穂積晃子
中国人の民家に入る
家の者はへやの隅々にかたまり
蛍火のように行き交い点滅する眼
上官が何かはなしている と
入口の戸の陰にいた大男
やにわに振り上げた青竜刀一メートル
夢中で軍刀を振りしめて・・・
気がつくと
中国人の巨体の下敷きで
重くて
苦しくて
そこで父は眼が醒める
汗をかいて 今怯えている父
度々魘されている声が その日の恐怖の叫びだと
母とわたしが知ったのは数年前のこと
あれから三十年
布団に起き上がった父の動かぬ視線の先に眼を凝らす
夜明け前の蒼い闇に白く現れた大男は
柱にかかったわたしの浴衣
三十年未決囚の学徒兵は
夜毎 遠い戦場へ召還され 独り尋問を受けていた
戦争はいつ終わるのか
(1975 記)
1981年の初夏、父は中国へ来たことがある。
私が初めて中国へ来て間もないころであった。
日本語教師として十余年を過した職場を休職して、
対外試合に挑むような心持ちでもあった。
北京に赴任が決まって静岡の実家に行った折、父はポツンと言った。
「中国か。行ってみたいなあ」。
あれが欲しい、これが欲しいなどと父が言うのは聞いたことがなかったので、
赴任後半年がすぎ、大学の授業にやっと慣れ始めた四月のある日、
そのうちに遊びに来て下さいと北京から手紙を出した。
北京空港の初夏の光の中に両親は到着した。
(略)
休日と授業のない日を利用して、北京市内や江南の景勝地を歩いた。
父は嬉しそうにしているが何か物足りないものがあるらしかった。
ようやくどこに行きたいのか分かったのは3週間の滞在の終わり頃であった。
父が昔中国へ来たというのは勿論戦争に従軍してのことである。
大正生まれの庶民にとって海外に出る他の理由は少なかったであろう。
初めは学徒出陣であるが、二度目の召集令状はどのように受けたのか私は知らない。
父は中国の東北部から天津のあたりまでを移動したらしい。
学徒動員されるまでの月日に、専攻の漢籍をどれほど学べたかは知らないが、
孔子廟では上官に碑文を読まされたという。
江南の旅など父には単なる観光見物にすぎなかったに違いない。
が、その時は曲阜は外国人に開放されていなかったし、
東北地方まで足を伸ばすほど休日数はなく、私は両親を連れて天津へ行くことにした。
私の中国語は未だ北京市内の一人歩きもままならぬほど粗末なのに、
両親を汽車に乗せホテルに泊らせ案内することになったのである。
北京駅の雑踏でもタクシーを探して必死になった天津駅でも、
二人は全く安心しきった顔でニコニコと私が戻るのを木陰でまっている。
中国における私の生活能力を信じ込んでいる様子なのである。
どこへ行ってもほとんど食欲を見せない父がもどかしかった。
翌日父は遠慮がちに、昔天津にあった師範大学に行ってみたいと言った。
ホテルのフロントで何人もの人に聞いた挙句、年輩の男性が奥から現れ、
「師範大学は今はもう無い。
そこは今、天津外国語学院になっている」と教えてくれた。
それかどうか分らないが、ともかく行ってみることにした。
市内を流れる海河では泳いでいる人が見えた。
戦争が終わって40余年が経っている。
この間の日本の変化を思えば、
父がそれと見分けられるほど名残があるかしらと不安を覚えながら、
すぐ戻りますからとタクシーの運転手さんに待って居てもらって
外国語学院の門をくぐった。
熱心に心当たりを探している父の後について、
煉瓦造りの校舎の後に広がる校庭に出ると、
その一隅に木造のカマボコ型の建物が廃屋のまま打ち捨てられていた。
床は抜け天井は落ち、外壁も半分は壊れて雨晒しになっていた。
もとは二階建てだったらしく階段の一部分も見える。
廃屋の前に水道栓が一つあり、女の人がたらいを抱くようにして洗濯をしていた。
父は突然手を伸ばして建物を指さし、「コレです。ココです」と叫んだ。
それきり父は声も出ず身体は硬ばって動かなかった。
5月というのに太陽はギラギラと照り29度という暑い日であった。
元兵隊は涙がポロポロと流れるままにその校舎を見つめていた。
天津に来た甲斐があったと、
40年余古い建物を朽ちるがまま壊さずにおいてくれたことを有難く思った。
母は離れた木の陰で暑さにぐったりしていた。
なかなか戻らぬ私達を探して
タクシーの運転手さんは廃屋の前まで車を廻してきてくれていた。
やがて父は熱心に話し始めた。
「私は赤痢に罹ってここへ残されてしまいました。
ここは野戦病院でした。真赤な夕日でした。
暗くなるのを待って部隊は出発していきました。
何度も何度も振り返って手を振りました。
自分はここで死ぬんだなとおもいました。
もう皆に会えないなと思いながら手を振りました。
・・・それが海河(ハイホー)の手前で待ち伏せに遇って
部隊は全滅してしまいました・・・」。
放置されていた父は数日後、後から来た部隊に見つけられたらしい。
父が突然改まった口調で話したことで、父の過去から突放されたような気がした。
父が私の眼をこんなにまっすぐ見つめて話しかけたことなどなかった。
父の背にぎこちなく手を廻し握られるままに手を握り返し、涙の顔を見ていた。
暑さも感じず、音も絶え、真空の世界に立っているような非現実的な体験であった。
父の中で、私は娘になったり父の母になったり他人になったりしているようだった。
「今水道があるあそこに井戸がありました。
その水を飲みたいという兵隊と、
井戸には毒が投げ込まれているかも知れないから
飲んじゃいかんという衛生兵がもみ合って一人が死にました。」
いつまでも立ち去ろうとしなかった父が、
ホテルへの帰路どんな風だったか覚えていない。
なにもかもボーッとなっていた。
その夜も父はほとんど食べなかった。
ロビーの正面に大階段のある古い天津飯店である。
周囲のテーブルでは盛んな食欲をみせて人々が談笑していたが、
母も私も箸が進まなかった。
昨夜父は静岡から遥々お別れを言いに空を飛んで北京まで来てくれたに違いない。
私のところに来る前に野戦病院だった師範大学の廃屋を見て来ていたかも知れない。
夕日を浴びて戦友を見送って立ち尽くした日から
父のカレンダーは止まっていたのではないだろうか。
結婚も子供たちも戦後の生業の全てが父には虚ろな非現実社会だったのかもしれない。
思春期以後父娘らしく睦み合うことのなかった私の40年を想った。
娘は父に心開かず、父は子供達に戦争の話をしなかった。
父の青春の日々、それしかなかった八年間もの戦争体験。
子供などというものは残酷なものだとしみじみ悔やまれた。
父の想い出に耳傾ける優しさを持たぬまま大人になり、
その横で全てを胸にしまって黙々と働き続けていた父は影薄い存在であった。
あの旅行から帰って、父は呆けたというのである。
戦後、何もかも忘れようと懸命に生きてきた頑張りの網が、
40年ぶりの野戦病院の出現によってプッツンと切れてしまったにに違いない。
御近所の方が葬儀のあれこれをして下さり、
弟が遺族の挨拶をして父の葬いは無事終わったという。
私は受話器を置いてボンヤリしていた。
葬儀にいない私を探して昨夜父が私を訪ねてきていたのだ。
涙がちょっぴりこぼれた。
日常の暮しの意識が薄れてから、父は仏様のようになってしまっていた。
悪意やひがみのないお人好し老人になってしまったのである。
戦前戦後の記憶がみんな消え、幼時から出征するまでの記憶が残った。
父にとってそこまでが確かな自覚を持って生きていた日々だったのかも知れない。
出家して修業中だった父は大学へ入学して間もなく学徒として出陣したのである。
痩せた父の身体の中で一ヶ所だけいつもつやつやとピンク色に張り切ったところが
右足のふくらはぎの外側にあって、
その真中に一円玉ほどの大きさに肉が黒く盛り上がっていた。
幼い時分、湯上がりの父の足に恐る恐る触って「いたい」と聞くと、
父は笑って「いたくない」と答えた。
戦地で受けた鉛の弾が足の中に留まったままあるのだった。
戦場から戻り老いた母を養うために、
やがては妻子を養うために
戦争の記憶は心の底に呑み込んで蓋をしたまま走り続けていた父の足の中で、
そこだけ真新しい皮膚を40年間作らせ続けていた中国兵の弾。
戦争が名もない一人の市民に与える信じ難いほどのドラマチックな体験。
自ら選んだ道でないことが、
一人の人間に味わわせる苦悩の大きさの根源にあるのではないだろうか。
戦争が男性を鍛えるというようなことや勇ましいはなしや
楽しかったエピソードなどが語られることがあるが、
父は「日本はひどいことをした」と言うきりだった。
たった一つ懐かしそうに話してくれたことがある。
野戦駐屯地の金網越しに食べ物を売りに来る農民に混じって
小学生くらいの男の子が「ターティエン」と父の名を中国式に呼んで遊びに来た。
少年は手にした地図を見せて「大日本帝国じゃないよ、
日本はこんなに小さいよ、小日本国だよ。
ターティエン早く国へ帰った方がいいよ」と、
手振り身振りで繰返し熱心に言ったそうである。
父は若い学徒だった。
その話は何回か聞いたことがあるので、
私は映画で見た戦場の場面に若い兵士と少年を坐らせて、
二人の服装やら表情やらを想い描いたものである。
夕陽の戦場であったり緑果てしない大陸の田園を見下ろす丘の上であったりしたが、
いつもロマンチックな光景になっていた。
父の長い戦争体験の中で私が想いを馳せたのは只一つこの場面きりであった。
虚空像様のようなまん丸い穏やかな寝顔を見せて娘は私の傍らにいた。
いつまでも泣いてはいられない。新しい命が与えられていたことを心から感謝した。
この命によって、一人の人を失ったことに耐えられると思った。
86年の夏、二度目の北京赴任を前に私は実家へ挨拶に行った。
這い這いの娘に、今はすっかり人が変わってニコニコとしているばかりの父は、
自分のベレー帽を被せて笑った。
二階の陽射しの中で日光浴をさせていると、父が上がって来て一緒に遊んだ。
母は二階へ来てびっくりした。
ここ一年余、父は二階へ登ったことがなかったという。
またある夜、母は父のことを私に頼んでお芝居に誘われて出かけていた。
私は娘に果汁を飲ませようとして失敗した。
むせる赤ん坊の隣りに来て父は背中をさすり、
「子供に余り酸っぱいものを飲ませると吐くぞ」と言った。
びっくりして父を見た。
この人は私を育てた人なのだと私は突然気付き、
今までそれを意識してこなかったことに驚いた。
果汁を薄めて蜂蜜を加えながら、父はこうして食べ物を幼かった私の口に入れ、
ジュースを絞って飲ませてくれていたのだと分かった。
親が子を育てるということは、こういう風にスプーンを口に運び、
むせれば背中を撫で、顔を拭き、
眠れなければ足の指をやさしく揉んでくれたということだった。
父に介抱されている我が子に遠い日の自分を重ねて、悲しくないのに涙が出た。
父は死んでもう会えない人になった。
(北京にて 1986 記)
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