2011/12/2 | 岐阜県瑞浪市の女子生徒(中2・14)いじめ自殺(061023)民事裁判、棄却! | |
2006年10月23日、岐阜県瑞浪市の市立瑞浪中学校の女子生徒(中2・14)が、自分の誕生日に、「部活のみなさん、特に、(4人の名前)、本当に迷惑ばかりかけてしまったね。これで、お荷物が減るからね。もう、何もかもがんばる事に疲れました」などと記した遺書を残して自宅で首つり自殺。 この事件では、いじめの存在や自殺との因果関係について、二転三転したものの、最終的には、市教育委員会と瑞浪中学校が、自殺後のアンケート結果などを踏まえ、女子生徒が所属していた部活動でのいじめが自殺の原因だとして両親に謝罪していた。 2010年3月、両親が遺書にあった4人の元同級生とその保護者に、計約5600万円の損害賠償を求めて提訴。 判決内容については、いくつかの報道からしかわからないが、 2011年11月30日、岐阜地裁で、鈴木正弘裁判長は「同級生らによるいじめの存在を積極的に推認させる事実はない」などとして、両親の請求を棄却した。 自殺との因果関係どころか、いじめの存在さえ否定した。 その理由は、 @「所属していたバスケットボール部で、大声で叱責したり、一緒に行動しなかったりしたことが、ただちにいじめ行為にあたるとは言えない。」 A「学校のアンケートは無記名で、生徒が予断を持って回答した可能性も否定できず、学校の謝罪もいじめと断定した根拠が明らかでない」 Bいじめがなかったとする同級生の証言や女子生徒が部活で活躍していたことに照らし、「遺書の内容についても生徒たちのいじめ行為であったことは認められない」記載を考慮しても認める証拠はない」。 とした。 また、裁判長は、生徒への無記名のアンケートで、いじめがあったとした学校の対応について、「到底理解することができない」とまで、批判した。 女子生徒のお父さんは、中井さんの裁判にもたびたび傍聴に訪れていた。今、どんなに悔しい思いをしていることだろうと思う。 ※ 「わたしの雑記帳」をお読みいただいた女子生徒のお父さんから、「一部事実とは違うところがあります」とのご連絡をいただきましたので、訂正させていただきます。 ********************** いじめ裁判は、2011年5月20日、名古屋地裁で、過去のことばや態度を中心としたいじめと、その後遺症による自殺の因果関係や学校の自殺予見性まで認めた画期的な判決が出た(2006年8月18日に自殺した元名古屋経済大学市邨(いちむら)中学校の高橋美桜子さん(16)のケース。控訴を受けて現在、名古屋高裁で係争中)かと思えば、今回のように、学校がいじめの存在や自殺との因果関係を認めていてさえ、民事裁判で、いじめの存在そのものが否定されることもあり、まだまだ予断を許さない。 ●アンケート調査について 裁判長が、いじめを否定する根拠として挙げたのが、無記名のアンケート調査。 無記名であること、生徒がいじめだとの思い込みのもとで書いたのではないかという疑念。 いじめは、なぜ多くの傍観者を生むのか。へたに介入すると、今度は自分がいじめのターゲットにされるからだ。 それは児童生徒の自殺後も同じで、「いじめ」を見たと書いた子どもが、教師から「本当に見たのか」「間違いだったらとんでもないことになる」と詰問されたり、校長に机をたたいて恫喝されたり、誰がいじめをチクッたかの犯人捜しが行われ、疑われた児童が自分ではないということを死んで証明すると言って、教師のいる前で校舎から飛び降りようとしたりということさえ現実にある。 「いじめを見た」と書くことは、それが無記名アンケートであっても、書いた子どもにとってリスクが高い。それでも勇気をもって書くのは、生きているときに友だちを救えなかったという後悔、せめて、両親の事実を知りたいという思いに答えるためだ。 よく、「いじめを見た」と書いた子がいても、「いじめを見なかった」という子どももいるのだから、真偽のほどはわからない。だから、アンケートを遺族にも開示できないという学校がある。 しかし、「いじめを見なかった」と書いた子どもと、「見た」と書いた子どもの背景になっている気持ちの重さを考えれば、どちらが真実を言っているかはすぐにわかることだ。 そして、亡くなった子どもとの縁は残念ながら、その段階で切れてしまう。生きている加害者との縁はこれからも続く。 しかも、何もなかったことにしたい学校や地域は加害者側につくことが多いから、被害者に味方をする地域の人間は少数派となる。 まして、子どもたちにとって、いじめ加害者、あるいはいじめグループは、多くの場合、力を持っている。いつ自分もターゲットにされるかわからない怖さがある。加害者側に味方をする心理が働きやすいことは、いじめ自体の構造をみれば、わかる。 ●予断や思い込みについて 「いじめを見た」と証言する子どもがあると、学校はよく、「思い込みではないか」「勘違いではないか」と聞く。それこそが、予断をもった、相手の答えを誘導する問いかけなのだが。 また、「いじめられている」と訴えている本人にさえ、同じ言葉を投げかける。 「いじめられたら、大人に相談しよう」と文科省や事件のあった学校の校長や教頭が生徒たちに投げかけるが、現実には、相談してもまともにとりあってもらえないことが多い。それどころか、「きみにも、何かいじめられる理由があるんじゃないか」「よく考えてみなさい」などとかえって責められてしまうので、言えない。あるいは、相談したことを後悔する。 そして究極は、いじめの存在をほのめかす遺書を残してさえ、いじめやいじめと自殺との因果関係が否定される。 では、亡くなった子は、いじめられているとの勘違いで、死んだというのだろうか。 勘違いして、わずか10数年しか生きていない人生を閉じてしまったというのだろうか。 とくに言葉や態度のいじめは、なかなか立証が難しい。 同じ、「やっだー」「だめじゃん」などと、否定するような言葉でも、親しい間がらでもふつうに飛び交うし、多くの場合、そこに悪意はない。一方、「すごい」「りっぱだよね」「できる子は違うね」などの一見、褒め言葉も、時には排除したり、悪意をもって使われれることもある。 だからこそ、文科省も、いじめの定義のなかで本人の受け止め方を重視している。 客観的にはいじめかどうかわからないような言葉や態度でも、言われている本人にはわかる。 また、いじめる側は、本人が気付かなければ面白くないので、わざとわかるように言う。 最初は、「あれっ、私の勘違いかな?」と思っていた子どもでも、だんだん同じことが繰り返されることで、そして、他のひとに対する態度と自分に対する言葉や態度が違うことで、自分は「いじめられている」と自覚する。 では、周囲の子どもたちはどうだろう? これだけいじめが蔓延している時代だ。どの子どもも、いじめに対して敏感にならざるを得ない。 状況判断を誤れば、自分がターゲットにされるからだ。それが世に言う「空気を読む」と言うこと。 アンケートには具体的な出来事の記載は乏しいかもしれない。しかし、思い出せないような日常的な言葉や態度の端々にも、いじめを感じた。だから、「いじめがあった」と書いたのだと思う。 友だち同士の仲たがいなどはそれこそ、子どもの世界では日常茶飯事なのだから、1回や2回、悪口を言っているのを聞いたからと言って、いじめと勘違いすることなどないだろう。今の子どもたちは何よりいじめに敏感だ。そうでなければ、安全に送れない学校生活があるから、専門家以上に、身近に起きているいじめを見抜く目を持っている。罪悪感を感じないようにするために、わざと蓋をしてしまう子どもはいるだろうが。 そして、先生は? 自分のための雑記帳に書いているだけなので、わざわざ本箱をひっくり返して出典を明らかにするほどの労力は今使えないが、海外の調査では、教師にはある程度、誰がいじめているか、いじめられているか、わかっているという。 日本でも、何人かのベテラン教師や元教師だったひとに聞いてみると、「だいたいわかります」と言う。 もちろん、ひとによって差は大きいと思うし、同じようにいじめがあるとわかっても、それを日常的なよくあることとして見過ごしてしまうか、エスカレートする前になんとか止めたいと思うかは教師による。 学校や教育委員会はいじめの存在を認めたがらない。自分たちの責任が問われるからだ。評価にも影響する。また、いじめがあるとわかれば、それなりの対応をしなければならない。そうでなくとも残業、残業で、過労死するほど忙しいのに、これ以上、よけいな仕事は増やしたくない。見て見ぬふりをして、報告しなければ、評価にも影響しないし、仕事も増えない。いじめが多いとチェックしにくるひとはいても、いじめが少なくてチェックしにくるひとはいない。 その、いじめを認めたくない、まして自殺との因果関係など絶対に認めたくない学校が認めるときには、ほとんどが、「これは言い逃れができない」と観念したときだ。 遺書がなくとも、親から指摘されなくとも、教師たちは、いじめがあることをわかっていたはずだ。具体的な氏名を聞いて、「ああ、やっぱりあの子たちだ」と得心するはずだ。 まして、被害にあった女子生徒の親から、何かあるのではと相談されていた。自殺当日にも涙ぐんでいるのを目撃していた。 部活顧問は、「練習のなかでは兆候が見られなかった」としているが、いじめは見ようとしなければ、たとえ目の前で行われていたとしても見えない。 学校がいじめを認め、自殺との因果関係まで認めた背景には、単に、遺族から言われたり、世論に押し流されたわけではなく、それなりに理由があったと思われる。 数少ない、学校がいじめを認めて謝罪したケースでさえ、このように裁判で覆され、まして、裁判所に安易に認めたと非難までされれば、今後ますます、いじめがあっても、頑として認めない学校が増えるだろう。そして、その認めない理由のひとつにこの判決文が利用されかねない。 また、学校がいじめを認めたからこそ、遺族は民事裁判で、学校を訴えなかった。逆に、いじめていた子どもとその親が、頑としていじめを認めようとせず、謝罪ひとつないからこそ、裁判は起こされたのだ。学校がいじめを認めなければ、これからも裁判は増え続けるだろう。 ●部活動では通常の行為? たとえ暴言であっても、子どもたちの間ではよく使われる言葉、として、いじめが否定されることがある。 そして、部活動のなかでのシゴキや言葉での虐待も、チームや個人を強くするために行われる通常の行為とされる。 全国柔道事故被害者の会の人たちがよく口にする「柔道場で、柔道着を着て、柔道技を使っていれば、何をしても責任を問われないのですか?」という言葉。 部活動では、指導にかこつけた暴力が横行しやすい。そして、それが通るとなれば、ますます横行し、死者さえ出る。柔道界しかり、相撲界しかり。 しかし今回、相手は同級生。立場は同等で、指導する立場にあるものではない。 そして、人数は4人。 津久井いじめ自殺判決(940715)でも、一人ひとりは大したことはしていないように見えても、他のひとがやっていると認識しつつする行為について、共同不法行為を認めている。 学校で子どもたちへの講演で私は、「一人ひとりは大したことをしていないつもりでも、大勢からされれば、とても辛いことななります。みなさん、自分の手の甲を自分でパシンとたたいていてみてください。痛いですか?大したことはないですか? 1つだけなら大して痛くはないかもしれません。でも、これが5個、10個、20個、集まったらどうでしょう?毎日、毎日、たたかれたらどうでしょう?すでに傷があって、痛むところをたたかれたらどうでしょう?それに同じくらいの強さでも、他人からたたかれたら、もっとずっと痛いと感じますよね?いじめも同じです。」 と話している。 そして、いじめか、いじめでないかの判断する基準として、そのひとが言う必要があったことかどうか、他の部員に対する態度との間に差があるか、ミスしたときは強い言葉で言ったとしても、うまくいったときにも同じように今度はほめる言葉かけをしているかどうか、練習以外の態度や言葉でも、練習の範ちゅうなのか、練習にかこつけたいじめであるのか、ある程度、客観的にも判断がつくと思われる。 亡くなった女子生徒は、2年生であるにもかかわらず、片づけなど、1年生と同じことをさせられていたとの情報もある。 (この部分について、亡くなった女子生徒A子さんは、1年生時は室長会長などをしていたこともあって、学年・学級会活動に重きをおいており、授業の一環であるバスケットボール部にのみ参加。2年生になるにあたって、1年生に指導する必要性なども感じて、土日に学校外の一般の指導者が行うクラブ活動であるバスケットクラブにも所属するようになった。当初は、A子さん自身、技術的にも後から入った自分と前からいる人たちとは差があり、1年生と同じ扱いは仕方がないと考えていたらしい。しかし、必死の努力によって技術面が向上しても、扱いは変わらなかったという。 下記にあげた小森香澄さんのケースと同じように、後から始めて、技術的にすぐに追いついてきたことへの自分たちの焦りや妬みが、加害生徒らのいじめる動機のひとつではなかったかと感じる。) いじめでは、相手が何をすればいちばん傷つくのか、研究しつくして、いじめるほうはやる。 今までのいじめ事件でも、まずは相手のプライドを地に落とす。下級生扱いをしたり、下級生が上級生を呼び捨てにしたりして、報復から傷害事件も起きている。 そうでない場合、やられたほうは自尊心が深く傷つき、抵抗する気力が失われる。自分自身を信じられなくなったとき、存在価値を感じられなくなったとき、存在を否定されたときに、自殺を図ってしまう。 鈴木裁判長は女子生徒は部活動で活躍していたことを、いじめを否定する根拠のひとつとしてあげているが、部活動で活躍していた彼女に対し、同級生部員から、励ましと称賛の声かけではなく、ミスを言い立て叱咤する言葉がけばかりが目立ち、下級生と同じ扱いを受けていたとしたら、それこそ、不当な扱いであり、いじめ以外、考えられない。 (神奈川県横浜市の高校でいじめ自殺した小森香澄さん(高1・15)(980725)は、高校からトロンボーンをはじめ、同級生の部員から、きつい言葉を言われたり、「あんたがいると大会で優勝できない」と言われるなどしていたが、関係者の証言によると、実際にはけっして未熟な技術だったわけではなく、だからこそ、学校や部活動を休んでいても、顧問は大会への出場を認めていたという。) そして、よくそんなに辛かったら、部活動をやめればよかったのにと言われる。 しかし、部活をやめるには、理由を言わなければならない。大騒動になってしまう。チクッたとして、その後もいじめられる。 チクッた言われることを子どもたちが恐れるのは、いじめているグループだけでなく、チクるというのは、仲間を裏切る行為として、他の今まで関係のない生徒たちをも敵に回すことがあるからだ。 カリキュラム以外でも選択したこと、活躍していたこと。女子生徒にとってバスケットは自分の能力を発揮できる、いじめさえなかったら楽しい、やりたいことだったのだろう。 よく、夢さえあれば、死んだりしないというが、夢があるからこそ、いじめがあるとわかっていてもそこから逃れることができない場合も多い。 それから、同じバスケット部員に、いじめを理由にやめた生徒がいた。 多くの場合、いじめている子どもやグループが、ひとりだけをターゲットにするのはむしろ稀で、同時並行して、あるいは時間差で別の子をいじめている。 そのあたり、裁判ではどう扱われたのかわからないが、実際、多くの裁判で、同じような被害者がいても、かかわりを恐れて、証言をしてもらうことは難しい。 ただ、顧問はこのときも「いじめは認められなかった」と言っているという。同じ部活動に、いじめを生み出す、あるいは容認するような雰囲気が蔓延していたのではないか。女子生徒が亡くならなかったら、別の子が犠牲になっていたかもしれない。 ●遺書について 「本当に迷惑ばかりかけてしまったね。これで、お荷物が減るからね。」の言葉を、判決ではどうやら、被告側の「これは、むしろ今まで迷惑をかけたことへの謝罪の言葉である」との主張をそのまま取り入れたような解釈をしたのかと思われる。 いじめの民事裁判でよくある。 10人中9人が思うであろう受け取り方ではなく、わざと曲解してとる。 死にまで追い詰められて、多くの子どもたちは遺書さえ残せない。その遺書も、大河内清輝くん(941127)のように長文のものはむしろ珍しく、ほとんどが短い。1行、2行のものもある。いじめで悩んでいたことは生前の相談などでわかっていても、遺書にいじめのことは一切出てこないこともある。 それどころか、いじめのことを書いたであろう日記や他の生徒とのやりとりの記録が残ったメールや携帯電話そのものを処分してしまうことさえある。 ひとつには、いじめられていたみじめな自分を親には知られたくないという思い。最後のプライド。 死にまで追い詰められてなお、気にする「チクった」という言葉。 わざわざここに書かなくても、みんな私がいじめられていたのを知っていたよね、という思い。 もし、謝罪であるなら、「ごめんなさい」の言葉は、子どもたちの遺書には非常に多く登場する言葉なので、「ごめんなさい」が入ると思う。そして、わざわざ4人の名前を挙げる必要がない。 最後まで、親や教師にいじめの具体的なことを語ることができないまま亡くなってしまった少女が、ようやく振り絞って残した言葉を字面だけでとらえてしまうのは、その子の人生までを表面的なとらえ方をしてしまうことになると思う。 これがもし、国語のテストだとしたら、「仲間に迷惑をかけたことの謝罪」と答えたら、バツになるだろう。 むしろ、「あんたがいると部活の迷惑だ」「お荷物だ」と言われたことへのあてつけ、と捉えるのが自然だろう。 それは、他の子どもの遺書にも同じことが言える。 「ちょっとむこうにいってくる」と遺書に残した大久保健二くん(小6)(920916)は、死んでもすぐに生き返ると思って安易に自殺したとの批判もあったが、『ちょっともっとむこうにいってよ』『こっから…こっち』『じゃまじゃまどっかいて』など言われたことに傷ついていた。 「ちょっとむこうに行ってよ」と言われたから、遺書に「ちょっとむこうにいってくる」と書いたのだと思う。 ●裁判官の意識 裁判官には正直いって、人権意識がないひとがとても多いと感じる。 たかがいじめ、子どものすることと思っているのだろう。それは気の持ちよう次第で、死ぬのは、特別に弱い子と思っているのだろう。 しかし、それで一定以上の人間が死に追い詰められるとしたら、それは放置すべきではない。 大人でさえ、いじめやパワハラで追い詰められて、病気になったり、自殺に追い詰められたりする。子どもならなおさら、追い詰められやすい。 中学生が、本当に簡単に死ぬと思っているのだうろうか。本当に生きたくなどなかったと思っているのだろうか。簡単に選んだと思っているのだうか。 もし、大人みんなが、この裁判官のような考え方をしたら、いじめはもっと横行する。 いじめている子どもたちは今でさえ、手口が極めて巧妙だ。遊びやゲームにかこつけたり、うまく言い逃れをしたりする。 その言い訳が通用すれば、ますますいじめはエスカレートする。 追い詰められた被害者は、自分が死ぬか、力で相手に対抗するしかない。 相手は大勢だったり、強かったりするから、中途半端にやり返せば、もっとひどい目にあう。だから、やり返すときには徹底して、相手の息の根を止めるまでやる。もしくは、誰がやったかわからないように復讐する。その結果、他の人たちが巻き込まれるのは仕方がないと考えるだろう。 いじめられている子どもに、いじめの相談をしなさい、大人に言いなさいという。しかし、訴えを聞いた大人が、とりあってくれなかったとしたら、子どもは絶望する。 部活動でいじめられていると相談しても、このような言葉かけはよくあること、いじめではないと言われたら、これをいじめと考えるのはおかしいと言われたら、絶望する。何人かに聞いてみたり、アンケートはとってみたけれど、いじめを見たと書いている子の証言は無記名で思い込みもあるから信用できず、いじめはないという子もいるから、客観的にみて、いじめはなかったんだよと言ったとしたら、相談することで、なんとか生きようとした子どもも、自殺するだろう。 一方、いじめている子どもたちは、いじめはばれなければいい、証拠を残さなければいい、もっともらしい理由をつけられれば咎められるとはないと学習する。 放置したいじめが自然消滅することはめったにない。同じ子どもをいじめるのにあきて、別の子をいじめるか、いじめの被害者が目の前にいなくなるのを待つか、他にエネルギーを注げるものを見つけるか。 もし、この裁判官が部活顧問だったら、担任教師だったら、それこそ、民事裁判で、あなたのそういう考え方がいじめを誘発し、加害者を増長させ、被害者を死に追い込んだのですと、糾弾されてもいいと思う。 一学校の教師以上に裁判長の影響は大きい。 いじめられているという子どもの訴えが無視され、救える子どもたちが救われなかったとしたら、あるいはいじめを苦に自殺する子どもや報復事件が増えたとしたら、学校が今まで以上に、いじめに対して消極的な対応をとるようになったら、加害者の親や子が開き直って、被害者やいじめを認めた学校を訴えるようになったら、この裁判官たちの判断が影響していると思う。 ○その他 10月は、いじめ自殺を含めて、実は子どもの事件が多い。2006年10月23日には、瑞浪の女子生徒、2010年10月23日には、群馬県桐生市の上村明子さんが、いじめを苦に亡くなっている。 偶然というより、命日が重なってしまう子が何人も出るくらい、たくさんの子どもがいじめを苦に亡くなっている。 |
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