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平成12年4月14日宣告
平成9年合(わ)第169号
判      決
 
国 籍   ネパール王国
住 居   略
                  飲食店従業員
                     ゴビンダ・プラサド・マイナリ
 
 右の者に対する強盗殺人被告事件について、当裁判所は、検察官鈴木敏彦並びに弁護人神山啓史(主任)、同石田省三郎、同神田安積、同佃克彦及び同丸山輝久各出席の上審理し、次の通り判決する。
 
主      文
 
被告人は無罪。
 
理      由
 
(無罪の理由)
第一 本件公訴事実
 本件公訴事実は、「被告人は、平成9年3月8日深夜ころ、東京都渋谷区円山町K荘101号室において、被害者女性V(当時39歳)を殺害して金員を強取しようと決意し、殺意をもって、同女の頸部を圧迫し、よって、そのころ、同所において、同女を窒息死させて殺害した上、同女所有の現金約4万円を強取したものである。」というのである。
 
第二 本件捜査の経緯等(以下、特に断らない限り日付はすべて平成9年である。)
一 死体発見の状況等
1 Mは、東京都渋谷区桜ケ丘所在のビル地下1階のネパール料理店「カンティプー
    ル」の店長であるが、その傍ら、同店の実質的経営者であるO崎の依頼を受けて、同区円山町K荘1階101号室(以下「101号室」という。)や後記のHビル401号室の家賃受取り及び101号室の鍵(以下「本件鍵」などという。)の管理も行っていたところ、3月18日午後3時ころ、101号室に立ち寄った際、玄関横の無施錠の腰高窓から室内を見渡すと、北側和室六畳間に人が寝ているように見え、無施錠の同室玄関内に女性用靴が存在するのが目に入ったものの、そのままに放置して、用心のため本件鍵を使用してこれを施錠した後(なお、玄関の鍵は内側から鍵なしで解錠できる。)、その場を立ち去った。翌19日午後5時ころ、再び101号室に赴き、本件鍵で同室玄関を解錠し、室内に立ち入ったところ、北側和室六畳間において前日には寝ていると思いこんでいた女性は既に死体(以下「本件死体」という。)となっているのを発見したので、直ちに110番通報をした。
2 Mから通報を受けた警視庁渋谷警察署所属の警察官は、直ちに現場に臨場し、同
    日午後6時50分から、101号室、K荘共用部分及びその付近の実況見分等(以下「本件実況見分」という。)を実施したが、その結果は以下のとおりであった。
    (一) K荘は木造モルタル塗りの地下1階地上2階の店舗併用アパートであり、
    京王帝都電鉄株式会社井の頭線神泉駅北口の北東方約16.2メートルに位置しており、東日本旅客鉄道株式会社渋谷駅(以下「JR渋谷駅」のように略称する。)ハチ公口からは西南西方に図測約600メートルの地点に位置している。その付近は住宅、商店、中小ビル等が密集した地域であり、通称道玄坂通りと称するホテル、飲食店、遊技場等が林立する歓楽街に隣接している。また、K荘付近の前記神泉駅南口側にはコンビニエンスストア「トークス」が存在している。
    (二) K荘地上各階には3室があり、101号室は1階西端に位置しており、
    地下1階は101号室の真下に位置しており、お食事処「まん福亭」が使用している。建物西側に設置された外階段により2階に通じており、建物南側は各室の出入口(玄関ドア)に通じる通路があり、1階通路両端のいずれからも1階各室に出入りすることができる構造になっている。101号室は、南側玄関に接して4.5畳大の台所があり、台所西側に便所が、台所北側奥には六畳和室が設置されたいわゆる1Kタイプの間取りとなっている。
    (三) 本件死体は、身長169センチメートル、体重44キログラムであり、頭
    部を東側、下肢を西側に向け、仰向けの状態で、顔面をやや横に向け、上肢は両手を広げた状態であり、下肢は両足をそろえて閉じた状態であった。着衣は、ブラウスの上にツーピース、その上にベージュ色のトレンチコートを着用していたほか、パンティストッキング、ブラスリップ、パンティーを着用していた。
    (四) 本件死体頭部左側には、頭毛に接してショルダーバッグ(黒色皮製、開口
    部がキンチャク式のもの、以下「本件ショルダーバッグ」という。)が開口部分を上にした状態で置かれており、その中には、V名義の会社発行の勤務証、現金473円が入っている2つ折り財布(以下「本件財布」という。)、現金60円、包装されて未使用の状態のコンドーム28個等が入っていた。なお、後述のとおり、本件ショルダーバッグの取っ手の部分は千切れていた。また、本件死体頭部付近には、容器入リサラダ2個在中の青色ビニール製手提げ袋や、おでん等の食品類等在中の黒色布製手提げ袋も置かれていた。
3 死因等
     東京女子医科大学法医学教室の医師が、3月20日から、本件死体の解剖を行ったところ、その結果は次のとおりであった。
    (一) 本件死体の頭部、顔面部等に打撲傷、擦過傷があるほか、下顎底部から前
    頸部及び左右胸鎖乳突筋部にわたる範囲に頸部圧迫痕が認められ、頸部軟部組織出血・甲状腺出血を伴っており、かなり強い力で頸部を圧迫したものと思われる。
    (二) 成傷器の形状はやや不整形の比較的幅が広い帯状様物ないし圧迫物であり、
    死因は頸部圧迫による窒息死と推定される。
    (三) 死後経過時間は、同日午前10時10分解剖開始時において、死後1週間
    内外を経過したものと推定される。なお、膣内精液検査の結果は陽性を呈しており、精子の存在が確認された。また、本件死体の血液型はO型であった。
     
二 被害者の身上及びその失踪状況
1 遺留されていた前記勤務証等により、直ちに被害者はVであることが判明した。
    被害者は、東京都杉並区に暮らしており、大学卒業後の昭和55年4月に会社に入社し、前記井の頭線等を利用して会社に通勤しており、平成9年3月当時は、各種論文を作成するなどの業務に従事していた。また、被害者は、右会社勤務の傍ら、平成3年ころからは、勤務終了後に、東京都渋谷区円山町界隈の街頭に立って客を誘って売春をしたり、なじみの常連客と待ち合わせて、渋谷付近のホテルで売春をするようになったほか、平成8年6月ころからは、東京都品川区西五反田のSMクラブに在籍し、勤務先の休日である土日及び祭日の午後零時30分ころから午後5時30分ころまで稼動し、その後は渋谷区円山町界隈で深夜まで売春婦をしていた。
2 被害者の失踪等(犯行時刻の特定)
    (一) 3月8日の被害者の行動
    (1) 被害者は、土曜日であった3月8日の午後零時30分ころ、百貨店の食品売場において購入したサラダ等を携行して、前記五反田のSMクラブに出勤したが、客がつかなかったため、午後5時30分ころ、同店を出た。その後の行動は明確ではないが、午後7時ころ、常連客の甲野と約束したJR渋谷駅ハチ公口前で落ちあい、渋谷区円山町のコンビニエンスストア「セブンイレブン渋谷円山町店」に立ち寄っておでんを購入し、午後7時13分ころから午後10時16分ころまで、甲野とともに付近のホテル「プリンス」に滞在して売春行為に及び、道玄坂派出所前の交差点で甲野と別れた。その後、被害者は、午後10時30分すぎころ、渋谷区円山町の青果店前で売春の客引きのため佇立しているところを目撃されたり、同町萩原ビル前付近の道玄坂において4、5人の男に売春目的で声をかけるなどしているのを目撃されたりしていた。
    (2) 同日午後11時25分ころから午後11時45分ころまでの間に(この時刻の根拠については後述する。)、男女のアベック(以下「本件アベック」などという。)がK荘1階通路に通ずる西側階段を上がって行ったのが目撃され、男性は女性とほぼ同じ身長の浅黒い東南アジア系の顔立ちであり、黒と白で左脇に赤いものが付いたジャンパーを着用しており、女性の方は、その体型、衣装等の特徴が発見当時の本件死体のそれと同一であったことなどから、被害者であると判明した。
    (3) K荘の居住者であるT子は、3月9日午前零時前ころ、前記神泉駅構内の公衆電話で友人に電話をかけてから、K荘の自室に戻る途中、101号室前において、男女の性交時のあえぎ声と認められる声を聞いた。その後、同女は、同日午前零時30分過ぎ、再度自宅を出たのであるが、その際には既に101号室からそのような声は聞こえなくなっており、同日午前3時過ぎに自宅に戻った際にもそのような声は一切聞こえなかった。
    (二) 翌9日からの失踪
     被害者は、帰宅時間は遅かったものの、それまで無断外泊したことは一度もなかったところ、3月8日に家を出てからは帰宅することもなく、連絡も取れない状態に陥り、翌9日に出勤予定の前記五反田のSMクラブヘも姿を現さず、月曜日である3月10日には勤務先も無断で欠勤してしまった。
     
三 被害者の所持金の紛失
1 被害者は、甲野と別れる際、同人から、売春代金3万5000円を受領したこと
    が認められるが、甲野の供述によると、被害者に対して1万円札4枚を手渡したところ、被害者からお釣りとして千円札5枚が返されたので受け取ったというのであり、しかも、甲野は、その1万円札4枚を被害者が本件財布の中に入れるのを直接現認していたというのである。
2 被害者は、1万円札4枚を甲野から受け取った後に101号室へ移動しているこ
    とになるが、その間に、被害者が右現金を費消してしまったことをうかがわせる形跡は皆無である上、本件の犯人とされる者以外の第三者が101号室内に立ち入って右現金を奪ったということも考えられない状況にあった。
     
第三 101号室に遺留された精液・毛髪について
一 精液について
1 遺留状況
    (一) 本件実況見分時に、101号室西側の和式水洗便所の便器内に青色の水が
    溜まっており、コンドーム1個(以下「本件コンドーム」という。)が浮いていたのが発見された。警察官が本件コンドームを採取したところ、コンドームの精液溜まりから約3センチメートルくらい青色の水溶液が入っており、精液(以下「本件精液」という。)が混入しているのが認められた。また、右青色水溶液については、科学的な分析はされなかったが、小林製薬株式会社製の芳香防臭剤である商品名「ブルーレット」の溶液であると思料された。
    (二) 本件コンドームは、長さ約17センチメートルで損傷はなく、鑑定の結果、
    不二ラテックス株式会社製のリンクルMピンク型の製品であることが判明し、本件ショルダーバッグ在中の前記コンドーム28個の中には、同種の製品が1個含まれており、被害者が時折使用していた渋谷区円山町のホテル「クリスタル」に備え付けられている業務用の製品であることが判明した。
2 本件精液の血液型
     警視庁科学捜査研究所(以下「科捜研」という。)法医研究員久保田寛が、血液型検査の吸着試験及び解離試験を行ったところ、被告人の血液型はB型であり、本件精液の血液型もB型と判定されており、被告人の血液型と一致した。
3 本件精液のDNA型
    (一) 科捜研で現在行っているDNA型鑑定は、警察庁科学警察研究所で開発し
    たMCT118型、HLADQα型、TH01型及びPM検査の四種類の検査であり、いずれも、PCR法により、資料から抽出されたDNA中の目的部位を増幅した上で実施される。そして、MCT118型及びTH01型検査は、増幅されたDNAを電気泳動にかけ、一定の塩基配列の繰り返し数の違いで型を判定する方法であり、HLADQα型及びPM検査は、増幅されたDNAの塩基配列自体を見るもので、専用の検出紙に検出した型の組み合わせで型を判定する方法である。本件精液についても、右の各種DNA型鑑定が行われた。
    (二) 科捜研法医研究員赤坂はるからが右各種DNA型の鑑定を行ったところ、
    本件精液から抽出されたDNA型は、全ての型(MCT118型について24−31型、HLA―DQα型について12−4型、TH01型について10−10型、PM検査のLDLR型についてAB型、同GYPA型についてAB型、同HBGC型についてAB型、同D7S8型についてAB型、同GC型についてAC型)について、被告人の血液から抽出されたDNA型と一致した。そして、これらのDNA型鑑定が、いずれも適切に採取・保存された十分な鑑定資料を用いて専門的知識と経験を有する科捜研の法医研究員により一般的に確立された検査法に従い適切な方法で行われたことは証拠上優に認定することができるのであるから、本件DNA型の鑑定結果自体の信用性に合理的疑問を差し挟む余地はない。
     
二 毛髪について
1 遺留状況
     警察官は、本件実況見分時に、死体右肩付近のカーペット上から4本の陰毛様の毛髪を発見して、採取した。
2 遺留された毛髪が陰毛であること及びその血液型
     前記久保田寛は、遺留された毛髪が陰毛であるか否か及びその血液型の鑑定を行ったところ、本件死体右肩付近から採取された毛髪4本は、その形状、毛小皮、髄の形態等から陰毛と認められた。そして、そのうち2本の血液型は被告人と同じB型、2本は被害者と同じO型と判定された。
3 ミトコンドリア(mt)DNA型
    (一) 帝京大学医学部法医学教室教授である石山c夫が行ったmtDNA型鑑定
    は、ヒト細胞内に存するミトコンドリアのDループ領域と呼ばれる部位が塩基配列の高度な遺伝的多型を示すことに注目し、同領域内の特定部分の塩基配列を読み取るという型判定方法である。科捜研の鑑定同様、資料から抽出したDNAを、PCR法により、増幅した上で行うものである。
    (二) 石山は、前記陰毛4本のmtDNA型鑑定を行ったところ、血液型がB型
    と判定された2本の陰毛のうち1本のmtDNA型が被告人のそれと一致し(223T―304C型)、O型2本のうち1本のmtDNA型が被害者のそれと一致する(223T1362C型)と判定された。
     
第四 被告人の身上・生活状況等
一 被告人の身上等
1 被告人は、ネパール国籍を有する外国人であって、平成6年にいわゆる出稼ぎ目
    的で来日し、平成7年12月からは千葉市美浜区内のインド料理店「幕張マハラジャ」で店員として稼動しており、月曜日を除く毎日午後零時から午後10時まで同店で勤務し、毎月5日には、手当を含め月額20万円前後の現金の支給を受けていた。
2 被告人は、平成8年11月ころ、それまで居住していた東京都品川区内のマンシ
    ョンから東京都渋谷区円山町Hビル401号室(以下「401号室」という。)に転居した。なお、Hビルは、K荘の南側に隣接して建っており、401号室には、同じくネパール国籍のR、同J、同C、同D、同Eらとともに居住しており、同室の家賃は月額5万円と定められており、平成8年12月から支払われていたところ、被告人は、同居人4名からは、家賃等の分担金として、それぞれ月額3万円の家賃及び2000円の電話使用料を徴収しており、実際の家賃との差額は自己の収入としており、本件当時はネパール国内において自宅の新築工事を行っていたため、多額の資金を必要としていた。
3 被告人は、本件死体が発見された3月19日夜、401号室に帰宅した際、本件
    死体発見に伴って出動した警察官からその住居等について事情聴取されたのであるが、当時、捜査機関においては、本件死体の発見者であるMから、既に「本件鍵を被告人に貸したことがある。」との供述を獲得していた。そして、被告人は、同居人らと話し合った結果、不法残留容疑で検挙された場合には、直ちに国外に強制退去処分とされるなどと恐れて、翌20日には、401号室を飛び出し、翌21日以降、C及びJと共に、都内にあるウィークリーマンションを賃借して、勤務先の幕張マハラジャへも欠勤するようになった。その後、被告人は、Jらから本件犯行に関連して警察が自分達を捜していると聞かされたことから、翌22日、自ら警視庁渋谷警察署に出頭した。
     
第五 検察官の主張について
一 検察官の主張の要旨
 本件においては、被告人と本件犯行とを結びつける直接証拠は皆無であって、各種の情況証拠ないしは間接事実を総合して、被告人が本件犯行の犯人であると断定できるかどうかを検討する必要がある。
 この点、検察官は、次のように、主張する。
 101号室の状況や被害者の行動傾向等からして、被害者は、3月8日深夜、101号室内において、売春客にコンドームを装着させて性交し、その後身支度を整えた際、右売春客(以下「本件売春客」という。)から本件ショルダーバッグを強く引っ張られ、顔面等を殴打されたほか、頸部を絞められて殺害された上、少なくとも所持していた現金4万円を奪われたと考えられるところ、本件売春客が被告人であることは、以下に指摘する諸事実から明らかである。
1(一)101号室に遺留された精液のDNA型及び血液型が被告人のそれと一致す
    ること、被害者の右肩付近に遺留された陰毛のうち、1本の血液型及びミトコンドリアDNA型が被告人のそれと一致することから、被告人が101号室で被害者と性交したことが明らかであること、さらに、
    (二)遺留された精液中の精子の形状から、精液が遺留された時期は被害者殺害の
    時期と符合すること、
2 本件ショルダーバッグの取っ手から、被害者の血液型O型とは異なり、被告人の
    血液型と一致するB型の血液型物質が検出されたこと、
3 本件鍵は、犯行後まで被告人が保管しており、犯行時点において101号室に出
    入りできたのは被告人だけであったこと(それに関連して、本件鍵の返還時期について被告人が同居人であるCとの間で口裏合わせをしたこと)、
4 被告人は、犯行直前には、その居室の401号室の家賃支払いに足りる所持金が
    なかったにもかかわらず、犯行直後にはこれを用意できたというのであるから、その間に右金額に見合う何らかの入金があったことは明らかであること、
5 犯行時刻ころ、被告人が101号室に到達することは十分可能であったこと、
6 被告人は、被害者と面識があったにもかかわらず、それを否定していたこと、
 以上の諸事実を総合すると、被告人が本件犯行に及んだ真犯人と認めるに十分であると主張する。
 
二 検察官の主張の検討
 まず、本件死体の膣内から、精子とO型の血液型物質が検出されており、精子の残留は微量であったと認められるところ、右微量の残留精子については、前記甲野は被害者とコンドームを使用せずに性交しており、甲野の血液型がO型であることからして、膣内に残留した精子は甲野に由来するものと考えられる。そして、その後に被害者が本件売春客と性交したと認められるから、本件売春客は性交時にコンドームを用いた可能性が高いと考えられる。そして、犯行現場である101号室内には本件コンドーム以外に使用されたコンドームは発見されておらず、被害者が携行していた前記コンドームの1つと本件コンドームとが同種の製品であることも併せ考えると、本件コンドームが本件売春客の使用したコンドームであると考えるのが自然である。さらに、前記死体発見の状況等、死因等、被害者の身上及びその失踪状況(3月8日の被害者の行動、翌9日からの失踪)等を総合すると、被害者は、3月8日深夜、101号室において、本件売春客と性交した後、身支度を整えたところ、本件売春客から頸部を圧迫されて窒息死させられたと推認され、さらに、前記被害者の所持金の紛失を考慮すると、被害者が所持していた少なくとも現金4万円は、被害者を殺害した犯人である本件売春客が奪い去ったと認められる。
1(一) 前述のとおり、本件コンドームは、その遺留状況や101号室の状況等に
    かんがみると、犯人が被害者との性交時に使用した後に101号室の便器内に遺留したものと考えるのが自然であるように思われる。そして、本件コンドーム内から採取された本件精液の血液型が被告人の血液型と同じB型であったほか、本件精液のDNA型の鑑定の結果、MCT118型では24−31型、HLA−DQα型ては12−4型、TH01型では10−10型、PM検査のLDLR型ではAB型、同GYPA型ではAB型、同HBGG型ではAB型、同D7S8型ではAB型、同GC型ではAC型と判明しており、被告人の血液から抽出されたDNA型と完全に一致しており、右鑑定が適切に行われ、その結果が信用できることは前述のとおりである上、後述のとおり、遺留の時期を除いて、被告人もこれが被害者との性交時に使用した後、101号室の便器内に遺留したことを当公判廷において認めていることを併せると、本件コンドームは被告人が使用した後、101号室の便器内に放置してきたことになるから、このような事実は、被告人が本件売春客であることをうかがわせる有力な情況証拠として作用することは否定することができない。また、鑑定の結果、被害者の右肩付近から発見された陰毛4本のうち、2本の血液型がB型、2本はO型と判明したほか、mtDNA鑑定の結果、B型の2本の陰毛のうち1本のmtDNA型が被告人のそれと一致しており(223T−304C型)、また、血液型がO型の陰毛のうち1本のmtDNA型が被害者のそれと一致したというのであるから(223T1362C型、これら陰毛が被告人と被害者との性交時に101号室に遺留されたと推認され、これまた被告人が本件売春客であることをうかがわせる有力な情況証拠ということもできると思われる。
    (二) 次に、本件精液の遺留時期について検討する。帝京大学医学部泌尿器科学
    教室講師の押尾茂が、ブルーレット溶液を混合した精液を摂氏20度ないし25度の室温に放置した際の精子の形状(特に、精子頭部・尾部の脱離及び頭部形状)の経時変化について、実験した結果は以下のとおりである。
    (1) 警察官4名から採取した精液を鑑定資料とし、各精液にブルーレットを混合させ、ブルーレットの濃度が、1250r/ml、125r/ml、50r/ml、5r/ml及び1r/mlとなるように混合したもの5種類(以上、混合実験群。1250r/mlは1日以上水洗便器用タンク内でブルーレットを放置した際の濃度に準じる濃度である。)、射精精液を精製水で希釈したもの(対照群。)及び射精精液のままのものを用意し、ブルーレット混合直後、放置から5日後、10日後及び20日後における精子の形状等を観察したところ、混合直後は、ほぼ変化は認められず、精子は尾部をつけた状態であり、放置5日後には、対照群を含む全ての濃度の資料で尾部が短くなっている精子が増加するとともに、精液中に大腸菌の繁殖が認められ、放置10日後には、対照群を含む全ての濃度の資料で精子の凝集塊が認められ、頭部と尾部が分離した精子の割合はほぼ30パーセントから40パーセントを示し、精液で保存したものに比べて統計的に有意に増加していたが、精子頭部の形状は全てはっきりとしており、放置20日後には、対照群を含む全ての濃度の資料で尾部が欠如している精子が多く観察され、頭部と尾部が分離した精子の割合は60パーセントから80パーセントを示し、精子頭部の形状は崩壊しているものが多く見られた。
     したがって、精子頭部と尾部の分離は10日放置後から観察され、20日放置後では、特にブルーレット高濃度下では、80パーセント以上の精子が頭部と尾部の分離を起こしたことになる(もっとも、押尾は、当公判廷において、ブルーレット溶液の濃度により精子頭部と尾部の分離割合に有意的差は認められないともいう。)。
    (2) 押尾は、本件精液内の精子の形態と右鑑定で観察した精子の経時変化との異同について検討したところ、ガーゼに付着乾燥させ冷凍保存された本件精液を滅菌チューブに入れ、そこに滅菌生理食塩水を注ぎ、室温下で一晩振盪抽出した後に、生理食塩水に回収された精子を、特にその形状に着目して観察すると(精子の回収率が悪かったため、生理食塩水の一部を遠心して精子を回収した。)、精子の凝集塊又は頭部のみであり、尾部は存在していてもほとんど痕跡程度のものとして観察され、精子頭部の形状は、観察した限り正常な状態を保っており、観察された精子の凝集塊は「科庶第121号嘱託鑑定では、10日以降に観察されたもの同様のものであった。」、本件精液では「精子頭部の形態は正常に保たれていたが、科庶第121号嘱託鑑定においては、放置後10日まで頭部形状は正常であったが、20日後には崩壊をきたしたものが観察された。同鑑定は全ての操作を清潔な環境下に行ったものであり、資料2(平成9年3月29日付け司法警察員作成のコンドーム採取状況報告書のこと)から判断する限り、採取された資料は便器内の不潔な条件下にあることから、清潔な環境下で放置後20日に観察された頭部と尾部の分離現象が当該の環境下では放置後10日で生じても矛盾しない。」と考えられ、「犯行日と推定される3月8日に放置されたとしても矛盾はない。」と判定した。
    (3) 押尾は、鑑定資料の精子尾部の短縮化・頭部尾部の分離及び頭部形状の崩壊の原因について、「低浸透圧負荷による膜の不安定化と精漿中に存在した大腸菌等の繁殖によって腐敗が進行したため」と推論し、一般的に便器内は不潔であるから精液の腐敗の進行が速いと考えられ、実験が清潔な環境下で行われたため、実際の便器内での腐敗の進行はさらに速くてもおかしくはなく、「清潔環境下で放置後20日に観察された頭部と尾部の分離現象が当該の環境下では放置後10日で生じても矛盾しない。」という。しかし、他方では、精子の頭部と尾部の分離現象は単に周囲の汚染度合のみで決まるのではなく、気温やその他の条件にも左右される上、精漿中には抗細菌作用を持つ物質が含まれており、精液中の方が混合実験群に比べて精子の頭部尾部の分離率が低いことはこの物質の作用によるとも推定され、本件精液中の精子もそのような精漿の働きの下にあった可能性も否定し得ないし、押尾自身も、「ある一定時間放置すると精子の頭部と尾部が分離することははっきりしているが、日数が何日でどうなるかとうのは、それぞれの置かれた条件によって異なるので、それは分からないというのが正確なところである。」と供述するに至っている。さらに、押尾意見では、実験では放置後10日で精子の頭部尾部の分離が30パーセントから40パーセントであったのに、便器内は不潔なため、大腸菌の繁殖の影響により、放置後10日程度でも、実験で見られた放置後20日の現象と同様の精子の頭部尾部の分離が生じても不思議ではないと結論付ける一方で、大腸菌の繁殖の影響は精子頭部の形状の変化にも影響すると考えられるところ、実験では放置20日後の精子頭部の形状は多数が崩壊しているのに、本件コンドーム内の精子の頭部の形状は観察した限りではすべて正常であり、この点では放置後10日程度あるいは10日未満とも考えられるというのであって、精子頭部の形状変化の点からは、便器内の不潔さに基づく大腸菌の繁殖の影響が一切なかったことに帰することにもなるのである。そうすると、押尾鑑定及び同意見自体によって、放置後の期間を決することは著しく困難というほかはなく、押尾意見は、検察官が指摘するように、「本件精液の採取日から10日前後経過しており、本件精液の遺留時期が殺害時期に符合する」との主張を的確に裏付けるとまでいうことはできず、検察官主張の殺害時期との関係で矛盾がないという限度でしか証明力を有するにすぎないと考えられる。したがって、押尾意見だけを根拠として、本件精液が採取日から10日前後経過していると断定するのには大いに疑問が残り、この点の認定には、他の証拠との対比、検討が必要であると考えざるを得ない。
2 また、検察官は、本件ショルダーバッグの取っ手から、被告人の血液型と一致す
    るB型物質が検出されたことを、被告人が本件売春客であることを結びつける有力な情況証拠であると主張する。
    (一) 本件実況見分時には、本件ショルダーバッグは、本件死体頭部左側に接着
    し、開口部を上にしてその口が開いた状態で置かれているのを発見されたが、本件ショルダーバツグには肩紐及び取っ手が付いており、取っ手は金具付近で千切れたように切れており、その断面は鋸断状様を呈していた。取っ手内には針金が入っており、その切断面は、工具で切断されたように先端が左右から押しつぶされ尖った状態となっていた。そして、科捜研物理研究員中村昌義が、取っ手を引っ張った場合にどの程度の荷重で破断するかについての鑑定を行ったところ、引張破断荷重は35.6sfから42.0sfと判定された。なお、被害者が甲野と接触した際には、本件ショルダーバッグの取っ手は千切れていなかったことが明らかである。
    (二) 前記石山は、本件ショルダーバッグ取っ手中央部と左右両側、さらに対照
    として、その本体側面のそれぞれに、セロテープを圧着して付着微物を採取し、A型物質とB型物質の付着の有無について分析したところ、千切れた取っ手の中央部にB型陽性反応が、取っ手左右両側に弱いB型陽性反応が認められたが、A型反応についてはいずれも陰性であり、ショルダーバッグ本体側面にはA型・B型反応のいずれも陰性であり、これは取っ手中央部を中心にB型物質が付着しており、本件ショルダーバッグ取っ手に血液型B型の人物が接触したことを意味するという。
    (三) そうすると、被害者は、甲野と別れた後、血液型B型の人物から右取っ手
    を千切られたと認めるに十分であり、具体的には本件売春客から千切られたと考えるのが自然であるから、その限度では犯人との結びつきを肯定できるというべきであり、この点の検察官の指摘は正当である。
3 検察官は、本件鍵を犯行後も保管していたのが被告人であるとして、被告人が犯
    人であることの有力な情況証拠であると主張するので、以下検討する。
    (一) 被告人が犯行前に本件鍵を預かっていたこと
     本件各証拠によると、以下の諸事実が認められる。
    (1) 101号室にはネパール人のLらが居住していたが、平成8年10月ころ退去した後は、同室は空室であった。
    (2) Mは、Lらが退室した後、同年11月ころ、同室内の冷蔵庫等をカンティプール従業員に渡すため同人に本件鍵を貸した以外には、本件鍵を保管管理していた。なお、101号室玄関の鍵は、本件鍵の他にスペアキーは存在していなかった。
    (3) 被告人は、姉のウルミラ・マイナリが来日して401号室に住む予定となったため、同居人のC、J及びDの三名に101号室に移ってほしいと伝えるとともに、101号室の様子を見るために、1月末、Mから本件鍵を借り受け、Jらに101号室の中の様子を見せるなどしたほか、Mに対して、家賃の値下げを求めたりしていた。
    (4) しかし、姉が来日しないことになったほか、2月23日には、Mから、家主の意向としては、101号室の家賃の値引きには応じられないと伝えられたこともあり、結局Jらが101号室に転居するのは中止となってしまった。そこで、Mは、3月1日、本件鍵の返還及び滞納していた401号室の2月分の家賃の支払いを求めるメッセージを401号室の留守番電話に残しておいた。
    (二) 本件鍵の返還時期はいつか
    (1) 検察官は、本件鍵を借り受けていた被告人が本件犯行後の3月10日にMに本件鍵を返還した旨主張し、その主張を直接根拠付ける証拠として、「3月10日に被告人から本件鍵の返還を受けた」とするMの供述を挙げる。一方、弁護人は、被告人が、Cを介して、3月6日にMの本件鍵を返還したと主張し、その主張を直接根拠付ける証拠として、「3月5日、401号室の2ヶ月分の家賃10万円と共に本件鍵をMに返すようにと被告人から依頼された上、手渡されたので、翌6日にMに返した」というCの証拠保全における供述を挙げており、被告人も公判廷で同趣旨の弁解をしている。
     なお、本件においては、死体発見時には101号室の玄関には施錠がされていなかったというのであるから、被告人が本件鍵を犯行後まで持っていたか否かが、被告人と本件犯行との結びつきを決定的に左右するものではないことは弁護人が指摘するとおりであると思われる。ただし、被告人が犯人であると仮定した場合には、弁護人が主張するように本件犯行前の3月6日に既に本件鍵が返還されていたとすると、犯行日より相当前に101号室玄関の施錠は既に解かれていたことになる一方で、検察官が主張するように本件犯行後の3月10日に返還していたとすると、そうであるとは限らないことになるから、その意味で、本件犯行後の本件鍵の返還の事実が認められる場合には、本件犯行前に返還したという場合と比べて、被告人と本件犯行とをより強く結びつけることになることは確かと思われる。以下、検討する(なお、被告人がCに口裏合わせを依頼したかという点も、本件鍵の返還時期を考えるに当たっては問題となるから、以下ではその点も含めて検討することとする。)。
    (2) Mらの供述の概要
     101号室及び401号室は、Mが店長を務める前記カンティプールの実質的経営者であるO崎が管理しており、Mが家賃を居住者から受領し、O崎が実質的に経営するカプセルホテルの従業員であるIがMから右家賃を預かり、同女がカプセルホテルの売上金と共に銀行口座に入金する仕組みになっていた。
     具体的には、事務員Iは、通常、Mから預かった家賃だけを入金しに行くことはなく、カプセルホテル売上金の入金の際に併せて入金しており、証拠上、3月6日、10日及び11日にカプセルホテルの売上金を入金していること、また、3月11日に401号室の2ヶ月分の家賃10万円を併せて入金したことが認められる。
     そして、事務員Iは、「カプセルホテルの売上げと一緒にならないように、Mから家賃を預かったら、なるべく早く入金するようにしていた。」、「夕方Mから家賃を預かると翌日には入金する形をとっていたので、3月11日に入金した401号室の家賃10万円については、多分、3月10日の夕方から翌11日に入金するまでの間にMが持ってきたと思う。」と供述しており、これを前提とすると、家賃入金日の直前のホテル売上金入金日である3月10日から翌11日の家賃入金前の間に、IはMから401号室の家賃を受け取ったと、一応推認することができる。
     ところで、Mは、当公判廷において、「被告人が3月10日、家賃と一緒に本件鍵を返してきた。」、「本件鍵を受け取った場所はカンティプールの店の中だったと思う。」、「私自身の考えでは、家賃と本件鍵を受け取ったのは3月5日から四、5日後だったような気がしていた。」、「Cを含めて被告人以外の人が本件鍵を持ってきたという記憶はない。」と供述しており、これは右推認ともよく符合するように思われる。
     しかしながら、他方では、Mは、「一番最初の取調べの際には、警察官に対して、本件鍵をいつ返してもらったのかについては覚えていないと言ったと思う。」、「被告人から家賃と本件鍵を受け取ったのはいつだったか最初覚えていなかったが、Iが銀行に家賃を入金しているのが3月11日ということなので、10日くらいかなと思ったし、10日は月曜日で、被告人の休日だと警察から聞いたので、その日に本件鍵を受け取ったと思った。」と供述するほか、「本件鍵と家賃とが持って来られた情景は全然頭に入っていないが、本件鍵と家賃分の現金が自分のもとに来ているのだから一緒に来たのかなと思う。」、「とにかく自分にとっては仕事の流れの一つだから、確実に入金されている時は全然覚えてはいない。」などと、本件鍵の受取状況について、記憶が相当に希薄となって、曖昧な部分があることを自認しており、本件鍵の受取日について「3月10日」としたのも、取調官の誘導に乗った面があることを否定してはおらず、自身の独自の具体的記憶に基づくものではないことが明らかとされている。そうすると、3月10日を本件鍵の返還日とするMの前記供述それ自体の信用性には相当に大きな疑問が残るといわざるを得ない。
     また、事務員Iも、「カプセルホテルの売上げの入金については、会社で行けない事情がある場合や仕事の事情で午後3時を過ぎた場合には、次の日に回す場合もある。」と供述しており、現に、金曜日である3月7日にはホテル売上金の入金をしておらず、月曜日である10日にホテル売上金の入金を済ませていることがうかがわれ、また、「複数のいろいろな入金があるので、受け取った当日又は翌日のうちに入金したのかそうではないのか、必ずしも覚えてはいない。」とも供述しているのであり、そうすると、たとえ3月6日にMから家賃を受け取っていたとしても、3月10日までに入金するのを失念するなどして、入金が遅れた可能性があることも否定しきれないのである。
     さらに、IがMから家賃を受領したのが3月10日から11日との間であるとの推認が正しいとしても、Mは、「家賃を受け取ると、その日のうちにIに渡していた。」と供述しながら、その一方で、「家賃を受け取ってから何日も自分の手元に置いたこともあったと思う。」とも供述しており、Mが家賃を受け取ってすぐにIに渡していたとの確証がないことを自認しているのであるから、IがMから家賃を受け取った時期が3月10日であることを前提としても、Mが被告人から家賃を受け取ったのが3月10日であるとまではいえないことになる。
     したがって、M供述やI供述等によっては、Mが、被告人から、Iの3月10日の入金後に、401号室の家賃を受領したとまで断定することはできないというほかはなく、検察官の前記の主張には到底賛同することができない。
    (3) Cの供述について
     Cは、6月9日に行われた証拠保全の証人尋問において、被告人から本件鍵の返還を依頼された状況について、「3月5日夜12時ころ、401号室において、被告人から『自分が仕事に行く前には間に合わないし帰ってきても夜になるので、翌日午前12時前でも後でもいいから、昼間時間のあるあなたがMさんに金を持っていって下さい』と言われ、本件鍵を現金10万円と一緒に預かった。私は、言われたとおり、3月6日午後1時くらいにMに本件鍵と10万円を渡した。」、「3月6日と覚えているのは、自分が新しい仕事に就いた第1日目で、その日、カンティプールから帰ってから、それまでの職場で3月5日に支給された給料21万円をその日に銀行に入金したからである。」と供述するが(Cの銀行預金通帳には、3月6日、21万円の振込みが記帳されている。)、一方で、Cは、捜査段階において、「3月22日の朝、Jが洗顔したりトイレに入っている間、私は、被告人から、『警察に聞かれたら本件鍵は私の給料日の翌日に10万円と一緒に君を通じてMに返したと言ってくれ』と頼まれた。私は、警察になぜそんな嘘をつかなければいけないのか分からないので返事をしないでおいた。」、「被告人とJが警察に行くと言ってウィークリーマンションから出かける前に、Jは、直接、被告人に、『本件鍵はどうしたの』と聞いていたが、被告人は、私に頼んできた話のとおり、『Cが返した』と答えていた。」、「すると、Jは、私に『本当か』と聞いてきた。私は、その日の朝被告人と私の間で話し合ったとおり私が本件鍵を返したことにすればいいと思い、被告人の給料日の翌日の3月6日に返したことにするのだから、今から15日位前になると計算して、Jに『被告人から預かって15日位前にMさんに返した』と答えた。しかし、私は警察に行かないことにしていたから、本件鍵をMに返したと私から警察に話すことはできないはずであり、そのことに被告人も気付いたのか、Jに『お前が俺から預かってMさんに返したことにしてくれないか。Mさんも誰から返されたかは良く覚えていないだろうから』と頼んでいた。
    私も、Jが返したことにすれば、私が警察に行かないのだからちょうどいいと思って、Jに『そうしてくれ』と言った。しかし、Jは、返事をせず玄関から出ていってしまった。」と供述している。
     ところで、Jは、「私は、3月21日午後11時過ぎころウィークリーマンションに帰った。ひとりでいた被告人に、本件殺人のことや警察が我々から本件鍵のことを聞きたがっていることを教えた。」、「翌22日午前中、警察に行くためマンションを出ようとした時、私はそれまで疑問に思っていた本件鍵のことを被告人に聞いてみる気になり、『ところで部屋の鍵はどうしたんだ』と聞くと、被告人は『Cに渡した』と答えた。私はCに『本当か、その鍵はどうしたんだ』と聞いたところ、Cは『本当だ。でも15日くらい前にMさんに返した』と答えた。しかし、Cは、すぐに私に『お前が被告人から預かってMさんに返したことにしてくれないか。そして鍵を返したのは15日前だときちんと言ってくれ』と言い出し、それに合わせるように被告人も『そうしてくれ』と言ったが、その頼みには返事をせずにマンションを出た。」と供述しており、被告人は、「本件鍵について、当初、Jが返したと供述したが、その後警察から嘘だと責められたので、本件鍵を返したのは本当はCだと答えた。」、「3月22日の朝ウィークリーマンションを出て警察に出頭する前、Cが『自分は警察に行かない、自分が鍵を返したことは言わないでほしい。自分とJは顔が少し似ているのでJが返したことにしてほしい』と頼むので、警察では、そのとおりに答えた。Jは何も言わなかったが、私は彼が了解したと思い、Cの頼みどおりに答えると思った。」とも供述している。
     そして、以上のC、J及び被告人の各供述によると、Cは、3月22日未明の段階で、自らの不法残留等を理由に、警察に出頭しないことにしていたこと、3月22日にウィークリーマンションから出かける際、Cは、Jに、「あなたが本件鍵を返還したことにしてほしい。」旨依頼したが、同人は明確な返事をしながったことについては、特に争いはないが、そうすると、被告人が、当初から警察に出頭することになっていなかったCに対し、
    「同人が本件鍵を返したことにする。」との口裏合わせをしたことは、不自然であり、むしろ、Cが本件鍵を返還したことが真実であったという方が自然であるとも思われないではない。また、弁護人も指摘するとおり、3月22日の時点で「3月6日に返還した」ことにする旨Cと被告人とが口裏合わせをしたというのは、その口裏合わせが右両名の間だけでは完結せず、本件鍵の返還を受けたMも関わってくることを無視したものであり、Mの記憶が鮮明に復活していた場合には成り立ち得なかったものであるから、かかる口裏合わせをしたことが発覚したときには、被告人が本件の真犯人であるとの疑いを増幅する事情ともなりかねないのである。その点からも、検察官指摘の口裏合わせの話は、不自然さを残すと考えられる。さらに、当初、Cは、被告人から口裏合わせを依頼されても「なんでそんな嘘をつかなければならないのか分からないので返事をしないでおいた。」としておきながら、その後は、被告人がJに対し「Cが返した。」と答えると、Cも「被告人が話したとおりに『自分が返した』と答えた。」という経過となるのであるが、Cは被告人からの口裏合わせの要請について明示的な同意をしたことがないのに、どうしてこのように、あうんの呼吸ともいうべきCの回答が出てきたのか、にわかに了解し難い不自然さが残ることを否定できない。
     しかも、Cは、警察に出頭した直後の3月27日ころには「被告人が鍵を返した。」と供述していたのが、同月29日ころには「被告人から頼まれて自分が返した。」と変わり、同月30日ころには「自分が返したとの口裏合わせを被告人から頼まれた。」とさらに変更が加えられて、同月14日には再び「自分が返した。」となり、5月20日外国人登録法違反で逮捕されると「口裏合わせを頼まれた。」と供述を変更しており、一方では、弁護人との接見では、口裏合わせは虚偽だとしつつ、6月9日の証拠保全の際には「自分が返した。」としているのである。捜査の途中からCは被告人の弁護人らと接触を持ち、被告人の供述内容を教えられたことがうかがわれ、Cの供述の信用性については慎重に判断すべきではあるが、弁護人との接触前である3月29日ころに、既に弁護人が主張するような供述をしていたことは注目に値し、最終的には証拠保全手続においてその供述を確認するに至っていることにかんがみると、口裏合わせを依頼されたとのC供述の信用性については、重大な疑念が残ることは否定できない。また、口裏合わせを依頼されたなどと供述した理由について、Cは、証拠保全手続において、「3月30日ころは、捜査官の取調べが長時間続いており、当時、非常に体調も悪かったので、何を聞かれても、そのとおりだと答えていた。」と供述し、「自分自身が逮捕された5月20日以降は、警察から『二度と日本に来られないようにする』『言うことを聞かないと長くかかる』などと言われたので、取調官の言うとおりに調書を作った。」とも供述しているのであるが、このような弁解が不自然不合理であるなどとして、無下に一方的に排斥することはできない。
     したがって、被告人が本件犯行後まで本件鍵を保管しており、同居人であったCと口裏合わせをしていたとまで断じることはできず、この点の検察官の主張には到底賛同することかできない。ただし、被告人が101号室が空室であると認識していたことは動かし難く、その限度では被告人と犯行との結びつきをうかがわせるものというべきである。
4 検察官は、被告人が犯行直前まで家賃支払いに足りる所持金に窮していたのに、
    犯行後はこれを用意していたから、被告人が本件犯行の犯人である有力な情況証拠であると主張する。
     そこで、本件鍵が家賃10万円と共に返還されたこと自体に争いはないから、被告人やCがMに家賃を渡した日だとする3月6日当時、被告人が10万円の家賃を用意できたか否かが問題となる。この点、検察官は、3月5日に給料の振込みを受ける直前には被告人の所持金がほとんどなかったと認められることを前提に、犯行直前の3月7日までの被告人の所持金は10万円余りとなり、生活費等を考慮すると、401号室の2ヶ月分の家賃である10万円の捻出に窮する状態になっていたと主張する。
     この点について、Jは、「2月6日から8日ころまでの間に一度、被告人から『本国に30万円送りたいのだが20万円しかないので金を貸してほしい』といわれ、次の給料日に20万円にして返済することを約束して現金10万円を貸した(そのころ、被告人がネパールに約30万円の送金をしたことは争いがない事実である。)。被告人は、3月6日に15万円返して、3月13日か14日に残り5万円を返した。」と供述する。また、Eは、「3月5日から7日ころの午前中、おそらく被告人の給料日の翌日の6日、被告人が仕事に出かける前、Jに、見た感じでは少なくとも10万円以上の額の金を渡しているのを見た。」と供述する。そして、被告人自身、Eから家賃相当額を受け取った日の3月10日以前にJに12万円の限度で金員を返済したこと自体は否定していないことにかんがみると、犯行日の3月8日前後ころには、被告人がJに10万円を超える金額の返済をしたことは認定することができるといわなければならない。
     しかしながら、返済額や返済回数については、被告人やJらの間には1万円、2万円の額の貸借は頻繁にあったというのであるから、前記の返済の状況に関するJの供述は、的確な裏付け証拠による場合でなければ、具体性に欠けるといわざるを得ないのであり、J供述は、この点で前面的には信用し難く、返済金額について「10万円以上はあったと思う。」というE供述の限度でしか的確な裏付けを欠き、その信用性には疑問が残るというべきである。また、Jは、右金員の返済日を「3月6日」と供述するが、その日であるとする具体的根拠は何ら示されておらず、Eの供述も同様の指摘ができる。そうすると、被告人がJに返済した額は、被告人もその返済を否定していない額である12万円との可能性が払拭しきれないし、返済日についても、3月6日とするにはJ供述は的確な裏付けを欠き、せいぜい犯行日の3月8日以前とまでしか認定できないというほかはない。
     そこで、3月8日以前の被告人の収支状況について検討すると、3月5日支給された幕張マハラジャの給料のうち21万6000円が3月6日までに引き出されており、3月7日までにDは家賃等として3万2000円を被告人に支払っており、さらに、Cは、3月5日、家賃から公共料金の立替分を差し引いた1万円を被告人に支払っており、そうすると、被告人には、3月8日以前に、少なくとも合計25万8000円の収入があったことになる。一方、支出についてみると、被告人は、3月5日、幕張マハラジャのコックであるAに対して1万円を返済しており(被告人は2月25日に同人から1万円を借りていた。)、Jに対して12万円ないし15万円を返済したとしても、家賃10万円を用意するには2000円の不足から2万8000円の余剰があることに帰し、さらに、同僚のGにも借金1万円を返済したとの被告人供述を考慮しても、なお、最大1万2000円の額が不足するだけであって、給料日以前の被告人の所持金が確定できていない現状においては、Jへの返済があったからといって、これが直ちに前記の家賃の支払いに支障を来すなどとはいいきれないということになる。検察官は、3月5日の給料日以前に被告人の所持金が全くなかったことを前提に前記主張を展開するのであるが、以上の記載から明らかなように、その主張には的確な根拠を欠くというべきである。
     しかしながら、被告人は、出稼ぎのため、来日して長期間不法滞在していた上、ネパール国内では自宅を新築していたというのであるから、金銭に窮していたことは否定できないことであり、その限度では検察官が指摘するように、被告人には現金奪取の動機があったことは否定することができない。
5 次いで、検察官は、本件犯行時刻ころ、被告人が101号室に到着することは十
    分可能であったことを被告人と本件犯行との結びつきを推認させる重要な間接事実として主張する。一方、弁護人は、犯行当日、犯行現場と認められる101号室に犯行時刻ころには被告人は到達できなかった以上、被告人は本件犯人ではないと主張する。
     S田は、3月8日当夜、K荘地下1階「まん福亭」に行った実父を、乗用車で迎えに行った者であるが、本件アベックの目撃時刻について、「父を迎えるためまん福亭前で車を停めた後、午後11時14分ころ、近くのトークスでガムを買った。」、「ガムを買った後、まん福亭の中に入り、店のマスターに時間を聞くと、午後11時20分か25分くらいの時間を言っていたが、後に、その時計は約6分進んでいたと聞かされた。」、「5分ないし10分くらいして店から出て、まん福亭のマスターが買った車を、付近の駐車場に見に行った。」、「そして自分の車に戻り、車に乗って5分ほどしてアベックを見た。」、「アベックを見てから5分ほどして、父がまん福亭から出て来たので、すぐ車を出した。自宅には翌9日午前零時10分ころ着いたが、まん福亭から自宅まで車で20分くらいかかるから、まん福亭の前を出発したのが午後11時50分ころであったと思う。」と供述する。また、101号室内で女性のあえぎ声を聞いたとする前記T子は、「3月8日午後11時50分ころ、友人のA山に、神泉駅の公衆電話から電話をかけに行った。1、2分間A山に電話した後自宅に戻るため外階段を上がろうとした際、101号室から男女のあえぎ声が聞こえてきた。」と供述する。
     ところで、弁護人は、S田がアベックを目撃した時間は午後11時30分より前であることが明らかであると主張するが、その供述内容自体や右T子供述との整合性に照らしても、S田供述には特段疑問視すべきところは見当たらない。そうすると、S田が本件アベックを目撃した時刻は、早くとも、まん福亭のマスターに時刻を聞いた時から約10分後の午後11時25分ころで、遅くとも、出発した時刻の約5分前である午後11時45分ころの限度でしか特定できないというべきである。
     続いて、被告人の通勤(帰宅)経路及び通勤時間を検討すると、被告人の通勤経路は、幕張マハラジャの最寄り駅であるJR海浜幕張駅からJR東京駅まで京葉線電車に乗り、東京駅で品川回りの山手線に乗り換えてJR渋谷駅で下車し、そこから徒歩で401号室に帰るというものである。警察官が犯行当時の被告人の通勤経路の所要時間等について実査したところによると、幕張マハラジャからJR海浜幕張駅までの所要時間は徒歩6分から6分20秒であり、同駅から東京方面行き京葉線電車に乗車してからK荘に到達するまでの所要時間は約1時間19分から1時間21分(総所要時間は1時間27分から1時間28分)であった。また、他の捜査官による実査では、JR渋谷駅からK荘までの所要時間が、約2分余計にかかったことから、この点も加味すると、結局、JR海浜幕張駅からK荘までの所要時間は約1時間19分から1時間23分(総所要時間は約1時間27分から1時間30分)ということになる。そして、3月8日に勤務先を退店後の被告人が乗車した電車の発車時刻を検討すると、JR海浜幕張駅発の東京方面行き京葉線電車は、3月8日当時、土曜日午後10時台には、同時7分発、22分発、37分発及び52分発の電車の運行があった。また、幕張マハラジャの被告人の3月8日におけるタイムカードは、午後10時が退出時刻として打刻されており、同日当時、同店のタイムレコーダーは2分40秒進んでいたことが明らかであるから、右タイムカードの実際の打刻時刻は、同日午後9時57分20秒であることになる。また、幕張マハラジャ店長代理のS口によれば、「従業員らのタイムカードを見ると、3月8日は、午後10時には従業員全員が退店しており、自分は、他の従業員より1分遅い午後10時1分にタイムカードを押して退店したことになっているが、当時は一番最後に退店するように努力していた。」というのであり、同店従業員のK田によれば、3月8日は、午後9時40分に同女が最後に店の精算をしたというのである。そうすると、3月8日、被告人は午後10時ころに退店できたことは十分考えられ、そして、幕張マハラジャからJR海浜幕張駅までは徒歩約6分であるから、被告人は、当日、午後10時7分発の電車に乗車できたとして特に問題はない。なお、弁護人は、翌日曜日の準備で忙しい当日の被告人の勤務状態等からすると、午後10時7分発の電車に乗る時刻に店を退店することは不可能であったと主張し、被告人もそれにそう弁解をしているが、仮に、そのような時刻に退店できなかったとしても、被告人が午後10時22分発の電車に乗車できたことには問題がない。したがって、JR海浜幕張駅からK荘までの所要時間は約1時間19分から23分であり、3月8日に被告人は午後10時7分発又は22分発の電車に乗車できたことになるから、そうすると、3月8日当日、被告人は、K荘に午後11時26分から午後11時45分ころには到達できたと認定することができる。
     したがって、本件アベックか目撃された時刻と被告人の到達可能時刻との間には特段の矛盾があるとはいえないことが明らかである。検察官の主張はこの限度で理由がある。
6 さらに、検察官は、被告人は被害者と、従前、買春して面識があったにもかかわ
    らず、3月19日の事情聴取の際やその後の捜査の過程において、被害者と面識があったことを否定していたことは、被告人と犯行とを結びつける有力な間接事実であると主張する。
     確かに、関係証拠によると、被告人は、平成8年12月半ば、401号室において、C及びRと共に、被害者と買春したことがあったことが認められるほか、被告人は、本件死体が発見された3月19日夜、帰宅した際、警察官から、被害者の顔写真を見せられた上、同女を知らないかと尋ねられ、被害者であると分かったにもかかわらず、「知らない。」と回答し、その後、捜査段階においてもその供述を維持していたことが明らかである。この点、被告人は、警察官から被害者の写真を見せられた時には、「自分がセックスしたことを言うのが恥ずかしかったし、男3人でセックスしたことは悪いことだと考えたので、そのことを言いたくなかった。」と弁解しており、警察の取調べの時には、「自分がセックスをした女性がその部屋で殺されたので、もし私が彼女とセックスをしたと警察に言った場合、私が犯人と疑われると思ったので知らないと答えた。」と弁解する。被告人が本件犯行と無関係である場合には、警察官に対して敢えて虚偽事実を述べた理由としては、被告人の弁解は、万人をして納得させるものではない。そうすると、犯人ではない者が、さしたる理由もないのにどうして被害者との面識を否定したのか疑問であり、検察官の主張には、一応の理由があるように思われる。
     しかしながら、弁護人も指摘するように、被告人は、犯行直後の3月9日には通常どおりに出勤しており、翌10日には同僚を自室に招いているほか、その後も同月19日まで仕事を続けていたのであり、その点では本件事件後も普段どおりの生活を送っていたと評価できること、本件犯行に関して警察が被告人らを捜していることを知りなから、進んで警察に出頭してきたこと等の、一見すると、被告人と本件犯行の結びつきを否定するような行動にも出ているのである。
     そうすると、本件犯行後の被告人の言動は、被告人の犯人性を肯定する方向だけに働くものではなく、これを否定する方向にも働くのであり、その評価、すなわち証拠価値の判断が難しく、いずれにしても、それ自体によって、被告人と犯人との結びつきを決定することができないというほかはない。
7 以上からすると、本件コンドーム内の精液の血液型やDNA型、101号室から
    発見された陰毛の血液型やmtDNA型が被告人のそれと合致しており、精液の精子の状況が被害者の殺害時期と矛盾しないこと、本件ショルダーバッグの取っ手から被告人と同じB型の血液型物質か検出されていること、被告人が犯行時に101号室の鍵を所持していたとまではいえないが、犯行時に101号室が空室であることは熟知していたこと、被告人は出稼ぎのため来日していたのであって、現金奪取の動機があったことは否定できないこと、被告人が犯行時刻に101号室に存在することは十分に可能であったこと、被告人が被害者とは面識があったのに、捜査段階では、これを否定する不可解な言動に出ていたこと等の事情が認められ、これらを総合するときには被告人が本件の犯人であることは動かし難いもののようにも思われる。
     
第六 被告人の弁解する被害者との買春状況等について
一 被告人は、捜査段階においては被害者との関係を否定あるいは黙秘していたことが
うかがわれるが、平成11年3月24日の第25回公判期日以降は、以下のとおり供述するに至ったので、この点について一言しておくこととする。
1 被害者との関係について
     「被害者を最初に知ったのは平成8年12月20日ころである。私が仕事を終えて帰宅するとき、渋谷のラブホテルそばの道路に被害者が立っており、被害者が『あなたがセックスを望むなら1回5000円です』と声をかけてきた。私が『ホテル代がない」と言うと、被害者が『どこでもいい』と言うので、401号室の自分の部屋に同行した。そして、部屋にいたCとCと共に被害者と順にセックスをした。」「次に会ったのは、平成8年12月終わりで、私、R、Cが部屋にいる時に被害者が部屋に来て『今日もセックスしませんか』と言ってきたが、RとCが『ここは彼(被告人)のお姉さんの部屋なので、2度とここへ来ないで下さい。私たちはこの部屋ではセックスをしません』と言って、被害者を追い返した。」
     「その次に被害者と会ったのは、平成9年1月下旬のことであった。仕事から帰ると、トークスの前に立っていた被害者から声をかけられ、前回部屋に来た被害者を追い返したことがあり今回被害者を部屋に連れていったら同居人たちの邪魔になると思い、当時持っていた101号室の鍵を使ってその部屋を開け、その中で、被害者から渡されたコンドームをつけて被害者とセックスをした。私は、洋服を着た後、買春代として5000円を払った。」
2 被害者との最終の買春について
     「最後に被害者に会ったのは、2月25日から3月1日か2日の間のことだった。私が仕事から帰るとHビルのそばの階段の上の方で被害者に会い、『今日もセックスしませんか』と言ってきたので、承諾して101号室に行き、私が鍵を開け、その部屋の中で被害者から渡されたコンドームをつけて被害者とセックスをした。使ったコンドームはティッシュに包んだかよく覚えていない。その後、私は被害者に買春代として1万円を出したが、被害者が『小銭のほうがいい』と言うので、小銭で4500円払った。」、「私が『お金が足りない』と言うと、被害者は『それだったら、次に会ったとき精算すればいいから大丈夫ですよ』と言った。」 「2月25日から3月2日までの間であったといえるのは、被害者に出した1万円が同僚のAかBから借りた金で、Aから借りた日が2月25日であること、また、3月4日、5日の私の仕事の連休の前にセックスをした記憶があり、その1万円がそのままの形であったのも3月3日、4日より前だったと記憶していることからである。」
     「使用したコンドームは、101号室を出るとき、私が、開いたトイレのドアのすき間からトイレの中に捨てた。」
     「部屋の玄関のドアは被害者が閉め、私は、鍵をかけなかった。鍵をかけなかった理由は、5日の給料が入ると、家賃と一緒に鍵をMに返すことになっていたので、その後もセックスに使えるように、部屋に入れるようにしておくためであった。」
3 101号室の利用状況について
     「被害者以外の女性とも101号室でセックスしたことがり、それは2月初旬より後で2月14日より前のことであった。その女性は、ハチ公前から連れて行った人だった。」
     
二 検察官の主張について
1 検察官は、被告人の当公判廷における供述に関して、右供述後に開示した被害者
    の売春の日時・相手方・金額等を克明に記載した手帳(1997年度版のもの。以下「本件手帳」という。)によると、被告人の弁解する時期に被告人が売春の相手方となった旨の記載が存しないことから、右弁解は信用できない、押尾による前記鑑定等によって認められた本件精液中の精子頭部の形状に照らし、本件精液が右弁解時期に射精されたものとは考えられないなどとして、被告人の弁解は虚偽であると主張する。
2 検察官の主張のうち、後段の主張については、本件精液中の精子の形状等からし
    て、いずれとも決し難く、断定できないことについては前述のとおりであるから、以下は、前段の本件手帳の記載と関連した主張について検討を加えていくこととする。
    (一) 本件手帳の記載について
     本件ハンドバッグ内に遺留されていた本件手帳には、日付欄に当該日の被害者の売春の相手名が記載され、その右側に売春料金が併記されるなどしている。ところで、売春の相手方の記載については、具体的な個人名が記載された場合のほかに、「外人」等と記載された場合もある。なお、売春の相手方の記載中には、横に「?」が付記されたり、「?」のみの記載にとどまるものもある。捜査官は、「?」の意味について、「売春の相手方の名前が分からなかった場合」や、「名前が分かったとしても最初の売春の場合」に記載されていると解釈している。そして、検察官は、被害者と会った日を記録していた売春の相手方のメモ等の記載と本件手帳の記載とが完全に一致していたことなどからして、本件手帳の記載は正確であると主張している。
    (二) そして、検察官は、以下のとおり主張する。
     被告人は、2月25日から3月2日までの間に被害者と買春したのが最後であると弁解するのであるが、それが真実であれば、本件手帳にその旨記載があるはずである。しかしながら、本件手帳を精査しても、わずかに2月28日の欄に「?外人0.2万」との記載がある以外には、外国人を売春の相手方とする記載は存在していないし、しかも、初めての売春の相手方であることを意味する「?」が併記されているのである。被告人は、平成8年12月時点で既に被害者と買春をしていたというのであるから、明らかに矛盾した記載といわなければならない。しかも、売春料金は「0.2万」と記載されており、被告人の供述する金額と齟齬があることから、被告人の弁解は虚偽というべきである。
    (三) しかしながら、捜査官の「?」の解釈に関して、「名前が分かったとして
    も最初の売春の場合」は、本件手張の記載から具体的な名前が判明した売春の相手方に対する事情聴取の結果により、実際にもその意味が明らかとなっているといえるが、「売春客の名前が分からなかった場合」とは、「?」の通常の解釈から判断したにすぎないのであって、これが具体的証拠により裏付けられたなどということはないのであるから、それ以外の意味が一切ないと言うような確定的な解釈に至ることはできないというべきであろう。弁護人は、「被告人は被害者に自己の名前を告げていなかったから、『名前の分からない外国人』という趣旨て『?』と記載したと考えられる。」と主張するが、そのような場合も「名前の分からない場合」に含まれるというのが成り立たない解釈であると断定することには躊躇を覚える。この点、検察官は、「?」は初めての売春客」を意味すると強く主張しているが、本来が、初めての売春であったために「名前の分からない場合」というのか対象者とされていたとしても、本件捜査本部の指揮官であった石井和信は、「『?』だけのもので、客との供述で、この人だろうというのが推定できる場合があった。」とも、供述しており、「?」が捜査官に全く身元が判明していない者だけに限定されていないことをほのめかしているのであり、そうすると、被害者においてもある程度身元が判明した者についてもそのような記載に及んだ場合があったのではないかとも考えられるのである。また、日常的に接触のない異なる人種間における個人識別の困難さは、一般的にも広く承認されているところであり、被害者が東南アジア系外国人と日常的に接触する業務に従事していた訳でもないのであるから、401号室で集団として相手をした場合とは異なり、被告人だけを単独で相手とした場合に、これを個人的に識別できず、前記のような記載になったからといって、これが不自然、不合理といえないことも指摘しておかざるを得ない。
     したがって、2月18日欄の記載が、被告人との売春を意味するものではないと言い切る検察官の主張には全面的には賛同することができない。
     なお、検察官は、本件手張の記載は正確であり、これに反する認定はできないと強く主張するが、本件犯行当日である3月8日の記載が欠けていること等からすると、被害者は、帰宅後に1日分ないしは数日分をまとめて本件手張に売春に関する諸事項を記載するのを常としていたのではないかとうかがわれ、売春行為の都度それらを記載していた訳ではないことになるから、実際の売春の状況と本件手張に記載された売春の状況との間に食い違いが存在したとしても不思議ではなく、そのような記載漏れ等があった可能性が皆無であるとまでいえないことも否定できない。そして、本件手張の記載はあくまで被害者が個人的に記録していたものであって、その記載の方法等については、被害者者が具体的に残したものは見当たらず、あくまでのその記載内容から推定したにすぎない上、その記載の正確性を担保する裏付けとなるものは一切見当たらないのであり、その記載の正確性を判断するには自ずから限界があるというべきであり、この点からも、記載の誤りや記載漏れのおそれがあることを否定することはできないのであり、その記載内容の克明さを前提としても、検察官の主張については全面的には賛同することができないというほかはない。
     ところで、被告人は、最終買春の後101号室に施鍵しなかった理由について、「家賃と一諸に鍵返すことになっていた3月5日の後もセックスのために部屋に入れるようにしておくため」であったと弁解するところ、Mが本件鍵の返還を被告人に求める電話をしたのが3月1日であるから、その後に本件鍵の返還の話が本格化したと思われ、そうすると、被告人が被害者との最終の買春に及んだのは3月1日以降になると思われ、1月28日欄の記載が被告人との最終の買春を意味するものではないことになりそうである。しかしながら、他方では、被告人は、1月13日まてには家賃値下げはできないとMから通告されており、101号室の賃借話は既に消滅していたと考えられる以上、2月28日に、被告人が、給料日である3月5日に滞納していた家賃と共に本件鍵を返還しようと考えていたとしても不合理とまでいうことはできない。そのようなことをも考察するときには、2月28日欄の記載が被害者の被告人に対する売春を意味しないとまで断定することはできないというべきである。
     したがって、本件手張の記載内容については相当に正確てあることがうかがわれ、被告人の前記弁解は本件手張により裏付けられていないという観点からは、直ちに信用できるというものではないことは明らかである。そうかといって、本件手張の記載内容がすべてを決するものでもないことも明らかであり、記載の欠如や記載に反する事項は常に信用性に欠けるとまではいえないから、被告人の前記弁解を直ちに明らかな虚偽とまでは断定できない。
     
第七 解明できない疑問点
一 以上の記載から明らかなように、被告人が本件売春客ではないのかという疑いは相
当に濃厚ではあるが、他方では、被告人を本件の犯人とするには、以下のような合理的に説明できない疑問点が残ると思われる。
 
二 本件コンドームの遺留について
1 前述のとおり、検察官は、本件精液中の精子の頭部は正常な形態を保っていたと
    ころ、押尾意見にあるとおり、射精から10日経過後の精子では頭部の形状がはっきりしているのに、20日経過後の精子の頭部は崩壊しているものが多いことにかんがみると、本件精液の精子は3月19日の採取日まで10日前後経過した状態であり、これが被害者殺害の3月8日と時期的に符合すると主張する。
2 しかしながら、前述したとおり、押尾意見は検察官主張の殺害時期との関係でも
    矛盾がないというにすぎないのであり、検察官の主張を直接支持し裏付けるものではないのである。かえって、押尾鑑定の結果によれば、ブルーレット混合液に精液を放置した場合には、放置10日後では、頭部と尾部が分離した精子に割合は30パーセントから40パーセントであったというのに対して、放置20日後では、すべての資料で尾部が欠如しており、頭部と尾部が分離した精子の割合は60パーセントから80パーセントを示していたというのである。そして、本件精液内の精子の形態を観察したところ、頭部のみの精子であって、尾部は存在してもほとんど痕跡程度であったというのであり、この数字等を根拠にする限りは、本件精液は10日間以上放置されていた可能性の方が、20日間放置されていた可能性より高いなどと断定することができないことはいうまでもないのである。
3 次に、本件犯人はなぜ本件コンドームを101号室の便器内に放置したままにし
    たのかという疑問である。すなわち、本件売春客は、被害者が携行していた包装されたコンドームを買春の際に使用した形跡が濃厚であることは、前述したとおりであるが、これを包装していたパッケージが101号室から全く発見されていないのである(前記T子が男女のあえぎ声を聞いた際には、101号室の西側窓の下に使用済みと思われるコンドームやそのパッケージ、ティッシュペーパーが複数個遺棄されていたのを発見したことが認められるが、これらは被害者が本件売春前に遺棄したというのが、検察官の見解のようであり、そうすると、本件コンドームのパッケージが行方不明であることに依然として変化はない。)。101号室から発見されていない以上は、犯人は、本件コンドームを本件時は使用していないのではないかとの疑問さえ生じかねない。つまり、犯人は、本件コンドームとは別のコンドームを本件時に使用した後に、そのパッケージとともに101号室から持ち出したのではないかという疑問である。後述するように、犯人は、比較的冷静に犯行後の行動に及んでいる形跡が濃厚であり、本件時に使用したのが本件コンドームであれば、これを処分することを考えるのが理の成り行きであろう。便器内の本件コンドームを処分するといっても、難しいことではなく、便器内に設置してある機器を使用して水を流せば足りるのであり、まさに一挙手一投足の労で済むのである。しかるに、コンドームのパッケージは持ち出しながら、一見して最も有力な証拠と考えられる本件コンドームには一切手をつけなかったというのはあまりに不自然との感は否めないところである。
     
三 第三者の陰毛の存在
 101号室の被害者の死体の付近からは、血液型及びmtDNA型が被告人の型と合致する陰毛が発見されているほか、本件ショルダーバッグ取っ手からも被告人の血液型に合致するB型物質が検出されていることが、被告人の本件犯行との結びつきを示す有力な情況証拠とされているところ、被害者の右肩付近からは陰毛が合計4本発見されており、検査の結果、血液型B型とO型のものが各2本であったというのであり、B型のうちの1本がmtDNA型鑑定により被告人の陰毛と判明しており、O型のうち1本がmtDNA型により被害者の陰毛と判明したものである。しかしながら、残りのB型の陰毛とO型の陰毛は、いずれも被告人及び被害者以外の第三者のものであることは明白であり、最終的にも誰のものかは一切判明していないのである。そして、被告人以外のB型の陰毛の持ち主は、同時に101号室において被害者のショルダーバッグの取っ手からB型の付着物が検出されていることからも、被告人と同様に、本件犯行に及んだと考えられる本件売春客の資格を十分に有しているのである。したがって、101号室から被告人の陰毛が発見されたからといって、これが直ちに被告人が犯人であることを指し示すものではないことを指摘せざるを得ないのである。なお、検察官は、101号室には従来から多数の者が居住していたのであるから、無関係の第三者の陰毛が紛れ込む可能性が強いと主張するが、他方では101号室から発見された被告人と被害者の各陰毛が本件性交時のものを意味すると断定した主張もしており、客観的にはそのように言い切る具体的根拠に欠けていることからして、検察官の主張は的確性を欠くものとして、到底賛同することができない。
 
四 被害者の定期券入れについて
1 被害者の定期券入れ(以下「本件定期券入れ」という。)には、被害者が日常的
    に使用していた被害者名義の定期券(利用区間が西永福駅から地下鉄新橋駅まで(地下鉄銀座線・渋谷経由)・利用期限平成9年3月1日から同年8月31日までの6か月間)が入っていたが、3月12日午前9時40分ころ、東京都豊島区巣鴨の民家の敷地内(JR大塚駅及びJR巣鴨駅から図測で1125メートルに位置する。)で発見された。
2 検察官の主張
    (一) 検察官は、(1)被害者の所持品であるイオカード(JR東日本で発行さ
    れる、金券同様のもの。)の使用履歴等から、被害者がその日、前記五反田のSMクラブから退出した後、JR五反田駅で190円以上の乗車券を購入し、被害者自身がJR巣鴨駅やJR大塚駅付近に赴き、本件定期券入れを遺失した可能性も否定できない、(2)被告人が現金と同時に本件定期券入れを奪い、本件定期券代金約6万円を払い戻そうとしたものの、被害者本人でないことから換金することができずに、やむなく投棄したとも考えられるなどと主張する。
    (二) 前記定期券が3月8日午前11時25分、前記井の頭線西永福駅への入場
    時に最終的に使用されており、それ以降はその使用履歴を示す証拠はなく、本件定期券入れが前記民家敷地内に至った事情については、全く解明されていないのである。しかしながら、前記定期券が最後に使用された当日の深夜ころには名義人である被害者が殺害されている上、その約3日後に本件定期券入れが発見されたというのであるから、本件の犯人が本件定期券入れを持ち出して投棄したというのは、十分に考えられるところである。
     101号室で発見された被害者の所持するイオカードの使用履歴等から、被害者自身がJR巣鴨駅やJR大塚駅付近に赴いた可能性があるとの検察官の前記(1)の主張について検討すると、本件ショルダーバッグから発見されたイオカード3枚についての捜査の結果、JR五反田駅の2台の自動券売機を使用して、190円以上と130円以上の2枚以上の乗車券が購入されていることが認められるところ、当日の被害者の行動状況を考慮すると、右乗車券購入は前記五反田のSMクラブを退出した午後5時30分ころからJR渋谷駅ハチ公前で甲野と待ち合わせた午後7時ころまでの約1時間30分の間に行われた形跡が濃厚であるというのであり、そうすると、被害者は、JR五反田駅からJR巣鴨駅又はJR大塚駅付近まで赴き、さらに再びJR渋谷駅まで戻ったということになろうが、甚だ慌ただしい時間の使い方と思われ、なぜそのような行動に出なければならなかったのか、また、なぜ2枚以上の乗車券を購入しなければならなかったのか、全証拠によってもこれを解明することはできない。
     ところで、捜査官は、被害者が本件犯行当日JR大塚駅又はJR巣鴨駅方向に出向き、遺失した可能性があるなどと主張する。しかし、本件定期券入れの発見状況に照らすと、何者かによって前記民家の敷地内に投棄されたことは明らかであるが、被害者本人が自己の定期券入れを捨てることは到底考えられない上(前述のとおり、検察官の見解によれば、被害者は犯行前に101号室の西側窓下に使用済みのコンドームをパッケージ等とともに遺棄しているというのであるが、午後5時30分以降の当日の行動に照らせば、被害者自身が本件定期券入れを投棄したとすると、被害者には複数回の売春をする機会はなかったことになると思われるし、被害者がそのような行動に出なければならないような事情も見当たらないのである。)、仮に、被害者が遺失したり、奪取されたことがあったとしても、被害者がこれに気付かなかったとは到底考え難く、被害者の性格等からして、そのまま放置するとも考え難く、直ちに遺失届等を提出するなどしたはずであるのに、そのような行動に出た形跡は皆無であり、本件定期券入れを拾ったり奪ったりした者がいたとしても、どうしてこれをわざわざ民家の敷地内に投げ捨てたのか、合理的な説明を加えることは困難といわざるを得ない。そうすると、本件売春客である本件犯人が、本件犯行時に、現金4万円のほかに、本件定期券入れも奪い、何らかの理由で投棄したと考えるのが最も妥当な結論とも思われる。
     右(2)の検察官の主張について見ると、仮に、被告人が本件犯人であるとすれば、どうして現金のほかに本件定期券入れまで奪ったのか、本件定期券入れの発見場所付近には土地鑑がない被告人が、わざわざそこまで赴いて民家敷地内に投棄するという行動に出たのか、いずれの点からも説明が付かないといわざるを得ない。この点、検察官は、本件定期券代金を払い戻そうとしたが被害者本人でないことから換金できずに投棄したとか、犯人が自己の生活領域ではない場所を選んで証拠を投棄することは不自然な行為ではないなどとも主張する。
     しかしながら、本件の犯人は、本件財布を含む本件ショルダーバッグごと奪うというような態様での奪取はしておらず、本件財布内の紙幣だけを抜き取るという沈着冷静ともいえる行動に出ていることがうかがわれるのであって、定期券の代金払戻しを企図して本件定期券入れを奪い取りながら、その後本人ではないからとの理由で払戻しを拒否されるや(そのような拒否を受けた者が存在することは証拠上一切見当たらないことを指摘しておく。)、払戻しを断念して一転投棄したというのは、冷静さを欠いた場当たり的な行動とも考えられないではなく、右のように沈着冷静とも思える本件犯人像とはそぐわないものがあることは否定できない。仮に、被告人が自己の生活領域ではない場所を選んで証拠を投棄したと解しても、本件のように、いかにも早期に発見して下さいとばかりに、民家の敷地内に投棄するのではなく、より人目に付きにくい場所等を選んで、隠匿したり、投棄することは十分に可能であったと思われ、いずれにしても説得力に富む合理的な説明は考えられないところである。仮に、被告人が捜査かく乱を意図したのだとしても、勤務証等が入った本件ショルダーバッグを101号室に放置したまま、なぜ本件定期券入れを本件のように投棄したのかについての合理的説明は甚だ困難と思われる。
     
五 101号室を被害者が独自に使用していた可能性について
1 検察官は、被害者が101号室に立ち入ったのは本件当日以外にはなく、被害者
    が被告人以外の者との売春に使用した可能性はないと主張し、その根拠として、(一)本件手帳の記載内容を検討しても、101号室を売春に使用した形跡がなく、被害者の売春の相手方の中にも同室で性交した者が見当たらないこと、(二)被害者は、犯行直前である3月7日の売春の際、101号室を使用せずに、渋谷区円山町の駐車場を売春時に使用していることをその根拠として挙げる。
2 しかしながら、既に見たとおり、本件手帳には、売春の相手方や売春料金につい
    ては記載があるが、売春場所の記載はない(被告人らとの売春時の記載と認められる「401」の記載は、売春場所とも考えられるが、売春相手の特定のための記載とも考えられないではなく、いずれとも断じ難い。)。また、被害者の売春の相手方の中に101号室を使用した者はいないと検察官は主張するが、捜査官に判明した売春の相手方に限定されてのということであり、それ以外の者については捜査は尽くされておらず、そのことから被害者が101号室を使用したことはないとまでいうのは適切とはいい難い。
     さらに、検察官は、被害者が3月7日にも付近の駐車場で売春しており、101号室を使用しなかったことを、被害者の101号室の独自使用を否定する根拠として指摘する。しかしながら、弁護人も指摘するとおり、被害者はこの売春の相手方とは以前から駐車場を利用していたものである上、右駐車場は、当初出会った場所から考えて101号室よりもかなり近いことが明らかであり、右駐車場での売春の事実の存在を理由に、被害者の101号室使用を否定する根拠とすることはできないといわなければならない。
3 そこで、進んで、被害者が独自に101号室を使用した可能性について検討する。
    (一) 被告人は、その弁解によれば、被害者との買春に101号室を使用したの
    は2回であり、2月25日から3月2日の間の最終使用の後、101号室を退出する際には玄関は解錠しておいたというのである。検察官も指摘するように、右弁解を裏付ける情況証拠は皆無であるが、他方、これを否定する証拠等も見当たらない状況にあり、その真偽はいずれとも決し難い。もっとも、被告人は平成8年12月に被害者を知ったというのであり、その買春代金が少額で済むことを知っていたこと、本件鍵を約1か月預かっており、その間、事実上101号室を利用することができたこと、被害者が客を求めて本件現場付近を徘徊していたこと等にかんがみると、本件以前に被害者と101号室を利用したことがあり、被害者が101号室を使用できると察知していたという被告人の弁解が荒唐無稽であり到底信用できないとまで評価することはできない。
    (二) さらに、検察官は、101号室の玄関を開けておいたとの被告人の弁解に
    は的確な裏付け証拠等が見当たらない旨指摘するが、被告人が本件鍵をMから借り受けた当時は、101号室の玄関は施錠されていたことがうかがわれ、本件死体発見の際には右玄関は解錠されていたこと等に照らすと、同室玄関を解錠をしたのは被告人であるということを完全に否定することは著しく困難と思われる。
    (三) ただし、101号室が使用可能であることを被害者が知っていたとしても、
    空室とはいえ通常のアパートの一室である101号室を、同室との関係がない被害者が勝手に使用するという事態が、現実問題として、どれほどあり得るのかは疑問である。しかも、被告人の弁解を前提にしても、被害者との最後の買春の日(2月25日から3月2日までの間)までは同室の施錠をしていたというのであるから、その日から犯行時刻である3月8日深夜までの約10日の間に、被害者が被告人以外の者と独自に売春に及んだという可能性がどれほどあるか、この点からも疑問が残る。
    (四) 他方、前述のとおり、101号室からは、mtDNA型の結果、被告人及
    び被害者以外の者の陰毛が2本落ちていたほか(なお、前居住者と思料されるPの陰毛でもない。)、便所床上から採取された0型の陰毛1本が被告人、被害者、前居住者以外の者のものであり、第三者が101号室内に入って性交したとの疑いも払拭することができない。
     
第八 結論
 以上、検討したところによると、検察官が主張する被告人と犯行との結びつきを推認させる各事実は、一見すると被告人の有罪方向に強く働くもののように見受けられるが、仔細に検討すると、そのひとつひとつか直ちに被告人の有罪性を明らかに示しているというものではなく、また、これらの各事実を総合したとしても、一点の疑念も抱かせることなく被告人の有罪性を明らかにするものでもなく、各事実のいずれを取り上げても反対解釈の余地が依然残っており、被告人の有罪性を認定するには不十分なものであるといわざるを得ない。そして、その一方で、被告人以外の者が犯行時に101号室内に存在した可能性が払拭しきれない上、被告人が犯人だとすると矛盾したり合理的に説明が付けられない事実も多数存在しており、いわば被告人の無罪方向に働く事実も存在しているのであるから、被告人を本件犯人と認めるには、なお、合理的な疑問を差し挟む余地が残されているといわざるを得ないのであり、そうすると、「疑わしきは被告人の利益に」との刑事裁判の鉄則に従って判断するのが相当である。
 よって、本件については犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法336条により、主文のとおり判決する。
 
平成12年4月27日
 
    東京地方裁判所刑事第11部
          裁判長裁判官     大渕敏和
             裁判官     森健二
 
   裁判官高山光明は、転任のため署名押印することができない。
          裁判長裁判官     大渕敏和