わたしの雑記帳

2009/1/12 指導死・西尾健司くん(020323)の場合。

教師の指導やしっ責による児童・生徒の自殺の問題は今までも何度もこのサイトでは取り上げてきた。
そのたびに、世間一般の人たちの子どもの心情への理解のなさを実感する。
そして私自身、教師たちの指導のあり方に何か割り切れないものを感じながら、それを理論立てて説明できないもどかしさをずっと感じていた。
それが、ある裁判の参考資料になるのではないかと思ってアマゾンで取り寄せた「問題をくり返させない特別指導 こんな場合 こんな指導」(柿沼昌芳・永野恒雄編著/学事出版)を読んで、目から鱗が落ちる思いだった。
もし、県立伊丹高校の先生方が、この本を読んでいたら、自分たちの指導のおかしさに気づいたはずだ。健司くんも死なずにすんだのではないか。せめて、学校管理職は当然のこととして、熟知しておいてほしい内容だった。
残念ながら、この本は1992年1月1日に出版され、現在では絶版になってしまっている。
資料を探してみて実感したが、教師のための生徒指導の本はあまり多くない。教師の仕事の極めて重要な部分を占めながら、統一した方針もノウハウの蓄積もなく、個々人の感覚に任されてきた。独善的な「生徒指導」で、児童・生徒を追いつめてきたのではないだろうか。


西尾健司くんのケースに沿って、本の文章を引用しつつ、少し考えてみたいと思う。

●正式な処分と「特別指導」

健司くんは、2回の謹慎処分を受けている。私たちはふつう、正式な処分と考える。しかし、「問題をくり変えさせない特別指導」によれば、必ずしも正式な処分ではなく、「特別指導」が多いという。その区別は、一般の人間には極めてわかりにくい。たぶん、健司くんの処分も、「特別指導」と言われるものではなかったかと思う。

P2 『「特別指導」は、処分のように見えて、どうも処分とは違い、かといってまた単なる指導ともいえないのである。
 たとえば、A君という生徒に対して、自宅謹慎一週間という「特別指導」が行われる場合を考えてみよう。この決定は、職員会議によって承認され、校長が申し渡しを行う。この点は停学一週間という場合とまったく同様である。しかし、「特別指導」は、たてまえ上はあくまでA君自身が学校の指導を受け入れ、自主的に自宅で謹慎するという形をとる。この点は強制力のある処分(停学1週間)とは異なっている。
 また、謹慎は正式な処分ではないので、都道府県教育委員会への報告は行わない。出席簿の扱いも出席停止ではなく欠席である。』
P126『停学になると指導要録の出席すべき日数から、その日数が減ぜられるので、停学になったことが指導要録のなかに記録として残されるし、それが20年間保存される。しかも、学校長は監督庁に報告しなければならない』とある。

P2-3 『いつどのようにして、このような「特別指導」が登場してきたかは明らかではないが、1960年代末期に生じた高校紛争を契機に、より一般的に行われるようになってきたといえる。当時、大量の生徒処分が行われたが、それに伴って多くの裁判事例も生じた、そして、それらの裁判の結果、処分には「厳正な手続き」と「教育的配慮」が必要だという判例が確立していったのである。これらの判例の影響により、また、学校が処分をめぐる裁判を避けるようになったことによって、とくに高校紛争期以降、正式な処分より「特別指導」のほうが頻繁に行われるようになってきた、と見ることができる(退学処分のかわりに「自主退学」が行われるようになった経緯も、まったく同様といえる)』

「正式な処分」の代わりに「特別指導」。「退学処分」ではなく「自主退学」。生徒の履歴に傷をつけないための配慮だと思っていた(実際に学校関係者がそう主張することも多い)が、どうやらそうではなく、「厳正な手続き」がなくとも、その場の教師の合意で出せて、しかも「本人も納得済み」という形をとることで、紛争を避けるためのもの。教師の都合や保身によるものだったらしい。
鶴保英記氏は同書(P29)のなかで、『生徒の学習権保障の立場に立ち、「懲戒」に対する正しい認識を持たずして、正当な取り扱いが生まれてくるはずはない。』と書いているが、果たしてどれだけの教師が、「懲戒」に対して正しい認識をもっていることだろう。

また、文部科学省が毎年、発表している「児童生徒の問題行動等の状況」のなかの懲戒処分(懲戒退学・停学・出席停止・自宅学習・自宅謹慎等)も、非公式な処分が横行しているなか、実態を映してはいないのだろうと思う。

●喫煙指導のあり方

健司くんの2回目の自宅謹慎は「タバコ」によるものだった。しかも、親を呼び出し、無期の自宅謹慎という厳しいものだった。
タバコについて、柿沼氏はP59『喫煙はほとんどの学校が家庭謹慎などの懲戒処分を行う』
P60『喫煙については、ほとんどの生徒が身体にはよくないが、大人は吸っているのだから、さして悪いことではない、しかし、「法律」で決まっているから懲戒処分もやむ得ないと考えている』
P61『喫煙はさして悪いことではないし、タバコをやめようとも考えていない。さらに家庭謹慎ということで、親からもいろいろゴタゴタ言われる。しかし、法律で決まっているし懲戒処分だから、とにかく従わざるを得ないから従っているだけで、喫煙をやめる契機にはなりにくい』と書いている。

そして、中野進氏は、P76『憲法・教育基本法によると、生徒の学習発達権は重要な基本的人権で、軽々しく奪い取ってはならない。特別権力関係論でさえ、生徒の権利制限は、教育上の必要がありかつ合理的な範囲に限るという』
罰則については、「未成年者喫煙禁止法第3条」でも、『ここでは親の監督義務(民法820条)の履行を促している。前記のとおり、教師の監督権(教育権)は親代わりではないので、教師はこの条項にかかわらない。学校における喫煙取り締まりは、法の委任によるものではない』として、P80『喫煙禁止は罰ではなく教育で行うべきであるが、一歩譲って、喫煙生徒に懲戒が必要だとしても、それは学校教育法施行規則第13条の訓告で足りる。何度くり返しても訓告で足り、それ以上の罰は必要ない。犯罪ではないから、累犯加重は間違いである。喫煙が生徒・学校に与える被害と生徒の学習権侵害との損益を比較すれば、学習権のほうがはるかに重要で、重い罰は比例原則に反する。タバコをやめることの難しさを考えるならば、禁煙に失敗した生徒の弱さを一方的に非難するのは過酷であろう。
 それでは喫煙生徒がなくならないと言う人もいるだろう。けっこう。もしあなたが本当に青少年の健康を心配されるならば、タバコの自販機やCMを禁止し、タバコ購入には身分証明書提示を求めるよう法改正を提案したらどうか。そんな窮屈なことは世の中を暗くするとお考えなら、いまの学校のやり方がどんなに生徒の心を暗くしているかに思いをいたされたい』と書いている。

健司くんの場合も、校長は「ストレスがたまったとは何や」と激しく叱責。学年主任にも「家族も先生も裏切って」と叱責されている。健司くんの健康のために校長は叱ったのではなく、自分たちの言うことをきかなかった、顔をつぶされたと腹を立てている。
そして同席する母親への強い叱責。健司くんはどんなに居たたまれない思いで聞いていただろう。
同書では、保護者の呼び出しについては遅刻を例にとって、P59『生徒に圧力をかけるために保護を「利用」したり、さらに保護者をも生徒とともに厳しく注意を促すために呼び出したのか。そうではなく、学校に来てもらい、担任などと遅刻をどのように改善するか相談するために呼び出したのか、に分けられると思う。しかし、当然、後者のような主旨で登校してもらわなければ、遅刻問題は解決しないのではないだろうか』とある。まさしく、生徒に圧力をかけるために利用された。
子どもの教育に対して、学校教師と親が対等な関係ではなく、むしろ上から指導される立場として、低くみられている。教師と生徒に上下があるように、学校と家庭にも上下の関係を押し付けている。
近頃流行りの「モンスターペアレント」の言葉も、対等ではない関係を前提にしているからこそ、出てくる言葉ではないだろうか。顧客を大切に考えている企業ならば、クレーム処理は当然の業務であり、そこに力を注がなければ企業の存続さえ危うくなる。学校にとって、保護者は大切な顧客ではないらしい。

また、中野氏はP78『憲法第32条には適正手続き保障の定めがある。自白強要は憲法第38条で禁止される。身体持物検査は憲法第35条に令状主義が定められている。違反状態があれば、どんな強制措置でも取り得るわけではない。違反状態をその場で改めさせることを即時強制というが、これは「急迫した事態において」「例外的に」認められるもので、法規の定めなしにはみだりに許されない(田中二郎『行法法総論』397〜9頁、有斐閣)。喫煙の疑いのある生徒に、指導という名で行われる違法な取調べが、どれだけ教師不信を強め、生徒の心を引き裂いていることか。生徒の心を傷つけるのを恐れるよりも、犯人(喫煙は犯罪ではないのに)を見落とし規則を破られることをなによりも心配する。いつから、なぜ教師の心はこんなに狭くかたくなになったのだろうか。もっとおおらかに、「疑わしきは生徒の利益に」と考えるほうが、学校を明るくするのにはるかに役立つのに。
もしも処罰でなく、助言指導で、たんなる押しつけでなく真に生徒の成長発達を願っての助言指導であるならば、適正手続きの心配はいらない。ただし、その場合に指導を受けるかどうかを決めるのは生徒であって教師ではない。指導はもっとも適した時間・場所・手段を選んで行われるべきである。さらに指導を受け入れて改めるかどうか、それは生徒が決める。これが生徒の人格を尊重した自由な教育である。教師の指導に従わないのはけしからんというのは、助言指導ではなく、強制である。学校の秩序維持のために教師には教育権があり、指導に従えと強制することはできる。しかし生徒の内面に働きかけて変革するのではなく、形だけ従うような振りをする、要領だけを教えることになるおそれがある。未成年者喫煙禁止法ははじめから、そのような偽りの教育を求めてはいないのである』と書いてある。

学校のなかで、少しでも疑わしい状況があれば、疑われるのが悪いとばかりの調査や決め付けた指導が行われる。
そういう権限が教師にはあるかのように錯覚してきた。それが人権侵害であるという認識は培われてこなかったと改めて思う。


P139『学校教育法第11条は「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及児童に懲戒を加えることはできる。ただし、体罰は加えることはできない」としているが、(中略)たとえば、喫煙行為を懲戒処分にすることは「教育上必要がある」と多くの教師が認めて処分をしているのだろうか。(中略)むしろ、実際のところは喫煙のことよりも、そのことによって生徒を威圧するために処分が行われたり、あるいは生活の乱れを喫煙の発覚を契機にただしたりしているのではないだろうか。
 そのことも「教育上の必要」性ということになるかもしれない。しかし、そのような喫煙よりも、むしろ別のところに指導のねらいがあるという「ずれ」から、教師と生徒の関係を非常に悪くしているということはないのだろうか。(中略)
 教育は信頼の上に成立するものであって、「敵対関係」の上に成立しない。タバコをやめさせることもたしかに大切かもしれないが、それ以上に生徒と教師との間の信頼は、より大切であろう。
 タバコと信頼、一度、その「教育上の必要性」を検討してみる勝ちがありはしないだろうか。』と書いている。

学校でお菓子をもらって食べた大貫陵平くん(000930)、たばことライターを担任に見つかった安達雄大くん(040310)、カンニングを疑われた井田将紀くん(040526)。これを読んだとき、改めて、この子どもたちは教師の「指導という名で行われる違法な取調べ」「ずれた目的」によって、深く心を傷つけられ、死に追いつめられたのだと実感する。先生方に上記の認識があれば、きっと死なずにすんだと思う。

●カンニング指導のあり方

この本では前後する形になるが、健司くんの最初の処分は2学期の期末テスト時、隣の席の友人に頼まれて答案を見せ、カンニングと認定されての処分だった。これが、健司くんにとって、初めての処分だった。
1週間の自宅謹慎。反省文と反省日記。期末テストの8教科分は0点にされた。
これだけでも、かなり追いつめられた気持ちになったことだろうと思う。不幸中の幸いは、1年生の2学期で受験までにはまだ間があり、これからでも挽回のチャンスがあったこと。これが3年生の2学期であれば、追いつめられ方はもっと違ったものになったと思う。

カンニングの指導について、和田彰男氏は、P100『カンニングが不正な行為であることは生徒もよく知っていることです。しかし、A君のように成績不振に追い込まれて、ついやってしまうということは、人間の弱さから起こり得ることです。そこで残念ですが、カンニングをさせない雰囲気づくりも必要となるのです。監督のずさんさを親が指摘したということですが、A君は日ごろからそう感じていたかもしれません。ふだんからホームルームでの注意喚起も大切でしょうし、試験時の注意も必要でしょう。カンニングは摘発する方向ではなく、させない方向の努力を教師集団としてやるべきでしょう。』
P101『東京高法研では、多くの議論をした結果、「単位認定・進級判定に関する高法研見解(中間まとめ)を発表し、(中略)提起しました。(中略)つまり、カンニングをした科目以外の試験の評価まで零点(または半減)にすることは、実態にも合わないし、教師の評価権の侵害にもなる(中略)学校教育法施行規則第27条・第65条は「教育小六法」などで見てぜひ研究してください。』
P102『教科の成績評価は、その内容の理解を中心とする学習活動を客観的に評価することです。生活態度や人生観など個々人の価値観にかかわることを評価の対象に加えることは誤りだし、第一それらを評価する専門性は教師といえどもないのではないでしょうか。したがって、たとえカンニングのような受験ルールの違反があってもそれに対する生活指導措置と、成績評価という教務措置は明確に区別しなければならないと思います』と書いている。

カンニングはもちろん不正なことだ。しかし、全教科0点には私自身、納得のいかないものがあった。しかも、健司くんは答案を見せたほうであるから、他の教科の点数が不正に得たものとは疑われる余地さえないだろう。1教科を0点にするだけで十分ではなかったのかと感じていた。他の生徒への見せしめ的に処分が行われていると感じる。

●停学中の指導について

羽山健一氏は、P116-117『停学じたいは、学校教育法第11条および同法施行規則第13条に基づく法的効果を伴う懲戒処分の一つである。この停学の法的効果は、生徒の教育を受ける権利を一定期間停止するものであり、同法施行規則第13条2項では、校長のみが停学を行うことができるとしている。これに対し、停学中の指導は停学に付随するものとはいえ、停学とは異なり、法的効果を伴わない事実行為としての懲戒である。これはまた同法第28条6項の「児童の教育をつかさどる」教諭の教育活動の一環であるといえる。したがって、停学そのものと停学中の指導ては法的性格の異なるものとして、ひとまず、区別して理解しておかなければならない。』と書いている。

『停学処分は強制力をもつものであるが、停学中の指導は、文字どおり「指導」であって、生徒の同意・協力を得て、その目的が達成される。停学処分の法的効果として、生徒に強制できることは、生徒に通常の授業を受けさせないことであり、その余の課題や生活面の規則については、「停学を受けている身」であるからといって、強制することはできない。このことを反省文の指導について述べるならば、生徒に対し、その非違を戒め将来にわたってそのようなことのないよう注意させ、反省を求めることは、指導として重要なことであるが、教師が適切であると考える反省文ができるまで何度も書き直しを強いることは行き過ぎである。
 停学中の外出禁止や交友禁止は、停学処分の法的効果として当然に導き出されるものではない。』『これらの禁止措置は生徒の納得と自発的意思によって実現されるよう、生徒を説得しなければならない。また、規律正しい生活習慣を身につけさせるために、生徒日誌を点検し助言を与えることは指導として重要であるが、これもプライバシーの侵害にわたることのないよう、私生活への過度の干渉は慎むべきである。』

P118『(停学中に)学習指導を行う目的は、当然ながら、授業を受けることができない停学中の生徒にも一定の学力を保持させることである。それによって、生徒は停学期間終了後、学校での学習活動をスムーズに復帰させることである。したがって、停学中の学習課題は、教科の学習指導の一環であり、けっして生活指導的懲戒の意味あいをもつものではないことに注意すべきである。』

『問題となるのは、生徒がこれらの指導に従わない場合である。(中略)生徒の停学期間を延長することがある。無期停学の場合は、停学の期間が、あらかじめ決められていないので、とくにこの傾向が強い。(中略)しかしながら、停学期間の延長はそう簡単にできるものではないことに注意した。停学が法的効果を伴う懲戒であることは先に述べたが、その法的効果とは生徒が学校での通常の教育を受けることができるという法律上の権利を一定期間停止するということである。したがって、特別の事情のない限り、生徒は当初定められた期間、登校することを取りやめれば、法的には停学処分に服したことになる。教育活動の一環として停学中の生徒に反省や課題の達成を要求することは当然のことであるが、学校教育法は、停学に際しこの権利の剥奪以上に特定の義務(自宅学習や外出禁止)を生徒に課していない。』

P120『停学の延長は、手続き的な問題を含むこともある。停学の延長を行うことのある学校では、それが生活指導主事や補導係など一部の教師によって決定されることが多い。しかし、この決定には関係者の感情が混じりやすく、恣意・独断が疑われることにもなりかねない。また、当初、正式の会議で、日数も含めて停学処分を決定したことが、会議の議を経ることなく、一部の教師によって変更できるのであれば、当初の会議は無意味なものになってしまう。』

P122『教師は、停学中の生徒から「教育者への一方的な従順と感謝と尊厳を勝ちとりたい」という誘惑に駆られる(日垣隆「中退させる権利」『世界』1991年5月号、岩波書店)。そして、教師の粘り強い指導の結果、生徒がしおらしく振る舞い、このような指導に対する感謝の気持ちを表すようになると、教師は「生徒がやっとわかってくれた」と信じ、指導の成果があったものと本気で思い込んでいるようですらある。しかしこれは、生徒が教師に心を閉ざし、迎合しているだけであり、生徒はしらじらしい面従腹背の態度をとっているのである。もとより、停学処分という強制力を背景とした反省ほど、あてにならないものはない。にもかかわらず、一定の文字数を決めて反省文を書かせ、その内容にクレームをつけては書き直させる例も稀ではない。このような指導によって生徒に教えることができるのは、自立性・自発性とは無縁な「権力への盲従」だけである。

いじめ問題が浮上したとき、厳罰化が叫ばれた。とくに国会議員からの声が大きかったと思う。彼らはまさしく、子どもたちに『自立性・自発性とは無縁な「権力への盲従」』を求めているのだと思う。どう扱われても文句を言わない国民をつくるために。

P132『「特別指導」では、とくに「罰」と「指導」の混乱が置きやすいことを学校は十分認識しておく必要がある。』
『謹慎中は外出は絶対に禁止、友人の訪問、電話連絡も禁止、さらに学校によっては学校の授業時間帯は家庭でも制服を着用し、時間割に合わせて学習することを義務づけたりする。
 このようなことを学校が生徒に要求するのは、家庭の教育力が信頼できないからであろう。だが、本来家庭謹慎は、学校は教育することを停止して家庭で反省させるという処分であって、その間は家庭の教育力に基本的に依存するということである。
 したがって、謹慎期間中の家庭での教育について学校は助言するのはよいとしても、決めて一方的に強制することはできない。だから、「家庭謹慎中、お母さんは仕事を休んでください」と学校が一方的、権力的に強制することなど、本来できないことは明らかである』

健司くんを追いつめたもののひとつに、停学中の指導がある。しかし、これを読むと、学校が要求したことは家庭生活への不当な介入だったり、生徒の内面までを不当にコントロールしようとするものだったということがわかる。
とくに、長期にわたり、字数や内容まで細かく指導の対象になった日誌。カンニングとは全く関係のない、単に苦痛を与えるための指導。ようやく終わったと思っても、教師の一存で勝手に延長されてしまう。
殴ったり、けったりしなくとも、精神的な懲罰に当たるのでないか。そして、形だけ従わされることの屈辱感。自分に正直に生きているまじめな生徒ほど、追いつめられてしまう。
かつて、企業が社員をリストラするときに、研修と称して、日誌や反省文を毎日、毎日、書かせて、何度も駄目だしをして、精神的に追いつめるというやり方があった。自殺に追い込まれたひともいる。最初に、日誌の話を聞いたときに、私にはそのことが真っ先に頭に浮かんだ。今も、「指導力不足」と認定された教員に「自主退職」を促すために利用されている。精神的なリンチだと思う。

なお、健司くんの場合は当てはまらなかったが、P123『反省文だけでは足りず、決意文を書かせることもある。(中略)さらに停学の解除に当たり、「この決意文で書いたことを破ったときにはどのような指導にも従う』という旨の誓約書を親子連盟で書かせたり、「日づけのない退学願」に押印したものを提出させることもある。しかしこの誓約書や退学願における意思表示は「詐欺又は脅迫に因る意思表示」(民法第96条)に当たり、生徒やその親はあとでこれを取り消すことができると考えられる。(中略)学校が「日づけのない退学願」を提出させ、今後停学処分に該当する事件にかかわったときは、この退学願を発動し自首退学の取り扱いとすることを、生徒・親に承認させたとしても、(中略)このような退学の約束は無効である(副渡高校事件・岡山地判昭55・11・25)。』このことも親は知っておいたほうがよいだろう。


●教育上の配慮について

P140『学校教育法施行規則第13条は「懲戒を加えるに当たっては、児童等の心身の発達に応ずる等教育上必要な配慮をしなければならない」としているが、この「教育上必要な配慮」はどうなっているのだろうか。
(中略)処分規定にできるだけ「公平」にあてはめることが「教育上必要な配慮」だといえないこともない。
しかし、本来は、その生徒がいまどのような状況にあって、生徒をどのように立ち直らせ、これからどのように指導していくのかが「教育上の配慮」であろう。』

懲戒規程が「公平性を確保するための要件について、P176
『イ.明確に文章化された規定であること(メモ程度のものでなく)
ロ.親や生徒に公開されること(規程が公開されることで恣意的な処分はなくなるだろう)
ハ.懲戒の対象となる行為を限定すること(私生活にわたるところまで懲戒の範囲を広げる必要はない。)
ニ.謹慎日数は上限を定めておくこと(無期謹慎という処分はかなり曖昧である。また場合によっては無期限に引き伸ばされ、結局復帰できなくなることがある)。
ホ.懲戒にいたる手続きについても定めておくこと(手続きについて定めておかないと公正な処分が確保できない。)
 なお、「累犯」何回で退学といった規程は問題があるだろう。たびかさなる問題行動に対して、退学勧告を行うことはありうるが、この勧告を受け入れるか否かは本人・親が判断すべくであろう。』

『いくら教育的配慮をしてもしすぎるということはありえないだろう。(中略)
 「不公平」な処分として問題になるのは、あくまで、規程や前例を無視した「重い」処分が行われる場合であり、教育的配慮にもとづき規程より処分を軽減するのは合理的だといえよう。できれば懲戒規程にも、軽い形での運用は可能だが、重い形での運用はできないという旨の規程を加えておくのが望ましいだろう』

健司くんの二度目の処分は「無期」だった。自分がしでかしたことが原因とはいえ、納得のいかない処分内容。強い精神的苦痛。それがいつまで続くかわからない。教師に迎合できなければ、要領よく生きられなければ、より重い処分となる。
健司くんが、理論的に考えたかどうかはわからない。しかし、納得のいかない、わけのわからない重圧に押しつぶされそうになって、死に追いつめられたのではないかと想像する。もし、それを理論的に解きほぐしていくことができたら、教師への怒りになったとしても、自分への怒りにはならなかったのではないか。理不尽さに荒れることはあっても、死なずには済んだのでないかと思う。

●処分じたいに含まれる問題

永野恒雄氏は、処分じたいに含まれる問題について、
P178『第一に、「処分」に頼る教育には弊害が多いということである。(中略)学校が持つ優越的な処分権によって生徒指導に当たろうとすれば、処分はどうしても苛酷、恣意的な方向に流れるし、そのなかでの不公平な処分、不明朗な処分も生じてこざるを得ないのである。
第二に、「処分」を行う個々の教員に、必ずしも生徒の人権保障、学習権保障の認識が根づいていないという問題がある。苛酷、恣意的、不公平な処分も、個々の教員あるいは教員集団の判断と責任にもとづいて行われているのである。生徒の人権、学習権という視点に立って、自らの処分権を謙抑して行使する意識が定着しない限り問題の解決は困難であろう。
第三に、今日行われている「処分」は、じつはそれじたいがかなり曖昧な性格の措置だということがある。退学といい、停学といっても、そのほとんどが「自主退学」、「自宅謹慎」なのであり、厳密にいえば、学校教育法で定める懲戒ではない。すなわち、生徒が自分から学校の「指導」に服するというタテマエをとっているのである。そもそもこういった曖昧な措置が「処分」として通用しているところに、「処分」じたいがかかえる問題の根の一つがあるということを押さえておく必要があろう。』

同じことが、学校外の社会にも言える。少年法しかり、各自治体の定める条例しかり。安易に厳罰化に向かうことのリスクをもう一度真剣に考えてほしい。

私たちは、学校・教育委員会は法律にのっとって行動していると思っている。とくに児童生徒への懲戒は、厳密なルールによって運営されていると思い込んでいる。しかし、この本を読むと、いかに現場の先生方が法律知識がなく、行き当たりばったりの指導をしているかがわかる。

そして、指導の陰に隠れる教師のストレスだったり、独善的な思い込みだったりを直感的には感じながらも、「指導」や「処分」の名の元に、仕方がないとあきらめてきた。それが、学校を、生徒観をさらにゆがませてきたのではないだろうか。
もちろん、何事も法律に照らし合わせながらの生活などできない。しかし、法律は弱者の最低限の権利を守るためのものでもある。学校において、児童・生徒は弱者だ。その権利が踏みにじられることのないように、生徒の規律違反を言う前にまず、教師たちが法令遵守を心がけてほしい。

教師の指導によって子どもを失った親は、自分を責め、子どもを責める。割り切れないものを感じながらも、指導のどこに問題があったのかを明確化することができないから、さらに苦しい思いをする。
そして、同じような経緯で他の子どもも亡くなったと知ったとき、「子どもは悪くなかった」という自分の「勘」は正しいと知る。たまたまその子だけに起きたことではなく、なるべくしてなった結果なのだと知る。
そのモヤモヤした部分をきちんと、理論的に解きほぐして、問題の在り処を明確にし、具体的な再発防止策を立てない限り、指導死の悲劇はまた起こる。目に見える暴力としての体罰より、根深く、解決策を立てることが難しい。いじめのなかの、言葉や態度のいじめのほうが、直接的な暴力より大人たちに認識されにくく、解決が難しいことに似ている。

「問題をくり返させない特別指導 こんな場合 こんな指導」の復刻と、学校・教師への周知徹底を望む。
そして、この本の執筆者がいずれも、現役あるいは、元教師であることには、わずかながらの希望を感じている。
「机上の理想論」ではなく、生徒と向き合うなかで導き出された理論のほうが強いのは言うまでもない。



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