注 : 被害者の氏名は、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。 また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。 |
S.TAKEDA |
970409 | 暴行傷害 いじめ転校 |
2003.1.27新規 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1997/4/9− 1998/10 |
長野県木島平村の村立木島平中学校で、村外からのただ一人の入学者で、日本人とアメリカ人の混血である男子生徒Aくんが、入学式数日後から約1年半にわたって暴行などのいじめを受け、1998年10月には転校を余儀なくされた。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
経 緯 1 | 1992/ 米国から日本へ一家で帰国を予定していた前年の冬、軽井沢のインターナショナルスクール(複式授業を教師一人で担当)を見学。Aくん編入の内諾をもらう。 1993/6 帰国直前になって、軽井沢のインターナショナルスクールから、「この軽井沢の学校は両親が外国籍で、又、祖国へ帰国する時の為の便宜的な学校であり、公の援助もなく、混んできているのも、その理由である」「母親が日本人であるので、別な教育をうける手立てがないか」と言われ、編入を断念する。 1993/7 Aくんが小学校3年生のとき米国から帰国し、長野市内に住む。 一家は日本での生活を不安に思っていたが、次に移り住んだN市の小学校は長野県下で一番の大規模校で、言語障害クラスを予備に持ち、言語障害教育の専門教師が兼任で、Aくんに対して適切な対応をしてくれた。 1995/11 一家は木島平村のスキー場にペンションを購入して引っ越す。 木島平村教育委員会を訪ね、日本語取り出し授業の可能性について聞く。しかし、教育長から「予算の関係で国語取り出し補習的授業は無理。しいて言えば知的障害児のみどりのクラスなら入れる。今、N小学校で十分な国語取り出し授業があるなら、学区外通学の申請を出したらいい」と言われ、暗黙の圧力を感じて仕方なく同意。 N市教育委員会が引き続きの受け入れを快諾。木島平の自宅から乗用車で往復2時間から3時間(電車と徒歩、車を乗り継いで約3時間)のN市の小学校に、それまでどおり通う。 1997/4/ 中学校では、ただ一人の村外からの入学者となった。 |
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経 緯 2 |
1998/10/20 Aくんは、差別やイジメの被害にあった帰国子弟やハーフの生徒を受け入れた経験がある寮制の学園に、親元を離れて転校。 |
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いじめ・暴行態様 | 上記以外にも恒常的に、 Aくんが日本語をうまく話せなかったことで、「アメリカ人が来た。話題を変えようぜ」「日本語しゃべれ」「あっちへ行け」「おめえとは口きかない」などと言われる。口をきかない。名前をもじって侮蔑的な呼び名を呼んだり、黒板に書く。 英語の教師Mは「私は英語の発音に自信がないのでAくんに発音してもらいましょう」と言って、Aくんに発音させるのを慣習にしていたが、このことがAくんを特別視する同級生の傾向に拍車をかけ、揶揄されるため、Aくんは拒否するようになった。 すると同級生からは「英語もできないのか」と言われた。また、発音することを拒否したため、Mからは「授業中の態度がよくない」と成績を下げられた。 机の上に給食の残りを置く。靴を隠す。靴ひもを切る。ものを隠す。体操着や袋が切られる。 下駄箱の靴を取られ、7キロ以上の道のりを裸足で歩いて帰ってきたことがあった。 足を出して転ばせて、「お前はゴミだ」と数人で踏み歩く。反応すると無視、もしくは、集団暴行が加えられる。 集団暴行によるけがの診断書は5通にも及んだ。 |
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背 景 | 教師の声が聞こえないくらい騒ぐ生徒たちで学級崩壊状態になり、教師が授業中に教壇上でへたりこんだり、英語教師のMが授業中、「みんなが聞いてくれない」と泣き出して授業を放棄したり、「こんなうるさいクラスは教えてられない」と叫び教室から飛び出したりすることがあった。 同様のことが被害生徒のクラスのみならず、他クラスでもしばしば起こっていた。 小学校時代にすでに、T、K、S、R、Nらは同じクラスで、このクラスは授業崩壊していた。 親たちの話し合い会が行われた際、Tの父親が「子どもたち授業中押さえて勉強させることができない教師が悪い。女教師だからだ」などと発言し、その後、担任の女性教師は自主退職した。 |
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被害者 | 日本人の母とアメリカ人の父との混血で、アメリカ国籍。 小学校3年生時に日本に帰国して、やや日本語がたどたどしかった。 |
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被害者の親 | 親は英語塾を営んでおり、当時、Aくんのクラスや学年に12名以上の塾生徒がいたため、生徒らから直接、学校の情報を得ることができた。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
担任の対応 | 1クラスの生徒数は40名。1年生の時から、Yのクラスは問題が多く大変だった。 1997/ 当時、クラスの副担任は、数年前からのストレスで自宅にこもり、心療内科へ通院。欠勤が多くY一人に負荷がかかっていた。 このクラス運営は無理と感じたYは校長へ何度も善処を頼んでいたが、協力は得られなかった。 担任の授業中に、Aくんは集団暴行を受けたが、担任は止めなかった。 Aくんが継続して2〜7日休んでも、要求するまで宿題や今日の勉強を書いたプリントさえ渡さないため、教頭に直接電話して、FAXしてもらっていた。 1998/9/ 担任に何度も訴えていたにもかかわらず、学級懇談会でいじめのことが話し合われなかったため、PTA会長を通じてPTA総会の開催を要求したが、担任は「学校内であった出来事については生徒に隠すようなことはしていません。個人的に、また、学級の中で指導してきています」「個人のプライバシーに係わることもあります」として、「開催する必要がない」旨、PTA会長に手紙を出していた。(この手紙を受けて、PTA総会は開かれなかった) 1999/12 いじめ事件が報道された後、担任のY教師は、「おい、このクラスでいじめをした者、手を上げろ」と言い、数人が挙手した。結果、教師は「先生はうれしい。挙手してくれて」と言ったという。 |
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加害生徒 |
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別の事件 |
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学校の対応 | Aくんの名前の表記については、入学の前年度約9カ月前から決めてあり、書類も提出してあったにもかかわらず、入学式の前日、Aくんの名前の書き方で係りの教諭から「すぐ来て名前を書いてほしい」と電話があり、結果的にFAXで済ませる。その後もAくんの名前表示はいつもまちまちであった。 保護者は教師に、Aくんは日本語が弱いので心配です。よろしくお願いしますと頼んでいたが、1997年の秋の終わりまで何ら教育的配慮はなされなかった。そのため、自費で家庭教師を雇い、日本語補習する必要に迫られた。 帰宅したAくんの異変に気づき、翌日、電話をしても、上司である校長が知らないことがあった。 特定の生徒保護者と飲み食い、カラオケをする教師がいる。 息子のいじめを心配した親は、米国領事館に相談。 1998/10/6 米国大使館領事からの要望の手紙に対して校長は、「いじめはなく、被害生徒は元気に登校している」と返事を書いていた。 |
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人権侵害申し立てと、その後の対応 | 1998/8/31 両親が長野弁護士会に人権侵害救済の申し立てをする。 1999/11/ 約1年間の調査を経て、長野県弁護士会から長野県教育委員会宛と木島平村宛に「改善要望書」が送られる。 訪ねた報道陣に対して、木島平役場の行政官は「裁判になればなったで、その時は受けて戦う」とコメント。 1999/12/ 木島平定例村議会で村長が、根底にいじめに繋がるものがあると認める。 一方で、女性議員が議会の討議で、「長野県弁護士会等の第三者機関がいじめと認めたのなら、どうしても受け入れなくてはならないのがおかしい、納得がいかない。いじめで、すでに謝っているのに、それ以上、何を望むのでしょうか」と、要望書に対して疑問をぶつける。 教育長が学校長を連れて謝罪しに訪問。校長は、「いじめのリーダーたちは、成績が良い生徒たちが多く、従来の学校荒廃のパターンと違い、うかつでした」と謝罪。その後も被害者両親に対して数回にわたり謝罪する。 一方で校長は1カ月後、いじめのリーダー格生徒らが県下有数の進学高校への進学を希望するに当たり、学校推薦を出した。 2000/3/ 弁護士立会いで被害者両親と学校側が話し合いの場を持つが、木島平村は1回きりの出席のみ。多忙を理由に話し合いを引き延ばす。 |
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作 文 | 1999/12/24 事件から2年以上たって、学校側は弁護士会の改善要望書が送られてから、いじめ関与のクラス生徒全員に、Aくん宛ての反省作文を書かせた(道徳の時間に書かせたと思われる)。 授業中の集団暴行を遠巻きに見ていた生徒らは、「いじめがあった」「いじめらしいのがあった」と書いていた。加害者であるTの作文には、「いじめではない」とか、「あれは一対一の喧嘩だった」と書いていた。 |
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加害生徒ら保護者の対応 | 長野県弁護士会の改善要望書が出された後、木島平村中学校は、学級の保護者たち、いじめに関与したとされる生徒の保護者を召集。特に、いじめ関与者には学校側で用意したAくんへの謝罪文の原稿をそのまま写させようとしたが、「今頃、昔のことを何で」と保護者らは拒否。 2000/3 召集された保護者たちから、木島平村行政側の隣席関与なしで謝罪をしたいとの申し入れがAさんにあり、話し合いをする。保護者らは、「学校から連絡がほとんどなく、Aさんからの連絡や手紙で知り、校長に問うと全て解決している。それ以外は事実確認がもう少しできてから連絡すると言われていた」「その後、校長からも担任からも連絡がないので、解決したと理解していた」と主張。謝罪もなされた。(Wの親だけは不参加) |
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教育委員会の対応 | 1998/12 保護者が所用で教育委員会へ行った折、教育長から「坊ちゃんは、新しい学校でどうしてるか。もう村には戻らんかの」と言われた。Aさんは、「○○(新しい学校名)にはいじめがないし、教員がきちんとしているから安心です」と答えたという。8ヶ月後、この教育委員会は毎日のようにAさん宅に謝罪しにきた。 1999/-2000/ 報道で、いじめ事件のことを知った村の母親たちが、自分の子どもももしやと危惧し、教師や教育委員会へいじめ事件について質問するが、木島平村教育者の回答はいつも、「その件はお話できません」とのみだった。 Aくんの保護者が教育長に直接、現状を話そうとすると、「会議で時間がない」とか、「教育委員会よりも直接、木島平中学へ行け」と言われる。「それでは、教育委員会の監督義務はどうなるのか」と問うと、「はい、はい、判りました。今から言いますから」と軽くあしらわれることが多かった。 当時の子供教育相談員は現在の教育長で、村報に他所での「いじめ自殺事件が痛ましい」と書いていたので電話するが、不在が多く、伝言を何度残しても返事がなかった。 |
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誹謗・中傷・妨害行為 | 家族が経営する宿に些細な苦情が持ち込まれる。無言電話やいたずら電話がかかる。 裁判に訴えたことで村の印象が悪くなり、観光に悪影響が出た、観光行政をじゃましているなどと言われる。 ゴミ収集所で嫌がらせをされる。家に石や植木鉢がぶつけられたり、車や店のショーウインドウを傷つけられたり、破壊されたりする。 これらは提訴してからエスカレートし、被害者一家が命の危険を感じるまでになる。 加害者宅への深夜の電話の主を、Aくんの家族だと決め付ける。 2000/7/ 提訴の報道の後、木島平村立北部小学校で授業中、M教師が小学生の生徒らに、「こんなことくらいでいちいち裁判起こされたら学校はやっていけない。負けたら君達の教材だって、夏の海の学習旅行の予算にも影響があるんだよ」などと言う。 |
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裁 判 | 2000/7/ 少年と両親が、学校設置者である木島平村を提訴。 (Aくんの陳述書 参照) |
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被告側の言い分 | 学校側は一転していじめを否定。校内暴力で負傷したことも全て否定。 けがについては、「学校で応急処置をして帰宅3時間後、病院へ行き、骨折と判明したのは、自宅での別の原因ではないか」とする。 また、「Aくんは乱暴ものであった」、Aくんの小学校時の指導要領を引用して「すぐ泣く」などと言う。 「県外の私大出身者である母親は信州大卒者の多い信濃教育全体を見下していた」とする。 転校については、「親子関係がうまくいかなかったので転校させた」、「母親は仕事に忙しく、父親が病身であるために、子どもを寮に入れた」、「日本語の問題で、希望する地元高校への進学が望めないので、中学から私立へ入学すれば一貫教育の高校へ入りやすいので転校させた。いじめとは関係ない」などと反論。 「学校は中1夏前から日本語取り出し授業を用意した」(実際には中1の10月から)、「担任や学校は、いつも生徒のプライバシーを優先にして、適切な指導を重ねたが、効果はなかなかあがらなかった」と供述。 「このいじめ事件と関係して、3名の登校拒否生徒が生じた」と、小学校から継続的に不登校だった加害生徒らの不登校の原因を原告側の言動に求めた。 原告の指摘に対して、「木島平中学校の教師で生徒たちの母親たちとカラオケに行く教師は一人もいない。まして、担任は酒に弱く、カラオケなど言ったこともない」と裁判の答弁書には書いていたが、法廷での証人尋問で担任は、「2回くらい、懇談会のあと、夜、担任クラスの母親たちとカラオケに行った」ことを認めた。 村の観光メールに来た苦情を裁判に持ち出して、原告側を非難。 |
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裁判での証拠 | 担任の供述書の3分の1は、担任クラス生徒たちの「生活ノート」からの引用だった。裁判官から証拠提出を求められたが、原文は半分も残っておらず、その際、担任は「生徒のプライバシーがあるので」と抗弁。(生徒のプライバシーを楯にとりながら、生徒の日記的要素が強い「生活ノート」を引用する際に、生徒らから許可をもらっていなかった) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
裁判結果 | 2004/3/ 長野地裁で、村が原告側に150万円を支払うことで和解。 和解条項では (1)いじめの事実や教諭の対応が不十分だったことを双方が認める (2)原告側は、いじめの原因の一端をつくったことを認める などが盛り込まれた。 |
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参考資料 | 木島平村立中学校いじめ訴訟のホームページ http://www7.plala.or.jp/kijimadairaijime/ 裁判の陳述書、ほか |
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