学習会第2回
笠原十九司著『南京難民区の百日』
―虐殺を見た外国人―
福田広幸・田崎敏孝
第5章.南京陥落
攻撃にさらされる南京城
シカゴ・デイリー・ニューズのスティール記者は
「完全な戦闘装具の多数の軍隊が数方向にわたて城壁に向かって突進してきた。
城壁の防衛軍は突然、、轟音を立てて機銃掃射を始めた。
銃弾がいくつも南から頭上をヒューヒューと音を立てて飛んでくるようになって、
私はもう退散する時だと悟った。
わずか数ブロックを歩いた所で、突如、兵士たちが塹壕や防空壕に飛び込み、
住民は道路に突っ伏し、この光景で私は日本軍機が頭上にあることを知った。
車を降りると、私は壁に向かって張り付いた。
ほとんど同時に一機の飛行機が地面に向かって動力降下するのを、
続いてすぐに唸りを上げて爆弾が落ちてくるのを聞いた。
爆弾は二百ヤードと離れていない一群の臆病な兵士たちのなかで炸裂し、
死者と多くの負傷者を出した。
彼らの呻き声を私は長く記憶に留めるであろう。
なんとかここを脱出しようという試みは、
また飛行機が何機か接近してきたため失敗にきした。
私はある防空壕に避難所を求めた。
ひどく怯えすくんだ兵士数人とそこで一緒になったが、彼らは日本軍をではなく、
自軍の対空砲火が役に立たないことを口を極めて呪っていた。
何度も何度も日本軍機は動力降下を行い、爆撃と機銃掃射をくりかえした。
明らかに中国側防衛態勢の破壊を狙っているのだ。」(アメリカ関係資料編)
この九日までにすでに十数万の避難民が戦災を逃れて安全区に入っていた。
金陵女子文理学院では婦女子と十二歳以下の子供のみ2750名収容する。
この日のヴォートリンの日記では、
「貧しい難民の人たちにとってまだしも幸いなのは、
夜はさすがに冷え込むものの、まだ好天がつづいていることである。
日中は大陽が照ってくれるので、一息つくことができる。
もしも雪や雨が降るようになれば、
難民の生活はもっと悲惨なものになるだろう」(ヴォートリン文書)
増える負傷者
九日のウィイルソンの手紙では
「十二月九日 木曜日(中略)
ちょうど市の外から聞こえる大砲の音を聞きながらこの手紙を書いている。
今日は市の内部と外部の双方から当時に八発の発射音を数えた。
日本軍の先頭は数カ所で城壁に到達している。
大使館員は私たちを乗船させようと最後まで努力して、
ついに全員引き揚げていった。
空襲の公式記録はこれまでとしなければならない。
というのは、今日には朝から夜まで続く長いのがあったからだ。
サイレンは午前中に一回あり、それからは鳴りたてることはなかった。
私たちは大勢の死傷者を迎えて、病院は再び満杯になった。(中略)
国際委員会は、
その五人のメンバーがこの家〔ロッシング・バック邸〕に留まっていて、
素晴らしい事業をしているのだが、しかし、成果のほどははかばかしくない。
日本軍は国際委員会を認めないときっぱり言っている。
安全区の中の私たちの周囲にある、利用できるすべての建物に、
約数十万人の人々が群がり住んでいる。
彼らに何が起こるかは、ただ推量するほかはない。
委員会は大量の米を集め、大学の礼拝堂に貯蔵している。
安全区はすべて国旗や旗で区画され、これまでのところ、
日本軍に攻撃されることはなかった。
日本軍は安全区を認めないにせよ、尊重はするだろうと、
私たちはいまだに希望をもっている。
彼らがもしそうするなら、それは数千の貧民を救うことを意味する。
病院はそのために本来の仕事を切り詰めている。」(アメリカ関係資料)
最後の死闘
十日・十一日南京城周辺の複廓陣地では、
昼夜をわかたず壮絶な攻防戦が展開される。 以下省略・・・
砲弾の犠牲になる市民
さらにこの日、・・110ページ参照
誤報におどる日本国民
南京城攻略を目前にして、・・114ページ参照
大量の死傷者を出した脇坂部隊・・116ページ参照
複廓陣地の崩壊
十二日の夜明けから、・・116・117・118ページのはじめ参照
この日の正午ごろ、・・121・122ページ参照
この第八十八師部隊の退却が南京防衛軍の崩壊の引き金になったことを、
スティール記者は見ていた。
「数人の青年将校が、退却する大群の進路に立ちはだかって、
食い止めようとしていた。
激しい言葉が交わされ、ピストルが鳴った。
兵士たちはいやいや向きを変え、前線に向かってのろのろと戻り始めた。
だが盛り返したのは束の間であった。
三十分以内に中国軍の士気は瓦壊し、全軍が壊走することになった。
もはや、彼らをおしとどめるすべもなかった。
何万という兵士が下関門に向かって群れをなして街路を通り抜けていった。
この市の西北隅の門が彼らに開かれた唯一の退却路で、
門の半マイル向こうに長江が流れ、
そこに一群の艦船が先に着いた者を待っているのだった。
午後四時半頃、崩壊がやってきた。
始めは比較的秩序だった退却であったものが、日暮れ時には壊走と化した。
逃走する軍隊は、日本軍が急追撃をしていると考え、
余計な装備を投げ捨てだした。
まもなく街路には捨てられた背嚢、弾薬ベルト、手榴弾や軍服が散乱した」
(アメリカ関係資料)
実行不能な撤退作戦
省略
唐生智の脱出
午後五時すぎに・・130・131ページ参照
スティール記者はそのありさまをこう記している。
「兵士らが、
退却の主要幹線道路である中山路からわずか数ヤードしか離れていない
交通部の百万ドルの庁舎に放火したとき、地獄は激しく解き放たれた。
そこは弾薬庫として使用されてきており、火が砲弾、爆弾倉庫に達したとき、
恐ろしい爆音が夜空を貫いた。
銃弾と砲弾の破片が高くあらゆる方向に甲高い音を出してちり、
河岸に至る道路をうろうろとする群集のパニックと混乱をいっそう高めた。
燃え盛る庁舎は高々と巨大な炎を上げ、恐ろしい熱を放った。
パニックに陥った群集の行列はためらって足を止め、交通は渋滞した。
トラック、大砲、オートバイと馬の引く荷車がぶつかりあってもつれ絡まり、
一方後ろからは前へ前へと押してくるのであった。
兵士たちは行路を切り開こうと望みなき努力をしたが、むだであった。
路上の集積物に火が燃え移り、公路を横切る炎の障壁をつくった。
退却する軍隊に残っていたわずかばかりの秩序は、完全に崩壊した。
いまや各人がばらばらとなった。
ただ門が残骸や死体でふさがれているのをみいだすのだった。
それからは、この巨大な城壁を超えようとする野蛮な突撃だった。
脱いだ衣類を結んでロープが作られた。
恐怖に駆られた兵士らは胸壁から小銃や機関銃を投げ捨て、続いて這い降りた。
だが、彼らは袋小路に陥ったことをみいだすのだった。」(アメリカ関係資料)
長江の大惨劇
・・135・136ページ参照
武装解除した敗残兵
ダーディン記者は
「日曜日〔十二日〕夜、中国兵は安全区内に散らばり、
大勢の兵隊が軍服を脱ぎ始めた。
民間人の服が盗まれたり、通り掛かりの市民に、服を所望したりした。
また<平服>が見つからない場合には、
兵隊は軍服を脱ぎ捨てて下着だけになった。
軍服と一緒に武器も捨てられたので、通りは、
小銃、手榴弾、剣、背嚢、上着、軍靴、軍帽などで埋まった。
下関門近くで放棄された軍装品はおびただしい量であった。
交通部の前から二ブロック先まで、トラック、大砲、バス、
司令官の自動車、ワゴン車、機関銃、携帯武器などが積み重なり、
ごみ捨て場のようになっていた」(アメリカ関係資料)
最後に残った中山門も、第十六師団(京都)の歩兵第二十連隊が無血占領、
門の鉄扉に「昭和十二年十二月十三日 午前三時十分 大野部隊占領」
南京城はついに陥落した。
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