するのに役立とうと努めている」ことで、アルゼンチンを賞賛した。グチエレスは、さらに次のように思索をめぐらせた。FTAAを支持することにおけるアルゼンチンの支援・助力は、「民主主義を擁護する...ための手段としての自由市場システムに対する信念」を2国が共有していることを再確認するものである、と。

 グチエレスが述べた「民主主義」とは、ハイチやチリ、グアテマラであったような、米国が支援した誘拐やクーデターを含むものである。それは、帝国主義の目的に友好的な政府だけがラテンアメリカとカリブ海の諸国を統治するという事態を確保する、ということを意味するのである。

「自由」貿易の遺産は不吉なものであることが実証されている

 NAFTAは、民主党のビル・クリントンが大統領であった1994年に実施された。それは、2009年までにカナダ、米国、メキシコ間のあらゆる貿易障壁を取り除くことを目的としている。NAFTAは次のことを示してきた。それは、諸制約を取り除かれて自由になった資本の攻撃に対して、基本的な労働諸権利や社会的諸プログラムや公共サービスを維持するために闘っている3つのすべての国の労働者にとって、有害であるということである。

 「経済政策研究所( Economic Policy Institute )」による最近の研究は、NAFTAの結果として米国とカナダにおける100万人を超える製造業の雇用が失われた、ということを示した。このEPI報告によれば、メキシコの労働力に対する諸結果も同様に壊滅的なものである。今では、製造業労働者は賃金が21%下がり、サラリーマンは25%下がり、メキシコの最低賃金の購買力は1994年の半分の価値しかない。

 数百万人のメキシコ労働者とその家族が、米国との国境の沿いのマキラドーラ(国外の下請け工場)の周辺のスラムでみじめな貧困の中に暮らしている。これはNAFTAの実施に伴って急成長したものである。

 NAFTAの失敗は、労働者と被抑圧者の側に、「自由貿易」に対する10年にわたる抵抗をかきたてた。彼らは、規制のない企業支配の結果である低下する生活水準と環境汚染の被害を一身に浴びている。この抵抗は、NAFTAの調印直後メキシコ南部チアパスで起こった武装蜂起から1999年のシアトルでの、またそれ以降の、反グローバリゼーションの高揚まで、広範囲にわたった。

 ブッシュは、今、マル・デル・プラタの通りに、戦闘的レジスタンスの伝統が生きていて健在であることを見せつけられた。

ブッシュ対チェ・ゲバラ

 二又の槍のような人民の運動が、一方では街頭やバリケードで、他方ではサミットの会合で、FTAAと闘った。一人のラテンアメリカの大統領が、サミットの内容を雇用の創出、貧困との闘い、民主主義の推奨というアナウンスされたテーマどおりのものにすることを保証するために闘った。ベネズエラのウーゴ・チャベス大統領である。彼はサミットにおいてFTAAへの強力な反対者であることを実証したのである。

 チャベス大統領は、閉じられたドアの中ではFTAAに反対するロビー活動を行い、市のメインサッカースタジアムで開催された人民サミットでは、FTAAに反対する50,000人のデモ参加者を公然と支持した。チャベスの公開の場でのコメントは、ブッシュと米国外交官たちが直面したレジスタンスのレベルがどの程度に達しているかを明らかにしている。「我々は皆、シャベルを持ってやってきた。なぜならここマル・デル・プラタがFTAAの墓場となるからだ。」とチャベスは述べたのである。

 もし実際にアルゼンチンでの出来事が、クリスチャン・サイエンス・モニターが示唆したように、自由についてのブッシュの概念と偉大な殺害された革命家チェ・ゲバラのそれとの間の闘いであるとすれば、ブッシュの概念には、ほとんどノックアウトの一撃が見舞われた。数万人の抗議者が通りを行進し、チェ・ゲバラの肖像のついた横断幕のもとに結集し、ブッシュの人形を焼いた。ゲバラは1967年に、ボリビアでゲリラ活動の指揮をとっている最中に、CIAの指令で暗殺されたのだった。

 サミットの終局の段階で、ブッシュは、FTAAの議論ができないまま、最終コミュニケが出されないうちに、またホスト国アルゼンチンの明確な支持もないまま、立ち去った。

抗議はブッシュとともにブラジルへ

 アルゼンチンでのブッシュの出迎えは、米国の支配階級をどうしようもない状態に陥れた。ブッシュと以前は同盟者であったメキシコ大統領ビセンテ・フォックスとの仲違いは、直接顔を合わせての会談がなかったことを切り捨てたフォックスのコメントから明らかだった。フォックスは、メキシコ労働者が合法的に米国に入ることができるという合意を望んできたが、それは無駄に終わった。証明書を持たないメキシコ人が米国との国境をわたろうとして何百人も死亡し続けている。

 11月6日、ブッシュがブラジルへ移動したとき、FTAAに反対する抗議は、彼に伴ってブラジルの首都と6つの主要都市に移った。抗議者たちは、首都にブッシュの訪問を公然と非難する壁画をあしらったモニュメントをつくった。そのスローガンは、「出ていけ、殺し屋ブッシュ!」「ヤンキー・ゴー・ホーム!」であった。

 ブッシュの最後の訪問地パナマでさえ、大勢の人々が街頭デモを行い、ブッシュの人形が焼かれた。彼は、打ち負かされ、目的を達することなく帰国した。西半球の他のリーダーたちは、街頭に結集した人々がFTAAをひっくり返したことで、その叫びを心に留めなければならなかった。




[抄訳]
ブッシュの訪問が刺激したアルゼンチンでの激動
アルゼンチンでの米州サミットに米国大統領ジョージ・W・ブッシュが参加したことがアルゼンチンとラテンアメリカの大半で人民的憤激の大きなうねりを引き起こした。

2005.11.5
(「サンフランシスコ・ベイ・エリア・インディミーディア」より)

http://www.indybay.org/news/2005/11/1781185.php


 西半球34ヶ国の首脳が会合している海沿いのリゾート地マル・デル・プラタは、昨日の金曜日には、デモ参加者とそれを鎮圧する警察との間の一大会戦の場となった。サミット会場を隔てる通りには、窒息しそうな催涙ガスが充満した。抗議者たちが催涙ガスとゴム弾に石と火炎瓶で対抗したとき、少なくとも一つの銀行が炎上した。

 ブッシュは、米州の人々による前例のない敵意――それは世論調査の記録的な低落にも反映している――に直面し、米国の国境の南で政治的社会的除け者と見なされた。サミットの外でのデモに、サミット会合そのものの内部での深刻な分裂が加わった。

 金曜の朝マル・デル・プラタで激しい雨の中を数万人が行進したが、彼らはイラク戦争への反対をはっきりと意思表示し、ブッシュ政権のラテンアメリカにおける経済政策と軍事政策に抗議した。デモ行進は午前8時直後に始まり、15ブロックを埋め尽くし、「ブッシュは、出て行け!」「ファシスト、ブッシュ。テロリストは、お前だ!」を繰り返した。

(中略)

 70,000人もの人々が、事実上警察の統制がきかなくなった26ブロックを無事にデモ行進した後、集会のためにムンディアリスタ・スタジアムを埋め尽くした。

 この集会の最も主要な演説者は、ベネズエラ大統領ウーゴ・チャベスで、彼は、「北アメリカの帝国主義は、自暴自棄に陥って、ベネズエラに対する攻撃計画を準備している。」と警告した。その前日、ベネズエラは、米国の侵略を想定してそれを迎え撃つ軍事訓練を行なった。チャベスは、そのような侵略攻撃は「百年戦争を引き起こすであろう。」と述べた。

(中略)

 集会の後、数千人がスタジアムからサミット会場のエルミタージュ・ホテルへ向けて行進した。群集がサミット会場の周りに幾重にも設置された金属バリケードの最初の輪のところまで達すると、鎮圧警察との間で衝突が始まった。

 サミットにおけるブッシュの存在が、大規模なセキュリティ行動を伴った。約8,000人のアルゼンチン警察が会場周辺に配置された。小型砲艦がマル・デル・プラタの沿岸に配備された。

 米国の代表団は、警察犬部隊、海兵隊、私服諜報部員、軍ヘリコプターを含む数百人のセキュリティ要員を伴っていた。2機の米軍輸送機が、ブッシュの到着前に、彼のセキュリティを詳細に確保するための武器と装備を運んできた。この事実上の米国の侵略は、アルゼンチンの民衆のいっそう大きな敵意を引き起こしたのである。