学習会第2回
笠原十九司著『南京難民区の百日』
―虐殺を見た外国人―

福田広幸・田崎敏孝


第6章.南京城内外の大殺戮

1.城内掃蕩の開始

  (P.141〜156)
1)12月12日の夜から13日にかけての城内の様子 (ウィルソン医師の日記)(P.141〜143)
「南京に残留している十五万から二十万人は、 以前に難民区と私が書いた安全区に群がった。 国際委員会は彼らに対して膨大な仕事をなしつつあり、 今や彼らの努力によって、大勢の命を救っていることは疑いない。 最後の瞬間に、たくさんの中国兵が、軍服を投げ捨てて、 民間人の衣服を奪い取り、安全区に流入した。 彼らを取り扱うことは、それ自体大変な仕事であった。 さらに重大となったことは、日本人は騙されず、 彼らを数百人ごとに駆り立てて、撃ち殺し、 彼らの死体を手軽に間に合わせた防空壕に押し込んだからだ。」

2)12月13日のダーディン記者の記述 (P.144〜145)
「無力の中国軍部隊は、ほとんどが武装を解除し、 投降するばかりになっていたにもかかわらず、計画的に逮捕され、処刑された。 安全区委員会にその身を委ね、難民センターに身を寄せていた何千人かの兵隊は、 組織的に選びだされ、後ろ手に縛られて、城門の外側の処刑場に連行された。
塹壕で難を逃れていた小さな集団が引きずり出され、縁で射殺されるか、 刺殺された。それから死体は塹壕に押し込まれて、埋められてしまった。
年齢、性別にかかわりなく、日本軍は民間人をも射殺した。消防士や警察官はしばしば日本軍の犠牲者となった。

3)12月14日、安全区国際委員会から正式に、戦時国際法に則って、 武装解除した兵士の生命は保障するよう、 南京日本軍司令官宛に要望書が提出された。 しかし、日本軍は南京攻略戦を包囲殲滅戦ととらえ、 中国兵は(疑わしい者も含めて)すべて、武装解除のいかんに関係なく、 殺戮するという考えが全体をしめていた。(P.152〜153)

2.血に染まる長江

  (P.156〜165)
1)陳頤鼎(第87師 第261旅)旅長からの筆者の聞き書き (P.156〜160)
光華門からの撤退〜下関〜煤炭港〜燕子磯〜長江〜八卦洲 (南京下流の長江の中洲)

2)12月13日下関付近の状況
長江上流より・・・・第6師団(熊本)歩兵第45連隊
南京城壁東側より・・・・第16師団(京都)歩兵第30旅団、 歩兵第33連隊
長江下流より・・・・第13師団(仙台)山田支隊
               <投降兵14、777人を収容>
長江より・・・・海軍第11戦隊

3.投降兵・捕虜の殺戮

  (P.165〜170)
1)第16師団(京都)の捕虜虐殺 (P.165〜168)
「捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片づくることとなしたる ・・」

4.国際委員会の闘い始まる

  (P.170〜180)
1)フィッチの日記 (P.170)
「14日に日本軍、つまり戦車や大砲や歩兵やトラックが、 町になだれこんできました。恐怖時代が始まったのです。」

2)14日から始まった難民区内における日本兵の暴行事件について、 安全区委員会はその記録を作成し、 中支那方面軍の司令部や日本大使館員宛に提出しては、その取締を要求した。 (P.172〜173)
14日の夜、 日本兵の中国人住宅への侵入や婦女の強姦および連行事件が相次いで起こった。
3)ウィルソン医師の日記 (P.175〜180)
日本兵の殺害から辛うじて生命を取り留め、 逃れてきた人々を救うために闘い続けた。
「無差別の人殺し、数千人にのぼる強姦、畜生たちの残忍さ、 肉欲、先祖の血というのは止まるところを知らないようだ。」

5.入城式のための大掃蕩

  (P.180〜187)
1)12月14日 昭和天皇より南京占領を喜ぶ「御言葉」が下賜された。

2)功名心にはやる松井岩根司令官が 17日に入城式を強行することにしたために、 日本軍は14日から17日にかけて、 南京城の内外で全軍をあげての徹底した残敵掃蕩・ 殲滅作戦を徹底することになった。

6.難民区の「便衣兵狩り」

  (P.187〜196)
1)フィッチの日記 (P.187〜188)
「12月14日、日本軍の捜索隊が本部近くのキャンプから、 中国軍の制服の山を見つけだし、近辺の者、 1,300人が銃殺のため逮捕された。 髪の毛が短いとか、船こぎや人力車引きが仕事のため手にタコがあるとか、 ほかに力仕事をした形跡がある者は、身分を証明するこのような傷によって、 死ぬ保証を得ることになった。
日本軍の捜索隊によって、 安全区のこれらの男たちが妻から引き裂かれる光景は痛ましかった。 キャンプでは、 夫や息子(すべて民間人)を連れ去られた婦人は千人にのぼった。」

7.新聞記者南京を去る

  (P.196〜199)
1)12月15日、 それまで南京にとどまって日本軍の蛮行を取材していたダーディン、 スティールら五人の新聞記者・カメラマンが南京を去ることになった。

2)ダーディン記者の記述 (P.198)
「上海行きの船に乗船する間際に、 記者はバンド(埠頭)で200人の男性が処刑されているのを目撃した。 殺害時間は10分であった。処刑者は壁を背にして並ばされ、射殺された。 それからピストルを手にした大勢の日本兵は、 ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけて、 ひくひく動くものがあれば弾を打ち込んだ。」

8.入城式前日の大虐殺――難民区

  (P.200〜210)
1)入城式の前日(16日)は徹底的に敗残兵の捕捉殲滅が行われた。

2)日本兵の日記 2件 (P.201〜203)

3)瀋錫恩(当時31歳ぐらい)からの本多勝一氏の聞き取り。 (『南京への道』) (P.203〜207)

9.入城式前日の大虐殺――長江沿岸

  (P.210〜222)
1)16日から17日の午前にかけて、 それまで収容されていた捕虜(兵士の疑いをかけられた一般の男性もふくむ)が、 大量に処刑された状況は、 虐殺からそれこそ稀有に生き延びることができた者たちが、 鼓楼病院に助けを求めてくることによって、しだいに知れるようになる。

2)山田支隊では14,777人(→約20、000人) の捕虜を16日と17日に殺戮した。

10.入城式前日の大虐殺――近郊農村

  (P.222〜229)
1)南京防衛軍の第66軍(第159師と第160師)と 第83軍(第154師と第156師)は日本軍の前線の正面を突破し、 南方へ脱出した。
これに日本軍は警戒心を強め、南京外囲防御陣地線内の広範な区域において、 残敵殲滅のための掃蕩作戦を長期にわたって実施することになった。

2)近郊農村は長期にわたって繰りかえし、殺害、強姦、放火、 掠奪の被害をうけることになった。

3)スマイスが南京国際救済委員会の名で実施した近郊農村対象の調査 (1938年3月)がある。

11.「青史に燦たり南京入城式」

  (P.229〜232)
1)中山門より陸軍部隊、邑江門より海軍部隊が入城し、 国民政府の庁舎の正面内庭で入城式典が挙行された。

2)南京入城式のもようは、大報道陣によってニュース映画、ラジオ、 新聞、雑誌をとおして大々的に日本国内に報道された。 入城式のセレモニーで主役を演じた松井岩根は、得意絶頂にあった。

 

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