野宿者をみる「視線」
「私は退屈だ!」。即席のダンボールハウスから主婦や警官が叫ぶ。どうやら
日常の生活や勤務に飽きたらず、それを放棄してダンボールに入ったというこ
とらしい。そしてそれはテレビゲームによって癒される…。そんなセガのCM
を見たことがあるだろうか? 退屈―日常生活(市民生活)の放棄―ダンボー
ルハウスという野宿者をめぐる最も通俗的なステレオタイプに乗っかったこの
CMは、その徹底した通俗性への迎合ぶり (「俗情との結託」 *1)ゆえに、
通俗的な日常生活に亀裂を走らせる商品など決して提供できないことを自ら露
呈してしまっているのだが、しかし「しょせんテレビCMなんて…」と言って
片付けられないところに、この問題の根深さ・厄介さはある。
たとえば社会学者吉見俊哉は、野宿者を取材した本を取り上げたその冒頭にこ
う記した。
「ここにもアジールがあったのか」 と*2。アジール、それは日常
的な規範・権利義務関係から「無縁」な特権的な領域を指す。日常的市民生活
とは異なるアジールとしてのダンボール村…。むろん吉見はここでアジールと
いう言葉を現代社会で容易に得ることのできない貴重なものとして肯定的に用
いているのだが、しかし問題は、意味づけの方向こそ違え、吉見が表象の枠組
をセガと共有し、それと表裏一体の関係に立っている点にある。ダンボール村
はここで、貴重ではあるが、市民社会とかみ合うことのない〈別世界〉なので
ある。
残念ながら、同じことは去年の二月二日に新宿四号街路からの強制撤去一周年
にあたって開催されたイベントでの仏文学者 鵜飼哲の発言にも
当てはまる*3。 鵜飼はそこで、諸個人を市民=国民として同定する近代国家の様々な諸装置や
「知」に寄せ場やダンボール村を対置して、そこに近代社会が失いつつある
「信」があると言っていた。ここでも野宿者は何か市民社会と〈切れた〉とこ
ろに祭り上げられてしまっている。彼らが野宿者に何かしら希望を見出そうと
するとき、その言葉はなぜか市民社会〈とは異なるもの〉の称揚へと向かう。
しかし、本当にそうか?
たしかに野宿者は一般の市民生活から排除されている。労働行政からも福祉行
政からも事実上締め出され、警察や公園・施設管理者からは日常的に権力的な
圧迫を受けている。しかし野宿者は、それゆえにこそ、あたりまえの市民生活
への復帰を求めている。私たちのじれんは、その復帰を妨げる諸要因を撤廃す
るよう主張し、行動している。野宿者を「健康で文化的な最低限度の生活」か
ら遠ざけたもの、遠ざけ続けているものは何かを問題にしている。市民生活と
野宿者を分断するものに抵抗している。それはたしかに市民社会そのものの変
革を求めているのだが、しかしそれに背を向けて〈他なるユートピア〉に閉じ
こもろうとしているわけではない。そして他ならぬそのことが、野宿者問題を
見る彼らの「視線」には入っていない。たとえば生活保護の適用を求める私た
ちの日々の活動が、彼らの「視線」の中では位置づかない。問題は、彼らが理
屈を言うことそのものにあるのではない。活動の現場から離れていることにあ
るのでもない。理論そのものの抽象性という一点に存するのだ。
今号では差別を問題にしている。
「俗情との結託」、それが差別である。
*1 この言葉は、大西巨人が野間宏『真空地帯』を批判した際に用いた(『文
選』一)。大西はそこで『真空地帯』がその見かけとは異なって、通俗性(俗
情)への迎合(結託)の上に成り立った作品であることを批判した。また、この
言葉をより直接に差別問題に結び付けたものとして、渡部直巳『近代日本文学
と〈差別〉』がある。
*2 一九九八年一月二六日朝日新聞書評欄。
*3 このイベントを主催したのは、実は私たち自身(旧「いのけん」)だった。
このスピーチの内容は「いのけん通信」第一四号に載っている。
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