<非暴力平和隊実現可能性の研究>

第2章 介入における戦略、戦術、および活動

2.2 平和チームと「市民平和活動」

2.2.2 平和チーム

ドナ・ハワード


2.2.2.3 平和チームの活動
私はここで、それぞれの平和チームの活動を示しながら、平和維持、紛争解決、および平和構築という三つの包括的戦略を用いることにする。

平和維持の戦略は、紛争地域における暴力を減らすことを目指している。平和チームは「緩衝地帯または人間の鎖の創設、停戦の監視、暴力事件を減少させるための紛争事件の監視、脅されている人々あるいは団体をエスコートするあるいはそばにプレゼンスすること、あるいは訴えること」によって、個人あるいはグループを安全に保つことを意図した戦術を有効に利用することができる。民間介入チームによって用いられた多くの非暴力的戦術のいくつかについては以下で議論する。

割り込みは、すべての当事者に対してどちらにも与しない立場で、暴力紛争に関わっているグループの間に、平和維持者を物理的に配備することである。紛争が当事者の分離を必ずしもともなわず、しばしば二つ以上の抗争面を持っているので、割り込みはいつも、ごく僅かでも可能というわけではない。割り込む人は当事者の間のスペースを占めている間に、他の平和維持活動をすることもできる。WfPは、研究した中で大規模な割り込みを試みた唯一のチームである。

WfP は、グレナダ(訳注: 西インド諸島東部の島国)への侵攻後、米国が後援しているコントラによるニカラグアの人々に対する攻撃を思いとどまらせるために、ボランティアのチームをニカラグアに派遣しようという、米国内のキリスト教徒の活動家たちによって1983年に設立された。 侵攻が起きた場合に、彼らは「ニカラグアの人々に突きつけられた危険を共有しながら、企てられている侵攻の道筋に「情愛のある」障壁として非武装で抵抗するために、私たちに合流して、直ちにニカラグアに行こう、というできるだけ多くの北アメリカのキリスト教徒を集める」ために専念した。 ボランティアたちは、当事者間に明瞭な境界のある紛争というよりは、ニカラグアの地方全域にわたって無作為に闘争が発生するようになったため、戦略が変更されるまでは、北側の国境に沿った村々に住み込んだ。WfPのボランティアのダグ・スペンスは、彼らの介入について「 私たちは自分たち自身を、米国政府に攻撃の前に二回考えさせるためのプレゼンスである、と考えていた。もしそれでも止めないのであれば、何が起きようともその責任は少なくとも米国政府が負わなければならない」と語っている。

介入は、時には少人数のグループの人々に当てはまるかもしれない。

1986年に、グアテマラのGAM (グルッポ・デ・アポヨ・ムチュオ、 相互支援グループ)の女性が、グアテマラの国立宮殿でデモをおこなった時、暴動鎮圧部隊がデモ参加者を叩き始めた。 PBIはすぐさま二つのグループの間に人間の鎖を作った。この行動は、これまでと同じく効果的であり、私たちが割り込みはかくあるべしと理解しているように「政治的にに立場を取らないもの」であって、政治的に十分に強力で、PBIを追放するとの脅迫を招いた。PBIは国際的な支援を求め、「政治的にに立場を取らないこと」の役割をはっきりさせる公開声明を発表した。

割り込み型の平和維持として最もひたむきな行動は、ガルフ・ピース・チーム(GPT)として知られていた。その構想は、ペルシャ湾における1991年の戦争を防止するために、争いの一部分であるイラクとサウジアラビアの間の国境にチームを派遣することであった。国連安全保障理事会の締切り期限よりも以前にうまく設立されていて、戦争の開始時点には15か国からの73人の人がキャンプに入っていたのだが、10日後には撤退させられ、バグダッドに連行された。

ともかく、この割り込み行動が発生したという事実は、非暴力の歴史的意義を持っている。そして、それは意義のあることなので、このプロジェクトの中で受けた問題は評価に値する。 それらの問題の一つは、この種の割り込みにもっとも重要な「政治的に立場をとらないこと」ということであった。このグループは、国境の両側にキャンプの許可を求めたのだが、サウジアラビアからは何の回答も得られなかったので、イラク側だけにキャンプを設置した。 これに加えて、彼らは、水を得るためにイラクのタンカーに依存した。GPTの憲章は「私たちはチームとして、この論争のどちらの側にも立たず、関係当事者のすべてから間隔をおく、私たちには、どの当事者もが非難されるところがないとは考えられない。」と述べている。しかし、サウジアラビア政府からの回答を得られず、イラク側だけにキャンプがあること、そして水についてはイラクに依存していたことから、GPTの「政治的に立場をとらないこと」は妥協したものだった、といえる。

危険にさらされている人々への同行は、国際的な弁護の物理的な対応である。暴力を思い止まらせる、あるいは暴力を報告するためには、適切な場所に、適切な時間に、誰かが物理的にそこにいなければならない。「ほとんどの場合に、暗殺団や他の人権侵害者は、彼らの行動が外の世界に暴露されることを望まない。その結果、緊急応答ネットワークによって支持されているボランティアの物理的なプレゼンスは、地元の活動家に対して向けられる暴力を思い止まらせる。」

平和旅団の研究者であってチームの元隊員の、リアム・マホニィとエンリケ・エイグーレンは、同行者は「外側の世界に対して、できるだけ明白であって目に見えること、しかもなお同行される人々の暮らしや活動には、できるだけ邪魔にならないこと」が必要であると言う。 暴力によって脅かされている活動家や難民およびコミュニティへのこの同行は、一日24時間のプレゼンスを必要とする。同行者個人は、集会や、人々やコミュニティとの旅行、あるいはデモにプレゼンスしている間、本を読んでいても差し支えないのではあるが。 カナダ人ボランティアのセル・バローズは、「同行というのはむずかしい。誰かの予定にしたがっていつでも動ける態勢にあること、何時間もの待機時間、あなたに責任がある個人の生活の中へのかかわりを持ってはならない時とかかわりを持つべき時が間欠的におきる。」と述べている。

PBIは、この20年間にわたって圧倒的に同行活動をやって来ており、さらに、同行を効果的にしたのは何か、効果的にしなかったのは何か、を分析した。PBIの任務声明は特に「PBIが国際的にプレゼンスする目的は、暴力を思いとどまらせ、積極的非暴力を促進するという複合的戦略を通して、政治的な過程と社会的な過程の両方に同行することである。…PBIは可能であれば、自分たちのプレゼンスを確認させ、通知するために、紛争に関わるすべての当事者との接触を始める。」と明言している。

PBIがグアテマラで、軍事的独裁政権とゲリラの抵抗勢力から、民間人の活動家を安全に保つための手段を経験したので、効果的な同行行動の定式化は80年代におこなわれた。PBIが「行方不明者と暗殺された者の母親委員会(COMADRES)」、およびGAMの女性たちへの同行を始めたので、集会のためにPBI の家を開放し、これらの団体の団体作りと戦略計画に参加した。 PBIが、安全な同行のやり方の中心として、非関与性および「政治的に立場をとらないこと」の原理を開発したのは、その後であった。グアテマラ、エルサルバドル、スリランカ、およびコロンビアでは、PBIのチームは、聖職者、労働組合のリーダー、ラテンアメリカ農民のリーダー、人権活動家、ならびに戻って来た国外追放者たちに同行して来た。PBIは、効果を上げるために、地域的には外交界との、そして地球規模ではメディアと人権ネットワークとのつながりを作り出している。

PBIの同行は、次のような三つの形式である、すなわち、脅されている団体の事務所に駐在して、個人を1日24時間護衛すること、自分たちのコミュニティへ戻る難民に同行すること、選挙やデモの時に国際的な監視者として奉仕すること、である。彼らは、武装した人に同行することはしないであろうし、いかに求められても、またいかにやりがいのある活動であろうと、その活動家たちやグループの活動には参加しないであろう。この理由により、PBIは、たとえ紛争の中で特定の立場にある当事者だけを保護してはいても、PBIの同行が「政治的に立場をとらない」活動であると主張することができる。

プレゼンスは、同行と似通っているが、コミュニティ全体に拡大されたものである。暴力が一方的であって、かつ、当事者たちを引き離すことが不可能であるならば、あるいはそのいずれかならば、プレゼンスが適切であり、特定の個人あるいはグループの社会変革活動を保護するよりも、暴力の危険をむしろ減らせるように思われる。調査したすべてのチームは、彼らが活動していたコミュニティの中で、プレゼンスを提供して来たと言うことができよう。

プレゼンスは以下の活動を含むと言って差し支えない。

a)ある地域が、法律あるいは規定に違反して一方の当事者あるいは他の当事者の手中に陥ることを防ぐために、その地域をパトロールする、あるいは占有する
b)境界線をパトロールする
c)境界線に違反と事故がないように維持する
d)ある地域あるいは道筋への開放されたアクセスを維持する
e)ある地域の建物や施設へのアクセスは拒否する

プレゼンスは、紛争中の両側の間に割り込みすることができなかった時には、複数のチームあるいはあるチームのメンバーたちが、保護を必要とする村落中に散らばることもあるかも知れない、そしてそのように散在していてもなおも暴力の抑制になっているであろう、ということを想定している。それは、ある特定の活動を当てにするのではなく、誰かのプレゼンスが知られている、という確実性を当てにしている。

事実、チームのメンバーたちは予期されなかったことをしているかもしれない。 フィリス・テイラーによると、「トルティーヤ(訳注: メキシコ料理でトウモロコシ粉の丸い薄焼き)の作り方を、 教えてください」と女主人に頼んで、当人の無能ぶりを明らかにし、気晴らしの種にするのも、プレゼンスしている日々をうまく過ごした一日である。ニカラグアでのWfPの他の活動は、観察すること、話(特に犠牲者の)を聞くこと、保健衛生派遣団を送ること、米国の人々を教育するための資料を書くこと、を含んでいた。「非暴力的プレゼンスは、象徴的な行進や、ビジル(訳注: ロウソクの灯を灯して路傍に佇む要請行動)、危険にさらされている個人やコミュニティへの同行、断食、活動プロジェクト、平和船団、その他多くのいろいろな活動を含むようになった」。短期間あるいは長期間のWfPの派遣団とチームは、ニカラグアの人々と生活を共にして活動した。宗教上のリーダー、政治的リーダー、メディアのリーダーと会い、悲嘆にくれる人に付き添い、残虐行為を詳細に報道し、話を記録し、コーヒーを収穫し、そして恐らくもっとも重大なことは、米国の政策を変えるという彼らの目的を達成するためにできる限りのことをしたことであろう。

1993年と1994年のハイチでの「The Cry For Justice(正義を求める叫び)」連合は、人権侵害が最も厳しかったところに外国人のプレゼンスを提供した。 ボランティアたちが、人々と知り合いになって、教会およびハイチの連帯運動への報告を書くために、聖エイレン通りを歩いていた。このプロジェクトの目的は、暴力を減少させ、人々を米国で教育し、ハイチ人の活動家たちに連帯感を示し、希望を提供し、国連、米州機構(OAS)、および外交団コミュニティに対して、事実上の軍事政権に反対する強力な行動をとるよう圧力をかけ、動きを制約することであった。

キャサリーン・カーンは、CPTのメンバーがハイチでプレゼンスしていた典型的な日にやっていたことについて次のように説明している。
私たちは毎朝、礼拝と集会で一日を始めた、 それから聖エイレンのコミュニティ中を訪れるために別れた。 私たちはこのやり方で、軍事的な行動と準軍事的な行動についての多くの情報を蓄積しており、その行動が発生した地域をかならず訪問することにしていた。人権侵害に関して話をした時は、レポートを書き、ポルトープランス (訳注: ハイチの首都)にいる連絡員に送った。連絡員は、それらを順番にいろいろな人権問題関係機関に広めた。午後は語学研究と昼寝に費やした。夕方には再び巡回をおこなった。地下団体の民主活動家や世を忍んでいる友人との集会は夜におこなわれた。
そして、ミス・カーンによると、ヘブロン(パレスチナ)では、CPTにとっての毎日は次のようなプレゼンスが続けられた。
モスクの前の公園での朝の礼拝。 くずを拾ったり、公園の壊れているベンチを直したり、子供たちと遊んだりし、それから別れて、ニュースを仕入れるために何人かのジャーナリストの友人たちを訪ねたり、セツルメントの近くの何人かの友人や家族を訪ねます。 1週間に二度は、2人のメンバーがパレスチナ人高校生への英語のクラスで教えた。そのクラスでは、非暴力の理論と実際のやり方についての討論になった。 午後は書き物、午後の後半と夜の前半は訪問、夜はさらにたくさんの書き物。土曜日には、暴力を思いとどまらせるプレゼンスとして奉仕するために、午後と夜の前半はダボヤ通り(入植者と、パレスチナ住民と商店主の間の多くの暴力的遭遇の舞台)に出かけた。
SIPAZは1995年以来、「暴力の機先を制する、あるいは暴力を減らすことによって、ザパティスタスとメキシコ政府との間の対話が可能になる貴重な政治的スペースを守り、広げる」ために、チアパス(メキシコ)にチームを派遣して来た。SIPAZは、紛争を監視している間、紛争に関わっているすべての主要な関係者との対話を維持して、人権侵害を思いとどまらせ、寛容と対話を促進しようとする辛抱強い努力を続けている。

観察/詳細記録/監視の行動は、報告と抑止の二つの面で可能性を持っている。 チームのメンバーは、緊急対応ネットワークを通して、人権侵害に対して抗議するメッセージを送る準備ができている人々の手で情報を国外に流すことにより、人権の侵害者に対する一連の重大性に影響を及ぼすことができる。 しかし、観察することのより直接的目標は抑止である。

研究されたチームはすべて、観察、詳細記録、および監視の戦術を使っている。 しかしながら、WfPは、米国政府あるいは米国政府が資金供与している多国籍企業の方針あるいはやり方が人権侵害につながっている限り、その方針あるいはやり方だけを詳細記録し、報告している、という点で他のグループとはかなり異なっている。カメラとノートは人権観察のための主要な道具である。ヘブロンのCPTチームのメンバーは、兵士たちが米国から提供されているお金を使ってやっていることについて、米国の下院議員が関心を示すことは確かだろう、と兵士に対して語りかけながら、軍隊によるチェックポイントにおいて、ノートに書きつけることの有効性を報告している。そして、PBIチームのメンバーは、写真を撮るという行為が、恐らくは写真そのものよりも重要だ、と断言している。警察または軍はカメラを見ると、自分たち自身を意識するようになる。それは彼らの内に潜んでいる残忍性の発散であり、ボランティアに対して目を向けるまでには時間がかかる。逮捕するか、カメラを差押えるか、あるいはフィルムを露光させてしまうか。とりあえず彼らは面子を保つことができ、緊張は治まる。

観察と報告は、他のほとんどあらゆる戦術や活動に欠くことのできない部分である。割り込みしたり、同行したり、あるいはプレゼンスしている非暴力平和チームのメンバーは、彼らが観測する暴力や他の人権侵害を観察し、記録し、報告するという能力を最大限活用している。 したがって、WfPのボランティアは、ニカラグア人を擁護するために米国内で報告し、米国の市民を教育して、議会が、コントラへの資金供給を止めるようロビィ活動をするために、ニカラグアの村にプレゼンスしている間、コントラの攻撃の際の話を記録するために生存者にインタビューした。

「カメラだけで武装しているPBIのボランティアは、人権侵害をした場合に、国際的な人権保護のコミュニティが加える準備を整えている圧力が、人間の形をして歩いている。潜在している侵害者たちが知っているように、私たちがそのような侵害を暴露すれば、政権に対する外国からの援助配分に悪い影響を与えるかも知れない」。クロアチアにおけるバルカン・ピース・チームは、1990年代なかばから後半にかけて、セルビアの人たちの帰国、スプリット郡(ツパニスキ)の法廷において、戦争犯罪で起訴されているミルコ・グラオラックの裁判、小作料の収奪など、かなり多くのの監視を引き受けた。。観察と報告は、米国と企業の不正の結果を記録するため特にWfPが引き受けた。 彼らは、経済的暴力を振るう米国の政策を変えるために集められた証拠を活用している。

国際コミュニティによる支持は、他の地域の人々に暴力紛争、不正、および人権侵害について警告することにも関連しているし、平和チームの他の戦術から切り離すことはほとんど不可能である。 民間の平和維持者たちは、世界中の注意を紛争に引きつけるためにメディアの注意を得ようとすることにおいてしばしば非常に意図的であって、エネルギッシュである。 その紛争についての注意は、紛争当事者たちが自分たちの国際的なイメージに関心を持つならば、暴力を沈静化させる可能性を持っている。二次的に、よく指示された支持は紛争それ自体の本質の中に、安全を増進し、積極的な変化を引き起こす政治的圧力を適用することができる人々を従事させる。 研究された5つのチームはすべて、支持を引き受けているが、、米国の中での変革とともに、多国籍企業の変革を主張するWfPについては区別されなければならない。

PBIは、緊急時に対応して国際的な関心を高め、圧力を働かせるために、称賛に値する迅速な対応ネットワークを構築し、活用した。PBI自体とPBIが同行した中米の市民たち両方のための安全な特徴として始めたことは、何年にもわたって開発された世界中の何千人もの人々の電話連絡網であった。このPBIネットワークは、切迫したり発生している危険に対して抗議する何百もの電話とファックスを数時間以内に発生させる能力があった。(それは電子通信の時代が始まる前だったのだ!)

これらのメッセージの標的は、最初はグアテマラの政府か軍であったであろうが、その後は、時には呼びかけ人自身の国の議会議員になり、グアテマラに圧力を加えるよう政治家を促すものであった。そのゴールは、世界中の何千人もの市民に、グアテマラについて学び、効果的な行動をする方法を伝えながら、同行することの保護的能力を増進することであった。

1989年11月に、少なくとも60人もの外国人市民がエルサルバドルで公式に拘留された。そのグループには5人のPBIボランティアが含まれていた。チームのメンバーであるカナダ人のカレン・リドは電話での通話ができるように要求し、カナダの名誉領事に連絡をとることができ、それらを通して、拘留者たちが現場から連れ去られる前に、PBIの国際的な緊急対応ネットワークを発動させた米国のPBIボランティアに連絡をとることができた。カレンとマルセラ・ロドリゲス(PBIコロンビア)は少し拷問された。カレンは釈放されたのだが、マルセラに同行するためにまた戻った。二人はその夜に釈放され、カナダの大使館員に引き渡された。

CPTは、危機介入手段として、CPTの有効性を減少させないために、控えめに言って2000人の加入者を持つ緊急対応ネットワークを利用している。 加入者は、情報を受け取り次第、できる限りあらゆる措置を講ずることが強制されていると感じるべきである。 BPTには、BPTの警報ネットワークを利用するるにふさわしい理由について明文化された方針を定めていた。
  1. その国の国内での、市民あるい非暴力の活動家に対する物理的な攻撃
  2. 市民あるいは非暴力の活動家の逮捕/消息不明
  3. 市民あるいは非暴力の活動家に対する直接的脅迫
  4. 直接的脅迫には及ばないが、公然たる険悪な雰囲気
  5. 他の人権侵害が発表された
  6. 他の人権侵害が発生
  7. チームのメンバーに対する物理的な攻撃
  8. チームのメンバーの逮捕/消息不明
  9. チームへの直接的な脅迫
  10. チームに関する公然たる険悪な雰囲気
代表団の派遣は、WfPとCPTの両方が成功している活動である。 「CPTは、プロジェクト地域に毎年いくつかの短期代表団を送ることを企画している」。これらの代表団は短い期間ではあるが、過労気味なことが多く、危機に直面している地元の人々に対する重要な短期的勇気づけである。 ハイチで、中東で、そしてメキシコで、これらの代表団が長期的プロジェクトにつながった。短期的な代表団は時々、長期的代表団ではやることの難しい、あるいは不可能な、重要な対話にかかわったり、または非暴力的立会人を提供することができる。最終的に代表たちは、参加者が現地で新鮮な目や耳で見聞きすることによって、進行中のプログラム活動に対して重要な忠告を提供する。 「彼らが帰国して見聞きしたことを語ると、公正を求める声が強まる。」

特に、米国の有害な政策に反対する証言を米国内に伝えることに重点を置いているWfPにとって、代表団を派遣することは第一の優先事項である。長期チームのメンバーが、2〜3週間滞在する普通は10〜20人の代表団を迎え入れる。1983年以来、WfPは7000人を超える米国市民を、中米…キューバ、メキシコ、ハイチ、およびコロンビア…に送り込んだ。

行動主義は、平和維持あるいは紛争解決のいずれかの戦術として、最も強力で、最も個人的であり、最も即時の声明がなされなければならない、と感じている平和チームのメンバーによって選ばれるかも知れない。非暴力直接行動は、紛争の破壊性についての特別な認識を高めるために、介入者によって用いられることがあり得る。非暴力の歴史から見て、非暴力直接行動が抑圧されて来た当事者たちの交渉能力を急激に増加させることができることは疑いない。 ここでの問題は、直接行動主義を第三者の介入者が企てることができるのかどうかということである。

研究されたチームの 中でCPTは、現場における戦術として、市民的不服従を含めて、非暴力直接行動に取り組む唯一のチームである。CPTの指令は、「私たちは、平和の信条への刷新された掛かり合いが、非暴力直接行動を含んでいるかも知れない公然たる目撃者の新しいやり方に私たちを召し出すものと信じる。」という声明を含んでいる。 彼らは、非暴力直接行動が、市民による紛争介入に不可欠であり、抑圧されている人々との信義に基づいた態度である、と見ている。 さらに彼らは、紛争に取り組む手段として、非暴力直接行動のトレーニングを用意している。

1995年に、CPTチームのメンバーは、ヘブロン大学において閉鎖された門で大ハンマーを振るった。何故ならば、それはヘブロンからの学生にとって不当な障壁だったからだ。チームの3人のメンバーとヘブロン連帯委員会の1人のメンバーは逮捕され、イスラエルの友人によって供託された保証金を入手するまで、刑務所でその夜を過ごした。チームのメンバーであるリック・ポルハムスおよびピエール・シャンツは、 2001年3月、軍隊によりがらくたで封鎖されているランティス町への入口を片づけようと試みている間に逮捕された。4月の初めにシャンツは、パレスチナ人の家の屋根に登った。それはイスラエル軍がブルドーザーを使ってその家を壊そうとして近づいて来た時だった。彼は、蹴飛ばされ叩かれ、階段の下まで押し下げられた。また、4月に他の道路を片づけようと試みたグレッグ・ロリンズおよびボブ・ホームズは、兵士が到着した時には座っていた、すると、彼らは引きずり出された。 これらの3つの事例では、いずれも後で告訴されることなく釈放された。

CPTは、家の屋根に登ることは有効だ、と確信している。「私たちがそこに行くまで、多くの人々はヨルダン川西岸地区で家が破壊されていることを知らなかった、と私は思っている。」と、クレア・エヴァンスは言っている。

直接行動は、ある国の国内で法的な身分で妥協するかもしれず、「政治的に立場を取らない」という原則にほぼ違反していそうである。 (平和チームによって企てられた直接行動は、しばしば党派的な第三者介入である、と記述されている)。PBIは「直接行動を計画することも、積極的に参加することも、実行することもしない」。PBIの活動のかなめ石である「政治的に立場をとらないこと」は、彼らが妥協するようなものではない。しかし、PBIには、すべての直接行動を禁止する2番目の理由がある。PBIは、外国人が国内政治に干渉してはならない、と確信している。

WfPのメンバーは確かに、直接行動を避けてはいないが、変革のために激しい抗議をおこないたい米国の国内だけに限っている。

紛争解決 Peace making
この報告書の目的として、紛争解決とは、グループあるいは個人を、可能性のある紛争解決についての対話に向けて集めることである、と定義される。これは外交レベルにおいて、あるいはまた、紛争に巻き込まれている普通の市民の間で起こすことができる。これを「対話というやり方を通しての紛争当事者間の調停、たとえば、戸別訪問、アピール、集会、代表団、実情調査、交渉、当事者と外部との間のお互いの関心を作り出すこと」と呼ぶ。 ロバート・J・バローズは、それを非暴力の和解と発展と呼ぶ。その意図は、エリートによって課された法的制約、政治的制約、経済的制約、あるいは、軍事的制約、もしくはそのすべての制約をものともせず、共有された目的を達成するため一緒に活動するよう、紛争当事者たちを勇気づけるプロジェクトに参加することによって、紛争解決、コミュニティの和解あるいはコミュニティの発展、もしくはそのすべてを容易にすることである。

CPTは調停と和解の努力をとりなし的な平和維持によって結びつけようとした。 しかしながら、ある人たちは、同じ団体が和解と平和維持の活動を両方ともおこなうことはできないと主張している。

BPTも、当事者たちを和解させることと紛争地域の中に共生することの両方を促進するよう積極的にかかわった。彼らの役割は、
a)異なったグループの間の対話のための可能性を特定しようと探求すること
b)独立していて「政治的に立場を取らない」地域からの情報のチャンネルとして奉仕すること
c)触れ合いとネットワークを通してコミュニケーションを促進するように寄与すること
d)異なった民族グループや平和グループと、クロアチアの人々、そして国際社会との間の対話と相互理解
e)すべての市民の利益のために、調停に関するワークショップや言語教室など、チームのメンバーの技能で寄与すること

を含んでいた。

現地にいるBPTチームのメンバーからの1999年6月のレポートには「この領域への最近の踏査旅行では、BPT-ユーゴスラビア・チームは、そこで出会った数人の人たちから、セルビア人とアルバニア人の間の和解はもう不可能であろう、と言われた。しかしながら、他の多くの人たちからは、今後の対話とコミュニケーションは可能であるばかりでなく、絶対に不可欠である、と言われた。BPTは、両方のコミュニティの中のNGOを訪問し、対話しながら、草の根レベルでのネットワークのメンバーとして自分たちのユニークな役割を果たし続けるよう強く勇気づけられた。」と書かれていた。

サンドラ・バン・デン・ボッセは、BPTにおける彼女の目的は、セルビア-アルバニアの紛争を非暴力的に解決することに関心を持つ人々の団体を強め、相手側との対話を勇気づけることにより、彼らを支援することであったと言う。

SIPAZはその活動を説明するのに平和構築という言葉を用いているが、彼らの活動の大部分は、この報告書で用いられている紛争解決の定義の中に入る。SIPAZには、国際的な非政府的紛争解決の経験を持つ提携メンバーがいる。「SIPAZは、メキシコ人は主にメキシコの問題を解決するために活動するという文脈を高めながら、まとめ役の役割を果たすことを探求している」。SIPAZは、国際社会が、より重要な政治的公平、経済的公正、そして、社会正義を創り出す中で、国際社会とメキシコとの関係ならびに国際社会の役割を吟味することを奨励する。SIPAZは、信仰に基づいた団体として、福音主義教会とカトリック教会の間の緊張を和らげて、宗派間の和解にかなりの努力をそそいだ。 SIPAZは、NGOとコミュニティと教会の活動家である関係者に対して、地元の平和構築の能力を強化するための平和構築のワークショップを提供している。

2000年11月から2001年1月までの間のメキシコと国際的な目撃者の活動のリストは紛争解決と平和構築の釣り合いを示している。

接触と訪問:
・コミュニティの和解というテーマで、チアパスの北部領域の中の基礎的なコミュニティの集まりに参加すること
・新しい国家と連邦政府の密接な関係について議論するために、北部領域の中のさまざまな政治的仲介者および宗教的仲介者との会合
・いくつかの北アメリカの代表団に対して、チアパスにおける政治的状況とSIPAZの活動に関して事情をよく知らせるための会合
・英国の外務連邦省次官のためのチアパスの農村地域への訪問団体

情報:
・ドイツ、ベルギー、およびスイスに住むSIPAZチームのメンバーにより、ヨーロッパの中で話をするツアーの継続
・紛争地域の中の原住民女性に関する論説の出版
・オランダの定期刊行物の2つの論説の公表
・チアパスにおけるSIPAZと他のNGOの役割を研究する3人の国際的学者との会合

宗教間:
・教会の仲介者との会合
・戦略計画への参加
・連続的会合を始める

教育:
・紛争転換に関するワークショップの促進
・コミュニティの和解の過程について反省の過程を開催する

WfPの活動の大部分は、紛争解決の戦略の中に直接入る。専務理事のスティーブン・ベネットによると、この団体の最もすばらしい成功の1つは「グアテマラの社会の中に究極的にCPR(抵抗する住民のコミュニティ)の再統合をもたらした過程への関与であった。 私たちは、この過程による同行と促進する役割を果たした。私たちのプレゼンスが、直接的脅迫を感じていたCPRの住民に安心感をもたらした。 同じことがメキシコ国内に亡命しているグアテマラ人難民にももたらされた」。米国と多国籍企業による抑圧に反対するWfPのロビー活動もまた、紛争解決の活動である。 彼らは、犠牲者から政策立案者への情報ルートとして、また逆に懸念する米国市民から苦しむ人々への情報ルートとして行動する。

平和構築 Peace building
平和構築は、救援と発展の活動をともなう。リサ・シルヒは平和構築を「構造的暴力に向かう社会的、政治的、そして、経済的発展のプロジェクト、そして破壊的な紛争の発生あるいは再発を防止する」と記述している。

BPTは、平和構築をクロアチアおよびコソボにおける活動の主要な部分に据えた。「平和構築を促進することは、長期間の掛かり合いならびに、トラウマを受けた人々が癒しのために必要な時間の重視を必要とする過程である。これは、抑圧の記憶がまだ生々しく残り、最近の残虐行為による傷が今なお悪化していて、民族相互間の暴力がなおも激しい、戦争で引き裂かれたコソボの社会で特に明らかである。…コソボにおけるBPT のチームは、この領域の中のすべてのコミュニティの話を聴き、コミュニティと共に活動することの継続を望んでいる。このやり方で彼らは、誰一人として彼らの家がもはや彼らが属する場所ではないと感じさせられないよう、平和と寛容を築き上げるために、有意義に責任をもって貢献することを探求している。」

BPTスタッフは、アルバニア人難民がコソボへ帰還した後、地元のアルバニア人の活動家と共に、アルバニア人の最近のトラウマの間にセルビアの人々から予期せざる援助を受けているアルバニア人の話を聞き出し、記録した。 「そのようなプロジェクトの目標は、何人かの地元活動家の恐れが戦争体験の均質化になりつつあることに反論するためである」。BPTのメンバーは、ドラガッシュの田舎のコミュニティの中にユースセンターを設立し、そこでアルバニア人およびスラヴ人イスラム教徒の両方の若者たちが、コンピュータのトレーニングや英語のレッスンのような、地元で特定されたサービスを受けることができるように支援した。

1994年以降セルビアおよびコソボで活動しているBPT - ユーゴスラビアは、その第一の重点をセルビア人とアルバニア人の間に橋を架けることであると記述した。そのチームの日常の活動は、いつものように、地元のNGOと定期的に雑談し、彼らの状況と必要としていることを学び、国際的な情報・知識に関する情報を提供しながら、ネットワークを作ることが目立つものだった。圧巻は、BPTが1998年に、セルビア人とアルバニア人の大学生の間の対話と討論をなし遂げるよう支援したことであった。もう一つの例は、同じ意見を持っているアルバニア人とのつながりを作り上げることに、BPTの支援を求めたセルビア人平和グループと一緒の活動であった。

オシエク・ピース・チームは、平和構築活動についての感動的なリストを続行している。そのすべてがクロアチアでの戦争の後で可能になった。 彼らの平和構築の明らかな目標は「先入観をゆっくり減らすこと」である。 彼らは、心理社会的なワークショップによる、子供たち、女性、退役軍人に対するカウンセリング、ならびに、コンピュータ教室や、言語コースの形式での教育、民主主義、選挙監視、地雷除去などについてのセミナーを提供している。彼らは、人々とコミュニティと民族グループとの間のコミュニケーションを促進し、特にカトリック教徒と正教徒および福音主義教徒が、すべての宗派からの聖職者と共に参加する宗派間の礼拝によって、宗教間の対話を促進している。彼らは、協会の設立を援助し、多民族性を奨励している(例えば、青少年クラブの創設、ハイキング協会、あるいはコンサートや読書の団体)。彼らは、帰還者や不利な条件におかれた人々のグループの再統合を支持し、監視し、当局に行く市民に同行して、合法的なカウンセリングを提供している。平和チームは、復興プロジェクト、特に図書館やスポーツセンターの補修にさえ協力しており、さらにクロアチア、ハンガリー、およびユーゴスラビアにかかわる平和公園のためのアイデアについての環境保護的な協力もしている。

非暴力のトレーニングは、現地での平和教育の何らかの形式として、WfPを除き、研究されたすべてのチームによって提供されている。WfPのチームは、受け入れているWfP派遣団のためだけに教育的なイベントを提供している。

CPTは、非暴力直接行動で他者を訓練するのを含んでおり、話しあいと文書により、非暴力の視点をメディアや関心を持つグループ、または信徒たちあるいは団体に提供することを探求している。 PBIは、非暴力と人権の教育とトレーニングを提供し、非暴力の原住民版を育成している。ハイチでは、PBIは、地元の紛争解決トレーナーとともに、紛争を解決する非暴力の手法についてのワークショップを組織するために活動していた。グアテマラとエルサルバドルでは彼らは、紛争解決、交渉の手法、グループの過程、政治上の分析について、また同様に「恐怖と拷問に対するコミュニティの対応」というような専門的な話題について、広範囲なワークショップを提供した。 パオロ・フレレの技法と方法は、チームの活動の不変の特徴になった。 BPTのスタッフは、非暴力、コソボの紛争、型にはめること、ジェンダーなどについてのワークショップとトレーニングを提供した。チームのメンバーの技能によって、何を提供するかが決められた。

人道的援助は、WfPを除き、チームを派遣している研究された団体のいずれによっても、平和構築の一形式としては提供されていない。それらの団体にとって人道援助は優先事項ではないが、時折それを活動の一部分にしている。 CPTは、以下の声明を含めて、金銭的、あるいは、物質的な援助を与えることに反対する方針をとっている。「地元の環境の中で、CPTの負託の範囲内て効果的に活動するCPTの能力は、贈り物や財政的援助に基づくものではない、健全で正直な関係を発展させること次第である」。チームのメンバーたちは、深刻な貧困地域に住んでいる時、この難問に気づいたと報告して来た。また、PBIは、「コミュニティ は、他に依存するよりは、むしろ自己権限委譲を作り出す方法で、彼ら自身の開発を実行するスペースと自由を必要としている。私たちが、開発の機会を心配するようになった時は、コミュニティを特にその仕事のために設立された団体に引き渡すことを試みる」と信じているので、自分たちは開発団体ではない、と強調している。

当初、人々はオシエク平和チームからの人道救助を期待したが、「私たちは彼らを手ぶらで派遣した」。 しかしながら、オシエク・プロジェクトは必要としている領域と人々には直接援助をしている。 SIPAZは人道救助のINGOキャラバンに同行しながら同じように援助している。

現地での可視性
すべてのチームが、現地では目につきやすいことが望ましいことを認めているが、その程度は引き受けた活動と安全の要素次第である。

PBIは、グアテマラの状況が、PBIおよびPBIが保護のための同行を提供している人々の両方に対して、油断できない状況になった時、最高の目立ち度を求めて行くことが必要であることに気づいた。グアテマラ市において、 3人のボランティアがナイフで切られた後、PBIはあらゆる主要なグアテマラの新聞にPBIの活動を守る広告を掲載した。それは米国議会議員、カナダとヨーロッパの議会議員、国際的な教会指導者、ならびに他の高名な国際的人物の何十人もが署名したものだった。 同時に、ボランティアに対する攻撃を非難するグアテマラの団体による広告も出された。PBIのチームは、より安全な家に引っ越した後、外交団と記者団のためのもう一つのレセプションを催した。米国市民に対する攻撃であったために、米国からグアテマラへの軍事援助は直接的に脅かされた。 PBIは行政府をしばしば訪れたし、大使たちはチームの家を訪れた。暴力的攻撃は止まった。

CPTのボランティアは、チェックポイントを監視している間、よくわかるように赤い腕章をつけている。 彼らは、地元のジャーナリストの名前を覚え、良い関係を培うことによって、積極的にメディアの注意を求める。彼らは、新聞報道を書き、意図的に目立つ公開の行動をおこなう。どのようにメディアに話すかを学ぶことは、チームの新しいメンバーのためのトレーニングの一部である。さらに、彼らの電子メールは、およそ2000の家庭に届き、ニュースレターは7、000の家庭にまで達する。 そして、もちろん、そして、チームのメンバーによっておこなわれる公開の抗議および直接行動は、最高の可視製性を達成することになる。

WfPは、コロンビアの米国大使館の正面で公開の証言を開催した最初の国際的なグループであり、それは、現地の見出しニュースとなった。「私たちは、この類のニュースを求めています…私たちは、コロンビアの人たちに、米国のすべての人々が、プラン・コロンビアのために米国が資金を供給することを支持しているわけではない、ということを知って欲しい」と、ベネット理事は説明する。 WfPチームのメンバーは現在毎週金曜日に大使館の正面で、コロンビアの人々からの許しを請いながら可視性を探求しつつ、証言を続けている。

さらに、WfPの派遣団は、米国に戻ってからの幅広い目立ち度を必要としている。1983年に任命式典が、ニカラグアに行く最初の短期的な派遣団のために開催された。WfPはその式典を、すべてができる限り目に見えるようにして、弁士としてのヴィンセント・ハーディングと共に、ワシントンDCで開催した。「並はずれた危険」に手を染めようとする「普通の人々」の姿勢を慎重に啓発しながら、新聞報道は「この証言の目的は、…ニカラグアの人々と米国が支援しているコントラとの間に防御用の盾を提供することである… このグループは、交戦地帯の中で北アメリカの教会の人々が常時プレゼンスすることが、コントラの作戦を妨げることを望んでいる」。このイベントとその主張はたいへん成功し、「蜂蜜にたかる蠅のように、メディアを引きつけた」と伝えた。

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