1月29日は岡崎さんの裁判で土浦へ、30日は川口の大野さんの裁判で浦和へ、31日は津久井の平野さんの裁判の判決が出るというので霞ヶ関へ行ってきました。(傍聴には行っていませんが、鹿児島の村方勝己くんの判決が28日に出ました)順を追って、このコーナーで報告していきたいと思います。
こう裁判の日程が目白押しなのも偶然というわけではなく、おそらく4月の人事異動前、遅くとも3月には決着をつけたいという裁判官の焦りのようなものを12月の公判あたりから感じています。
話を元に戻して、岡崎哲くんの裁判では、S教頭(56)が証言台に立った。
平成6(1994)年から小学校で教頭職につき、牛久一中では、哲くんが亡くなった年・平成10(1998)年から平成11(1999)年まで在籍している。現在は小学校の教頭。
哲くんが亡くなったのは平成10年10月8日だから、夏休みを入れても、接点はわずか半年しかない。
事実、弁護士の質問に対して、哲くんのことも、加害者のH少年のことも、事件が起きるまでは名前と顔が一致していなかったという。2人の生徒とは、直接会話した記憶もないという。
この教頭との事件のかかわりをいくつかあげると、
(1) |
事件当夜、学校に押しかけた哲くんの兄や両親に対して、いきなり賠償金の話をしている(その日、子どもを亡くしたばかりの遺族に向かって)。兄が「そういうことを言っているのではないでしょう」と言うと、「では、私の首でも取りますか」と開き直った発言をしている。 |
(2) |
事件当日(10月8日)、校長は校長会のため出張しており、このS教頭が現場の指揮やマスコミ窓口となっていた。そのマスコミには、哲くんが一方的に悪いように書かれていた。 |
(3) |
B子さんが事件直後、救急車で哲くんが運ばれるサイレンの音を聞いて、「私のせいだ」とパニックを起こし、泣き叫んでいた話を2年時の担任N教師から聞いたが、誰にも口外するなと口止めした。 |
(4) |
平成11(1999)年3月10日、竜ヶ崎の交番での調書で、教頭は(よく知りもしない)哲くんのことを「自己中心的」「誰も本当の友だちはいなかった」「試合を途中で投げ出した」などと悪い面ばかりを残していた。 |
などが上げられる。
尋問時間は、当初「1時間以内」に制限されていた。(実際にはオーバーしたが)
そのために原告弁護団は、質問をいくつかに的を絞らなければならなかった。
まず、(2)について。
事件の一報は生徒からの電話。その時に、生徒が「けんか」と言ったので「けんか」と判断したという。
事件直後、現場から一旦、学校に教師によって連れ戻されたH少年はひどい興奮状態で何が起きたのかわかるような状態ではなかったという。「オレのせいだ、オレのせいだ」とうわごとのように言っていたという。その後、警察が来たり、教頭もH少年の担任教師とともに警察に呼ばれて竜ヶ崎署に出向いている。しかし、担任は事情聴取されたが教頭は警察から何も聞かれることなく、また何があったのかを警察に聞くこともなく、そのうち哲くんが亡くなったという報を聞いて、病院に出向いたという。
翌日(9日)と翌々日(10日)の新聞には「一対一のけんか」となっている。また一部の新聞では、「2人は2年生の時から何かと口げんかをしており、3年生の時には別のクラスになった」「1年前からトラブルが絶えず、Hくんからのクラス替えをしてほしいという要請で別クラスにした」とある。
2年時の担任が警察に呼ばれて、このことを話したのはもっと後のことで、この時点では、これは学校しか知り得ない事実である。しかし、教頭は当時は「まだ何もわからないと答えた」と言う。
(3)について。
N先生は、教頭にすぐに報告したと言っているが、教頭はいつ聞いたかははっきりしないと回答。
女子生徒が「私のせいだ」とパニックを起こして泣き叫んでいたという報告に対して、「ああそうですか。わかりました」とだけ答えたと言う。女子生徒へのケアも、真相究明のための指示もしなければ、そのことを警察に告げることもしなかった、校長にも一度も報告をしなかった、職員会議にも出さなかった。
このことの理由を聞かれて、「警察に捜査は任せているから」と述べた。
N教師は、「マスコミには口外するな。絶対にしゃべるな」と口止めされたというが、教頭は否定。
(4)について。
それまで何度か、警察の事件に関する情報をもらおうと思って、竜ヶ崎署を訪れているが、それ以前には一度も事情を聞かれたことはなかった。
「調査で知り得た情報をありのまま話した」と答えた。しかし、前質問では、学校には捜査権がないとして、一切の調査をしていないと答えている。矛盾をつかれて、校長やサッカー部の顧問、学年主任、2年生の時の担任、3年生の時の担任など、たくさんの職員から話を聞いたと答えた。その結果が、「自己中心的」などの「教頭の判断」になったという。(もっとも、裁判の証言台に立った教師の誰ひとりとして、哲くんを悪く言う教師はいなかった)
この答えを予想して、遺族は、哲くんの学校からもらった「正義感賞」やサッカーで活躍した時の様々な賞状を反論の証拠として提出。ただし、「人物評価はそれぞれの主観によるものだから」ということで、それらを傍聴人に提示したり、遺族が反証したりする機会は与えられなかった。
また、教頭は、「哲くんの良い面も言ったが、警察は調書に残してくれなかった」と答えた。「具体的には、どんなことを言ったんですか?」と聞かれて、「サッカー部でキャプテンとして頑張っていた」と言ったという。(プラス面はこの1点のみ)
一方、加害少年であるHくんのことは警察で、一切聞かれなかったという。不思議な話だ。亡くなった被害者の悪い面ばかりを引き出して、加害少年がどういう生徒であったかとか、2人の関係についての質問がない。ここで、本当に問題にされるべきことは、加害少年がどういう性格であったとか、2人の関係のほうが、大切ではないのだろうか。
また、学校側は今回の事件がどうして起きたのかという議論はしなかったのか?の質問に対して、「もう二度とと事件を起こさないように生徒に寄り添って、生徒理解に務めなければいけない」と話した。具体的には、「生徒たちの行動をよく見て、何か変わったことがあれば連絡しあおう」と話し合ったという。
この事件に関しては、どうすれば防げたと思うかという点を聞かれて、帰りの会や休み時間にトラブルがあったことを指して、「授業時間以外の面でも見ていかなければいけない」と思ったという。しかし、それを遺族と何度か行った話し合いのなかで「こうすれば防げたかもしれない。残念です」などと謝罪したことはないと言った。
3人の裁判官からも、いくつかの質問があった。
(1)の遺族が学校に押し掛けたときに、何を求めていると思ったかの問いに対して、「学校の責任を問うている」と思ったと答えた。
また、初七日に訪れたときにも、焼香ひとつせずに立ち去ったのは、家の中に入れてもらえなかったからと話した。(遺族いわく、焼香したいなどという話ひとつ出なかった)
生徒の情報は学校が持っているはず。にも関わらず、教頭が何度も警察を訪れた理由を聞かれて、「事故報告書を書かなければならないので、警察の話を聞いたほうがいいと思った」と答えた。(教育委員会への報告書の準備を10月9日から始めたと後の質問で証言)
例えばH少年からの情報など学校で聞けないことと言った。
「今後、気を付けよう」などという主観的で抽象的なことではなく、再発防止のための具体的にとった措置について聞かれて、教頭は、情報交換を細やかに行うようにしたとして、生徒指導の報告を書くためのメモ用紙を用意したと(「胸を張って」と私には見えた)答えた。たとえば、授業中にこんなことがおこったなどと書いて、学年主任にメモを渡すようになったという。そのメモを元に生徒から話をきくなどしているという。
学校側の生徒への説明については、「命の大切さ」を教頭が事件翌日(10月9日)の朝の会で話したという。「2人でけんかして、岡崎君が亡くなった」という「起こった事実」について話したという。
学校が事件の調査をしなかった理由については、再度、「教師全体の話し合いで、すでに警察が介入している」こと、「学校には捜査権はない」ことからしなかった。また、「直接的なことについて、子どもたちから話を聞くことはやめよう」と校長に言われたと話した。
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教頭の尋問のあと、休憩をはさんで校長の尋問が始まることになっていた。しかし、ここで、被告側から被害者である岡崎哲くんの「悪性立証」をしたいという、その日になって突然の書類が原告弁護団に渡された。この裁判の間、遺族は哲くんがいかにいい子であったかを訴えてきた。そのことに対する反証であると言う。原告弁護団の強い抗議で、協議時間がもうけられ、結果的に、裁判官が「本件争いの事実とは関係ない」「本人の名誉にかかわること」として却下した。また、このことについて証拠調べをするつもりがないことも明言した。被告側はしかし、「記録にはつけておいてくれ」と食い下がる。添付するかどうかは書記官が判断するとの回答となった。
多くの裁判で、こういった手法が使われる。あることないことを交えて、被害者がいかに「悪い」人間であるかを印象づける。それを加害者側や学校側がやるのだ。まるで、被害者にもこんな悪いところがあったのだから、いじめられても、殺されても仕方がないんだと言わんばかりだ。中には、小学校時代の万引きのこととか、遅刻の回数や忘れ物の回数、加害者を含む生徒たちにとったアンケートの中の被害者に対する悪口の抜粋など、マイナス点ばかりを細かくあげつらう。しかも、その内容が事実とは限らない(遅刻や忘れ物の回数でさえ、誤記か故意にか増やされていることもある)うえ、公聴の場で反証する機会が遺族には与えられない。そして、永久に記録に残るのだ。公の場で死者をムチ打つ行為に遺族がどれほど傷つくか、それを計算に入れたうえで、学校側は、加害者側は行う。なんて悪質なんだろうと思う。いじめた子ども以下だと思う。どんな子どもだって、いろんな面をもっている。聖人君子であるなどと思わない。しかし、だからと言って、いじめられたり、殺されたりして良いわけがない。「こうい悪い面があるからいじめられるんだ」「被害者にそれなりの理由があるから殺されたんだ」と言う子どもたちの言い分そのままの行為を、大人たちがこぞって、計画的に行う公の場でのいじめである。
今回、それを傍聴人の記憶に残すことをさせなかった裁判官の判断は正しいと思う。
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ここから校長(62)の尋問。
2年から3年に上がる時のクラス編成や担任の配置、特に2年時に哲くんとH少年の担任だったN教師(女性)を担任からはずして、わざわざバルセロナの日本人学校に行っていて事情を知らない教師にH少年のクラスの担任をさせたのはなぜか、という質問になった。就職や進学などの大切な時期に、他の教師がみな2年からの持ち上がりになっている、またN教師も3年の担任を強く望んでいたにもかかわらず。校長は、教科や男女のバランスを考えての結果だと答えた。また、どの教師がどのクラスを担当するかは、例年通り、封筒にクラス番号を入れての「抽選」で決定したと答えた。
また校長は、男性教師が、「哲くんのお父さんに土下座させられた」「床に正座させられた」と言う。
「いつ?」「(10月)12日か、13日」、「どこで?」「わからない」、「誰から聞いた?」「男性教師本人から」。そして、「母親が、職員室で女性教師の髪を掴んで座らせた」と言う。どちらも、校長自身は目撃していないが、本人から聞いたと、堂々と述べた。
(当時から、この噂は瞬く間にあちこちに流れ、岡崎夫妻はこのことをいろんなひとから問われて、きっぱり否定している。私自身、この1年の付き合いのなかで、どんなにお二人が激昂したとしても想像だにできない。「お母さんが女性教師の髪を引っ張って」と言われたときには、えっ、お父さんじゃなくてお母さん?ちょとムリがありすぎるんじゃんないかなと思わず失笑してしまった)
それから、事件当日、遺族から、襟を掴まれ、「オレの目を見ろ!」と言われた。特に兄からは「オレの目を見て話せ」と私も言われたし、ほとんどの職員が言われたと証言。校長自身、目撃しておらず、襟を掴まれのが誰かは不明。
事件当日、出張で岐阜へ行っていて、一報を受けてもすぐに戻ってこなかった理由については、移動しているより、固定して場所にいたほうが連絡がとれると思ったからと述べた。
10月9日の11時すぎには岡崎さん宅へ弔問に訪れ、お父さんと丁寧に話した、お母さんの姿はチラっと見たが話はしなかった。この時点では詰問されたりということはなかった。お線香を上げたいと思ったが遺体はまだ帰っていなかったと話した。
校長は10月9日に自分が会長をしている臨時校長会に出席。別の中学の日誌には「新聞やテレビの報道どおりである」と校長が発言したとあったが、それを否定。「事件の内容は捜査中で、くわしいことはわからない」と述べたと証言。
H少年に対する「上申書」が家庭裁判所に提出されているが、それは、H少年の弁護人から依頼されて、学年主任が内容を考えてワープロ打ちをし、自分が承認したという。中身は、H少年は明朗活発で問題がないこと、進路指導の時期が近づいていることでもあり、学校は責任を持って少年を受け入れるので配慮願いたいなどの内容。
そういうものを出すことについて、被害者遺族の感情は考えなかったのか、の問いに対しては、「どちらの子どもも一中の生徒。同じように対応すべきと思った」「遺族には弔意をあらわした。H君にも同じように平等に」と言った。(やったほうとやられたほうが平等に扱われていいのかという疑問はさておいても、学校側が被害者と加害者を平等に扱ったようには、私には思えないのだが。強いて言うならば、両方におなじくらい関心を持たなかったと言えるかもしれないが)
10月9日のことをもう一度聞かれると、11時すぎに行ったが、関係者と思われる男性に「取り込んでいるのでお控えください」と言われて、引き返した。家の外まで、泣き声、悲鳴、怒鳴り声が聞こえたと述べた。(さっき言ったことと違う?)
サッカー部顧問以外の学校関係者が一人も通夜や葬式に出席しなかったことについて、「学年PTA委員長のKさんから学校関係者はお断りします」と言われたから。実際に行ってみたが、近所のひとに止められて120メートルくらいのところから拝んだ。出席したサッカー部の顧問が「先生方にぜひ出席してほしい」と遺族から伝言されていたということは、この時点では聞いていなかったと答えた。
そして、今回、岡崎さんが、下記のメールをくれた元同級生の許可をもらって、名前を伏せたうえで、このようなこともあったのではないですかと証拠として出した。このことについて、校長は、生徒たちに口止めしたことも、言わせない雰囲気もなかった。学年主任が怒鳴った話も聞いていない。このようなことはなかったとメールの内容を全面否認した。
当時の学校の責任者である教頭や校長の尋問を生徒たちにもぜひ見て欲しいと思った。今現在教壇に立っている人々の証言。下を向くでもなく、堂々とはっきりと自信を持って発言する態度。しかし、矛盾は多い。何を一番に大切にしていたのか。殺された生徒や遺族のためでなく、教育委員会への報告書を作成するために事件の翌日にはすでに動いていたと悪びれることもなく言う教頭。被害者と加害者を同じ生徒として平等に扱ったと胸を張る校長。生徒がひとり死んで、真相はすべて学校の生徒が握っているというのに、自らは知ろうとさえしなかった。全ては警察におまかせとばかり、生徒や教師から報告された事実さえ遺族にも警察にも知らせることをしなかった。そして、全く反省の色がない学校。まるで、他人ごとのように、ただ被害者ばかりを学校から排除しようする姿勢。こんな人たちに生徒を預けていて、ほんとうにいいのだろうか。このひとたちに、「命の尊さ」を子どもたちに説く資格はあるだろうか。
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