第II部、敗戦五十年と民族道徳
1994年10月から12月にかけたいくつかの地方議会が採択した
「戦没者追悼」に名をかりる戦争=美化決議の問題点
1994年9月30日 愛媛県議会
「戦没者に追悼と感謝の意を表し、恒久平和の建設を誓う決議(案)」
「しかし私は思うのであるが、いまや経済大国にのしあがり、 その日常生活についていえば、 相対的な安定と偸安が支配している日本人大衆の多くの部分にとって、 この当初の決議案すらが 一定の気分的共感を得るものとなっているのではないかということなのである。 『国民及び民族の協調互恵の精神に基づく共存共栄と恒久平和の世界建設に向けて』 努力しようというのだから、それはいいではないか、 という気分的共感であるだろう。 そこでは十五年戦争の性格評価など、意識の外に放逐されてしまうのである。 勿論、相対的少数の反対者はいるであろう。 その相対的少数者が、はっきりとした声を上げるのが、 いまほど求められているときはない。」
日本人大衆の「ダマサレタ」論
「ここにむき出しの形で現れた支配者エゴイズムとしての「一億総懺悔」論にしても、
庶民的エゴイズムとしての「ダマサレタ」論にしても、もっぱら何故負けたか、
誰が悪かったかが問われるだけで
−−すこし上品にいえば敗戦責任が問われるだけで−−−、
十五年戦争そのものの性格評価と、
責任の問題は人々の意識内面でカッコにくくりこまれたまま
暫く事態は推移させられた。
1945年12月1日第八十九回帝国議会、
進歩党提出の「戦争責任に関する決議案」の可決
大衆的「ダマサレタ」論に対応した議員どもの保身的
「ダマサレタ」論といえる
自生的「ダマサレタ」論に対応した「一般国民」=無責任論といわねばならぬ
「敗戦直後、日本人は、エリートも大衆も、 戦争責任をわがこととして自覚するなどという地点から遥かに立ち遅れていた。 そこに私は、 戦時中にそのままつながる民族道徳の恐るべき荒廃を見ざるをえない。」
1946年3月 在日朝鮮人有志による尹奉吉(ユンボンギル)の遺体発掘運動
日本人側の反応−−対朝鮮人恐怖感情(朝鮮人差別の別の現れとしての)
「チャンコロ」――日本人大衆の日常会話のなかでも盛んにつかわれた
「鬼畜米英」――戦意高揚の官製用語にとどまり、
大衆思想=大衆的価値表現として定着しなかった
敗色濃くなった時期における「おかわいそうに」事件
「日本人大衆の深部には、 無批判的な大国意識が徐々に形成されて来たと見られる。 それが戦争の性格評価をめぐる価値の再転倒――侵略戦争=美化―― のための策動に大衆的な根拠を与えているのである。 ここでは無知による無恥も共犯関係に立っていると見ざるをえない。」
シンガポールのリー・クアンユー上級相の言葉
(『朝日新聞』1994年12月31日)
<もしあの戦争が解放戦争であったのならば、
日本の軍隊がシンガポールに入ってきた時、
我々は解放され自由になっていたはずです。
しかし、私の体験は違っていた。
三年半の間、我々は支配され、残酷に扱われ、圧制に苦しめられた。
アジア解放の戦争だった、ということには賛成できません。>
<日本は、
普通の『普通の国』(オーディナリー・ノーマル・カントリー)ではありません。
非常に特別です。それを忘れない方がいい。>
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