わたしの雑記帳

2005/11/9 母親を毒殺しようとした少女の事件について

静岡県伊豆の国市の県立高校の女子生徒(高1・16)が、母親(47)に劇物のタリウムを摂取させたとして、殺人未遂容疑で逮捕された事件について、専門家の意見に影響される前に、今の私が感じたことを備忘メモのひとつとして書いておきたいと思う。
詳しい情報があるわけでもないなかで、素人の的はずれかもしれない。こういう見方もあるんだということ程度にとどめてもらえればと思う。
原因はひとつではなく、家庭の問題、いじめの問題、ネットの問題が複雑に絡み合っているのではないかと思う。


● 感情を押し殺して「よい子」を演じる?

少女は、今まで「よい子」を一生懸命にやってきたのではないかと思う。親に心配をかけたくないという思い。そして「よい子」が必ずしも親の愛情を一身に受けられるとは限らない。
親子にも相性はある。きょうだいの存在。手のかかる子どもには関心が向きやすいが、手のかからない子どもにはかえって、親の関心が向きにくい。

少女は母親のことを「好きでも嫌いでもない」と言ったという。私には、イソップ物語のなかの「すっぱい葡萄(ぶどう)」の話に出てくるキツネの言葉に聞こえた。食べたくて、食べたくて、いろいろ努力をしてみたがついにとれなかった葡萄。「どうせあんな葡萄、すっぱくて食べられないにきまっている」と最後に捨てぜりふを残していく。
本当は欲しかった母親の関心・愛情。濃厚な関係。愛されたくて、自らの感情は押し殺して母親に迷惑をかけない「よい子」を演じてきた。がんばって勉強してよい成績も残した。心配をかけたくなくて、悩みを相談することもなく、何も問題がないかのように装ってきた。しかし、少女の努力は裏目に出て、心配のないよい子に対して、強い関心は払われなかった。親の強い愛情を実感することはできなかった。
マザーテレサの言葉、「愛の反対は憎悪ではありません。無関心です」。関心のなさに傷ついていたのではないか。無関心に対して、「好きでも嫌いでもない」という無関心を装った言葉で返した。

なぜ母親は少女の変化に気づかなかったのかと言われる。親だからこそ、気づかなかったのだと思う。どこに、自分の子が自分を殺そうとしていると信じられる親がいるだろう。
たとえ虐待をしていたとしても、子が親を殺すなんて考えられもしないのが、親ではないか。
16歳という年齢。思春期。反抗期。とくに同性の親に反発する、さまざまな変化があったとしても、変化が当たり前の時期でもある。
成績でも落ちていれば、変化に気づくかもしれない。泣いたり、わめいたりしていたら、変化に気づきやすいだろう。少女に親に対する憎しみがあったなら、わかりやすかったかもしれない。

これは、私の想像の範囲でしかないが、ひどいいじめを受けても、親に心配かけたくなくて相談できなかったのではないか。あるいは、相談しても、その苦しさ、悲しさ、感情まで、受け止めてもらえなかったのだろか。
いじめがあったとき、その感情を共有できていたとしたら、少なくとも、母親に毒を盛って、淡々と観察日記をつけるという行為にはつながらなかったと思う。

おそらく、少女自身、少し前までは親を殺す自分など想像だにできなかったのではないか。
感情を押し殺して生きてきた少女の変化は、周囲からは読み取りづらかった。少女自身、自分の心の変化というものを把握しきれていなかったのではないか。


● いじめの影響


11月4日付けの共同通信、時事通信に、少女に対するいじめの記述があった。
『インターネット上で公開していたブログ(日記風サイト)に今年7月、「彼らは何時も僕をからかっていました」などと同級生によるいじめをうかがわせる記述をしていた』
『中学時代に同級生のグループから、日常的に嫌がらせを受けていたことを記述。「僕の物はよくなくなり、それらは彼らの手の中で見つかることの方が多かった」と書き込んでいた。「3年生になるまでは彼らだけが僕の話し相手でした」と孤独な心境もつづり、こうした内容をブログでも公開していた。』
『現在の学校生活に関しても「僕の英語の参考書は無くなったままだし、教室では孤独です」といじめを思わせるくだりがあった。』
『また、パソコン日記では小学時代の経験として、誤って下に落とした食べ物を食べるよう教諭から強制されたことも告白。同級生から暴力を受けたことも訴えていたという。 』


今回、学校のなかで起きた事件ではないということで、緘口令をひく人間がいなかった。そのことで、さまざまな情報が流出しやすくなっていると感じる。
少女の元同級生、下級生という人間の発言が、テレビ、雑誌、新聞、ネット、あらゆるところで飛び交っている。そこに共通して感じられるのは、少女への嫌悪や憎悪。事件がおきたからそうなったのではなく、事件が起きる前からだったのだろう。そういう冷たい視線に長い間さらされていたからこそ、今回の事件はおきたのではないかと思う。

小学校時代のあだ名は「ファーブル」。昆虫に興味を抱いていたという。
もし、本物のファーブルが、今の日本の学校教育のなかで育っていたとしたら、やはり同じように生きづらかったのではないかと思う。
同年代の女の子たちが興味関心を示すようなタレントやおしゃれ、マンガではなく、少女がたまたま興味をもったのは昆虫だった。多くの女の子たちは、昆虫に興味を示さないどころか、都会ではほとんど接する機会がなく、たまに見かけても、虫は「怖いもの」「汚いもの」というイメージをもつ。その虫に関心がある「変わった子」。
今の子ども社会では、「変わった子」であることは許されない。それは大人たちが子どもたちに植えつけた価値観でもある。学校教育のなかで、家庭のなかで、ひとと同じであることを求められる子どもたち。
「個性重視」と言うことはあっても、どんな個性も許されるわけではない。大人たちが「価値ある」と認めた範囲の幅でしか許されない。子ども社会のなかでは、その幅はさらにせまくなる。そこから逸脱するものには、制裁としていじめが加えられる。

中学校で、少女の突飛な言動が注目を浴びている。「変な踊り」「過激な言葉」。
『少女と中学時代に同級だった少年は「いじめたつもりはないが、手をたたくと、彼女はみんなの前で踊ったので面白かった」と少女が周辺から「からかいの対象」になっていたことを証言する。一方で、少女が卒業した中学校の教頭は「いじめがあったとは聞いていない」と話している。(11月4日付け西日本新聞)』

神奈川県津久井町中野中学校でいじめ自殺した平野洋くん(940715)は、転校したばかりの学校のクラスのキャンプで、懐中電灯を下から照らし、突然、扇片手に体をくねらせて「ジュリアナ・ダンス」を始めた。しかし、このパフォーマンスも同級生たちには「変なヤツ」としか映らなかった。
東京都中野区富士見中で、葬式ごっこなどのいじめを受けて自殺した鹿川裕史くん(860201)はみんなの前でよくサザンのもの真似をした。
自らを道化者におとしめても、友だちの関心をえたかったのではないか。受け入れられる自分でありたかったのではないか。しかし、受け入れられることはなかった。いつまでも、どこまでも、ついて回るいじめ。

現実世界の無力な自分。だからこそ、他者の生死をも握る万能感を手に入れたいと願う。それを可能にする道具が「毒薬」だったのではないか。
少女は、1960年代の英国で「毒殺魔」として知られるグレアム・ヤング(家族らを毒殺し症状の経過を記録した)に傾倒していたという。誰にも理解されなかった毒殺魔に自分を重ねた。理解されなくてもいいから、せめてその存在を示したかったのではないか。「強い自分」を自分をばかにした人たちに見せ付けたかったのではないか。


● 「受け入れてほしい」思い。

どんなに勉強ができても、美人であっても、努力しても、受け入れてもらえない「自分」という存在。「ありのままの自分を受け入れてほしい」という強い思いが少女のなかにあったのではないか。
家にも、学校にも居場所のなかった少女をはじめて、ありのままの自分を唯一、受け入れてくれたのが、ネットという世界だった。
最初は恐々と、自分が傷つかないために「僕」という言葉を使い、男の子を装った。しかし、受け入れてくれるとわかってからは、どんどん自己開示していく。女の子であることも自ら明かしたという。夢中になった。自分のサイトだけではあきたらず、他のサイトにも書き込みをした。

学校と家との往復が世界のすべてという狭い社会のなかで生きている子どもにとって、ネットの世界は広い。現実世界ではなかなかめぐりあえない同じ考えや同じ趣味のひととも出会える。そして、ネットの世界では、自分を傷つける相手の言葉はシャッターアウトすることも可能だ。
ふだんは出せない思いをストレートに出しやすい。
それが過激な内容であっても。そして、過激であればあるほど、共感をえられたりもする。現実世界では、いろんな影響を考えて感情を抑えている人たちのタガがはずれる。ストレス解消に、感情はエスカレートしやすい。
まじめな人間、目立たない人間より、ネットの世界では、過激で、変わった人間のほうがもてはやされる。グレアム・ヤングのような殺人者のほうが、犯罪を取り締まる警察官よりヒーローになれる。

そのなかで、現実よりもバーチャルな世界のほうが、彼女にとって価値が重くなった。
その世界でヒーローになるために、より受け入れられやすい自分になるために、現実世界のほうを非現実世界に近づけていく。それが、毒を母親に盛って観察するという行為ではなかったか。写真を使ってまで、ネットの世界と現実の世界とを近づけようとした。
また、一息に殺してしまうよりも、淡々と実験を続けることで、多くの人たちを長い間、自分にひきつけておくことができる。多くの人たちから受け入れられる感覚をできるだけ長く体感したかったのではないか。彼女にとって、人びとに受け入れられる瞬間こそが、人生のなかでもっとも至福の時だったのではないか。そのためには、どんな犠牲も、犠牲とさえも思わなかった。


● なぜ、母親なのか。

なぜ、母親なのか。それは、もっとも身近にいたから。そして、彼女自身今はまだ気づいていないかもしれないが、心の奥底では母親を強く求めていた。母親に甘えたい気持ちがあった。母親になら許されると思ったのではないか。
親の愛情に飢えた子どもが試し行動をする。これでもか、これでもかと問題行動を起こしては、そのひとが本当に最後まで自分を受け入れてくれるかどうかを試す。今までずっと「よい子」を演じてきた少女が、「よい子」ではない自分を受け入れてくれるかどうか、母親を試したかったのかもしれない。

犯行が発覚しそうになった10月21〜31日にかけて薬物を摂取して自殺を図ったという少女。
誰からも受け入れてもらえなかった少女にとって、自分の価値も高くなかったと推測できる。
母と娘という同性の結びつき。ライバル視することがある一方で、同化してみてしまう。
母親に毒を盛るという行為は、少女にとって自分自身に毒を盛るのと同じ行為だったのかもしれない。
本来なら、自分に毒を盛りつつ、それを淡々と報告する。しかし、より観察しやすい母親にした。

うさぎを飼っていて大切にしていたという。ぬくもりがほしかったのかもしれない。
その彼女が実験と称して、小動物を殺すようになった。
感情を自分の心の奥深く閉じ込めてしまった彼女にとって、唯一、自分の感情を感じられるのは、小動物を殺したときの胸の小さな痛み、感情の揺れだったかもしれない。
少女は、いちばん大切な母親を殺すことで、自分のなかに感情を取り戻したかったのかもしれない。生きていることを実感したかったのかもしれない。
リストカットすることで、多くの少女たちが生を実感するように、母親のなかに自分を投影し、それに毒を盛ることで、生きている自分を確認したかった。そして、ネット上のヒーローになることで、ひとから受け入れてもらえる、価値ある自分になりたかったのではないか。


● 少女のこれからについて

感情がないのではないと思う。家で「よい子」を演じるために、学校でのいじめに耐えるために、自分の感情を押し殺してきたことで、自分で自分の感情がわからなくなってしまったのではないか。
この先、彼女が感情を取り戻したときに、はじめて罪の重さに気づくのではないか。
その時、支えることのできる大人はいるだろうか。
親を殺したある青年は、刑務所から出てからようやく、自分を支えてくれるばすの人間を自らの手で殺してしまったこと、失ってしまったものの大きさに気づいたという。

ネットの世界はあくまで非現実であることを経験知の足りない少女はまだ知らないのだろう。ネット上で意気投合した相手と、現実世界で出会ったときに、はたして本当にどこまで分かり合えるか。
少女には、現実世界のなかで、ありのままの彼女を受け入れてくれるひととの出会いが必要だろう。
しかし、少女の母親は危篤だという。その命がもし失われてしまったとしたら。そして、母親が生きられたとして、自分を殺そうした娘をそれでも受け入れることができるかどうか。家族や親戚が彼女を受け入れることができるかどうか。

できることなら、彼女には再び少女時代の「ファーブル」からやり直してほしいと思う。昆虫のことについて、同じくらいの関心と専門知識を有して、語り合える人間がいたら、毒薬に興味は示さなかったかもしれない。
無理やり、彼女を他の少女たちと同じ興味に合わせさせるのではなく、どこかには現実社会のなかにも、ありのままの彼女を受けて入れてくれるひとはいるということを示してほしい。





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