子どもに関する事件【事例】



注 :
被害者の氏名は、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。
また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
970409 暴行傷害
いじめ転校
2003.1.27新規
1997/4/9−
1998/10
長野県木島平村の村立木島平中学校で、村外からのただ一人の入学者で、日本人とアメリカ人の混血である男子生徒Aくんが、入学式数日後から約1年半にわたって暴行などのいじめを受け、1998年10月には転校を余儀なくされた。
経 緯 1 1992/ 米国から日本へ一家で帰国を予定していた前年の冬、軽井沢のインターナショナルスクール(複式授業を教師一人で担当)を見学。Aくん編入の内諾をもらう。

1993/6 帰国直前になって、軽井沢のインターナショナルスクールから、「この軽井沢の学校は両親が外国籍で、又、祖国へ帰国する時の為の便宜的な学校であり、公の援助もなく、混んできているのも、その理由である」「母親が日本人であるので、別な教育をうける手立てがないか」と言われ、編入を断念する。

1993/7 Aくんが小学校3年生のとき米国から帰国し、長野市内に住む。
一家は日本での生活を不安に思っていたが、次に移り住んだN市の小学校は長野県下で一番の大規模校で、言語障害クラスを予備に持ち、言語障害教育の専門教師が兼任で、Aくんに対して適切な対応をしてくれた。

1995/11 一家は木島平村のスキー場にペンションを購入して引っ越す。
木島平村教育委員会を訪ね、日本語取り出し授業の可能性について聞く。しかし、教育長から「予算の関係で国語取り出し補習的授業は無理。しいて言えば知的障害児のみどりのクラスなら入れる。今、N小学校で十分な国語取り出し授業があるなら、学区外通学の申請を出したらいい」と言われ、暗黙の圧力を感じて仕方なく同意。

N市教育委員会が引き続きの受け入れを快諾。木島平の自宅から乗用車で往復2時間から3時間(電車と徒歩、車を乗り継いで約3時間)のN市の小学校に、それまでどおり通う。

1997/4/ 中学校では、ただ一人の村外からの入学者となった。
経 緯 2
1. 事件 1997/4/9 入学式直後、村立公園で空き缶拾いの課外活動の際、滑り台で遊んでいた時にAくんは、R、T集団に押され、体の大きなに圧しかかられ右腕を骨折。応急処置的に包帯を右手に巻いてもらって帰宅。
本人 Aくんは入学間もなくだったために、加害者らの名前をあげることができなかった。
目撃していた生徒らから、押した生徒の名前が判明

骨折のため、6/26までギブスを装着
家族が夜9時45分頃、夜間緊急医療に連れていく。
担任 事故について担任のY教師は、「応急処置をしました。僕も傍にいなくて。(赴任して)来たばかりでよく判らない」と言う。
学校 校長が菓子折り持参でAくん宅を訪問。「申し訳ない」と繰り返した。
保護者の求めに応じて謝罪の手紙を書く。
医療費は立て替えで、後に学校から振り込みがある。
2. 事件 1997/4/ - 5/ 「外人は毛深い、動物に近い」「毛唐は毛深い」「外人はくさい」「ちゃんと日本語しゃべれ」「お前、来るところちがうんじゃないの」「アメリカ人がなんでこの学校に来るの?」などと言われる。

男子生徒らが遊びに行く話をしている時に、Aくんが加わろうとすると、「お前は、関係ない、来なくていい」と言われたり、談笑の輪に加わろうとすると、「外人は関係ない」「あっちへ行け」などと言われる。

また、Aくんの父親が病気治療に通っていることを、「お前の父ちゃん、アメリカ人なのに、村の保険から何百万も金払うだってな」と言われる。その後、村支払いの具体的な額を書いた紙を背中に貼られた(囃したてた生徒の父親は村役場の職員で、保険料の支払いを知ることができた)。

学生ズボンや布製の筆箱にチューインガムをつけられる。

下駄箱の上履きや運動靴がなくなる。
本人 鏡で見ながら背中の体毛を剃る姿や、朝、登校前、氷で学生ズボンや布製の筆箱のチューインガムを落としていた。

暗い表情をするようになっていた。同級生に乱暴な行為をすることがあった。

親がいじめのことを尋ねると、「あるよ。でも、学校に言わないで」と答えていた。
6月頃、朝、どうしても登校したがらないことがあった。
担任にいじめがあることを知らせた。

防臭スプレーを用意し、汗くさくならないように制服のズボンを2着購入して、毎日、替えられるようにした。

日本語のハンディがあるAくんのために家庭教師をつけた。また、Aくんを無理に学校に行かせず、休ませて、別の喜びや関心を持たせようとした。
3. 事件 通学に7キロ以上の道のりがあるために、学校から許可をもらって、マウンテンバイクで自転車通学。帰宅時は登り道が5キロ近くあるため、親が送り迎えできるときは乗用車のトランクに入るようにと折りたたみ式を購入。
(Aくんの保護者は、村規定にある村内の長距離通学生用バスに乗せてもらえるよう教育委員会に申請したが、「生徒数が少ない」という理由で却下された。1999年の弁護士会の村への要望書後、Aくんの在住地区にも通学バスが運行されるようになった。)

複数の級友から、「ちゃちな自転車なんか買いやがって」と集団で囃される。
つばを吐きかけられたり、自転車の前ポケットに給食のパンの食べ残しを入れられたりした。

6/10 自転車の接続部が緩んでおり、Aくんが自転車に乗っている時、急にがくんと崩れて腹部打撲。(自転車にイタズラされた可能性ありと保護者はみている)
本人 「ボルトがゆるんでいたのをよく調べなかったので、僕が悪い」と言っていた。
担任教師に自転車のことを話し、目を配ってくれるようにと頼んだ。
また、上級の女子生徒から、「体育科のO教師なら、ちゃんと監視してくれるし、叱り方がうまい。生徒からも信頼されている」と勧められて、学校を訪ねたときに偶然すれ違ったO教師に自転車のことを依頼。
4. 事件 ギブスをはめていたため4月から6月末まで、バレー部の部活に出席できなかったAくんは7月から参加。体育館の講壇下の収納庫からイスを出すことを他の部員から教えてもらえず、一人だけイスがなかった。床に座る練習日が続いた。また、タオルを他の部員のイスの上に置いておくと、床に落とされたりした。

夏休みの部活で、男子生徒K、T、Uから掃除道具の隙間に着替えや私物を置くように言われる。
本人 夏休みの部活を行き渋るようになった。
Y教師に、うまく注意をしてほしいと依頼。
担任 Y教師は、「Aくんのお母さんから、こういう電話があった。仲間外れにするやつは許さない。今から、みんな床に座れ」と言って全員からイスを取り上げ、バレー部員を叱った。
本人 Aくんは同級生から、「すぐ、学校に言うから怖いよ、お前の親は」と言われ、その後、学校で起きたことを親に報告することが少なくなった。
5. 事件 昼休みの廊下で、Aくんが他の野球部員の頭を「坊主!」と呼んだことを聞きつけた隣のクラスのが、仲間意識から逆上。つかみあいのけんかとなった。
その時にSの眼鏡が落ちたのを壊れたら弁償させられると思ったAくんが、片手に眼鏡を持ち、不自由になってバランスを崩したところをに倒された(被告側は裁判の答弁書で、AくんがSの眼鏡をとりあげたためにけんかになったと主張)。
倒れたAくんに馬乗りになって首をぐいぐい絞め、制服のベルトの金具が壊れるほどの強い衝撃で、腹のあたりを膝蹴りした。他の野球部員は周囲を取り囲んでいた。
Aくんの首にくっきりと残された指跡に驚いて、担任に電話。
担任 親の抗議にY教師は、「今日、昼休み、廊下で隣のSとけんかした。理由は判らない」とのみ説明。もう少し詳しい説明を求めると、「隣の担任とも相談しましょう」と回答。その後、詳しい説明や措置したという報告は担任からも学校からもない。
上京した折、知り合いの弁護士に首締め事件のことを相談。「首を絞めてこれだけの痕を残す凶暴なやり方だから危険です。学校長は何か今後の処置をしていないのですか。だめなら、保護者の誓約書を書かせるとか、それもだめなら、警察しかない。もののはずみとは逃げられないでしょう」との助言を受ける。
担任 Y教師に誓約書の話をするが、「それは信州では、この辺ではしないでしょう」「Sの担任と協力して、宅へ行ってもらいましょう」と言う。その後、誓約書について返事はない。
加害者とその親 一週間位待って、Aくんの親が宅を訪問。両親が出てきて、「も負傷している。けんかは両成敗だから」と言って、のズボンをめくり脛の青アザを見せた。

Aくんの親が、首の指跡の凶暴さとは比較にならないので誓約書を書いてもらいたいと言うが、「そこまで学校から聞いていない、書かない」と言う。
Aくんの親が、未成年者の事故における保護者の法的責任や警察のことを持ち出すと、父親は急に譲歩して「担任と相談して返事する」と回答。

一週間近くどこからも返事がないため、配達証明で宅へ診断書と写真を添えて、誓約書とベルト破損の弁償を求める手紙を出す。誓約書なしで、ベルト代金が現金書留で届く。その間、は学校へ来なかった。
6. 事件 11/18 Aくんが、に「第1回色白大賞」と書いた紙を渡したか言ったかしたのがきっかけで、と口論。

11/19 イスに座ろうとしたとき、がイスを引いたため、Aくんは床に尻餅をついた。が逃げ、Aくんが追いかけた。途中で、女子生徒、男子生徒、その他数人に直接、間接的にぶつかった。J、O、P、U、Qなど5〜6人が集まり、Aくんを教室の隅で取り囲んだ。がAくんの背中を蹴り倒し、「オレもついでに蹴ろう」「私も蹴ろう」と集団興奮状態になった。7人から10人位(女子生徒は2名)が取り囲んで、上半身、足を蹴られ、身体を踏まれた。顎も蹴られ、唇が切れた。

集団暴行の最中にチャイムが鳴り、担任のYが数学の授業で教室に入り収まった。
しかし、蹴られて腹を立てていたAくんが、の髪を引っ張った。8名ほどが立ち上がり、囲んだ。が廊下に出て、Aくんが追った。廊下でがAくんの身体を押さえ、がAくんの顔を足で蹴り倒した。頭が床に叩きつけられたAくんの顔をが、ゴム底のギザギザが顔に残るほどすさまじい勢いで踏み続けた。同時に、動けないAくんの腹をが蹴り上げ、J、N、O、他2名の男子生徒が蹴り続けた。
授業中のことで、教室内にいた女子生徒たちは、廊下で大勢の男子生徒が暴行をおこなっているのを覗いていた。
本人 家で電気をつけることを拒否。寝る時も制服をぬがず、部屋の隅にいた。心配した保護者が無理に服を脱がせると、身体中に青アザがあり、頭後部にこぶ、切れた傷があり、顔はむくんでいた。
「だれも助けなかった」と言っていた。後々までも背中と腰が痛いと訴えていた。
担任 集団暴行の最中、担任は生徒らを止めることをしなかった。
保護者が事件直後、Y担任に訴えたが回答はなかった。詳しい話は聞けず、担任は授業中であったこともぼかしていた。
学校 親からの抗議の電話に対して校長は、「集団暴行とは大袈裟です。大袈裟です」と繰り返した。
心配した親が長野県子供電話に相談して、「もう、このような集団で蹴られたり、踏まれたりは、人権に係わる問題です。人権の相談に行きなさい」という内容の助言をもらう。
7. 事件 1998/6/6 中学校2年生の校外活動で山菜採りに行った。小班に分かれた際、Aくんはらから「向う行け」と言われ、同じ班の他の生徒と話そうとすると、から「やめろ、こいつと話すな」「向う行け、こっちに来るな、臭い」などと言われ、排除された。
そのため、Aくんは一人で奥へ行き山菜を採った。

解散間際、らと口げんかになり、途中、別の生徒群が数回、Aくんに投石し、頭や背中にあたった。Aくんが投石し返したところへ、担任のYが来て、投石していたAくんを見て、「お前、帰れ!」と怒鳴り、解散した。

教師たちに引率され下山する生徒と親の迎えを待つ生徒がいたが、Aくんが自転車で、親の迎えを待つ生徒等の傍を通った際に、他の男子生徒たちと口論。
口論の最中に、見ていたが、魔法瓶に入ったお茶をAくんに浴びせた。Aくんが怒り、を追った。は電話ボックスへ逃げ込みドアを閉めた。そのドアへ、Aくんが自転車でばんばんと体当たり。恐怖にかられたNはAくんに謝った。
担任 投石事件で担任からAくんだけが叱られたのを見た女子生徒が、「何で、Aくんだけ返す。かわいそう」と抗議したが、「今日はいつも(不登校で)来ないZ(女子生徒)がいるじゃないか」と答えたという。
本人 シミのついた白い米国の大学のロゴ入りシャツを見せて、「もう、いいよ。こんな学校。にお茶かけれられた」と話した。やけどを心配して問うと、「顔・首、胸と少し熱かった」と答えた。
翌日、Aくんを休ませた。3日後に、お茶のシミがついたシャツを持参して、学校の担任を訪ねた。
担任 親が担任に何が起きたのかを問うと、「僕が女生徒に呼ばれて行くと、Aくんが石を皆へ投げていました。興奮していたので帰しました。でも、Aくん、一番たくさん山菜を採りましたよ」と言った。

保護者がシミのついたシャツを渡し、「お茶をかけるなんて侮辱的な行動です」「起きた出来事をよく双方の生徒たちから聞いて、背後にある心理的なものもよく調査してほしい」と頼んだ。しかし、その後、皆で話し合いした形跡はない。

Yは休んでいるAくんを訪ねてきた(後にYはこれを指導と言う)。
8. 事件 7/ 放課後の部活動後に更衣室で着替えていた時、上級生の(中3)がAくんの局部を蹴り、うずくまった姿勢のところを、(中3)がトランクス型下着の上から指を肛門へつき立てた。直後、Aくんはトイレに行かなければならなかった。出血していた。
本人 帰宅してもAくんはトイレに長時間こもっていた。
翌日、学校へ行き渋り、下痢していると言うので、保護者が病院に連れていき、受診させた。
洗濯物を調べると、トランクスに血がついていた。同級生の女子生徒から後に、「Aくん、暫く、トイレに居た」と聞いて本人に確かめたが、この事件のことは最初、なかなか話そうとはしなかった。
学校 Hの担任教師は2カ月後に、この事件を「大した問題ではないと思ったので、親を呼び出したり、話し合いをしませんでした」と言った。また別の教師は、「時間が経てしまったので、もう、いいんじゃないのですか」と発言した。
9. 事件 7/ 学校のプールで、Aくんはら数人に取り囲まれ、水中で足を押さえられて逃げられない状態で、集中的に水をかけられた。
帰宅後、Aくんの食事がすすまなかったので問うと、水を飲んだと聞かされる。担任に電話。その後、学校に行って担任と校長に事件の状況等を説明する。
担任 保護者からの電話に担任は、「皆と、ビート板まで持ち出して楽しそうでしたよ」と言うのみ。
本人 浣腸事件、プール事件と続き、Aくんは夏休みまで不登校気味になる。
10. 事件 8/ 下旬、の担任が何かのことで授業中に、「〜はしないこと。」とクラス全員に注意した。その後、はAくんに、「お前、ちくったな」と言って、野球の金属バットを持ち、威嚇した。

翌日、母親が学校に行く途中の信号機で待っていた時、が手に何かを持ち、「ぶっ殺すぞ。このアマ」とAくんの母親を脅した。
翌日、学校へ行き、校長室でMの担任と会い、経緯を説明。今後、このようなことが起きたら、警察の生活指導課へ連絡する旨を話した。
11.
事件 8/ 夏休み明けの最初の登校日に、、その同級生ら(中3)4〜5人に、Aくんは取り囲まれる。から、「オレ、浣腸なんかお前にしたか?」と言われ、上級生たちから、「めったなこと言うと、ぶっ殺すぞ」と恫喝される。
本人 8/ 末、目の定まらない様子で帰宅した後、Aくんは荒れた。
自分の写真立てを投げ、そのガラスの上に乗り、足の裏にガラスが食い込んだ。ガラス片を取り上げ、自分の胸に突き刺そうとした。慌てて止める父親の力も及ばないくらいの激しさだった。その後、Aくんは一時間程、山の中に裸足で駈け込んで、探していた家族の前に、どろどろの服装で、疲労困憊の様子で戻ってきた。

また、「僕は何で生まれて来たのか、何で、ここに引越したか」と、荒れた。
「お母さんの大事にしているバラを燃やしてやる」と言って、灯油をバラにかけた。しかし、最後に思い止まってマッチはすらなかった。その後、Aくんはバラを水洗いしていた。

家族は心療内科医にも相談。
12. 事件 男子更衣室の窓から、Aくんの制服が泥の中に投げ捨てられた。
このような被害者はAくんだけではなかった。
担任 Yは、「僕が見た時、Aくんが、窓の外で投げられた服を拾っていました」と説明したのみ。

1998/10/20 Aくんは、差別やイジメの被害にあった帰国子弟やハーフの生徒を受け入れた経験がある寮制の学園に、親元を離れて転校。
いじめ・暴行態様 上記以外にも恒常的に
Aくんが日本語をうまく話せなかったことで、「アメリカ人が来た。話題を変えようぜ」「日本語しゃべれ」「あっちへ行け」「おめえとは口きかない」などと言われる。口をきかない名前をもじって侮蔑的な呼び名を呼んだり、黒板に書く。

英語の教師Mは「私は英語の発音に自信がないのでAくんに発音してもらいましょう」と言って、Aくんに発音させるのを慣習にしていたが、このことがAくんを特別視する同級生の傾向に拍車をかけ、揶揄されるため、Aくんは拒否するようになった。
すると同級生からは「英語もできないのか」と言われた。また、発音することを拒否したため、Mからは「授業中の態度がよくない」と成績を下げられた。

机の上に給食の残りを置く。靴を隠す。靴ひもを切る。ものを隠す。体操着や袋が切られる。
下駄箱の靴を取られ、7キロ以上の道のりを裸足で歩いて帰ってきたことがあった。

足を出して転ばせて、「お前はゴミだ」と数人で踏み歩く。反応すると無視、もしくは、集団暴行が加えられる。


集団暴行によるけがの診断書は5通にも及んだ。
背 景 教師の声が聞こえないくらい騒ぐ生徒たちで学級崩壊状態になり、教師が授業中に教壇上でへたりこんだり、英語教師のMが授業中、「みんなが聞いてくれない」と泣き出して授業を放棄したり、「こんなうるさいクラスは教えてられない」と叫び教室から飛び出したりすることがあった。
同様のことが被害生徒のクラスのみならず、他クラスでもしばしば起こっていた。

小学校時代にすでに、T、K、S、R、Nらは同じクラスで、このクラスは授業崩壊していた。
親たちの話し合い会が行われた際、Tの父親が「子どもたち授業中押さえて勉強させることができない教師が悪い。女教師だからだ」などと発言し、その後、担任の女性教師は自主退職した。
 
被害者 日本人の母とアメリカ人の父との混血で、アメリカ国籍。
小学校3年生時に日本に帰国して、やや日本語がたどたどしかった。
被害者の親 親は英語塾を営んでおり、当時、Aくんのクラスや学年に12名以上の塾生徒がいたため、生徒らから直接、学校の情報を得ることができた。
担任の対応 1クラスの生徒数は40名。1年生の時から、Yのクラスは問題が多く大変だった。
1997/ 当時、クラスの副担任は、数年前からのストレスで自宅にこもり、心療内科へ通院。欠勤が多くY一人に負荷がかかっていた。
このクラス運営は無理と感じたYは校長へ何度も善処を頼んでいたが、協力は得られなかった。

担任の授業中に、Aくんは集団暴行を受けたが、担任は止めなかった。

Aくんが継続して2〜7日休んでも、要求するまで宿題や今日の勉強を書いたプリントさえ渡さないため、教頭に直接電話して、FAXしてもらっていた。


1998/9/ 担任に何度も訴えていたにもかかわらず、学級懇談会でいじめのことが話し合われなかったため、PTA会長を通じてPTA総会の開催を要求したが、担任は「学校内であった出来事については生徒に隠すようなことはしていません。個人的に、また、学級の中で指導してきています」「個人のプライバシーに係わることもあります」として、「開催する必要がない」旨、PTA会長に手紙を出していた。(この手紙を受けて、PTA総会は開かれなかった)

1999/12 いじめ事件が報道された後、担任のY教師は、「おい、このクラスでいじめをした者、手を上げろ」と言い、数人が挙手した。結果、教師は「先生はうれしい。挙手してくれて」と言ったという。
加害生徒
いじめのリーダー格。小柄で、成績優秀。地元の有力者の息子。校長推薦で高校入学。
卒業後も、電車内、駅構内、スキー場などで、Aくんをみかけると、友人とともに揶揄したり、威嚇したりし続けている。
Sのことを知っている人にきくと、「キレやすく、(その時の様子は)尋常ではない」「Sが幼い時から、父親から殴られているのを見聞した」という。
小学校の時、逃げ回る女子児童を棒雑巾で追いまわし、その児童が便所の個室に逃げ込むと、台を持ち込み個室の上から棒雑巾でこづき回したことがあった。

Sは不登校で、半分以上中学の授業を受けなかった。しかし、学校近くに住んでいることもあって、時々給食を食べに来た。Sの担任は、給食当番に「いつ来るか判らないやつ、給食だけの登校なんて聞いたことない、用意しなくていい」と命じた。Sが急に食べに来て、足りない分を給食センターに取り行こうとした生徒を担任は止めにかかり、担任がSを呼んで外で話した後は、Sは再び給食に来ることはなかった。

高校に進学後、1学期で自主退学。
Uは背が高く筋肉質の大きな体をしている。
Rは身体の大きな生徒。
Sとは同じ小学校で、2人はよくけんかをして、授業中に走り周り、授業崩壊になることもあったという。
Rは野球部の練習のみの登校が続いた。
小学校時代、TやKらからいじめにあっていた。
女子生徒Wは他県からの移住者。
学校帰りや校外学習で遠出をする時、缶ジュースを買う為の小銭(100円から500円位)を、しつこく同級生たちにせびっていた。Aくんも2回、金を渡していた。
別の事件
1997/初夏、Aくんと同じクラスのBさんが女子生徒5名位で下校途中、何かの話の弾みで糾弾され、仲間に取り囲まれて体操服で叩かれた。逃げ廻るBさんを女子生徒らは笑いながら追いかけて叩き、ジッパーの金具が顔や身体に当ったて、顔や唇に傷をつくった。その中に友人もいたことにより傷ついたBさんは、不登校になり自分の部屋から出てこなくなったという。
担任のY教師が訪問したが、Bさんは会わなかった。
1997/−1998/、前年に他県から引っ越してきたCくんがクラスでいじめにあった。クラス別農園のCくんの植えた苗のみ抜かれ、その跡にゴミが捨てられていた。同様のことが何度も繰り返された。また、廊下を歩くと、「くさい」「くさい」と言われる。母親が校長へ知らせたが改善されず、学級懇談会で訴えたが、担任は「知らない」と答えたという。
2000/3 (Aくんと同学年の)卒業文集に、他県からの移住してきた生徒の母親は、「貴女のこの3年間はイジメの連続でした。よく我慢しましたね。ほめてあげます。」と書いていた。
2000/3/ Aくんと同学年の女子生徒2人(内1人は他県からの移住者)が入試前に家出。数日後、警察に補導され家に戻った。母親が校長に報告すると、「外部から編入し、地元の子を巻き添えにして、あと卒業2週間位なのに、よくも学校に迷惑をかけた」と言われた。

更に、この女子生徒の妹がY教師が担任のクラスだったときに、ルーズソックスを履いていって、Y教師から襟首を捕まれ指導室に押し込められて、頬を打たれたという。
また、学校の登り階段ですぐ前の段を歩いている女子生徒達が、この女子生徒がいるときには、後ろを蹴るように後足を出して登るため、足が顔に当る。担任に改善を頼んでも学級で話し合いもされず、指導された様子もなく、改善されない。
1999/−2000/ 在日韓国人を父に持つDくん(当時中3)は登下校の際に、継続的に下駄箱で上履きや外履き運動靴をゴミ箱に投げ捨てられた。Dくんは高校に進学する際、「僕は担任とそりが合わないので、推薦をもらえない」と悩んでいた。
2001/3 Aくんへのいじめに加担したが卒業した後、妹が「フケが汚い、服装が不恰好だ、性格暗い」等と言われ、保健室登校していた。Mは兄として、いじめ加害者とされる生徒達数人を次々と体育館に呼び出し対決をせまったという。父親は学年PTA会長で、この女子生徒へのいじめに対しては、学校側はクラスホームルームで取り上げ、3回以上話し合いをしている。
独身のある男性教師は、給食の盛りが少ないと生徒たちの食べる量を無視してよそわせた。また、給食後、隣の数クラスを回り、鍋や皿にに残る給食を食べに廻る行為が続いた。この教師は、感情的になり易く、男子生徒の横腹を脚で蹴り上げて、その直後、ショックによる拒食症に陥らせたこともあった。
学校の対応 Aくんの名前の表記については、入学の前年度約9カ月前から決めてあり、書類も提出してあったにもかかわらず、入学式の前日、Aくんの名前の書き方で係りの教諭から「すぐ来て名前を書いてほしい」と電話があり、結果的にFAXで済ませる。その後もAくんの名前表示はいつもまちまちであった。

保護者は教師に、Aくんは日本語が弱いので心配です。よろしくお願いしますと頼んでいたが、1997年の秋の終わりまで何ら教育的配慮はなされなかった。そのため、自費で家庭教師を雇い、日本語補習する必要に迫られた。

帰宅したAくんの異変に気づき、翌日、電話をしても、上司である校長が知らないことがあった。

特定の生徒保護者と飲み食い、カラオケをする教師がいる。

息子のいじめを心配した親は、米国領事館に相談。
1998/10/6 米国大使館領事からの要望の手紙に対して校長は、「いじめはなく、被害生徒は元気に登校している」と返事を書いていた。
人権侵害申し立てと、その後の対応 1998/8/31 両親が長野弁護士会に人権侵害救済の申し立てをする。

1999/11/ 約1年間の調査を経て、
長野県弁護士会から長野県教育委員会宛と木島平村宛に「改善要望書」が送られる。

訪ねた報道陣に対して、木島平役場の行政官は「裁判になればなったで、その時は受けて戦う」とコメント。

1999/12/ 木島平定例村議会で村長が、根底にいじめに繋がるものがあると認める。
一方で、女性議員が議会の討議で、「長野県弁護士会等の第三者機関がいじめと認めたのなら、どうしても受け入れなくてはならないのがおかしい、納得がいかない。いじめで、すでに謝っているのに、それ以上、何を望むのでしょうか」と、要望書に対して疑問をぶつける。

教育長が学校長を連れて謝罪しに訪問。校長は「いじめのリーダーたちは、成績が良い生徒たちが多く、従来の学校荒廃のパターンと違い、うかつでした」と謝罪。その後も被害者両親に対して数回にわたり謝罪する。


一方で校長は1カ月後、いじめのリーダー格生徒らが県下有数の進学高校への進学を希望するに当たり、学校推薦を出した。


2000/3/ 弁護士立会いで被害者両親と学校側が話し合いの場を持つが、木島平村は1回きりの出席のみ。多忙を理由に話し合いを引き延ばす。
作 文 1999/12/24 事件から2年以上たって、学校側は弁護士会の改善要望書が送られてから、いじめ関与のクラス生徒全員に、Aくん宛ての反省作文を書かせた(道徳の時間に書かせたと思われる)。
授業中の集団暴行を遠巻きに見ていた生徒らは、「いじめがあった」「いじめらしいのがあった」と書いていた。加害者であるTの作文には、「いじめではない」とか、「あれは一対一の喧嘩だった」と書いていた。
加害生徒ら保護者の対応 長野県弁護士会の改善要望書が出された後、木島平村中学校は、学級の保護者たち、いじめに関与したとされる生徒の保護者を召集。特に、いじめ関与者には学校側で用意したAくんへの謝罪文の原稿をそのまま写させようとしたが、「今頃、昔のことを何で」と保護者らは拒否。

2000/3 召集された保護者たちから、木島平村行政側の隣席関与なしで謝罪をしたいとの申し入れがAさんにあり、話し合いをする。保護者らは、「学校から連絡がほとんどなく、Aさんからの連絡や手紙で知り、校長に問うと全て解決している。それ以外は事実確認がもう少しできてから連絡すると言われていた」「その後、校長からも担任からも連絡がないので、解決したと理解していた」と主張。謝罪もなされた。の親だけは不参加)
教育委員会の対応 1998/12 保護者が所用で教育委員会へ行った折、教育長から「坊ちゃんは、新しい学校でどうしてるか。もう村には戻らんかの」と言われた。Aさんは、「○○(新しい学校名)にはいじめがないし、教員がきちんとしているから安心です」と答えたという。8ヶ月後、この教育委員会は毎日のようにAさん宅に謝罪しにきた。

1999/-2000/ 報道で、いじめ事件のことを知った村の母親たちが、自分の子どもももしやと危惧し、教師や教育委員会へいじめ事件について質問するが、木島平村教育者の回答はいつも、「その件はお話できません」とのみだった。

Aくんの保護者が教育長に直接、現状を話そうとすると、「会議で時間がない」とか、「教育委員会よりも直接、木島平中学へ行け」と言われる。「それでは、教育委員会の監督義務はどうなるのか」と問うと、「はい、はい、判りました。今から言いますから」と軽くあしらわれることが多かった。

当時の子供教育相談員は現在の教育長で、村報に他所での「いじめ自殺事件が痛ましい」と書いていたので電話するが、不在が多く、伝言を何度残しても返事がなかった。
誹謗・中傷・妨害行為 家族が経営する宿に些細な苦情が持ち込まれる。無言電話やいたずら電話がかかる。

裁判に訴えたことで村の印象が悪くなり、観光に悪影響が出た、観光行政をじゃましているなどと言われる。

ゴミ収集所で嫌がらせをされる。家に石や植木鉢がぶつけられたり、車や店のショーウインドウを傷つけられたり、破壊されたりする。

これらは提訴してからエスカレートし、被害者一家が命の危険を感じるまでになる。

加害者宅への深夜の電話の主を、Aくんの家族だと決め付ける。

2000/7/ 提訴の報道の後、木島平村立北部小学校で授業中、M教師が小学生の生徒らに、「こんなことくらいでいちいち裁判起こされたら学校はやっていけない。負けたら君達の教材だって、夏の海の学習旅行の予算にも影響があるんだよ」などと言う。
裁 判 2000/7/ 少年と両親が、学校設置者である木島平村を提訴。
Aくんの陳述書 参照)
被告側の言い分 学校側は一転していじめを否定。校内暴力で負傷したことも全て否定。

けがについては、「学校で応急処置をして帰宅3時間後、病院へ行き、骨折と判明したのは、自宅での別の原因ではないか」とする。

また、「Aくんは乱暴ものであった」、Aくんの小学校時の指導要領を引用して「すぐ泣く」などと言う。
「県外の私大出身者である母親は信州大卒者の多い信濃教育全体を見下していた」とする。

転校については、「親子関係がうまくいかなかったので転校させた」、「母親は仕事に忙しく、父親が病身であるために、子どもを寮に入れた」、「日本語の問題で、希望する地元高校への進学が望めないので、中学から私立へ入学すれば一貫教育の高校へ入りやすいので転校させた。いじめとは関係ない」などと反論。

「学校は中1夏前から日本語取り出し授業を用意した」(実際には中1の10月から)、「担任や学校は、いつも生徒のプライバシーを優先にして、適切な指導を重ねたが、効果はなかなかあがらなかった」と供述。

「このいじめ事件と関係して、3名の登校拒否生徒が生じた」と、小学校から継続的に不登校だった加害生徒らの不登校の原因を原告側の言動に求めた。

原告の指摘に対して、「木島平中学校の教師で生徒たちの母親たちとカラオケに行く教師は一人もいない。まして、担任は酒に弱く、カラオケなど言ったこともない」と裁判の答弁書には書いていたが、法廷での証人尋問で担任は、「2回くらい、懇談会のあと、夜、担任クラスの母親たちとカラオケに行った」ことを認めた。

村の観光メールに来た苦情を裁判に持ち出して、原告側を非難。
裁判での証拠 担任の供述書の3分の1は、担任クラス生徒たちの「生活ノート」からの引用だった。裁判官から証拠提出を求められたが、原文は半分も残っておらず、その際、担任は「生徒のプライバシーがあるので」と抗弁。(生徒のプライバシーを楯にとりながら、生徒の日記的要素が強い「生活ノート」を引用する際に、生徒らから許可をもらっていなかった)
裁判結果 2004/3/ 長野地裁で、村が原告側に150万円を支払うことで和解。
和解条項では
(1)いじめの事実や教諭の対応が不十分だったことを双方が認める
(2)原告側は、いじめの原因の一端をつくったことを認める
などが盛り込まれた。
参考資料 木島平村立中学校いじめ訴訟のホームページ http://www7.plala.or.jp/kijimadairaijime/
裁判の陳述書、ほか



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