注 : 被害者の氏名は、一人ひとりの墓碑銘を私たちの心に深く刻むために、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。 また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。 |
S.TAKEDA |
860201 | いじめ自殺 | 2000.9.10. 2001.1.25 2001.2.25 2001.3.15 2001.5.1 2004.12.11更新 |
1986/2/1 | 東京都中野区立富士見中学校の鹿川裕史(ひろふみ)くん(中2・13)が、父親の実家に近い岩手県・JR盛岡駅構内のトイレで首吊り自殺。 | |
遺書・ほか | 「家の人へそして友達へ。突然姿を消して申し訳ありません。くわしい事についてはAとかBとかにきけばわかると思う。僕だって、まだ死にたくない。だけど、このままじゃ『生きジゴク』になっちゃうよ。ただ僕が死んだからって他のヤツが犠牲になったんじゃいみないじゃないか。だからもう君たちもバカな事をするのはやめてくれ、最後のお願いだ。昭和六一年二月一日 鹿川裕史」と紙の買い物袋に書かれた遺書が発見された。 | |
学校・ほかの対応 | 裕史くんの自殺直後、校長と教頭が、“葬式ごっこ”に使われた証拠の色紙を、遺族のマンションで探す。 校長は当初、報道陣のインタビューに対して、「つねに鹿川君を標的にしていた特定のグループはなかったはず。いじめという感覚を持たずにやっているのではないか。いずれにしても、こんな結果になり残念だ」と答えた。事実が出ても、学校側はいじめを認めない。 |
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いじめの内容と経緯 (調査・裁判などより) |
3年生が2年生をつかって1年生を殴らせる“やらされ”を裕史くんは命じられて、父親に相談。父親の注意により直接3年生との接触はなくなったが、同級生からのいじめがひどくなる。 1985/6 2年生の1学期半ばから、7〜8人のグループに使い走りをさせられていた。グループ以外にも便乗して、使い走りを頼むものもいた。学校を抜け出してジュースや肉まんを買いに行き、何回か教師に見つかって取りあげられた。そのたびに、「ドジを踏んだ罰」として殴られた。 1学期の終わり頃、いじめっこたちが裕史くんの家に来て、ドアを蹴飛ばした。 2学期になって、裕史くんは学校を休みがちになる。(10月は6日、11月は1日、12月は8日、1月は11日欠席) 2学期に、エアソフトガンの標的にされ、強化プラスチック製の弾で足や尻を4発ほど撃たれた。 同じ頃、二段跳び蹴りの的にもされ、一度は胸に当たり、1メートルも吹き飛ばされたことがあった。 9/中旬 買い出しを見咎めた教師に裕史くんは「グループから抜けたい。使い走りはもう嫌だ」と訴えていた。教師に注意を受けたABから殴られたり、けられたりした。 グループ全員分の買い出しを一人ずつ買いに行かされたりした。 裕史くんは自宅のあるアパート8階から、エレベーターを使わずに買い出しに行かされたりした。 裕史くんには、ひんぱんにまばたきするくせがあり、緊張するとますます回数が増えるのを、グループの一人に「3秒に1回の割合で、よしと言ったら、まばたきをしてもいい」と命じられ、守れないと殴られた。 移動教室のバスのなかで、サザンオールスターズの歌を15曲、歌わされた。 「バリケード遊び」と称して、机やいすを背の高さくらいまで積み上げられ、内側に倒された。 10/初め グループは3年生の似たようなグループと一緒にバンドの練習をはじめた。歌のうまい裕史くんがボーカルに指名された。しかし、3年生の分の使い走りが増えた。 深夜に貸しスタジオを借りてバンドの練習をするようになり、呼び出し電話をとった裕史くんの父親からグループは叱られた。 10/ 顔にマジックで、右目の周りに丸、鼻の下にヒゲを書かれて、廊下で踊りをやらされた。 10/-11/ 父親が担任教師に「いじめをやめさせてほしい」と頼むが、効果なし。 グループはクラスメイトに、裕史くんを無視するように言っていた。 11/15 欠席した翌日、裕史くんが登校すると葬式ごっこの形跡が残っていた。いじめグループがリードして、テレビの人気番組をヒントにして、級友らが机の上に花や線香を飾り、“葬式ごっこ”をする。追悼の色紙にクラスのほぼ全員が寄せ書きし、担任教師(57)を含む4人の教師も署名をしていた。 12/ 中旬、いじめグループが裕史くんに缶コーヒーを買ってこさせたが、冷たかったことに腹を立てて、野球拳を強要し、自分はジャンケンに負けても服を脱がず、裕史くんだけに服を脱がせた。そのうえ、石のすべり台に胸や背中をつけて滑らせたあと、鳥肌がたった裕史くんに、口に含んだ水を2回吹きかけた。 校舎の壁の雨どいを登らせたり、いやがる裕史くんに1年生とけんかをさせた。 12/ 裕史くんはタイマンを張らされる。父親に「誰に張らされたか」と問いつめられた裕史くんがFくんの名前を言ったため、父親はFくんの家に怒鳴り込んだ。しかし、実際にはAだったことが判明。父親はAの家にも怒鳴り込んだ。Aは、裕史くんが使い走りの残金を黙って使ったためタイマンを張らせたと言い訳をした。父親はAらの家に「うちの息子につきまとうな」と抗議した。そのことで裕史くんは殴られた。 裕史くんは、登校しても職員用トイレや保健室、体育館裏に隠れていた。 12/10 裕史くんは「3回吐いた」と言って保健室にいた。 冬休み直前の頃、屋上にポツンと裕史くんが佇んでいるのを教頭が見た。 この頃、「裕史殺すぞ」という電話が何回か自宅にかかっていた。 冬休み、裕史くんはグループ以外の同級生4人と自転車で高尾山に行き、初日の出を見に行った。 1/8 3学期の始業式の日に、金を要求されたが持っていなかった」ため、グループに殴るけるの暴行を受けた。血に染まったカッターシャツを脱いでかばんに隠し、帰ろうとしたときに、3年生の1人に校庭でまた殴られた。耳の付け根を切り、耳の内部も出血する傷を負う。(初日の出に参加した別の生徒も3年生に殴られた。) 教頭が2回目の暴行場面を目撃していた。電話をすると、殴った上級生も裕史くんも、「そんなことはなかった」と否定。そのままにしていた。 1/16-21 朝、学校へ行くと言って家を出るが欠席。近くの病院の待合室で過ごすことが多かった。 1/22 体育の時間に見学していたとき、グループに捕まって、職員室前の校庭のプラタナスの木に登らされ木をゆすられながら、歌をうたわされた。担任教師らが止めに入ったが、グループに積極的な指導をしなかった。 1/30 3学期の始業式のあと欠席を続けたが、自分で学校に電話をかけて助けを求めた。一度相談に行くことになって学校に行ったところをグループの一人に見つかり、いじめられようとしたが、居合わせた女性教師に「先生、オレを助けてくれ」と頼み、女性教師は裕史くんと一緒に相談室に電気を消して隠れ、担任に引き継いだ。グループは学校中を探し回っていたが諦めて引き揚げた。その後、下校口に行くと、靴をトイレに投げ入れられ、水浸しにされていた。この日は、母親に迎えに来てもらって帰宅。両親に「もういやだ」などと漏らしていた。 1/31 午前8時過ぎ、通学バックをもって家を出る。4万5千円をもって家を出たが、亡くなったときには財布には340円だけだった。所持品には、途中で購入した「ケースランド」(桑田佳祐著)、「幸か不幸か」(ビートたけし著)、「やったね!元気くん」(保坂展人著)があった。 2/1 新幹線に乗って盛岡へ(父親の郷里で、当時叔父が住んでいた)。当時夜9時半頃、JR盛岡駅構内のトイレで首吊り自殺。 |
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葬式ごっこの色紙 | 「かなしいよ」(担任教師)「さようなら」(別の教師)「やすらかに」(別の教師)、「天国に行ったらパンチパーマにしろ」「いなくなってよかった」「やすらかにねむれ」「なんでもいいよ」「バンザーイ」「昨日まで元気だった君がまさかこんなことになるなんて、親友の僕には信じられない」「いい想い出ありがとう」「君はいやつだったね」「今までつかってゴメンね。あれは愛のムチだったんだよ」「ラッキーじゃん」「なんでもっとうたってくれなかったの」「だいすきよ」「ざまあみろ」「つかわれるやつがいなくなってさびしいよ」「おれは、むじつだ」などと書かれていた。 生徒たちは、「どっきりに使うから」「劇に使うから」などと言って、教師たちにも色紙に書かせた(「葬式ごっこ」八年目の証言/豊田充著/風雅書房の元生徒の証言から)。 |
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学校・ほかの対応 | 教師の1人は、加害グループの1人に蹴られて、胸の骨を折る被害を受けていた。教師は、授業中に乱闘騒ぎがあっても知らぬふりをしていた。 1/8 教頭は裕史くんが殴られていたのを目撃しながら、翌日からの欠席を「サボりかな」と思っていた。 家出の前日、裕史くんは教師にグループの暴力を訴えたが、いじめ対策面談の席で担任と教頭から「転校か、警察に訴えるしか、ほかに解決策はない」と言われ、「この学校にいてもダメだ。他の中学校に転校したら」と勧められた。(転校先候補として名をあげられた学校は、かつて裕史くんがグループの命令で使いに行かされ、ひどく殴られた学校だった) |
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担任教師の対応 | 1/30 担任教師は、トイレに投げ捨てられていた裕史くんの汚れたスニーカーを洗ってやりながら、「ぼくにできるのはこれだけだ」と言った。 裁判の証言で、マジックペンの落書きは「いっしょにふざけていた印象」、葬式ごっこは「いじめる気持ちではないので、ほんの軽い気持ちで書いた。生徒がギャーギャー言うようなかたちで騒いだので、その雰囲気にのまれた」、木登りは「ふざけてやらされていると思った」と話した。 12月16日から1月30日まで裕史くんが学校を休んだのを担任は「ズル休み」だと思っていた。 一方で生徒の調書で、「担任の先生は、生徒を怖がって何も注意しません」と証言。 |
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法務局の対応 | 1986/3/15 東京法務局が、事件直後から事情聴取を開始し、「中野富士見中に人権侵害があった」と認定し、校長に対し「地域社会と一体となって指導強化に配慮して欲しい」と勧告。 | |
教育委員会ほかの対応 | 中野区教育委員会は、区民の投票をもとに教育委員の選任を行う全国で唯一の準公選制を採用していた。(ただし、鹿川君のいじめ訴訟は教育委員会事務局主導で進められた) 教育委員たちは、すぐに公開審議会を開催し、教育委員自ら富士見中関係者から事情聴取した。事件直後は中野区は公式には「いじめが鹿川くんをめぐって存在し、遺言の文面から自殺原因にはいじめがあったものと受け止めている」と認定し、校長や教師を処分。しかし、行政としての正式謝罪や補償、いじめ防止の具体的な指針を示すことをしない。 裁判に入ると中野区も東京都と協力していじめはなかったと言う。 |
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処 分 | 1986/3/20 東京都教育委員会は、中野区教育委員会の報告書に基づき、中野富士見中学の校長と教頭、葬式ごっこに加わった4教諭に対して減給や戒告処分を発令。 担任は長期にわたる大手学習塾の無届けアルバイトも問われ、退職金なしの諭旨免職。 校長以下定年間近の3人の教師たちは定年まで2〜3年を残して3月で依願退職。 いじめ自殺にからんで教師が処分されたのは全国初。 |
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被害者 | 裕史くんは身長158センチと小柄な体格で、運動が苦手。穏和で気弱なほうだった。 いじめられても「やめて」と言わず、へらへら笑っていた。 中学1年生の秋から約1年間、母親が別居。 |
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加害者 | AとBは、裕史くんの小学校からの友人だった。 グループの仲間は、「そんなに悩んでいたとは思わなかった」「まさか死ぬとは思わなかった」と発言。周囲がいじめを隠蔽するなかで、本人や親までがいじめはなかったという。 1986/4/2 生徒16人を書類送検。 1986/2/1 A、B少年、家裁で、傷害罪・暴力行為等処罰に関する法律違反により保護観察処分。 |
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背 景 | 6月頃、突っ張りグループが他校のグループに呼び出しをかけ、付近の公園で乱闘寸前の状態になった。 2学期はじめ、付近の住民から、「授業中なのに、学校の外で遊んでいる子がたくさんいる」という電話が教育委員会に電話がかかってきた。 11月、中野署が、ウイスキーを回しのみしていた突っ張りグループ8人を補導。この頃、公園で酒盛りをしている生徒たちを付近の住民が目撃している。 |
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他の被害者 | 教師でも「バリケード遊び」をやられて泣きそうになるものもいた。 担任教師もBに殴られて、肋骨を痛めたことがあった。それから生徒になめられる。 1985年はじめ頃、花札トバクをめぐる支払がもとでのトラブルやいじめが起きていた。このことは、ある生徒の母親から校長の耳に入っている。3月にこの件が区議会で問題にされ、区教委で問題にされ、区教委は校長に生活指導の徹底を求めた。 1985/ 1学期の終わり頃、裕史くんと同じクラスの男子生徒が、集中的にいじめられ、2学期に別の公立中学校に転校していた。 2年生の女子生徒で、女子生徒から「お前なんかいらねえよ」「お前、死ね」と書かれるなどのいじめを受け、対人恐怖症になり、不登校になった生徒がいた。3年生になって学校が落ち着いた頃復帰。 1986/2/21 文部省調査に、中野富士見中はいじめ7件を報告。いじめ集団解体できず。 |
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その後 | 1986/2/13 同中2年B組で、理科の授業中、生徒Aが教師に注意されたことに腹を立て、同級生のYくんの背中を殴り始め、「お前は鹿川二世だ。鹿川のように自殺しろ」と約40回殴り続けた。怒ったYくんがAと取っ組み合いのケンカを始めたところ男性教師(29)がYくんに「やめろ」と注意。Yくんは「Aを殺して自分も死ぬ」と金物屋に刃物を買いに行き、教師ともめているところを警官に見つかり、Aは暴行容疑で逮捕。 同教師は葬式ごっこの色紙にサインしていた1人だった。Aは「先生が『全力をあげていじめの問題に取り組みたい』とかっこいいことを言ったので反発したくなった」「いじめを止められるか試した」と供述。また、母親に「Yくんが鹿川くんのように自殺する弱い人間かどうかも試したかった」と言っていた。 学校側は記者会見で、「逮捕された生徒はつついた程度。暴行を放置したわけでない」と否定。 |
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誹謗・中傷 | 脅迫電話や投書あり。「どうして親が知らなかったのか」「あの家庭なら子どもが自殺して当然」などの批判の声。中学生らしい声で深夜、「裕史が死んでよかった」などのいやがらせの電話が相次ぐ。 1986/3/12 裕史くんが遺書であげていた同級生のCとその母親を「悪魔」と中傷する告発ビラが同区内の家庭に配布され、電信柱や掲示板に貼られる。 |
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裁 判 | 1986/6/23 両親が「自殺に追い込まれたのは、学校や同級生の親たちがいじめを放置したため」として、東京都・中野区と2人の同級生を相手取り、総額2200万円の損害賠償を求める訴訟を起こす。 | |
裁判の目的 | 森田健二弁護士担当 鹿川裕史くんの死を風化させないため、いじめによる自殺の再発防止の具体的指針を、三当事者(被害者・加害者・教育行政当局)で裁判上の和解という方法により、作り上げることが目的だった。(和解を拒絶される) |
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被告(行政)側の考え | 1.事件当時、いじめの存在を認めたのは教育行政的見地からであって、法的に認めたわけではない。裁判となれば法的係争なので別問題である。 2.いじめ防止については、既に十分に取り組んでいるので、これ以上のことは裁判の和解として必要だとは考えていない。 3.鹿川君の死に対しては遺憾の意を表明することはできるが、責任があったとは考えていない。 4.金銭的には、責任と切り離した。通常の見舞金程度(10万円程度)なら検討することが可能である。 1986/9/12 訴訟における区側の対応について、教育委員長は「裁判は教育委員会の手が届かないところで、どんどん進行していくような印象がある」と疑問を呈した。それに対して、庶務課長は、「この裁判の被告は中野区であって、教育委員会ではない。中野区の代表である区長がどう対応するか判断する」と述べている。 |
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一審判決 | 1991/3/27 東京地裁(村上敬一裁判長)は、いじめと自殺の因果関係、予見可能性を認めず、いじめの存在そのものについても否定した。一審 原告実質敗訴。 「(自殺する2ヶ月前の)昭和60(1985)年12月頃までは、(鹿川くんは)本件グループに対しい一定の帰属意識を持ち、そこで果たす一定の役割等を通して自らを位置づけきた。」「これらはむしろ悪ふざけ、いたずら、偶発的なけんか、あるいは仲間内での暗黙の了解事項違反に対する筋をとおすための行動又はそれに近いものであったとみる方がより適切であって、そこには集団による継続的、執拗、陰湿かつ残酷ないじめという色彩はほとんどなかったものということができる」として、「いじめとみることはできない」とした。 交友グループから抜けようとした鹿川くんに対しグループが加えた1986年1月以降の暴行だけを認定。学校の安全義務違反に基づく慰謝料(300万円と弁護士費用100万円)のみ認めた。 いじめグループについては、「本件グループでは、必ずしもある者が行動の指揮をとり他の者がこれに追従するとか、上下又は支配・服従といった構図があった訳ではなく、(中略)むしろ気のあった遊び仲間という方がより実態に近いということができ、また、直ちにこれを原告らが主張するようないわゆる「突っ張りグループ」であるとか「番長グループ」であると評価することは必ずしも相当ではない」とした。 その根拠として、 (1)鹿川君は自分の意思でグループに帰属し、校内での問題行動もグループと行動を共にしていた。また、使い走りとして使われていたことについても、それがいやだと教師に訴えていなかった。 (2)遺書で名指しされた本件グループの2人の同級生らにより、鹿川君に対し種々の行為が行われたが、鹿川君がそれらの行為を格別嫌がっていたようには見えず、多くの場合笑っていたことが認定される。 イ.「フェルトペン」事件のときも、格別嫌がることなく廊下を踊るようにして歩いていた。 ロ.いわゆる「葬式ごっこ」についても、色紙のほか牛乳びんに活けた花、みかん、線香などが自分の机の上に置かれていたのを見て、「なんだこれ」と言って周りの生徒らの顔を見たが、生徒らがこれに答え、そのうちの一人が弔辞を読み上げ出したところ「いつものように笑いを浮かべただけ」で別に抗いもせずに色紙を鞄の中にしまった。 などをあげ、“葬式ごっこ”も「鹿川くんがいじめとして受け止めていたとはいえず、むしろひとつのエピソードとみるべきだ」と述べ、「ひょうきん者で前記のような性格特性の持ち主であった鹿川くんとしては、このような悪ふざけの対象としてクラスの注目を浴びることに面映ゆさを感じたであろうことさえ窺われる」として、自殺と直結して考えるのは不当とした。 事実的因果関係については、「いじめ」が当時深刻な社会問題になっていたことや鹿川君が自殺するまでの事実を独自に認定し、逃げ場のない状況でその打開または逃避の方法として自殺したものとしてこれを肯定した。しかし、法的因果関係(予見可能性)は否定した。遺書については、自己顕示欲や自己愛的傾向のあらわれと指摘。 「いじめをなくすことは、学校教育の理想ではあるが、その実現は至難のこと」「『子供のけんかに口を出す』べきではない」とし、「いじめが一因となって自殺した」とのみ認定。 |
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被告側の主張(裁判での証言) | 被告側は裕史くんの遺書の内容を、「くわしいことはAとBとかに聞けばわかると思う」の「くわしいこと」とは、AとBに話していた両親の夫婦仲のこと。「バカなことをするのはやめろ」と呼びかけた相手は両親。「他のヤツ」は妹を指す。と解釈。 さらに、この遺書がいじめについて語っているとしても、AとBのやったことが自殺の原因になったとは考えられないので、実は「怖い父に対して嘘の理由を書いたものだ」と主張。 家庭内の問題については、祖母と母親の間柄に言及。また、事件の前、家庭内で現金1万円が紛失したことをめぐって2人の間にいさかいがあり、きわめて居心地が悪くなっていた。厳格な祖母と兄が怖くて家に帰る気がしなくなったと主張。 証人として出廷した校長、教頭、担任、養護教員の全てが、いじめの存在と、鹿川君に対するいじめの緊迫感を否定。「あれはいじめではなく、ふざけっこだった」「いじめグループは存在しない」「死んだ少年も加害グループと同じ遊び仲間だった」「いじめはなかった」と主張。 |
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高裁判決 | 両親控訴。 1994/5/20 8年8ヶ月後の東京高裁で原告勝訴。 菊池信男裁判長は、長期にわたるいじめに対する慰謝料算定で、都、中野区、同級生2人の被告4者に1150万円(慰謝料1000万円、弁護士費用150万円)の支払いを命じた。。 |
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判決要旨 | 原告・控訴人側の主張がかなり採用され、いじめ認定について、被害者側の受け止めを重視して、遅くとも2学期以降については、いじめと認定された。いじめと自殺との事実的因果関係を肯定し、被害生徒の心身に大きな悪影響が生ずる恐れのある悪質ないじめに対し適切な対処を怠り、さらには、いじめに加担したに等しい「葬式ごっこ」などに、教師側の過失を認めた。 また、加害生徒の両親についても、本件いじめを行った当該生徒は、14歳で既に責任能力を有したが、両親にも親権者として子どもが不法行為を行わないよう監督すべき義務があり、これを怠った過失があるから賠償責任があるとした。 自殺の予見可能性については、一審同様に否定され、自殺損害についての賠償は認められなかった。 確定。 |
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その後 | 「おやじの会」なども結成。学校、家庭、地域が一体になって再建に取り組んで、ほぼ目的は達成されたように思える。 | |
参考資料 | 「子どもの犯罪と死」/山崎哲・芹沢俊介著/1987年12月春秋社、『車輪の下の子どもたち』/渥美雅子編/1988年1月国土社、「いじめられて、さようなら」/佐瀬 稔/1992年2月相思社「うちの子だから危ない」犯罪学博士の教育論/藤本哲也/1994年4月集英社、『せめてあのとき一言でも』/鎌田慧/1996年10月草思社、婦人公論「あぶない親・子関係」1999年1/15号臨時増刊号、『昭和・平成現代史年表』/神田文人編/1997年6月小学館、毎日ムック『戦後50年』/1995年3月毎日新聞社、季刊教育法2000年9月臨時増刊号「いじめ裁判」の中の「第一次いじめ自殺ピーク(一九八四〜五)以降のいじめ裁判/市川須美子/2000年9月エイデル研究所、イジメブックス イジメと子どもの人権/中川 明 編/2000年11月20日信山社、「葬式ごっこ」八年目の証言/豊田充著/1994年10月10日風雅書房、2004/6/15不登校新聞 | |
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