「くり返すな戦争と虐殺」南京大虐殺64カ年2001東京集会
毎年、南京占領の日12月13日の前後に、南京から被害体験者を招待し、証言を聴く会を全国各地で開催しています。今回は1997年から続いて5回目、東京では8つの市民グループや多くの個人の賛同と実行委員会への参加を得て、12月15日に星陵会館(永田町)で開催しました。参加者は140人、10代〜20代の若者の参加が目立ったのが今集会の特徴でした。ノーモア南京の会で集会報告集の編集作業を進めておりますが、概要を以下に報告します。
1.特別発言:「自衛隊ペルシャ湾派兵と戦後補償」
内田雅敏(弁護士)
冒頭、弁護士の内田雅敏さんは、小泉政権がアメリカのアフガン侵略に荷担して自衛隊の参戦を決めたことを受けて特別発言を行いました。内田さんは、なし崩しの憲法無視による自衛隊の装備の拡大と、アメリカのアジア戦略に組み込まれた自衛隊の軍事的荷担の流れを概観し、最近では集団的自衛権を禁止する日本国憲法の変更をアメリカが要求するようになっている危険な状況を論じました。集団的自衛権の壁を無視してアフガン報復のためのテロ特別措置法・自衛隊参戦を決めたことに関しては、基本法を踏みにじる「議会多数派によるクーデター」であり、今や憲法9条だけでなく立憲主義そのものが脅かされていると警鐘を鳴らしました。最後に、サンフランシスコ条約=日米安保条約に基づくアメリカの核の傘の下で日本はアジアへの目を閉ざし、侵略戦争への反省や戦後補償を全くしてこなかったことを指摘し、武力による平和ではなく、戦後補償とアジアの人々との連携による「人間の安全保障」と平和の追求を強く訴えました。
2.南京大虐殺の被害者による証言
王金福さん(84才、男性)
王さんは当時19才で、日本軍の中国敗残兵捜索で捕らえられましたが、選別され幸い良民票を得ることができました。良民票のない組に入った人たちは北の方に連れ去られすべて虐殺されました。しかし、良民ではあってもひどい暴行を受け、工場に連行されて、ほとんど食事も与えられない劣悪な環境下で奴隷的な労働をさせられました。王さんは衰弱が激しくなり、このままでは殺されると思って脱走しましたが、強制収容された22名の中国人のうち家に帰れたのは5人に過ぎなかったということです。逃走中に機関銃掃射による大量虐殺の音を聞き、無数の虐殺死体を見ました。紅十字会の人々が縦横七メートル、深さ四メートルもある大きな穴を掘って虐殺死体の埋葬している現場を目撃しました。また、近所に住んでいた70〜80人の中国人のうちで行方不明になりついに帰らなかった人がいかに多かったかを語ってくれました。
陶秀英さん(仮名、74才、女性)
陶さんは当時9才で、家が貧しかったために南京市内に残り、お父さんとともに母方の祖母の家に身を寄せて6人家族でくらしていました。多数の日本兵が国際安全区に出没して人家を荒らし回るようになり家に隠れていました。危険が迫ってきたとき、一人の年寄りの男性が、自分が日本兵をだましている隙に逃げるようにいってくれたおかげで、抜け出すことができました。そのお年寄りはついに戻りませんでした。女性たちは顔に灰をぬり乞食に身をやつして、南京国際安全区にのがれました。安全区は難民であふれており、女性や子供は金陵女子大に収容されていましたが、ミニー・ヴォートリンさんらが身を盾にして女性らを保護しようとしたにもかかわらず、多くの女性が強姦されました。妊娠していた女性が強姦され腹を割かれて殺された遺体も実際に目撃しました。陶さんは赤ん坊の子守をして食べ物を得ていましたが、日本兵に赤ん坊のお母さんはどこにいるかと聞かれ、彼女がそばにいなかったためにつかまって強姦されてしまいました。そのことは家族の誰にも話すことができなかったと語りました。
3.日本軍による加害の証言
近藤 一さん(81才、桑名市)
昭和15年に招集されて山西省に従軍し、最後は沖縄戦でも戦った元日本軍兵士近藤一さんは、日本兵が中国で犯したさまざまな残虐行為を自らの生々しい体験や目撃したことを交えて証言しました。初年兵教育における訓練として中国人の刺殺を体験し、斬首による中国人の処刑を目撃させられると、人を殺すことを罪悪と感じられなくなり、加えて中国人を"チャンコロ"と呼んで蔑視する根強い差別意識が下地となって、兵士はさまざまな蛮行を行うようになったと語りました。また、同じ大隊に属していた作家の田村泰次郎が戦後、小説「裸女のいる隊列」で書いたことは、自分が山西省における共産軍討伐の行軍中に見た事実そのものであると述べました。首相の靖国公式参拝や日の丸の法制化を例に、世の中が戦前そのままの状況に復活していることの理由として、戦争責任のあった権力者を追求せず、戦争犯罪の「根っこ」をそのまま温存したことから、根が芽をふき枝葉が茂って人々の目をおおい隠し、考えない人が多くなった結果だと語りました。
4.南京大虐殺の研究の動向
経盛鴻教授(南京師範大学)
はじめに経盛鴻教授は、南京大虐殺は確かな証言や資料に基づいて中国、日本人の研究者が証明した「鉄の事実」であると断言しました。生き残った千人もの被害体験者の証言、当時南京にいたアメリカ人、ドイツ人らの残した日記や記録が直截に事実を語っています。また東四郎の日記ほか日本軍関係資料、中国の校日戦争記録、裁判資料、外交文書など膨大な資料によっても裏付けられます。そして南京城の内外には大量虐殺の現場が(万人坑)がいくつも発掘されています。さらに中国ではつい最近も新たに欧米人、中国人、日本人が残した資料、日記等の発見があいついでおり、着実に研究が進展している状況を報告しました。たとえば、セメント工場を管理していたドイツ人カールジントとデンマーク人シントラーによる図面を含む重要資料の発見、ミニー・ヴォートリンとともに金陵女子大学で働いたテイズイホウの日記の発見などです。結びでは、日中協力して南京現地での虐殺の調査研究することを通して、友好関係を促進していくことを呼びかけました。
5.李秀英さんのインタビュー(ビデオ上映)と裁判経過報告
李秀英さんの名誉毀損裁判を支える会、南典男弁護士
李秀英さんの南京裁判弁護団の南典男さんは、南京大虐殺の生存者で「鉄証」とも称されている李さんの受けた被害の概略を述べ、松村俊雄氏がその著書で李さんはニセモノだと述べたことに対して、名誉毀損の認定と損害賠償を請求して争っている裁判の経過を解説しました。弁護団と支援する会の方が収録した、李秀英さんのインタビューのビデオが上映されました。ビデオの中で李さんは、「松村によるニセモノ呼ばわりは自分の存在を否定するに等しく、戦後、精神に受けた二度目の被害は、64年前に身体に受けた一度目の被害よりも打撃が大きかった」と語り、「裁判における事実の確認と正義に基づいた判断を求めたい」と述べていました。南典男さんは、松村氏は法廷で自説の根拠を主張することができなかった、李さんの勝利を確信していると述べ、一週間後(12月21日)に控えた結審と2002年春の勝利判決に向けて、多くの人々の支援を訴えました。
6.会場からの世代を越えたリレー・トーク
会場から年齢層の異なる四人の方からのメッセージが寄せられました。
(1) 矢口仁也さん
矢口さんは1943年学徒動員で召集されフィリピンに従軍した経験を踏まえて、若い方たちに向けて語りかけました。その中で、なぜ日本は戦争責任を追及し自己批判できなかったか、近藤一さんの証言にある軍隊の非人間的な性質は今の自衛隊にも共通する、憲法の補償する基本的人権が脅かされていないか、といったことについて考えてほしいと訴えました。
(2) 鈴木隆子さん
戦争中、中国で成長した鈴木隆子さんは、女学校1年生のころの体験として、小国民としても日本人は特別扱いされていたこと、中国人の差別に関与しなければならなかった小さな事件があったこと、そしてその加害の意味と責任について語りました。
(3) 水城史郎さん(大学生)
水城さんは最近韓国の□□刑務所を訪問した体験から、日本の植民地支配に抵抗し、独立を目指して立ち上がったが、逮捕されて弾圧された学生たちがいたことを例に挙げ、現在の新たな戦争や侵略抑圧について自分たちも考えなければならないと決意を述べました。
(4)
木村洋子さん(大学生)
木村さんは、過去の戦争における加害については戦後世代に責任はないが、被害者の要求を取り合わない現在の政府を放置することには責任があると述べました。また現在進行している戦争が出来る国への改造や、テロに走らざるを得ない貧しい人々がいる背景を考え、行動することが若い世代の責任だと訴えました。
(文責、RS)
[ホームページへ]
・
[上へ]
・
[次へ]