最終更新:1998年12月08日
「ノーモア南京の会」でも判決公判が東京高裁で行われるため、 傍聴の呼びかけを行い、東さんを孤立させない闘いを作り、 判決公判後の夜の集会などの準備を行ってきた。 また、多数の報道陣の上京を迎え入れるべく、宿舎の手配、案内人の確保、 通訳の手配等も準備してきた。 しかし、裁判所からの申し入れで、こうした日本での準備活動、 海外での取材体制もすべて一から出直しをすることになってしまった。
続いて証言が始まり、東さんがまず証言された。 東さんは冒頭で今回の判決延期にふれ、 「11月26日に判決を行うことが決まったのは、 9月8日の結審の時であった。 78日も日にちがあったのに何故判決を書くことができないのか。」 と今回の延期に不満を訴えた。 東さんは前日の25日に中国の江沢民主席が来日するのを以前から気にして、 「私の判決が中国を怒らせるような内容であったら、 主席の来日中でしかも多くの中国のマスコミも日本に取材に来ているのに、 どうするのでしょう。」と、 暗にそんな判決は出さないだろうと思っていた様子だった。 しかし急に裁判所から判決の延期を申し渡されたのは、 裏に「政治的なものがあるのではないか。」と、疑問を表明していた。 あたかも集会の開かれている最中に、 「友好協力日中共同宣言」は両国政府間の意思統一が遅れ、発表は深夜になり、 両首脳の署名は行われずに終わった。 江主席は様々な場所で、 日本側の歴史に対する正しい認識が必要なことを繰り返していた。
東さんはまた、この裁判の本質が、元戦友の橋本氏ではなく、 「心に軍服を着た」偕行社とその背後にある「まぼろし派」であり、 日本の中国侵略を否定するこれらの勢力 −日本の歴史に対する誤った認識を広めようとしている− には絶対に負けないことを強調された。 東さんは成田空港での中国系アメリカ人ケビン・チャン氏に対する 日本の入国管理官の中国人に対する侮辱した態度に、 「軍国主義は今でも(戦前同様に)生きている。」と指摘、 これに対し11月1日より訪れた中国では、 人民大学で2時間ほどの講演をした際、 250人ほどの講堂に500名余りもの学生が詰めかけ、 講演が終わった後ももっと話を聞きたがった位で、 東さんの裁判および日本の軍国主義復活に対する中国の関心の深さを感じたという。 (会場の正面には、集会名の看板の上に、 人民大学の学生が作った東さんへの声援のスローガンの上に 講演を聴いた全員が署名をした5m以上もある横断幕が掲げられた。) 東さんは、自分は絶対にこの裁判に勝たねばならず、 そのための支援を皆に訴えた。
続いて、中帰連の湯浅謙さんに発言をお願いした。 湯浅さんは、軍医として中国に行き 中国人を生体実験に進んでかけるなどの残虐行為を行ったが、 当時は日本軍のための医学実験であり、そうした行為に全く疑問を抱かず、 戦後、戦犯収容所にて初めて自分の行ったことの意味を悟り、 帰国してから戦争の実体を語る活動をしていることを話された。 そして戦争を知らない世代に対し、戦争の実体をよく知る必要性を説いた。
又、東隆史さんは、家族として父の裁判を支えていくことを語られた。 家族にとってみれば、 なぜ自分の父親だけが一人でそこまでやるのかと思い、 右翼の嫌がらせにも耐えて支えている母親(東さんの奥さん) の苦労を是非分かってほしいと話された。
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