劉 彩品
雑誌「世界」11月号のフォーゲル「アイリス・チャンの描く南京事件の誤認と偏見」
(以下「フォーゲル文」と略す)を読んで、
「研究者の名における暴力」であると思った。
広辞苑によれば、研究とは、「よく調べ、考えて真理をきわめること」である。
したがって「研究者」というのは
「よく調べ、考えて真理をきわめる者」と定義できる。
多くの場合研究者、専門家の意見を聞くようになっているのは、
その定義が一般社会通念になっているからである。
「世界」11月号によればフォーゲルのプロフィールは、中国史・日中関係史専攻。 カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授である。 肩書きからは、「よく調べ、考えて真理をきわめる者」の部類に属している。 「フォーゲル文」も、研究者という立場で、自分の認識を他人に教えようとしている。 例えば、「近代日中関係史を研究したことがあるものなら、 本書が耐え難いほどのまがい物であり、 多くの点で重大な欠陥をもっていることをはっきり認識できなければいけなかった」 というふうに書いている。 しかし「フォーゲル文」を読んで、 研究者のフォーゲルは断罪に急でアイリス・チャンの著書をよく見ていないと思った。 それにもかかわらず、フォーゲルは、「驚くほどの無知」、「粗野で偽善」、 「無知」、「盲者が盲者を導く」、「誤魔化し」、「粗野で偽善」、 「馬鹿げたこと」と様々なレッテルをチャンに貼っている。 社会通念を利用しての、研究者の名における暴力である。
以下「フォーゲル文」の問題点を具体的に取り上げる。
(1) 「フォーゲル文」では、
チャンが大虐殺の究極的要因を「すべて武士道に求めている」と書いているが、
それは間違いである。
アイリス・チャンの英文原書の中、「The Path to Nanking」の章で、
南京大虐殺の原因を15頁(原書19−34頁)書いている。
内容は:武士道精紳、島国性格、命は国家に属する意識、天皇バンザイ、
西側に勝つための試金石、経済不況の戦争への転化、軍事拡張、覇権意識、
中国への介入、軍事訓練の日常化、権威に服従する民族性、軍事教育の非人道性、
等々にわたっている。
(2) 「フォーゲル文」では、原書13頁で、
チャンが「日本人に対する容赦ない心理学的分析を行なっている」と書いているが、
それは違う。
ここで批判されている原書13頁の関連部分を翻訳してみる;
『もしある時空における日本人の行為を批判することが、
日本人全体を批判することになるという言い方は、
命を奪われた南京の人々に対する冒涜であるのみならず、
日本人自身をも傷つけることになる。
本書は日本人の性格について論ずるつもりはないし、
どのような遺伝子構造でそのような行動に至ったかを論ずるつもりもない。
本書が論じたいのは「文化の力」である。
その力は、我々を悪魔にすることもできるし、社会の束縛を振りきり、
根源的な人間性に立ち返らせることもできる。
今日のドイツの再生イメージが可能になったのは、ユダヤ人が、
ドイツ国家が60年前犯した犯罪を忘れさることを許さなかったからである。
アメリカの南部がより魅力的な地方になったのは、黒人を奴隷にした犯罪、
それに黒人奴隷解放後も100年にわたる黒人差別待遇主義に対して
贖罪をしたからである。
日本が世界に向ってだけではなく、自分自身に対しても、
半世紀前に行なった行為が如何に不当なものであったかを態度で示さない限り、
日本の文化は前途がないだろう。
嬉しいことに、海外にいる多くの日本人は南京大虐殺に関する会議に参加している。
その中の一人は「私たちはあなた達と同じようにもっと知りたいのです」と語った。』
フォーゲルは「この部分はもっともいらいらするごまかし」と書いている。
いらいらするのは自由だが、誤魔化しはフォーゲルの方ではないか?
この文から「日本人に対する容赦ない心理学的分析を行なっている」
としか読み取れないのでは、読み取り能力が疑われる。
(3) フォーゲルはチャンが「南京大虐殺を日本で研究することは「経歴を脅かし、
生命を脅かすことさえある」(12頁)とまで主張する。
このような言明は驚く程の無知をさらけだすものである」と書いている。
原文はどのように書かれているか、訳してみる。
【日本では、日中戦争について真実を語るとキャリヤに響いたり、
命の危険をもたらすことがある(1990年、
長崎市長の本島均が昭和天皇は第二次世界大戦の責任を
負うべきという発言をしたために、撃たれた)】
本島市長が撃たれたのは事実だし、
「南京1937」の映画上演が右翼の妨害で取り消されている日本列島の昨今である。
日本の実状を知らずに批判する方が「驚く程の無知をさらけだすもの」
ではないだろうか?
(4) フォーゲルは又、
「秦郁彦教授はすでに『ジャパン・エコー』に掲載した論文の中で、
多くの不正確な点を指摘している。
彼の南京大虐殺の理解に完全に同意はしないが、彼の指摘のほぼすべては、
受入れることができる」と書いている。
ところが、その秦の指摘が必ずしも正しくないのである。
「重箱のすみをつつく」ような話の相手をするのは不本意であるが、
一点だけ指摘しておく。
例えば、日本兵が中国人を射殺している写真について、
影が短いことと白い服を着ている人が数人いるという理由で、
南京大虐殺が起こった寒い12月ではない、と秦は言っているが、
長い影を壁や斜面に投影してみれば影が短くなる。
写真ら明らかなように日本兵は溝の中に入って中国人を射殺しているのである。
斜面や壁になっている所に長い影が投影して短くなることは
誰でもすぐ試して分かることであるし、
白い服を着た軍人が数人いただけで12月ではないという話しは、
程度が低すぎて、相手にするのも馬鹿らしい。
「フォーゲル文」では、研究者の見識を疑わせることと論理飛躍が見られる。
数点指摘しておく。例えば、
(1) 武士道が虐殺の原因(の一つとアイリス・チャンは書いている)
の批判をする理由として
「住民のわずかな部分だけが武士階級に属していたという事実は、
彼女の考慮には入ってこない」と書いている。
研究者フォーゲルは武士と武士道の区別がついていないようである。
(2) フォーゲルは、
「私は殺害されたりレイプされた人々の数の問題に深入りしようとは思わないが」
と書きながら、次の深入りをしている。
「どのようにしてこれほどわずかの日本軍に、
数十万もの人々が虐殺されたのだろうか」、「私たちは、どのようにしたら、
ユダヤ人が少数派であった国々において集団として虐殺された状況と、
中国人が常に日本の侵略者に対して圧倒的な多数派をしめていたような、
中国における状況とを比較することができるのだろうか」
と数十万の大虐殺が起こった可能性を疑問視している。
フォーゲルの思考が終始一貫していれば、
「小さな日本は大きな中国を侵略できるはずがない」ことになる。
しかもこの論点は彼が「理解に完全に同意はしない」
と一線を引こうとしている人たちと似たような論法である。
(3) フォーゲルはアウシュウヴィッツにおけるガス室を否定することに対して、
「ドイツではこのような著作に対抗する法律がある。
しかし西洋世界の他の場所では、こうした周辺的集団を許容している。
というのも、民主主義に生きることはそうすることを要請しているからである。
同じことは日本にも当てはまる。
中国もそのような問題を抱えていてくれれば!」と書いている。
フォーゲルの民主主義とは、何をしてもいい、
どのように他人を傷付けても許されることのようである。
(4) 「フォーゲル文」は2個所アイリス・チャンの著書が
「日本の真面目な歴史家たちにとって大きな損害を与えた」と書いている。
この言葉はむしろ、
「日本の真面目な歴史家」たちの研究成果を信頼していないように読み取れる。
日本の真面目な歴史研究者の研究成果を「よく調べ、
考えて真理をきわめた」結果と認めるのならば、
「右翼批評家の攻撃」に十分耐えうると信ずるべきである。
私は重箱のすみをつつくような攻撃に日本の真面目な研究者の研究結果は
十分に耐えうるものがあると信じている。
上に述べたように、『世界』11月号の「フォーゲル文」は問題の多い文章である。
このような考えが日本に定着したら、日本人にとっても不幸である。
一日でも早くアイリス・チャンの『The Rape of Nanking』が日本語に訳され、
多くの日本人の目に触れられることを切に願う。
南京大虐殺を世の人々にしらせるためには、
「アンネの日記」のような人の心を打つ著書が必要だ。
かねがねそう思っていたが、
チャンの著書はフォーゲルが好むと好まざるとにかかわらず、
アメリカでそのような役割を果たしつつあるようである。
アイリス・チャンはフォーゲルに罵倒されたが、私は「有り難う、
アイリス!」と言いたい。
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