2005/11/17 | 服部太郎くんが東京高裁で陳述 | |
2005年11月14日午前10時から、東京高裁824号法廷で暴行傷害とその後の集団による脅し行為でPTSDを発症した服部太郎くんの民事裁判控訴審の第1回目があった(房村精一裁判長)。 浜松から来ているということで、傍聴人は私のほかには、マスコミ関係者が2名だけだった。 弁護士2人と母親とともに、太郎くんは法廷に来た。 私は何度か太郎くんにあっている。もちろん、心の傷は外からはわからない。それでも、親子の話の端々に今も心の重い後遺症に悩む姿を感じてきた。 事件からもうすぐ6年。PTSDから高校進学をあきらめ、父親の会社で働く。そのなかで、一人前に役立ちたいという思いとそれに向けての努力。PTSDと付き合いながら、少しでも当たり前の生活ができるよう、ずっとがんばって来た。今は、働きながら学校にも通っているという。 深く傷ついた心の傷をさらに抉るのは、大人たちの対応。加害者の言い分ばかりを信じる警察。ことなかれ主義の学校。 そして浜松地裁では、2005年3月2日、学校設置者の浜松市とは和解(けっして心から納得のいくものではなく、原告にとって最大限の譲歩をさぜるを得なかった)。 元同級生11人とその保護者とは和解が決裂。2005年7月20日に判決が出た。内容は、1月26日の事件についてはある程度、認められた。しかし、1月28日に10数人で押しかけたことに関しては、単に太郎くんの両親に事件の発端を説明しようとしたものであり、両親との激しいやりとりは偶発的で、太郎くんに文句を言うつもりも脅迫するつもりもなく、故意や過失により間接的に威迫して、損害を与えたものでもないとして、違法性を認められなかった。 また、現在も残るPTSDに関しては、PTSDと認めたものの、同窓会や成人式への出席、ボランティア活動への参加を理由に、わずか半年足らずで症状が治まったと認定した。 これに対して、納得がいかなかった原告の太郎くん側は、東京高裁に控訴した。 東京高裁への控訴理由として、 @ 1月26日の事件の加害程度の認定の誤り A 1月28日事件の加害認定の誤り B 太郎の精神的被害についての認定の誤り C 保護者責任についての認定誤り 等4つを挙げた。 また、浜松地裁で11人だった被告少年らのうち、反省がみられた少年と裁判経過の中で関わりが少ないと思われた少年4人を、控訴審では被控訴人(地裁でおける被告)から外し、7人の少年らを被控訴人とした。 当初、服部さんは、場合によっては第1回目の口頭弁論で裁判が終結してしまうのではないかと懸念していた。実際に、高裁の壁は私たちが想像する以上に分厚い。いじめ自殺した大野悟くんの控訴審もたった1回の口頭弁論だけで、地裁で1人も行われることなかった加害生徒らの証人尋問をすることもなく、すぐに判決になった。 たった1回かもしれない機会に向けて、太郎くんが陳述書を準備してきていた。事前の申請が通って、この日、本人が裁判官の前で読み上げた。 そこには、地裁で認められなかった1月28日に「殺されるかもしれない」と感じた恐怖について、そして、その後、彼を悩ませ続けたPTSDの症状について、切々と書かれていた。 控訴人(太郎くん)側は、太郎くんの主治医の地裁判決の認識の誤りに対する意見書の提出と認証調べについて要望。 証人尋問は、医師の意見書を読んだうえでと、あっさりと審議の継続が認められた。とても多忙な医師ということで、意見書を得るのに日数を要することから、次回は、2006年1月25日、東京高裁824号法廷で午前10時30分からとなった。 地裁で裁判官に心の傷が理解されなかったこと。そして、加害少年らに反省が見られなかったことが、太郎くんの心を再び傷つけている。必死にがんばっている立ち直りの足をひっぱる。 それでも、負けじと太郎くんの踏み出した歩みは止まらない。 事件の目撃や災害に遭遇したときのPTSDはずいぶんと認められるようになったというのに、学校の体罰で、いじめや傷害事件で受けた心の傷については、まだまだ傷害として認定されていない。 心と体への暴力が、肉体だけでなく、いかに心を深く傷つけるか。そして、その後遺症に長い間悩まされ続けていることか。 ときに死にさえ至るということを自覚して、ぜひ、学校の事件・事故でもPTSDが傷害として認められる突破口にしてほしいと思う。それは、同じように被害をこうむった多くの子どもたちの願いでもあると思う。 なお、太郎くんから、陳述書の写しをもらって、掲載の許可をいただいた。PTSDがどういうものなのか、当事者の思いが伝わってくる。ぜひ読んで、今も続く「痛み」を共に理解してほしい。
|
HOME | 検 索 | BACK | わたしの雑記帳・新 |