第一の敵 (El Enemigo Principal) <ケチュア語原題 Jatun Auk'a> ホルヘ・サンヒネス監督、1974年、 白黒、35ミリ、110分 1974年 チェコ、カルロビバリ映画祭水晶賞 1975年 ポルトガル、フィゲラ・ダ・フォス映画祭最優秀映画賞 1975年 スペイン、コスタ・デル・ソル映画祭最優秀映画賞 |
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【あらすじ】
この映画は、ラテンアメリカにおけるゲリラ闘争に関わる歴史的な事実に示唆を受けているが、特定しているわけではない。 なぜなら、この映画の目的は『人民の勇気』とは異なり、主要な観客と想定している農民の間にひとつの内省を喚起することにあるからなのだが、しかしだからといって反帝武装闘争こそがこの第一の敵からの解放という死活の緊急事を解決する決定的かつ最終的な手段であるという主張を回避しているわけではない。 この映画は農民のためのひとつの媒介であるという目的からいって、その作り方は素朴であり、カメラの用い方も、個人的な主人公ではなく農民が集団的主人公として登場する事態の推移そのものに観客 が参加できるように工夫されている。 この映画は三部に分けられる。 (一) 農民フリアンが農園主カリーレスに対し、盗んだ牛を返してくれと要求しただけでカリーレスがフリアンの首を刎ねたことに端を発する農民の反乱。農民は農園主を捕らえた後で、彼を殺すべきかそれとも当局に引き渡すべきかを討論する。農民の間にはまだ、金持ちの利益を擁護するために設けられている上部構造に対する屈従の気持ちが根強く、彼らはカリーレスを判事のところへ連れてゆく。 ところが判事は公正を装いつつ、ただちにカレーラスを防衛し、のちには最も活動的な農民たちを、農園主の屋敷での乱暴や盗みを理由に投獄してしまう。 |
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(二)
その地帯へ、態勢の建て直しと新隊員の補充を求めてゲリラ部隊が到着する。農民と接することで事情を知ったゲリラは、集団労働への参加などによって農民との関係が良好に進展するにつれて、医療活動を行なったり団結して戦うことの重要性を討論するようになる。 農園主に対するゲリラ作戦が農民の参加を得て遂行され、捕らえた農園主を農民が参加する人民裁判にかける。カリーレスとその人夫頭の犠牲者や証人が次々と起ち、彼らが犯してきた恐るべき犯罪行為を証拠をもって告発する。 法廷はそれらを記録したうえで、これら犯罪者の運命を最終的に決定すべき民衆の意見を求める。農 民たちは、カリーレスとその人夫頭の処罰を要求し、二人は銃殺される。ゲリラはよそで闘争を継続しなければならないとして村を去り、そこへ三人の村の若者が合流する。 残りの農民たちは、ゲリラ闘争が開始される以前から続けられてきていること、家族の面倒をみて農作物を栽培しながら「よそではなく、ここで」戦うことこそがゲリラを支援することになるのだ、と確認する。 (三) 支配階級と帝国主義との間の経済的・政治的関係を示しつつゲリラが説明していた既成の秩序が打破されたことで、第一の敵・ヤンキー帝国主義が現われる。土着の軍隊に助言し、ゲリラに対してはナパーム弾を用い、農民に対してはテロで威嚇するよう唆す。農民に対する弾圧が襲い、多く者が殺害されては崖を突き落とされる。 ヤンキーによって装備された反ゲリラ部隊はゲリラと交戦するが撃退される。ゲリラ部隊は多くの戦士を失いつつもさらに行軍を続ける。 最後に、語りべの老人がゲリラの坑道について厳しく論評する。共同体を組織することなく、人民の協力も参加も得られない無人地帯へ向かったことを残念だとし、観客である農民に対し、第一の敵だと規定する帝国主義の顧問団が果たしている役割を説明し、団結し組織化することによってすでに開始されている帝国主義の敗北と人民の勝利によって終わる戦いを継続するよう呼びかける。 事実を知ることの重要性を訴え、それ故に彼が物語った歴史を広く知らせるよう問いかけて、老人はなお止まることのない歩みを続けながら物語りつづけていく。それは、政治的自覚を象徴しているのである。 |
製作スタッフ 台本/ホルヘ・サンヒネス(現実にあった事実に関する記録と談話に基づいて)と内部討論 |
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