南京戦に参加した父
―― 中国侵略戦争の記録 ――
父の語った戦争、語らなかった戦争 No.5
南波正男
私が小学生の頃から、父は「俺は中国で、
この手で何百人殺したか判らない」と言っていました。
そして、亡くなるまで、夜、時々うなされていました。
昨年、東裁判を傍聴した時、戦時中に将校だった連中も傍聴していました。
連中の目つき、雰囲気、
姿勢が「どこかで見たり感じたりしてきたものだ」と思いましたが、
それは父と同じものでした。
そして、この連中も中国で虐殺を繰り返してきたのだと直感しました。
それくらい父も残虐な行為を行っています。
父−南波賢(1991年8月死亡 享年76才)は、二回徴兵され、関東軍に所属し、
中国東北部=「満州」と中国南東部=上海、南京等(所属は金沢第9師団)を侵略し、
二回とも負傷して除隊しています。
また45年には大空襲で焼け出されてもいます。
以下の文章は、小学生の頃から聞かされていた事を、
亡くなる前年に再度聞き取りしてまとめたものです
(父親ばかりでなく、今また子供たちを兵隊に取られる様な時代がくるとは)。
上海から南京へ
*土と兵隊にある様な満州での戦闘は、まだのどかだったが、
上海上陸から南京にかけては地獄だった。
俺の村から180名が徴兵されて同じ部隊にいたが、
それが一晩で11名しか生き残らない戦闘になった。
自分も負傷して、夜中に戦場をはい回った。自分の体の下は、皆兵隊の体だった。
冷たいのもあれば、まだ温かいのもあった。
クリークに入って、渡り始めると、何かにぶつかり、
5m位先で誰かが「うっ」と呻いた。
何かと思って掴むと、水の中に倒れていた兵隊の腸だった。
腹からはみ出した腸が水の中を流れていて、それに俺がぶつかったので、
呻き声をだしていたんだ。
*自分も負傷し治療して部隊を追っていったが、追いついたのは南京占領後だった。
部隊は、河口で中国人を殺し続けていた。
「何でこんな事をしているんだ」と聞くと、
師団長命令で「全員処置せよ」(全員殺せという意味)との命令があったそうだ。
後ろ手で縛り、数珠つなぎにした中国人を、トラックが何台も何台も運んできた。
その中国人をトラックから降ろして、河口に並ばせて、
機関銃でバッバッバッと連射して殺すんだ。
倒れたところを足げにして、河に捨てた。
中には、生きていた者も居て、泳いで逃げようとするのを小銃で撃った。
それを三日三晩やった。
兵隊であろうがなかろうが、皆殺しにした。
俺の役は生きている者を一人ずつ殺すことだった。
中国政府は、南京で30万人殺されたと言っているが、
俺はもっと殺したと思っている。
*河口で殺した後も、
ここで中国人を殺し埋めたという場所に連れていってもらった事がある。
そこは、一面の野原だったが、見ていると地面が地震の様に揺れていた。
なんだと思って地面を掘ると、血が吹き出してきた。
腐った死体から出たガスと血で地面全体が揺れていたんだ。
三光作戦
*ある村を占領した時、一軒一軒家を調べて回った。
自分が入った家に、中国軍の兵隊が10何人か隠れていた。
こっちは一人だったが、「村は日本軍が占領したから降伏しろ、
命だけは絶対助けてやる、俺を信じろ」と言って降伏させた。
こっちも必死だったんだ。
その10何人を部隊長の所に連れて行って「捕虜です」と言うと、奴は、
「何で連れてきた、全員殺せ」と言いやがった。
俺は、「そんな事はできない、自分を信じてみんな降伏したんだ。
出来る訳がない」と言うと、奴は、「お前が殺さないのなら、
お前を軍令違反で銃殺にするぞ」と言いやがった。
この時ほど、俺は、日本の兵隊を殺してやりたいと思ったことはない。
俺は、自分の銃を部隊長に向けて「自分には殺せない」と言うと、
奴は違う部下に命じて、中国の兵隊全員を撃ちやがった。
しかし、鉄砲の弾なんて、心臓や頭に命中しない限り、なかなか死なない。
腹に当たった位では、一日中苦しんで死ぬんだ。
みんな、なかなか死なないで、のたうち回っているんだよ。
俺は見てられなかった。銃剣で一人ずつ殺したよ。
俺は泣きながら、「申し訳ない、済まん、
俺を信じて降伏さえしなければ死なずに済んだのに」
と言いながら一人ずつ殺したんだ。
*一つの村を占領すると、必ず中国人が家財道具を持って逃げてくる。
道路に検問所を作って、歩いてくる中国人を捕まえる。
家財道具はその場で燃やしてしまう。
中国人は、4−5人ずつ、手榴弾を入れた穴の上に座らせる。
そして引っ張ってきた針金で雷管を抜き、爆発させて殺してしまう。
暴れる中国人は、殴りつけておとなしくさせてから、
生きたままガソリンをかけて燃やしてしまう。
生き埋めにする時は、土をかけただけでは死なないので、上から踏む。
すると、土の中で骨がボキボキ折れる音がするんだ。
*部隊とはぐれて一人でさまよっていた時、会う中国人に道を聞いて回った。
その時、日本語で答えなかった中国人は、皆、日本刀で殺した。
俺はもうどうなってもよかったんだ。
日本軍
*日本軍の兵隊など虫けら以下だった。
何かと言っては、将校に殴られ蹴られして苦しめられる。
自分はやりたくなかったので、軍曹になっても兵隊を殴らなかった。
すると、今度は、俺が兵隊を甘やかしていると言って、将校からやられるんだ。
*殴ってばかりいるイヤな将校など殺してやりたくなる。
俺も、戦闘中に、何回か殺してやりたい将校を後ろから撃ってやった。
将校共も判っているので、、戦闘では前に出ないで、兵隊の後ろにばかりいるんだ。
ある時、憎たらしい曹長が、俺にも子供がいると言ったことがある。
それを聞いて、ああこんな奴にも家族がいるんだと思ったが、そいつも、
その日の戦闘で死んだ。戦闘が終わった時、一人の将校が、負傷して倒れていた。
俺も負傷していた。その将校が、
「自分を連れていったら勲章をやるぞ」と言ったので、
何言ってやがる死んじまえと思って置いていこうとしたら、
今度は「助けてくれ」と言ったので、おぶって連れて帰ってやった。
何の為の戦闘か?
*八路軍(現在の中国人民解放軍)は強かった。
退却する時は、何人か残して退却するが、残った兵隊は、体を木に鎖で縛りつけたり、
膝をヒモで結んで、自分で逃げられない様にするんだ。
そして、日本軍に殺されるまで撃ち続けて仲間を退却させる。
中国の兵隊が、なんで、何の為にあれだけ闘うのか判らなかった。
日本の兵隊で、天皇の為に闘っている者など誰もいなかった。
天皇陛下万歳等と言って死ぬ兵隊はいない。
皆、母親か妻、子供の名前を呼んで死んでいく。
天皇云々と言う奴は、死なない将校だ。俺も考えた。
何で闘っているのか。
中国の兵隊は、自分の家族を守る為に闘っている。
結局、俺も家族の為に闘っているのだと思うほかなかった。
しかし、家族は日本にいるのに、何で俺は、中国で闘っているんだ。
何で、中国まで来て、中国の兵隊や村人を殺しているんだ。
それを考えると、もう戦闘がイヤで死のうと思った事が何回もある。
弾が当たる様に、戦闘中に、塹壕から頭を出しているけど、当たらないんだ。
仕方無いから、死ぬつもりで、突っ込んでいった。
それでも、弾が当たらないばかりか、英雄的行為として、勲章までくれやがった。
それを、従軍記者が取材に来て、偉そうに言うので、
何も判っていない奴だと思って殴りつけてやりたかった。
中国軍との交流
*ある戦闘で負傷して戦場に取り残された時、
八路軍の兵隊も一人負傷して取り残されていた。
その兵隊と一つ屋根で暮らす事になった。
互いに傷が治るまで一緒に暮らした。
日本軍が来ると俺が出て、今治療していると言い、八路軍が来ると相手が出て、
今治療していると言い、互いに傷が治ってから別れた。
除隊そして空襲―敗戦へ
*除隊して働いていたら、空襲された。
皆な焼け出された。
国道のロータリーじゃ逃げてきた人が、重なりあって焼け死んだ。
うちの親戚も沢山死んだ。
敗戦になって、米軍が上陸してくるとなると、千葉でも神奈川でも、
女・子供はみんな遠くの山へ逃がした。
強姦されたり殺されると思ったからだ。
日本軍は朝鮮や中国でそういう事を、散々してきたから、
今度は皆なやられると思ったんだ。
俺は、中国で何百人殺したか判らないし、日本は、中国でひどい事をした。
しかし、中国人はすごい。
あれだけひどい事をされたのに、
日本人の子供を育てて日本に帰してくれる(中国残留日本人の帰国子女)。
日本人には、絶対出来ないだろう。
*俺は、武見(元医師会会長)、笹川良一(元日本船舶協会会長)、
天皇(ヒロヒト=昭和天皇)が死ぬまでは死ねない。
笹川と児玉は、満州で財宝や金をかっぱらったりしながら、
終戦間際に逃げ帰ってきた。
また、天皇の命令で日本の兵隊は中国でひどい事をしたし、死んでいった。
生きて虜囚のはずかしめを受けず(軍規)と命令して、
兵隊や日本人も自決させたのに、なんで、天皇は敗戦になっても、
自決せずにおめおめと生きているんだ。
*戦前の教育では、戦争に反対するなんて考えられなかった。
しかし、もう一度、日本が侵略しようとするなら、その時は、俺も反対するよ。
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