東裁判報告:第12回公判

1998年6月23日

                                         最終更新:1998年11月20日

橋本氏の本人尋問

6月23日(火)11時より東京高裁810号法廷にて、 東史郎さんの「南京・戦争裁判」第12回公判が行われた。 3月12日の第10回公判では東さんの本人尋問があり、 傍聴者が100人ほどに膨れ、 東さん支援の傍聴者によって偕行社の関係者が追い出され 開廷が遅れるという事態になった。 このため今回は裁判所も事前の混乱を防ぐべく、 控訴審では初めて抽選を準備した。 しかし今回は橋本の本人尋問であり、偕行社の動員もいつもどうりで、 結局定員の52名が集まらず抽選は行われなかった。

高池弁護士のあっけない主尋問

高池弁護士(被控訴人=橋本側訴訟代理人)は、 前回の橋本の尋問に必要な時間について裁判所に聞かれた際に 15分程度でよいと答え、あまり多くを聞きたくない、 あまりしゃべると「ぼろ」がでると思っているかのようであった。 今回の主尋問はそれを裏付けるように、約15分程度の簡単なものに終わった。

橋本発言の意味するもの−−「本を読んでいない」

時間はともかく、 その尋問内容に我々は改めてこの裁判の本質を知ることが出来た。 橋本は裁判所に提出した陳述書の冒頭で 「・・・当裁判所で審理中、 東君は自分の本『わが南京プラトーン』を新装版と銘打って出版したのです。 ・・・一審では私の主張が認められたということは私の名誉を侵害する部分は 出版しては行けないと言うことではないでしょうか。」と述べている。 しかし高池弁護士の主尋問の冒頭で新装版を読んでいないことを確認されると、 その答えは「読んでおりせん。」というものだった。 後で丹羽弁護士の質問にも同様に「読んでいない」と答えている。 これはいったいどういうことだろうか? 読んでもいない者が「私の名誉を侵害する部分を出版してはいけない」 と主張できると考えているのか。 後の丹羽弁護士の追求に橋本は 「この本の旧判も新判もそもそも内容を知らない。」ことを認め、 訴えを起こしたのは「大小田、菱形からこれはおまえのことだよ」と教えられ、 「(板倉由明など)いろいろな人から話があり、 相談をして」訴えを起こしたことを認めた。 これはまさしく東さんがいつもおっしゃっている 「裁判を(本当に)起こしているのは橋本君ではない。 橋本君の背後には今でも軍服を着た偕行社の連中がいる。」 ことを図らずも法廷で証明したのに他ならない。

この裁判が南京での一兵士の日記の中の、ある記述のみに焦点を当て、 書かれた兵士を原告として裁判を起こさせ、 「記述の一部が違えば日記はすべて誤りだ。 ひいてはその日記が記述している南京での大虐殺も無かったのだ。 中国側の主張はでたらめだ。」 と強弁して南京大虐殺を否定しようとするものであり、 「自虐史観」=「まぼろし派」の連中こそが本当の当事者であることを 疑いようもなく示している。

主尋問の続き

新装版の質問に引き続いて、 高池弁護士は橋本の車に対する質問をしつこく尋ねた。 「免許証は所持したことがあるか。」 「自動車の運転をしたことがあるか(当時も、敗戦後も、現在も、 と重ねて聞く)。」終いには免許証も持たず、 当然ながら運転の経験もない者に 「ガソリンの取り扱いをしたことがあるかどうか。」とさえ尋ねる有様である。 橋本はすべて「ありません」と答えた。 こんな質問で日記の記述の、 ガソリンを抜き取ったことへの否定になると考えたのであろうか。

馬群鎮から南京城内への移動について高池弁護士は 「分隊員全員(13人)でなくて、7人で行動することはあるのか」と質問。 橋本の答えは「おそらくありません。」 また馬群からの移動は「覚えていない」と答えた。
さらに橋本は当時の日本軍の手榴弾、地雷の撤去作業、 最高法院の建物について供述をした。 これらはいずれも曖昧な証言か、 又は当時のことをよく覚えていないことを証明する内容であった。

反対尋問−馬群鎮への掃討戦を認める

続いて丹羽弁護士(控訴人=東さん側訴訟代理人)が反対尋問を行った。 この中で重要な発言は「馬群鎮の掃討戦に参加し、南京城に戻ってきたが、 帰ってきた日にちは覚えていない」ことを認めたことである。 また馬群鎮には分隊員13名全員で行ったと思うと述べた。 (しかし、陳述書では分隊員は12名とか書かれてあり、 後の空野弁護士の追求では、 中に負傷者がいて全員は揃っていなかったとくつがえした) いずれにせよ「1937年12月9日から13日に南京攻略戦に参加、 同日南京入城、それから12月13日から23日南京城外掃討戦に参加」 したことが確認された。 しかし「(掃討戦の)事実はあったが、 何をしたか覚えていない」とも発言している。

さらに橋本は『わが南京プラトーン』に出てくる南京戦の後の徐州戦での 1938年4月5日の記述に対して追求された。 そこでの記述は残敵とされた青年を捕まえ布団巻きにして 石油をかけて火をつけた。 南京での郵便袋事件と同じくこれを行ったのは西本(=橋本)とされている。 丹羽弁護士の追求は同じ様な残虐行為の記述が出てくるのにも係わらず、 何故南京での記述のみに絞って裁判を起こしたのかというものである。 この質問に対しても主尋問と同様にその答えは「この本の旧判も新判も」 読んでいなく「そもそも内容を知らない。」というものだった。 人から本の記述の西本が自分のことだと教えられ、 いろいろな人(板倉由明など)と相談して訴えを起こしたことを認めた。 まさしく裁判の主体は橋本本人ではないことを物語っている。

今回の橋本の尋問で、橋本は彼自身の記憶が非常に曖昧で、 郵便袋事件に関して自己のアリバイも証明できなかった。 公判終了後に中北弁護士も 「東さんは橋本の殺害行為を明瞭に見ているという目撃証言を前々回されて、 その中身は非常に信用できるものだということが明らかになりました。 ・・・(橋本のアリバイ証明は)今日の証言では全然出来ていない。 全くわからない。 考えようによっては、やっていても忘れたかもわからないし、 やっていて故意に隠しているかのいずれかにならざるを得ないような、 非常に曖昧な証言しかできなかった。」と指摘した。
                       (文責:芹沢 明男)

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