「うちの理事さん」

東京の木で家を造る会

 原島幹典さん

2001年11月号掲載・紹介者:池谷キワ子

 

 先月号でこの欄に原島幹典さんが、私にとっても身近な存在である稲木清貴さんを、まこと的確に浮き彫りにしているのに感心していたら、今度は私が、この上手な書き手を紹介するはめになるとは・・・。
 どんなプロフィールもそれを書く人の理解を越えてその人を表現できないとすれば、今回は読者の方々には想像力を駆使していただくしかありませんが・・・。

 奥多摩町の林業家原島幹典さんは、木材生産林の手入れを学ぶグループ「林土戸(りんどこ)」の相談役として、創設以来メンバー一同から絶大な信頼を得てきました。技術的な指導ばかりでなく、林業の現状に対処する試論や、山側の忌憚ない情報などを伝授してくれる貴重な存在でした。「林土戸」が「ささんた小屋」で勉強会を行なうような折も、奥多摩からかけつけて、夜っぴて山談義となり、早朝のご帰還になったりもしたようです。「林土戸」には、私の家の山林が七年半にわたって面倒見てもらってきたので、間接的にも原島さんは私の恩師です。もちろん直接的にも、「林土戸」を介して知り合いになってから、その率直でストレートな助言をたくさんもらってきました。そして、一般の林業人に欠けている開かれたリベラルな心とバランス感覚を持つ原島さんは、具体的な山の技術とともに、その理論の構築をしっかり培っていると知りました。原島さんは二つの大学を卒業しています。経営学科と林学科です。卒業後、京都北山に一年間修業にも行き、意気込んで継いだ林業も、思った以上に時代の流れが急すぎて転身せざるを得なかった。地元の三セク企業の会社員として再スタートを切りました。その後、奥様とお子さんたちを得て、ご両親とも同居。山への思いは休日に「奥多摩都民の森」で体験林業を指導するという形で定着してきていました。
 それなのに原島さんは三年半前に、背広を脱いで林業ひとすじに飛び込んだのでした。山林所有者の林業離れが加速度的になり、多くの人が山をすてて他業に乗り出している時にです。これらのいきさつを私は「林業への再挑戦」(「山林」98年12月号)で読みました。再挑戦するきっかけはお父様の他界であって、心血注いだ森林所有者が守らなくて誰が守るのかという思いとともに、森林ボランティアの熱意ある存在が、「私を山に呼び戻したもの」だったと記しています。
 この「あちらからやってきてくれる」森林ボランティアの活動を、山側や行政は、誠実に謙虚に胸襟をひらいて受けとめななければと言っています。「林業の経済的沈下にかかわらず、すべての生命の維持装置としての森林を管理できるのは、技術を持ち、地域毎に異なる山のありさまを熟知している山村の林業者である。そのことを都市住民に認知してもらわなくては、森林を次代に引き継げない」と原島さんはまず主張し、その方策を多角的にさぐって行動もおこしています。
 原島さんは林業一本にカムバックしてほんの短い期間で、急激に地歩を固めてしまいました。原島さんの話を一度聞いた人は、わかりやすく客観的な独特の語り口にも魅了されて、次々と講師依頼が舞い込んでいます。「森林インストラクター」としても、都の「林業普及協力員」としても大活躍で、小学校の一日先生で赴任すると、校庭の木にブリ縄で登って見せて人気を博していると聞いています。もちろん「奥多摩都民の森」、「奥多摩山しごとの会」、「山葵人」はずっと継続して指導にあたっています。稲木さんたちの創設した「フォレスト・ガーディアン制度」の試みが成功裡に進んでいるのは、具体的な助言を行なう原島さんが居てのことでした。
 原島さんが山で桑の実を採っていたら、猿もとなりに来て同じような格好で彼に負けじとむさぼって、猿とあまり変わらない自分がおかしかったとどこかに書いていましたが、自然と一体化して幸せを感じるタイプでもあるのでした。
 原島さんがまじめで紳士で真摯な人柄なので、私のこの文もちょっと硬くなってしまったでしょうか。一見クールでいて、胸に森林への特別大きな活火山をお持ちの原島さん、その長い未来を東京の森づくりへ捧げて下さい。もちろんですよね。

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