わたしの雑記帳

2003/1/27 大人たちは、今、生きている子どもたちに希望を与えるような対応を!


子どもの自殺があると必ずのように大人たちは「命の大切さ」を子どもたちに説く。まるで、亡くなった子どもが「命を粗末にした」悪い見本であるかのように。
もちろん、自殺を美化する気はない。しかし、なぜ死ななければならなかったのか、その思いに寄り添うことなしに、ただ「命の大切さ」を声高に言う大人たちこそ、「命の大切さ」がわかっていないと思う。

「命の大切さ」。では、生きてさえいればいいのか。子を亡くした親ならそう思うかもしれない。しかし、人間には心がある。その心がズタズタで生きる屍のようにされて、それでも本当に「生きている」と言えるのか。亡くなった子どもたちは、自分の心を守るために死んだのだと思う。心が死んでしまう前に、心を殺されることを拒否して、命を断った。

よく、「本当に愛されているひとは自ら命を断ったりはしない」と言う大人がいる。教育者にも、心理カウンセラーにもいる。本当にそうだろうか。何人もの遺族にあって、子どもたちは本当に愛情を受けて育ってきたんだなあと実感する。子どもの成長過程の写真のなかには、親たちの愛があふれかえっていた。
一方で加害者の話をきくと、愛されて育ってきたのか、疑問に感じることが多い。親が子育てを放棄していたり、権威主義的だったり。重大な事件のあとですら、ただ事件をもみ消そうとやっきになる姿は、果たして本当にわが子のためなのか、それとも自分の世間体のためなのか。そこまでして問題提起をしている肝心の子どもの心は、事件後も放っておかれたままで、人を死に至らしめた反省もなく、相変わらず荒れた生活を送っている。「本当に愛されているひとは」の言葉は、加害者にこそ、親たちへの反省を込めて、与えられる言葉ではないのだろうか。

愛情を受けた子どもは、やさしさを知っているがゆえに、相手の痛みを感じてしまう。自分が死に追いつめられた土壇場でさえ、相手のことを思いやってしまう。それは、多くの子どもたちの遺書が証明している。
「死ぬ気になればなんだってできるはず」と言う人たちがいる。そう、死ぬくらいなら、子どもたちにだって、自分をいじめていた相手を殺す、傷つけることくらいはできただろう。あるいは学校そのものを破壊する行為だって。それでも、それをしなかった。相手の痛みを自分のことのようにわかってしまうから、そして、そんなことをしたときに、誰よりも悲しむ親の顔が想像できるから。自分が他人を傷つけたりすれば、今、一身に自分が親から受けているこの愛情を手放すことになるかもしれないと、意識したかしないかはわからないが、子どもたちはそう考えた、あるいは感じたのではないだろうか。
だから皮肉なことに、良識のある親に、愛情深く育てられた子どもほど、追いつめられたときに、自らの命を断ってしまった。その時に、自分の死を悲しむ親の思いにまでは至らなかった。そんな余裕がもう持てなかった。あるいは、自分のお父さん、お母さんなら、この気持ちをいつかきっとわかってくれるという身内への甘えがあったかもしれない。

では、生き残った子どもは愛情が足りなかったのか?もちろん、そんなことはない。亡くなった子どもたちも、生きている子どもたちも、生死を分けたのはほんの紙一重の差でしかなかったと思う。
いじめを受けて、自殺未遂をした子どもはいっぱいいる。自殺を考えたことのある子どもなら、それこそ、もっともっといっばいいる(あるアンケート調査によると、いじめを受けた子どものほとんどは一度は自殺を考えるという)。ちょっとしたタイミングだったり、衝動に駆り立てられたときに、たまたまそれを止めてくれる人が身近にいたり、無気力に追い込まれて、自殺を行動に写す気力さえ残っていなかったり。
ひとつ大きな自殺事件があるとバタバタと子どもたちが引きずられるように死んでしまう。それも単なる連鎖反応というよりは、子どもたちに心に死に近いものがあって、最後のきっかけを与えてしまっただけなのだと思う。

いじめ自殺の数少ない勝訴判決でさえ、子どもが自ら命を断ってしまったことに、本人と家族の過失を課している。「死ぬ以外にも方法はあった」と大人たちは口を揃えて言う。しかし現実に、その道を子どもたちに示すことができているかといえば、大いに疑問だ。

教師に言っても何もしてくれない。親に言っても四六時中ついていられるわけでなし、学校の中では親の保護はまるで役に立たない。多くの場合、教師に言ってからのほうがむしろ、いじめはより陰湿で激しいものになっている。子ども自身も「チクッた」ということを心理的に負担に思わなければならない。
学校に行かなければいいというひともいる。確かにそれはひとつの方法ではある。しかし、誰がその先の将来の保障をしてくれるのか。そして、いじめた側は何も処罰をされず、いじめられた側だけが一方的に不利益を被るこの理不尽さを誰が解消してくれるのか。また、学校に行かなければ安全かといえば必ずしもそうではない。いじめっこたちは町を闊歩し、ばったり出くわせばまた何をされるかもしれない。家に閉じこもっていても、いつ訪ねてくるか、引きずりだされるかわからない。
ただ「生きている」だけでは何も問題解決されない。誰も解決してくれない。

学校に訴えても、教育委員会に訴えても何の解決策も講じられない。学校はいじめられた側が学校を去った時点で、自分たちにとっての問題解決としてしまう。「いじめられている側が問題」にされる体質は今も何ら変わらない。
生きている子どもにとっても、自分の名誉を守り、理不尽なことを自分に強いた、守るべき生徒を守りもせず傍観していた、果てはいじめる側と一緒になって自分を傷つけた、加害者や学校の責任を問う、最後の砦として民事裁判がある。裁判を起こすしかほかに、いじめをいじめと認めさせる、学校は生徒がいじめられていることを知りながら何の手も打たなかったことを証明する、自分には落ち度がなかったのに理不尽に一方的に学校を追われたのだということを立証する、あるいは相手を反省させて謝罪を得る、手だてがない。

弁護士会に人権侵害救済を訴える方法はある。しかし、必ずしも機能するとは限らない。絶対的多数で自己保身に走る相手の言い分ばかり認められてしまう。勧告が出ても学校側が受け止めようとしなけば法的拘束力はない。あるいは形ばかりの謝罪をもらっても、その薄っぺらさには誠意を感じられず、傷が癒えるどころか、かえって絶望感ばかりが深くなる。

生きている子どもが、学校や加害者を訴えるのは、ものすごく勇気のいることだ。子を亡くした親には、ある面、もう失うべき大切なものなどないと開き直ることもできる。しかし、生きている子どもは、プライバシーや将来、報復の危険性。失うものがある分、より多くのものを賭けてている。裁判に負けて傷つくのは大人だけではない。子どもはもっと深い傷を負うだろう。世の中全体への不信感を高めるだろう。
そんな思いまでして、それでも理不尽なことは許せないと訴えている。それに対して大人たちは、誠意をもって応えているだろうか。

静岡の服部太郎くん000126)の裁判、長野県木島平村中学校970409の裁判を見ていると必ずしもそう思えない。
いずれも、現在、係争中ではあるが、生きて闘っている子どもたちが、死の恐怖にさらされている。大人たちを、自分たち、いじめ被害者の味方だと感じられない状況下にある。
死んだ子どもたちの裁判では「死人に口なし」とよく言われる。しかし、生きている子どもたちの身にも同じことが起きている。子ども本人が、どれだけ声を大にして訴えても、加害者と学校の教師と束になって否定される。しかも、それを証拠立てる責任は原告側にあるという。

学校は自分たちに、加害者側に有利な証拠だけを選んで提出する。もしくは、被害者側に不利な証拠、プライバシーにかかわること、絶対外には出したくないようなことも全て握っている。それは、時に裁判の進行とは関係なく小出しにされて、原告側の戦意を衰えさせる。ある時は、子どもたちのプライバシーを楯に、一切、情報を出そうとしない学校側が、自分たちを有利に導くためには、同じ口で、生徒のプライバシーに全く配慮することなく、法廷で暴露しまくる。
多少、法的に改正されてきてはいても、司法も学校の壁の前では弱腰だ。本当は学校の一切の情報を裁判所にあげたうえで、裁判所が公平にプライバシーにかかわることかどうかを判断すべきだと思う。

服部太郎くんは、集団暴行とその後の集団での押し掛け事件から心に深い傷を負い、PTSDで自宅と父親の経営する仕事場との往復のみの生活を送っている。そのなかで裁判を行い、それによってさらに加害少年から報復として「殺されるかもしれない」恐怖のなかで、家族に支えられながら闘っている。
しかし、そんな彼を裁判官のキツイ言葉がさらに深く傷つける。性的被害にあったひとたちが裁判のなかで「セカンドレイプ」に合うという。傷ついて、そうでなくとも敏感になっている心を爪の伸びた手で無造作に鷲掴みにする。同じ思いを配慮のない裁判官のもとで味あわされている。

木島平村中の事件では、地元に残った両親が投石や器物破損、脅しの被害にあっている。小さな地域では、村人の多くは姻戚関係や仕事上の利害関係にある。警察、学校、教育委員会、役所とて例外ではない。学校を敵に回すことは地域を敵に回すことになる。地域のエゴは根深い。閉鎖された地域では、どんなことが起きても不思議はない。両親は今、命の危険さえ感じるなかで、裁判を闘っている。

死の淵に追いつめられた人間に、ただ「生きろ」ということは簡単だ。しかし、心を殺して、感情を殺して、理不尽さにひたすら耐えて生きることだけを求めるのは、残酷ではないか。
現実に、生きてはいても精神を病み、地獄の苦しみのなかで生き続けている人びとは多い。
「やられたら、やり返せ」と言う人がいる。自分や家族がその責めを負う覚悟はあるのだろうか。いじめを傍観している人間もいじめに加わっているのと同じだ。その理論からすれば、私たち全てが加害者だ。

いじめられて、心の傷から、あるいは体と心のこれ以上の痛みから逃れるために自ら命を断った子どもたちのやさしさに甘えてきたのは、私たち大人ではないか。
子どもたちを見殺しにしながら、「命の尊さ」を説く姿はあまりに滑稽だ。

「命の尊さ」を説くのであれば、まず生きている子どもたちに、生きて問題解決できる道を現実に指し示してほしい。子どもたちが生きていていてくれることに感謝しつつ、味方になってほしい。司法は、自殺した子どもたちに死んだことの過失を課すのであれば、生きて闘うことの利を責任をもって示してほしい。

同じ裁判なら、亡くなった子どものためにする裁判よりも、生きている子どものためにする裁判のほうが、絶対いいに決まっている。ただ、生きている子どもの裁判は、絶対に勝たなくてはいけない。でなけば、より子どもを傷つける結果になりかねない。
そして、その裁判は原告だけのものではない。多くの子どもたちが、死の淵に立ったまま、大人たちの動勢を見守っていることを忘れないでほしい。

裁判は苦しい。お金の負担もかかり、世間体もある。失うものも大きい。よほどの覚悟がいり、誰にでもできることではない。裁判をすることがいいとはけっして思わない。しかし、生きている子どもの裁判で勝てるなら、それは子どもたちの大きな心の支えになるだろう。それで裁判が増えたとして、そのことで学校がもっと真剣にいじめ問題に取り組むのなら、いじめる子どもたちが認識を新たにするのなら、有効なことだと思う。
多くの子どもたちが死をもって抗議してきた。いじめのない社会、学校にしてくれと訴えてきた。その言葉に真剣に耳を傾けてこなかった大人たちに、今度は生きている子どもと親とが一団となって、闘いを挑みはじめている。この流れを潰さないでほしい。被害者を孤立させないで、もっと大きな流れにしてほしい。



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