第I部、打算とニヒリズム−南京大虐殺事件の精神構造
さて、津田にそってそれをみていこう。
問題が極めて象徴的にでてきたのが、 「祝南京陥落」のラプソディ(狂想曲)であった。 決して自覚的な戦争賛美者ではなかった人間が、何故に、 日常的なものとして戦争を受け入れ、 「南京陥落」の祝賀行事にのめりこんだのか。
まず、中国侵略の歴史的概括からはいる。 37年7月7日盧溝橋事件が起きた。 津田は、「中日両軍のどちらが先に挑発したか」などということではなく、 「なぜ日本の軍隊が、中国の領土内にいたのか、両軍の衝突が、 なぜ、あの時期、中国領土内の、それも北京近郊で起こったのか」 「これに先立つ日本帝国主義の中国侵略の歴史と、中国人大衆の、 とくに北京を中心とする華北での抗日意識という形であらわれた 道徳的昂揚との関連」の中にこそ問題を解く鍵があるという。 これが津田の歴史をみる一貫した視点である。
日本は、日清戦争以後、1915年の対華21箇条要求、 27,8年の山東出兵、28年張作霖爆殺事件、31年柳条湖事件、 32年1月第一次上海事変、同3月「満州国」建国、 33年熱河省侵略とつづき、さらに33年5月塘沽協定以後、 冀東防共自治政府のでっち上げをもって「華北分離工作」と 第二の「アヘン戦争」をしかけた。
侵略戦争全体の概観はまた別にやる必要があるだろう。 ともあれ、日本の中国侵略は、 「満州国」建国や「華北自治運動」などという欺瞞的かたちをとりながら、 軍事力を背景に拡大した。 それは、冀東密貿易にみられる道徳的腐敗をともなった。
その道徳的腐敗とは、第一に、はずべき麻薬・密貿易に手を染めたこと。 第二に、 それを「王道楽土」「五族協和」のイデオロギー的美名の下におこなった。 第三に、この事実を知らされなかった、 知ろうとしなかった“無知による無恥”の道徳的腐敗。
こうした日本の侵略に対する中国人民の抗日運動は、1911年辛亥革命、 19年5・4運動以後激化、拡大していく。 冀東防共自治政府のでっち上げや麻薬密貿易は、抗日気運を強めた。 「華北自治反対」の35年の12・9運動、 そして傀儡軍に対する大打撃を与えた36年の綏遠事件と 西安事件という中国人民のたたかい。
こうした日本側における民族道徳の荒廃と、 中国側における未曾有の道徳的昂揚の緊張が 華北の地において軍事的緊張として衝突したのが37年7・7であった。 日本は、これから南京大虐殺をはじめとする泥沼のなかにのめりこんでいく。
以下いよいよ南京大虐殺の実相にはいっていくわけであるが、 その前に、ここで若干の寄り道をしたい。 津田は、日常的な戦争への動員行動を、 「暴支膺懲」(乱暴にあばれまわる「支那」をこらしめる) と忠勇美談への動員とその背後にある「大衆ニヒリズム」 に着目しているのであるが、この理解のための若干の歴史的補足である。
ところで、中国侵略をみていくときわれわれは、 まず、日清戦争に注目せざるをえない。
日清・日露戦争は、「極東の小国家日本が欧米の圧力に抗し、 アジアの大国となり、世界の一等国となる」ための一里塚と見なされた。 永い鎖国の末に、帝国主義諸列強の包囲と開国要求=植民地化の危機の下で 大混乱におちいった日本は、明治維新をやりとげ「富国強兵」に邁進した。 急速な近代的国家としての確立に迫られた「小国日本」は、大国清におびえ、 シベリアから南下をはかるロシアにおびえながら、 悲愴なる決意を持って清国に開戦する。 日清戦争におけるおびえと逡巡は、旅順大虐殺事件として暴発した。 この旅順大虐殺事件は、のちの南京大虐殺を彷彿とさせるものであるが、 詳細はここでは省き、別の機会にゆずる。 (参考資料:『旅順虐殺事件』井上晴樹著 筑摩書房)
ともあれ、日本は、日清戦争の勝利によって、 おびえと逡巡の裏返しとしての「帝国臣民」意識を醸成し始めるのである。 かつ日清戦争後の三国干渉とそれに対する「臥薪嘗胆」 は侵略戦争への国民的規模での動員構造の大きな契機を形成するものであった。
日本は、日清戦争による戦時賠償金をつぎ込んで八幡製鉄を建設し、 軍事力増強にはいるとともに、 1900年北清事変の先兵となることで「アジアの盟主」たらんとする。
日本は、日清戦勝による自信を日露戦争の勝利で肥大化させ、 「脱亜入欧」論をもってアジアを未開・野蛮とみなす欧米帝国の声に唱和し、 先兵化するのである。 欧米への劣等感をアジアへの優越感にすりかえアジア蔑視を構造化していく。
この時期、国民動員の教育的環としての「軍国美談」が形成される。 多くの軍歌がつくられ、 当初白神源次郎といわれのちに木口小平(キグチコヘイ)といわれたラッパ美談、 あるいは「水兵の母」(「老いたる母の願いは一つ。 軍に行かば、からだをいとへ。弾丸に死すとも、病に死すな」など) が修身の教科書を飾るようになる。 「日露戦争始まって、サッサと逃げるはロシアの兵、 死んでも尽くすは日本の兵」という子供の手まり歌(お手玉歌?)などは、 戦後すぐも歌われていたが、この原型はこのころ作られたのではないか。
「臥薪嘗胆」は、日清戦争後の三国干渉に対して、 敵愾心をあおりたてることをもって 新たな軍備拡張の挙国体制にむけた国民的合意形成、 国民動員をつくりだすスローガンとなった。 このころ、戦争への動員はますます国民の日常生活にまで浸透するようになった。 軍備拡張を軸とした国家体制の再編の強行と、 その一環としての「尚武の気風」の養成が図られ、 国民精神涵養運動となって広がるのである。 そこでは「忠君愛国」「堅忍」「克己」 の精神が民衆の日常生活のなかに定着するようになる。
日露戦争における、海の東郷平八郎と陸の乃木希典の神話は、 さらに軍国熱を高めるものであった。 日清・日露戦争を通して日本は、旧来の農業国から工業国へと急激に変身し、 産業構造の変化にともない社会生活全般が商品経済へと引き込まれていく。 だが、民衆の生活は決して楽なものではなかった。 農村からの出征と戦死、軍馬徴発などで農村は疲弊した。 だが、それを乗りきるために、銃後をまもる妻たちの「黒髪塚」や、 忠魂碑造営運動として反転して組織されていったのである。
津田が回想する南京ラプソディは、こうして形成されてきたのものであった。
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