木島平村いじめ事件 陳述書 (事例NO.9700409


  平成12年(ワ)第263号
(原告Aくんの)陳述書

       

 平成10年10月から僕は、新しい生活に入り、木島平中学校での思い出を忘れようとしてきました。今、ここでは、思い出すままに書いてみます。

1) 木島平中学校の印象は、「げんなし」(限度がない)です。今まで、母にも誰にも話していないことがあります。確か、中学1年のとき、(中2かもしれません)、クラス単位の合唱の練習中、Tが小便を漏らしました。男子全員がゲラゲラ笑い、Tを指差し、ずっと止まりませんでした。女子3名位と僕が、Tの小便の始末をしました。男子は笑うだけで、Tが可哀想でした。音楽の先生でなく、Y先生が合唱の練習の世話をしていて、Y先生は、「おい、おい、何やってるんだ。」と言うだけで、笑う男子を止めるでもなく、小便の始末をするでもなく、オイ、オイで、N小の時のH先生とは、大分違うと思いました。
 限度がないのが、木島平中学校の同級生の思い出です。

2) 僕が、ネ、ネとクラスメイトの肩をたたくと、「シ、シ、さわるなよ、向こう行け、外人」と、汚いみたいにやられました。これは、先生の前でもされました。

3) おとなしい先生、たとえば、O先生や中1の時の理科の先生の前では、足払いで転ばされたり、転ばされた後、踏まれたり、蹴飛ばされたりしました。先生達は、みていても、何もいいませんでした。教室の前に向かい、缶ジュースを飲んだり、鼻紙を投げたりしてもおとなしい先生達は何も言いません。困った顔をしていました。

4) 国語のO先生は、よく、授業中、床に座り込んだり、椅子にへたへたと座り込んだりしました。そして、クラスの皆が、「O、やめろ」とか、怒鳴ると、困った顔をして、僕をにらみました。時々、ありました。クラスの男子も、僕に「オイ、お前の母ちゃん、Oをどうにかできないかよ」と言うこともありました。なぜかというと、母が入学式の頃の懇談会の時、校長に、O先生が毎年よく休み、教科書が半分も終わらないで困ると、言ったからです。木島平中学校の先生は、母をこわがる感じがありました。

5) イヤなことは、中1の時のM先生の英語の授業中のことです。発音してくれと言われ、初めはしていたのですが、皆がよく言わないので、「やりたくない、ほかの生徒に発音させてください」と頼みました。でも、M先生は僕を指し、発音させました。××(Aくんの名前)発音コーナーみたいなのが出来てしまいました。あれは、やりすぎです。

6) 中1の空き缶拾いでは、女の先生が、処置してくれました。Y先生も居て、2人で「だいじょうぶ、だいじょうぶ、捻挫でしょ。痛くないよね」と言い、僕も我慢しました。M先生が、病院に行った方がいいよ、と言っていたように思います。足も腕と一緒に、滑り台で押されたとき、痛めました。先生達は、空き缶拾いの時も、公園の奥でお茶を飲んでいて、僕達生徒とは、居ませんでした。

7) ××の背中の張り紙は、UやTが、同じ紙をはり、やられたので、僕もみんなにやり返しました。それは2,3日続きました。Jが、カッターナイフを振り回し、僕の顔に突きつけたこともあり、これは幼稚だと思いました。

8) 下駄箱での靴がなくなるのは、3回ありました。Y先生が探してくれたというのは、覚えがありません。服でも大体、ゴミ箱にあり、女子が見つけてくれたり、僕もなれたので、ゴミ箱で見つかりました。

9) 中2の時、かびたパンが机の中におかれたことがありました。Y先生には言いましたが、それで、クラスで話し合いするとかはありませんでした。

10) Y先生への不信感は、中1の夏の終わりくらいで、いろいろありましたが、Vが「カラオケ先生、Uの親達とよく、遅くまでカラオケに行く。」と言い、母も同じことを言っていたので、特別な生徒がいると思いました。
当時は、なんだか、嫌だとしか、思いませんでしたが、Y先生のやり方は、そのときによっては、暴力を振るい、自分の力を生徒達に見せつけて、従わせるような感じでした。Tを投げ飛ばしたり、バレーの練習で特訓みたいに力を入れて、抑える感じです。僕が××学園(新しい学校)に転校した後に、もと同級生のUが、バレーの練習で、Y先生が投げたボールで目の網膜が切れた話を聞きました。力を見せつけて、従わせるような様子が思い出されました。

11) 母がNの家に行ったり、入学式の後、O先生への苦情を皆の前で言ったりしたことは、木島平中学校ですぐに広まり、先生は変な顔で僕をみるような感じでした。それで、僕は母に、「やめろ、変なことするな」と言ったと思います。

12) 木島平中学校での中2時代の春は、あまりいじめが起きなかった、と母 は言ったようですが、それは違います。中2の4月から6月頃は、クラスのみんなから離れるようにしていました。図書館によく行きました。母が忍者マンガでも歴史の勉強になると、白土三平の「カムイ伝」を借りました。3巻くらいの続き物でした。母が読みたがるので借りようとすると、誰かが隠す、昨日の場所にない、とか、何回か、僕が手に取る本が、隠されていたことがありました。母はそのことも学校へ電話していましたが、電話すればしたで、余計、先生から変な目で見られるだけでした。

13) 中2の11月頃、××(新しい学校)の僕の寮宛に、Y先生と女子数名から手紙が届きました。女子の手紙にはいじめのことがかかれていました。先生の手紙には、何もやってやれなくてごめんな、と言うようなことが書かれていましたが、僕としては、なぜ僕の住所をY先生が知ったのか、疑問に思え、手紙などは捨ててしまいました。今思うと、今回の裁判の証拠になったかなと考えます。

14) 父と母は、僕のことを心配して、中3までは、帰省すると、M先生(心理カウンセラー)のところへ診察に行くことがありました。これはアメリカ人のやり方でしょうと、やはり、感じます。転校してから、2回は診察を受けました。

15) 11月19日の集団暴力について、Y先生は、「翌20日の昼休みの 時間に、国語・数学の研究室で、原告AとTから詳しく事情を聞いて指導し、互に、謝った」と言っているようですが、僕はこの事件の後、学校を休んでいますので、こんなことはありません。先生がこのように言っているのは、なにかの間違いだと思います。
 この日のことで僕が覚えているのは、ホームルームの時間であったか、Y先生が「ガムをもっている者はいないか、いたら手を挙げなさい」と言いました。木島平中学では、飲食物の持ち込み、特にガムの持ち込みは禁止されていたのです。誰も手を挙げる者はおりませんでした。それで、僕は、Tが持っていると言いました。蹴飛ばされたりして、頭に来ていたから、「チクッた」わけです。Y先生はTに「ガムを持ってきているのか」と尋ね、Tがガムをポケットから出したところ、「ふざけるんじゃない」と言って、Tを一本背負いで投げ飛ばしました。僕は本当にビックリしました。クラスメイトもビックリしたと思います。

16) 木島平中学校では、限なし(限度なし)のことが、よく起こりました。でも、クラス単位で話し合いをするとかが、ありませんでした。先生達は知っていたのに、目をそらす感じでした。うるさいなと、何となく、流してしまう感じでした。 
 木島平中学校はこわい感じでした。何か、集団で裏で相談してみんなで 1人を凹ます(痛めつける)そんな空気がありました。クラス全員で話し合いなんかはありませんでした。


                                                                        以上