最終更新:2000年4月27日
62年前に戦場で書いた日記が、 62年後に最高裁判所まで裁判を続けねばならなくなるとは想像もしなかった。 最高裁判決定については、空野先生の言われる通りです(略)。
私はひとこと言いたい。 東京高等裁判所での審議の際、(略)私の判決の予定日が11月26日でした。 中国国家主席の滞在中に、「判決」を下すことを避けて、 判決を延ばしたのであろうと解釈しました。結審から80日間もあるのに、 裁判官という専門家が「判決文が書けない」などということがあるはずがない。 私は、12月8日の開戦の日に判決かと思っていた。 12月22日はどういう日かというと、 A級戦犯の東条英機以下7名が絞首刑になった日なのです。 22日の深夜12時から40分の内に絞首刑になっている。 この日を選んで判決を下すということは、 私を戦犯として見ているのかという気がいたしました。 そいうことがありました。 そして、今回の最高裁判所の「決定」で、その東京高裁の判決を「追認」しました。
われわれ日本軍が中国に攻めていったのであって、 中国軍が日本に攻めてきて東京を占領したのではないのです。 私が、中国に攻めていって南京を占領したのです。 1937年12月12日午後10時にピタッと銃声が止んだのを覚えています。 そして13日に入城したのです。虐殺については、充分に知っています。 第4中隊の玄武門の内側の集団虐殺、私たちも7000人の捕虜を連行した。 京都16師団長中島今朝吾の日記にもそのことがかかれています。 また、私は下関で無数の中国兵捕虜の死体を見ました。 私は現実に戦った者ですから、南京がどうあったかを知っています。
1月23日ピースおおさかで開催された集会は 「20世紀最大のウソ・南京大虐殺の徹底検証」ということです。 なにが「最大のウソ」か。そんなことはあり得ない。
1987年、私が始めて南京に謝罪に行ったときに、高興祖先生から、 「東さん日本軍の蛮行は20世紀文明の恥です」と言われた。 私は本当に懺悔しました。「最大のウソ」などではないのです。 私は実際に南京で、下関の波止場で夥しい数の死体を実際に見ているのです。 その「文明の恥」と言う言葉から、中国の人たちに謝罪しなければならないと思い、 時には胸の中で綽々と謝罪してきたのです。 それが基本になって裁判をたたかってきました。 私の人生の前編は60年前の南京戦、後編はこの南京裁判です。 ところが最高裁判所は、不当な決定を下した。私はこの決定を見て、 政治が判決したのか、司法が判決したのか、司法の独立を放棄したのか、 まさに政治が判決したのだと思います。
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