2003年3月28日
タイ
「地場の市場プロジェクト」中間報告NO.6
(第一フェーズ終了報告)
(2002年12月〜2003年3月)
日本国際ボランティアセンター(JVC)
タイ・コンケン事務所 松尾 康範
グローバル化による社会の困惑は、年を重ねるごとに深まる一方だが、この数ヶ月のタイにおける出来事は、外部からの影響というよりも、政府の恣意によって人々が翻弄されている。
市民やNGOが反対したことで棚上げされていた南部のプラチュアップキリカン県にある2つの火力発電所の推進を決定したこと、パークムーンダム水門開放を要求して首相官邸前で泊り込む市民、NGO活動家を排除する計画を打ち出したことはその典型的な出来事で、同時にNGOバッシングも始めている。また、スラム住民向け低価格住宅の開発を急速な勢いですすめているが、その計画は低所得者への援助を考慮したというよりも、代替地建設による建設業界への経済効果を睨んだもので、典型的な箱モノ援助のマイナス点だけが残ることが予想されている。また、1月以来行われている麻薬一掃計画に関しては、その関連による人の射殺事件が1,000件にのぼり、罪のない子どもが命を落とす事件まで発生した。
これまでタクシン政権は、低所得者優遇政策を前面にかかげ、1タンボン(区)1品運動を推進して地域経済の振興、その計画にあわせて1村あたり100万バーツの支援、一律30Bの医療保険など、一見、草の根の支援を考慮した政策をすすめていたかのように見えたが、ここにきてバラマキ型で点数を稼ぐだけのタクシン政権の限界がみえている。
一方、我々が活動する農村地域では、依然として売ることを目的とした単一作物栽培がその地域の主体性もなく、広がっている。2002年度から調査を開始した北タイのプロジェクト候補地であるファーン川流域では、90年代に入り、ミカン栽培が急速な勢いですすめられた。住民たちは企業により土地を収奪され、農薬散布による健康被害が深刻化するだけではなく、ファーン川や周辺の自然資源の急激な劣化が顕著である。
以下、プロジェクト中間報告NO.6(第一フェーズ終了報告)として、<「地場の市場つくり」2002年12−2003年3月の報告>、<第二フェーズについて>、<3月21−22日の村人たちとの会議の議事録>、<タイ農民日本招聘事業報告>を記す。第一フェーズ終了時期であるため、ちょっと長めの報告になってしまったので、時間が空いたときにでも読んでいただければ幸いです。
<「地場の市場づくり」2002年12−2003年3月の報告>
現在2003年3月。予定していた第一フェーズ(2000−2002年度)終了時期にあたる。
この第一フェーズでは、プロジェクト対象地域に村の朝市が立ちあがって、それが広がり、さらに町の直売市場ができあがった。その意義は、第一に村の朝市をきっかけとして地域の資源と経済が循環し始めたこと、第二に朝市に出す野菜を無農薬・有機栽培のものとすることを目標にすると村人自身が意識したことで、有機・複合農業を村で進めて行く大きな刺激となっていること、第三に村の朝市はそれぞれ朝市委員会によって運営され、それらが互いに連絡調整したり、刺激し合ったりする朝市チームもできあがった。村人自身による朝市の運営は着実に確実なものになってきていること、第四に生産者と消費者とが直接関係を持てるようになって、地域の住民自身が食と生活とに決定権を持てる機会がでてきたことであろう。つまり、地場の市場の質において一段の高まりができ、同時に面において消費者との関係の可能性ができたという広がりができあがったと言える。これらのことから、第一フェーズの目標は達成できたと言えるだろう。地場の市場は地域社会に少なからず影響を与える存在となった。
しかし、まだこの市場は始まったばかりで、発展段階にあることは確かだ。市場をより強固なものにしていくために、3月21−22日には、この町の市場3ヶ月の振り返りと改善、今後の計画を目的として、各村の代表者(スタッフを入れ28人)によるワークショップを開催した(議事録参照)。無農薬でない作物が売られている、自分が作った作物ではないものを並べている人がいる、参加者の中にこの市場の目的を明確に理解していない人がいる、などの改善点がそのワークショップで出され、その改善のための計画に関しても話し合われた。各村レベルでの話し合い、委員会による話し合い、研修、農地巡回の計画が立てられ、我々の活動が完全無農薬・有機農業を目指すことが確認された。あたらしい規約を基にした"むらとまちを結ぶ市場"は5月12日にスタートする。問題点を改善するというワークショップではあったが、自分たちの市場をよりよくしていく、という参加者の熱意が感じられたワークショップとなった。
昨年12月からの活動として、活動地の巡回や話し合いを繰り返しただけではなく、チェンマイ県で先駆的に取り組まれている村人による市場つくりの視察(昨年に続き約30人の村人が参加)、プロジェクトリーダー日本訪問事業(スラポンさんとチュアムさん)を企画した。また、1月には、山形県長井市(レインボープラン/生ごみ堆肥化に取り組む町)在住の農民、菅野芳秀氏がプロジェクト地域を訪れた。
<第二フェーズについて(2003−2004年度)>
第二フェーズの2年間は、これまでの第一フェーズ3年間で村の朝市と町の市場が出来たことに基づき、それらの内容を深化し運営体制を確実なものにしていくことを目指す。内容の深化とは、市場で売る野菜を無農薬・有機栽培によるものとすること、販売する物は村人自身が作ったものに限ること、生産者と消費者との関係を深めて直売方式の意味を消費者に理解してもらい、将来的には消費者グループとの運動へと繋げて行くことである。また、運営体制の確実化とは、村人自身によって市場が永続的に運営でき、町の市場の運営にも消費者が参加できるような体制を作ることである。
また、今後のJVC側の役割としては、いままで以上に研修や視察の企画に力を入れ、同時に記録(出版物)にも取り組みたい。"むらとまちを結ぶ市場"のコーディネート等は基本的には村人が主体となってすすめていく。
<「地場の市場づくり」村人による年次計画会議・議事録>
とき:2003年2月21・22日
参加者:28人(スタッフ関係者5人も含む)
ノンウェンソークプラ村&ノンウェンコート村、クンマウ村&スワンモン村、ヤナーン村&ノンテー村、ノンブア&チャイパッタナー村
−初日(21日午前)−
◆ はじめに(マヌーン/新スタッフ)
今回の会議の目的について。プロジェクトが始まって3年近くが経つが、私たちの活動はポン郡役所敷地内における市場つくりまで広がった。特にこの3ヶ月のポン郡における市場についてこの機会に省みたい。
まずは、参加者のなかには、JVCはいったいなに?と思っている人もいますので、あらためて、JVCについての説明、及び役割について。
◆ JVCについて(松尾・バン)
<1980年(2523年)〜>
インドシナ難民との関わりから。日本の若者たちがタイにかけつけ、タイ在住日本人も加わり、JVCがタイで設立された。その後アフリカ(エチオピア)にも活動が広がる。
<1988年(2531年)〜>
根本的な解決を求めて農村開発スタート。
複合・自然農業の普及(ブリラム、チャイヤプーム、ピサヌローク)
活動:1.研修、視察、資料つくり、2.回転資金、農民会社
<1997年(2540年)〜>
ネットワーク型の活動
ノンジョック自然農園、タイ・インターンシップ、地場の市場づくり。日本とタイの農民交流。自由化における農民の置かれている現状に対して、具体的な対案となる活動が、地場の市場づくりであること。人と人との交流、地域社会と地域社会との経験交流
地場の市場プロジェクトにおけるJVCの役割は、学ぶための機会提供(研修や視察)。
◆ チェンマイ視察報告(ファシリテーター:サネー・ウィチャイウォン)
訪問時期:2003年2月10〜16日
参加者:35人。
訪問先:1.インブン市場、2.ダラー&プリント学校における市場、3.ドンチエン村
インブン:タイのなかで先駆的に村人による市場つくりに取り組んでいる。インブンでは、自然食品店の前で農民からの作物を直売しているが、現在はそれだけでなく、まちにある学校の敷地内にも市場をつくり、まちの人たちと顔のみえる関係をつくりあげている。
以下、インブンで学んだことについて参加者より報告。
−販売している野菜が全て無農薬。−運営がしっかりしている。−包装方法なども意識している。−販売物に多様性があり、ほぼ全ての作物が整っている。−特に学校における広報のシステムが明確であったこと。−村からの距離が80キロ以上も離れているにも関わらず、乗合タクシーに乗って懸命に活動に取り組む姿がよかった。また他の村とのネットワークもしっかりしている。−現在の農業は薬品浸け。生きる場である自然資源も減少し私たちは迷路のなか。今回の視察はそうした状況に対する対案つくりの必要性を示唆してくれた。−学校の市場は子どもたちにいい影響を与えている(環境教育)。−時間をかけ、消費者との信頼関係が築かれている。−小さな生産者グループから13年の時間をかけ、いまの組織がある。私たちの活動はまだ3年。急いで組織を大きくせず、時間をかける必要がある。農民と消費者両面の意識化を考えている。
−初日(21日午後)−
◆ 日本訪問報告(ファシリテーター:サネー・ウィチャイウォン)
訪問期間:2002年12月7〜21日
・スラポン・トンミーカーさん
日本。地理的なこと。山が70%。平地30%。農地も少ない。そのなかでのいとなみ。農村に関する背景。この40年の農業の近代化。減反について。日本の自給率30%の現状。農民は農業だけでは暮らせない状況。タイの農業農協銀行(トーコーソー)のシステムと同じように、農協優位の農業政策。複合有畜農業から換金作物農業へ。タイよりも先に進んだ農業の近代化。農業の企業家がすすめられていること。そうした状況から生まれた地域の活動はとても私たちの活動に参考になった。
・チュアム・バットマートさん
スラポンさんが説明した背景の対案としての有機農業。地域の資源を活かした農業。生ごみによる堆肥つくり。生産者がまちの消費者を結ぶ活動。有機農業をしている人のほとんどが農薬を使う農業からの脱出から生まれた。土=微生物を守る農業。佐賀県唐津市湊の直売所のシステムについて。
日本に行ったことのある参加者も含めての交流
−横浜寿町で交流した浮浪者やドヤ街のこと。元は自分たちと同じ農民であること。
−直売所の具体的な活動。商品に生産者の名前がついていることなど。
−環境保護を意識した農民の活動。
−レインボープランにおけるごみの分別について
−近代的で開発の進んだ日本を誰もがイメージしているが、今回のこの報告で、日本社会深刻な部分を知った。→普通のネットワークのなかで日本に行ったら、日本に対するイメージは以前と同じだっただろう。
◆ ポン郡"むらとまちを結ぶ"市場。この3ヶ月の振り返り&改善点
(ファシリテーター・サネー・ウィチャイウォン)
これまでの私たち自身の経験、2月5日にすでにPJMTGで話しあわれたこと、チェンマイの経験、日本での経験を含めて、この3ヶ月のポン郡"むらとまちを結ぶ"市場の改善点について。
<改善点>
−それぞれの村から来た販売者の売り先が不確定。約束をした時間よりも先に来た者がいい場所を確保してしまう。
−無農薬ではない作物が売られている。生産者が無農薬の意味を理解していない。
−価格基準が不明確。
−販売者のなかに、この市場の目的をはっきり意識してない人がいる。
−市場委員会のシステムの問題。どれだけ販売できたか、場代はどれだけ集められたかなどの透明性がない。
−私たちのメンバーでない人が販売したことがある。
−販売者は村人だけれども、他の地域から買った商品を販売した人がいる。
−販売者だけではなく、委員会のなかでもまだこの市場の意味・目的が不明確な部分があるのでは。
−規約がまだ不明確。統一性、効率性がない。
−販売者と委員の連絡調整が不足。
−委員1人1人の役割が不明確のため、委員の負担が大きい。(例えば毎回の市場に参加しなければならないこと)
−行政との関係。自分たちの市場のことを行政にまだ説明しきれていない。
−消費者への広報の問題
−プラシット・ポムノークさん(元NGOワーカー/ポン郡在住)から
地場の市場つくりのよさ。地域自立の視点、土からの視点。環境、健康を守れること。
<ポン市場改善にむけて>
−改善点として、農作物販売の配置の問題と農作物の品質(有機・無農薬にすること)について大きな問題として取り上げられる。
−場所を農作物の基準に合わせて、例えばA(有機・無農薬)、B(有機・無農薬にする過程)、C(一般)と場所を区分けしたらどうか。これまでのように自然でいいのでは。場所を分けローテーション制などのいくつかの案。
−上記の問題を見ていると、新しいオルタナティブの市場として、1.消費者の意識化を計ること、2.オルタナティブな生産物(有機・無農薬)の生産、3.化学物質を食べあって殺しあわない生き方を求めるなど、私たちが目指す市場の目的を参加者みんなが理解すれば、ほとんどの問題を改善することができる。
−行政との関係は、自分たちで市場の基準を明確にすれば、いい関係をつくれる。
−Aを目指していくために、有機・自然農業、土つくり(堆肥つくり)の研修や生産者と消費者の研修に力を入れていく必要がある。
−場所の問題を見ても各村レベルでのしっかりとした話しあいが必要。
−チェンマイや日本での取り組むのように、委員会に消費者を入れる必要がある。
−看板にしっかりとどんな商品か、どの村からきた何者かということを明記すことが必要。
−各村レベルで、各生産者からの農作物の品質をチェックできるシステムが必要。
まとめ:明日の計画にも結びつくが、自分たちの健康のためにも完全有機・無農薬を目指す!!ということが確認。
二日目(22日〜12:30)
村人が持参してきたケーン(縦笛)の音色から二日目はスタート!!
◆ 計画(ファシリテーター:ヌーケン・チャンターシー&サネー・ウィチャイウォン)
−ヌーケンさんより昨日の振り返り
−サネーさんによるAを目指すための計画、方向性
1.ワーキンググループの設立(販売者全員をまとめる)、2.各農地の巡回&チェック
3.農作物の基準わけ(A,B)、4.規約つくりなど、5.研修、6.新しい市場のスタート
−Cの人たち(有機・無農薬に興味がない人)との関係、彼らとの関係をどうつくっていくか。→Cの人も含めた研修&見学による意識化。
−ワーキンググループには、我々だけではなく、例えば、研究者、公務員、消費者など多様性をもたせる必要があるのでは。
−上記の提案をもとに、生産者が何人、Aが何人、Bが何人など各村で明確、調査、話し合い。
−外部者(中間の立場での審査)の必要性
<あたらしい市場"生きるための市場"に向けての計画>
1.各村での会議
2月23日ノンウェンナンバオ村、24日ノンウェンソークプラ&ノンウェンコート村
25日ノンブア&チャイパッタナー村、ソックノックテーン村、26日ヤナーン&ノンテー村、クンマウ村&スワンモン村
2.委員会(12人)による全体MTG(3月15日まで)
3.委員会とワーキンググループ(中間の立場)による会議(3月20日まで)
4.規約やシステムについて、価格、場代等(3月末)
5.委員会とワーキンググループによる農地の巡回(4月13日まで)
6.委員会の人材育成のための研修(4月20日)
7.消費者との会議/マスコミにも呼びかける(4月末)
8.新しい規約をもとに"生きるための市場"を開催(5月12日)
−委員の改選は3月末まで。
−現在の場代は3B。現状の運営を考え、販売箇所1uにつき、5Bに変更。(3月3日〜)
−委員会の市場巡回を交代制にし、1回の市場につき3人参加の交代制にする。
−市場のオープン時間を15:00から11:00に変更。(2月24日〜)
議事録以上
<タイ農民日本招聘事業報告>
「地場の市場づくり」3年目の活動として、タイ農民日本招聘事業が実現したので、以下その報告を日記風に記す。今回のこの事業は、
1.村の朝市から、近くの町の消費者を巻き込んだ市場づくりに発展していく過程の中で、日本の地域で既に取り組まれている地場の市場、地域内流通の取り組みを学ぶ。
2.第2フェーズ以降を担っていく村人のリーダー育成。
3.プロジェクト支援グループとの経験交流。
という大きな3つの目的があったが、参加者に関しては、私たちが活動するタイ東北部コンケン県からのメンバーに加え、同じくタイ東北部カラシン県で「生ごみ堆肥化事業」をすすめるリーダーたちも同行することになった。彼らは日本で先駆的に取り組まれている生ごみの堆肥化を見学することを目的としていた。
◆訪問期間
2002年12月7日〜21日 (7日〜14日メンバー6人全員移動、15日〜21日地場の市場グループ2人+バムルン・カヨター氏=3人)
◆タイ農民日本招聘事業全体スケジュール
<12月> | 移動・訪問先 | 宿泊先 |
7日(土) | TG642 バンコク23:10発 | |
8日(日) |
07:30 成田着・成田→横浜
11:00 WE21ジャパン事務所にてオリエンテーション
横田克巳氏(WE21事務局長)
午後 横浜・寿町にて交流
壽生活館 高沢幸男氏
18:00 WE21交流会(オルタ館) | 新横浜泊 |
9日(月) |
午前 生活クラブ生協神奈川(オルタ館)
WEショップ中山見学
15:30 JVC東京事務所での交流
16:30 山形県長井市農民リーダー菅野芳秀氏・出版記念パーティー(文京区民センター)
|
練馬泊
教会 |
10日(火) |
09:30 練馬出発
11:00 JR赤羽駅集合−山形県長井市へ移動
夕方 菅野芳秀氏・出版記念パーティーin長井 |
長井市
桜 |
11日(水) |
09:00 生ごみ堆肥化事業「レインボープラン」について交流
市長面会
堆肥センター視察
12:00 長井市西根にて昼食(郷土食)
西根加工グループ及びそばつくりグループと交流
19:00 置賜百姓交流会と交流
|
高畠町
(渡辺勉氏宅) |
12日(木) |
09:30 高畠町→埼玉県小川町
18:30 NPO風土との交流会(桜井氏宅) | 小川町 |
13日(金) |
10:00 「小川町の活動」桑原衛氏よりオリエンテーション
11:30 バイオガスによる生ごみ堆肥化事業見学
有機農家金子氏と交流
16:00 小川町役場訪問
| 小川町 |
14日(土) |
09:00 小川町→成田へ移動
13:00 有機農業グループと交流、鶏舎、堆肥場視察
19:00 実験村&「アーシアン」と交流会 | 木の根ペンション |
15日(日) |
午前 カラシン組帰国(バムルン・カヨター氏のみ滞在継続)
成田→神奈川(WE21)
13:30 WE21主催シンポジウム
|
座間・瀬戸山氏宅
WE21 |
16日(月) |
午前 WE講座(座間)朝市の報告
午後 WE講座(港南)コンケン・スラムの報告 |
港南・小林氏宅
WE21 |
17日(火) |
11:00 羽田→広島空港(JAS991)バスで広島市内へ
午後 百姓や会&空想音楽グループ「SAYAN」と交流 | 広島 |
18日(水) |
9:00 原爆資料館訪問&原伸幸氏と交流。
14:00 広島→久留米
19:00 久留米海外ボランティアサークル(KOVC)と交流会 |
鶴久チヅ子氏宅
久留米 |
19日(木) |
午前 高良山、高良神社見学
14:00 久留米→佐賀県唐津(車・野嶋さん)
夕方 湊農家と交流会
|
山下惣一氏宅
唐津市湊
|
20日(金) |
午前 直売所「みなとん里」&農場見学
19:00直売所「みなとん里」グループと交流(山下氏宅)
|
山下惣一氏宅
唐津市湊
|
21日(土) |
08:00 佐賀県唐津市→10:00福岡空港
12:00 福岡空港→バンコク
| |
◆タイからのメンバー6人の紹介
−地場の市場プロジェクト・グループ/2人−
スラポン・トンミーカー
1959年コンケン県ポン郡生まれ。地場の市場つくりプロジェクト相談役。学生時代は地下活動の経験をもち、そこで鍛えられた力が現在取り組む地域での活動に活きていると自分自身で振り返る。普段は校長先生という立場からポン郡全体の学校運営の仕事にも追われている毎日だが、最近は土日や夕方などの空いた時間を利用しては、自分の農地に足を運び複合農業を楽しむ。たかだかこの1年で、彼の農地は複合的な豊かな農地に変化した。
チュアム・バットマート
1954年コンケン県ポン郡生まれ。彼が幼少だった当時、義務教育は小学校4年まで。彼自身、小学校4年を卒業すると同時に農業に従事。しかし17歳になり、自分の教育レベルをあげたいという自らの意志で、成人向けの学校に通い始め中学校卒業と同等の資格を持つという勤勉家。そのため、村人の誰からも信頼されている。換金作物栽培で儲けることができるはずが借金漬けとなる農民たちの姿をみて嘆くだけではなく、自分自身では牛飼いを中心に複合農業に取り組む。ポン郡役所における"むらとまちを結ぶ市場"委員会の中心メンバー。
−カラシン県バムルン・カヨター氏グループ/4人−
パンタリー・チャイソンクラーム(市長)
1958年、カラシン県クチナーラーイ郡ブアカーオ市生まれ。同市・市長。マーハーサラカム県師範大学を卒業。1995年に町の商売人から市会議員に転身し、1997年から市長。初対面のときは、サンダル履きでひょっこりと現れたため、最初はただのおっちゃんかと思ったが、長井市での出版記念パーティーで、スーツを着たときは、さすがに市長の風格を表した。中国系の血筋ということもあり、日本の仲間からは度々日本人かと思ったと言われていた。
バムルン・カヨター(ヨーさん)
1951年カラシン県カーオウォーン郡生まれ。東北タイが誇る農民リーダーの1人。1970年代は労働運動に身を置くが、運動家が次々と虐殺されるという時代だったため、故郷のカラシン県に戻る。その後、土を基盤に全国の運動家とつながり、タイ全国ネットワークである貧民連合を結成。そして現在はその大きな闘いと平行して、地域での強固な活動に取り組む。下記の生ごみ堆肥化事業レインボープランもそのひとつ。現在、オルタナティブ農業ネットワーク・カラシン県&サコンナコン県地域の責任者。
アピーワット・ウポーン(ウム)
1978年カラシン県生まれ。マーハーサラカム大学卒。タイ東北部で有機農業、持続的な農業をすすめるイサーン・オルタナティブ農業ネットワークのカラシン&ナコンパノム地区スタッフ。普段は農村地域に張り付き、村人と一緒に有機農業をすすめる。
スティチャイ・クンブット(ガイ)
1878年カラシン県生まれ。マーハーサラカム大学卒。ウムと同じくイサーン・オルタナティブ農業ネットワークのカラシン&ナコンパノム地区スタッフ。主に生ごみ堆肥化事業を担当し、町の人と村の人を結ぶ。
◆カラシン県ブアカーオ市における「レインボープラン」
今回の参加者の1人バムルン・カヨター氏の構想。世界を駆け巡るこの活動家は日本にも何度も訪れ、多くの知人を持つ。その一番の同志である山形県長井市に住む菅野芳秀氏との幾度に及ぶ交流から、長井市で取り組まれている生ごみ堆肥化事業「レインボープラン」を自分の住む地域でも実践することに至った。有機堆肥つくり、むらとまちとの連携、ごみの分別の3つを目的として、ブアカーオ市にて実験的に生ごみの堆肥化をはじめたばかりである。
現在15の生産者とつながり、有機肥料つくりを実験的に行っている。生ゴミ収集場所として、市場、食堂、病院、警察署、学校などが予定されているが、現段階ではふたつの市場からの収集をはじめたばかり。1.生産者、2.消費者、3.行政・オルタナティブ農業ネットワークからの代表者からなる生ゴミ堆肥化事業委員会のメンバーを調整中。
消費者に有機農産物の意味を理解してもらうために、15の生産者からの作物を販売する産直市場つくりも計画している。
◆タイ農民日本招聘事業報告
・到着の日
12月7日早朝、横浜に向かうリムジンバスの車中。タイからの6人のメンバーに僕とその家族をあわせた3人が我々の仲間。席に座り、バスが横浜へ向け出発すると、無事日本についたんだ、というタイのメンバーの安堵感が伝わってきた。荷物を整理し終えるやいなや、外を眺める者とまぶたを閉じる者に分かれ、バスは湾岸道路を順調に走らせていた。窓の外に大きな観覧車が見えると、息子の蒼太郎が「チンチャー(タイ語で観覧車)」と大声で叫んだものだから、外を見ているものは大笑い、まぶたを閉じている者も外を見るはめとなった。
成田を出発してから約1時間15分後にバスは横浜に着いた。息子と連れ合いは実家の横須賀に向かうために駅のホームへ向かい、我々は徒歩で神奈川の市民グループ「WE21ジャパン」の事務所に向かった。
・WE21ジャパン
WE21ジャパンは、アジアの女性支援とリサイクルの推進を目的に、設立されたNPO法人。1998年に1号店をオープンし、現在では神奈川県内に50店舗のリサイクルショップを持つ。神奈川生活クラブ生協、市民政党「神奈川ネットワーク運動」の活動から生まれた市民団体である。我々の活動を初年度から支援してくれている。今回はWE21ジャパンの事務局長で、生活クラブ生協・神奈川の創設者である横田克巳さんと交流し、WE21の話しだけではなく、生活クラブ生協・神奈川の活動に関わる話しを伺った。
「日本社会というと、男性を中心とした企業社会を創造していたが、WE21の話しを聞いて、日本の女性の組織力、力強さを知った」
カラシン県ブアカーオ市で始まろうとしている生ゴミ堆肥化事業で、村と町を結びつける役割を持つガイさんからの感想。
・寿町
場所は移り寿町。これから農村訪問をする際に、経済エリート国日本の違った面をみてもらいたいと考えているところにWE21が迅速な連絡調整をしてくれて、横浜の"ドヤ街"寿町を訪れることができた。対応してくれたのは、寿生活館の高沢幸男さん。寿生活館は、寿町に住み、今日の仕事に就けなかった人やホームレスの憩いの場として機能している。
その高沢さんから興味深い話を伺った。神奈川における野宿者、いわゆるホームレスの数は3,000人と言われ、そのうち1,000人が横浜に住むが、ここにホームレスが急増したのは、1998年あたりからだそうだ。全国にホームレスが増えたのもその頃である。日本で経済危機が起きたのは、90年代初頭であるが、ホームレスの数が増えたのは90年代後半。これはアジアの経済危機と一致する。1997年7月のタイバーツの切り下げをきっかけに起きたアジアの経済危機は、日本へも影響を及ぼした。企業はリストラという言葉と共に労働者の首を切り、その後日本企業の海外進出はさらに増えた。結果、98年に日本全国のホームレスの数は2倍に膨れ上がったというのだ。
・雪とWEショップ
つぎの日の朝。横浜の町は白い雪に包まれていた。この時期に横浜で雪が見られるとは、タイからの仲間たちへのプレゼントか。タイからの一行は、生活クラブ生協・神奈川オルタ館、WEショップ中山、午後は東京へ移動することになるが、雪を踏みしめながら、電車や地下鉄での道中を童心の気持ちを持って満喫していたようだ。
昨日に続き、今日の午前中もWE21が案内人。そのWE21が運営するリサイクルショップのひとつWEショップ中山を訪問した。地域で消費された古着などの資源をそのままの姿で海外援助するのではなく、地域から生まれた資源を地域の中でリサイクル、そして販売し、その収益をアジアの女性たちの自立に役立てていること。また、金銭的な支援だけではなく、メンバー自らがスタディーツアーを企画し、アジアの人たちと交流するという姿勢にタイからの参加者は共感していた。
「タイへのお土産はここで全て買っちゃおう、そのお金は我々の活動にまた戻って来るわけだよな」
とたくさんのお土産をWEショップで買った。メンバーの半分はこの後16日にWEショップ座間と港南も訪れることになるが、旅の前半でカバンがすでに2,3倍にも膨れ上がることとなった。
・山形県長井市へ
12月10日。昨日の午後は、JVC東京事務所にて交流、これから山形県長井市でお世話になる農民リーダー菅野芳秀さんの東京での出版記念パーティーに参加して、夜は練馬にある教会に宿泊した。これから山形県長井市に向かうところだが、東京の町はいまだ雪に覆われている。時期はずれの雪ということもあり、長井市までの車での移動に予定以上の時間を費やしたが、長井で開催される菅野さん出版記念パーティー会場へは、始まる前に無事到着した。今回菅野さんが子どもたち向けに書いたこの本はとても興味深い。以下、JVCの機関紙に書いた書評をもとに紹介する。
・「土はいのちのみなもと−生ごみはよみがえる−」菅野芳秀著 長谷川健郎写真
レインボープランを生んだまち山形県長井市。生ごみの堆肥化を通じて、「偉大な田舎まち(著者語録)」をつくった。生ごみが良質な資源に蘇り、そこに住む人々の豊かな関係が築かれる。
「まちがむらにある土の健康を守り、むらがまちの人たちの健康を守る」
この事業の準備期間は8年にも及び、堆肥センターが稼動してはや6年経つが、その蓄積を小中学校の子どもたちでも読めるような文体で一冊にまとめたのがこの本だ。
地場の市場つくりの活動もこの事業から多くのことを触発されている。今回もタイからのメンバーは長井でたくさんのことを学んだ。そしてこの交流後の1月初頭に、今度は菅野さんがタイにやってきた。レインボープランの基礎となる"土"の話を中心に、活動地の仲間たちと交流した。
「土一グラムの中には何十億の微生物が生きていて、その微生物が土を豊かにしてくれている。堆肥つくりとはその生きものたちのエサをつくることで、化学肥料ではできないことなんだ。微生物が良質な土をつくり、その土が良質な作物をつくり、その作物が良質な人をつくる。レインボープランはそうした土(人)つくりを地域のみんなが参加してやっているんだ」
そして所々で、この事業が心がけてきたこととして「批判と反対から対案と建設へ」というメッセージを残した。この本に記されている言葉に言い換えると、それは「否定をしない」ということ。相手の欠点を出し合って萎縮しあうのではなく、長所を分かち合うことで大きな力を発揮し、自分たちの心地好い場をつくっていくということだ。この優しさが長井市に潜在する多様な力を発揮させ、「三十六色のクレパス」、十人十色の豊かさを育んでいるのだ。
奇人たちが集まって自己を主張する運動ではなく、ひとつの田舎町に住む人々全員が参加するこの運動は、どんな地域においても参考になる活動だ。まわりの子どもたちにこの本を読んでもらうことで、大人たちの未来も開かれていく。
「10年以上も前から何度かこの長井市を訪問している。その頃レインボープランはまだ構想段階にあった。その当時から菅野さんは、レインボープランとは、人と人、地域と地域、村と町を結びつける事業なんだ、と説明してくれていたが、正直何を言いたいのかが理解できなかった。しかし、こうして実際に始まったレインボープランを見て、その意味の深さを理解することができた」
出版記念パーティーの来賓挨拶におけるバムルン・カヨターさんの一言である。
・酒盛りと宴会メンバーの面々
出版記念の会場から桜温泉という宿に移り、宴会は続くことになるが、ここでこの宴会メンバーの面々、山形ツアーの参加者を紹介したい。
まずは大野和興さん。職は農業ジャーナリスト。日本国内の問題だけに留まらず、アジアレベルの農民交流を促し、アジア農民交流センター(AFEC)の事務局長を担う。「地場の市場つくり」の相談役でもある。昨日の東京での出版記念パーティーを中心になって準備してきたこともあり、さすがに疲労が溜まっているようだ。皆よりも先に寝床についた。
宇野俊輔さん。8年前フィリピンのネグロスを訪問したとき、宇野さんは民衆交易を営むオルタ・トレード・ジャパンのスタッフとしてネグロスに滞在していた。その出会い以来、酒飲みの先輩として、お世話になっている。2年前に我々の仲間であるタイのスースー・バンドが来たときも、ドライバーを買って出てくれた。そのときにスースーのメンバーからダープ(刀)という粋なニックネームを授かった。
フィリピンからのメンバーもいた。この後、15日に横浜で開かれるWE21主催のシンポジウムに参加するために、日本にやってきたメンバー2人。1人は「シュントック」というフィリピンのNGOの代表を務めるマリエッタ・パラガスさん。そして同じくシュントックのスタッフで農村に入り、保健プロジェクトを担当するアリス・モレイさん。シュントックは30年以上の歴史を持ち、現在は主にルソン島北部で持続的な農村開発に取り組む。WE21主催のシンポジウム終了後の別れ際に、フィリピンからの二人は、タイの仲間一人一人にお礼のメッセージを書いて手渡してくれた。一方我々タイのメンバーはとうとう別れ際まで誰一人フィリピンからの参加者の名前を覚えることができなかった。学ぶこと多々ある・・・。
続いてWE21のスタッフ、フィリピンメンバーの通訳として、同行している松本栄子さん。フィリピンに2年滞在した経験をもち、その後、JVCの活動に参加した。このときはWE21のスタッフとして参加したが、現在は再びフィリピンに半年間の予定で滞在している。WE21と「地場の市場つくり」の襷渡しの役割を担い、今回もフィリピンの人と長井市を結んだ。
そして我々JVCスタッフの倉川秀明さん。東京事務所タイ事業担当として、今回のツアーの準備に関しても苦労したうちの1人だ。容姿だけをみると単なる酒飲みおじさん。しかしなんと酒が大の苦手。ビール一杯で深い眠りに入ってしまう特技を持つ。若い頃からの読書好きで結構の博学者。特に昆虫関係の話題には明るい。日本語の先生としてパプアニューギニアに滞在経験あり。
この面々を酔わした今日の主役はタイからの焼酎「ラーオ・サマッチャー」。宇野さんが酒好きなことを知り、バムルン・カヨターさん(以下ヨーさん)が宇野さんの目の前にバン!!とそれを差し出した。ラーオはお酒のこと、サマッチャーは連合、集会、総会などと訳されるが、バムルン・カヨターさん(以下ヨーさん)が相談役を担う「サマッチャー・コンチョン(貧民連合)」から取った言葉である。ラーオ・サマッチャーの製造者は、タイでドブロク復興運動の仕掛け人の1人であるヨーさん。・・・ではなく、その奥さん。2年前からドブロク容認運動を繰り広げ、昨年にはドブロクが解禁、現在は蒸留酒に関しても村人が作れるよう運動を繰り広げている。タイ政府も出来る限り密造酒を減らし、少しでも税金を取りたいという脈略もあってか、蒸留酒つくりも解禁の方向に動き出しはじめた。いつも成果を生む彼らの運動にはいつも感心する。
ということでメンバーの紹介が長くなってしまった。この後はいつものように酔っぱらって、この仲間たちとどんな話をしたかは覚えていない。ラーオ・サマッチャーと日本酒のチャンポンで、短くても深い眠りにつけたことだけは、記憶に残っている。
・長井市役所の寛大さ
次の日の朝もまだ雪が降り続く。車が立ち往生しながらも約束の長井市役所に一行は向かった。長井市長目黒栄樹氏も忙しいなか参加していただき、長井市からレインボープランの話を伺った。
この長井市のレインボープランは市民の力で始まったことで、名を知られているが、裏方に回った長井市の力はやはり大きい。あるテレビ番組がこのレインボープランを取材し、市の職員が冗談を兼ね、「行政の力がない地域では優秀な活動が市民から生まれる」という旨のセリフを言い、その場面は全国に放映された。その場面を見たとき、僕自身は長井市の懐の深さを感じたが、あとからその裏話を菅野さんから聞いたら、そのシーンは地元ではカットされ放映されなかったようだ。
1988年に市の呼びかけで、「まちづくりデザイン会議」がはじまり、その農業部会から、この生ごみ堆肥化事業の提案が上げられた。そしてその後、まちの女性団体、商工会議所、病院、清掃事務所、農協の人たちと話し合いを重ね、そしてあらためて市役所にその提案は届けられ、レインボープランが始まったのだ。
タイに帰国後、スラポンさんの先生仲間を引き連れて、ブアカーオ市の小学校を訪問したときに、パントリー・ブアカーオ市長がその交流の締めくくりの挨拶でこのレインボープランについて触れた。
「行政が市民の意見を尊重し、その市民から始まったのがレインボープラン。そしてその活動から、地域ぐるみで地域の食の安全を守ることの素晴らしさも学んだ」
・西根地区加工組合
私たち一行は、ビデオでレインボープランの説明を受け、その後実際に堆肥センターをまわった後に、西根地区にまわった。ここでは長井の郷土食をご馳走してもらい、おしんこをつくる加工組合と手つくりそば「黒獅子そば」をつくる生産者グループと交流した。
この加工組合の特色は、加工組合のメンバーに消費者が含まれていること。
「俺たちの市場委員会は、全て生産者によってなりたっているよな。ここの加工組合は5人の委員のうち2人は農民ではなく消費者。消費者の気持ちを知るためにも消費者の委員がいてもいいよな」
そばつくりの活動から学んだことは、加工場までも自分たちで建てたということ。
「タイでも少しずつ色々な地域ビジネスが盛んになってきているけど、そうした活動を立ち上げるとき、かならず政府や外からの資金をあてにしてしまう嫌いがあるよな。ここは経費をできるだけおさえるために、自分たちで出来るものは自分たちでやる姿勢がある」
ポン郡役所内における"むらとまちの市場"が実際に始まっているため、各活動から、具体的に得られるものを得ている。
一行は次の目的地、高畠に向かうため、西根にて長井市民と分かれた。長井市の職員は、この別れ際まで私たちの面倒をみてくれた。
・置賜百姓交流会
外はまだ雪。チエーンの大きさが合わず、そのチエーンが車体にぶつかる大きな音をだしていた倉川さんの車がとうとう故障した。ガソリンスタンドで様子を見るが、かなり時間がかかりそうで、これ以上次の受け入れ先である「置賜百姓交流会」のメンバーに迷惑をかけられない。タイからのメンバーを乗せた私たち宇野さんの車は先に高畠に向かうことにした。倉川さんの車には、フィリピンからのグループと大野さんが同乗していた。
結局、その車は修理工場に一日寝かせることになり、急遽百姓交流会のメンバーが倉川さんたちを迎えに行ってくれたために、目的地の高畠には、私たちより数十分遅れたぐらいで到着した。
今晩の宿泊先を引き受けてくれたのは、高畠町の有機農家・渡辺勉さん。農村に興味のある都会の人たちが農村に足を運べる場、農村のよさをみてもらう場、農村の人と都会の人を結びつける場をつくりたい、という渡辺さんの思いから、今回宿泊するログハウスが建設された。現在プロジェクト地域のキーパーソンとして活動するサナンさんと我々JVCのスタッフのバンさんが、97年に今回と同じく、置賜百姓交流会と交流したときにもこの宿舎にお世話になった。
置賜百姓交流会。メンバーは3市5町の広さを持つ置賜地方に点々と広がる。減反反対運動から始まり、地域の交流、そして国際交流にも取り組む。メンバーはそれぞれの地域でその地域の風土にあわせて、様々な活動に取り組む。レインボープランに取り組む菅野さんも、このグループ立ち上げ仕掛け人の1人。
雪の夜に酒、そして自分たちと同じ仲間である農民との交流会ということもあり、タイからの仲間たちはうれしい気持ちで一杯だ。置賜百姓交流会の酒豪たちと一夜を明かし、しこたま酔った。
12日の朝。フィリピンからのメンバーは昨夜の交流で、白鷹町・農作物加工研究会のメンバーと意気投合し、朝早くから白鷹町に向かった。今日は関東に戻る日なので、白鷹町に行くとなると反対方面に向かうことにあるが、車の修理工場も同じ方面にあるということもあり、訪問することにしたようだ。
我々一行は埼玉県小川町に向け出発した。福島県に入り高速に乗ると雪は道路から消えた。宇野さんが運転する車は、順調に高速を走らせ、予定よりも早く、小川町に着いた。
・埼玉県小川町
埼玉県小川町と言えば、いまは有機農業の町として知られているが、昔から和紙つくりで有名だったようだ。小川町を有機農業の町に変えた立役者は、今回のツアーでも訪問した金子美登さん。いまから30年も前、「有機農業は変わり者がやる農業」と言われていた時代から、地域に根ざした農業を地道に取り組み、やがて、金子さんの霜里農場で有機農業を研修した人たちが、小川町で有機農業をはじめ、その農場で研修を受けた人の家でもまた新しい研修生が入る、といった具合で小川町に新しい人たちが定着して、有機農業をはじめる人たちが増えていったのである。
今回小川町のコーディネートを引き受けてくれたのは、桑原衛さん。非農家でありながら小川町で農業をはじめ、食べ物の自給だけではなく、エネルギーの自給にも力を入れ、地域の活動に取り組む。僕が桑原さんと知り合ったのは今から8年前。宇野さんと知り合った時期と重なる。その当時の僕はJVCのボランティアとして、タイ農村部での1年の生活から帰ってきたばかりで、ネグロス・キャンペーン(JCNC)、オルタ・トレード・ジャパン(ATJ)から生まれたむらとまちのオルタ計画(RUA/共同代表大野和興氏・武藤一羊氏)のスタッフとして働いていた。そのRUAの活動の一環で、ネグロス・キャンペーンが活動するネグロスの農村部にバイオガスを普及することとなり、桑原さんをネグロスに招聘した。それ以来、桑原さんたち小川町のメンバーが企画した「自然エネルギー学校」に参加したり、タイの仲間たちと小川町を見学したりとお世話になっている。今回訪問の目的は、いま小川町で始まろうとしている生ごみ資源化事業を見学することだ。いま様々な地で、生ごみ堆肥化事業は取り組まれているが、長井市と小川町の共通するところは、単に、生ごみを燃やさないで環境にやさしく、と言っただけの視点ではなく、人々による"地域の自給"を目指しているという点だ。
桑原さんの話によると、地球の温度全体の1%が東京から発生しているそうだ。その影響で、小川町の近くの埼玉県熊谷は、日本のなかでも最も暑い地域になっている。納得いくことである。やはり、東京のように大きな町だけに依存した生活は、限界に来ているということだ。いま小川町は、地域資源の循環という視点をもって、行政と市民が力をあわせ、生ごみ資源化事業に取り組み始めている。
もうすでに実験的に生ごみ資源化用にバイオガス・プラントがつくられているが、この活動に地域通貨を取り入れようとしているところが興味深い。生ごみを出した人は地域通貨と交換し、その地域通貨でこの活動に関わる有機農家が作った野菜と交換できる。そして、農家はその地域通貨でバイオガス・プラントからつくられる有益な液肥を手に入れることができるというシステムだ。このように生ごみが利益になるというならば、市民は生ごみを真の資源として大切にすることは間違いない。
・千葉県三里塚「地球的課題の実験村」
12月14日。一行は成田に戻ってきた。今日は「実験村」と交流。実験村(大野和興氏・柳川秀夫氏共同代表)は、大量生産、大量消費に象徴される現代の刹那的な生活のあり方の対して、農を基礎とした循環型社会を創り出すことを目的に1998年に設立された。農民だけではなく、環境や食、国際交流に関わる人々や都会の人たちと共に活動に取り組んでいる。JVCも実験村とは設立当初から、同じ気持ちを持つ仲間として、一緒に活動をしている。
実験村の仲間たちが反対していた成田空港並行滑走路の建設は、暫定滑走路という形で、昨年の6月オープンした。僕たちの仲間がいる敷地を避け、滑走路建設を断行したために、滑走路は北方面にずらされ、予定の2500メートルよりも短い、2200メートルの滑走路となって建設された。
その建設着工に向け、2001年6月に空港公団と政府はとんでもないことをしでかした。飛行の邪魔になるという勝手な理由で、その地の民になんの相談もせず、東峰神社の鎮守の杜を伐採した。実験村は至急抗議文を書き、その抗議文は僕の手元にも届いたので、JVCスタッフバンさんと一緒に至急タイ語に訳し、抗議の著名を求めた。タイ東北部のNGO連絡協議会であるイサーンNGOCODの仲間を中心に呼びかけ、今回の日本ツアーにも同行しているヨーさんのネットワークで、その抗議文は、世界規模の国際NGO「ビア・カンパシーナ」まで届いた。
僕たちは平野靖識さんの案内で、その木のない、くすんだ色のフェンスに囲まれた東峰神社を案内してもらった。その前には、平野さんが経営する「ラッキョウ工場」を見学させてもらったが、その頭上には、並行滑走路に着陸する飛行機が数分おきにやってきた。飛行機は私たちの頭上40メートルを飛ぶ様子にタイのメンバーは、これが民主主義の国で起きていることなのかと驚きを隠せないでいた。
・「アーシアン」を交えての交流会
その夜「木の根ペンション」での交流会は、毎晩のように続く宴会の止めを刺した。というのは、ヨーさんが率いるカラシン県からの訪問グループはヨーさん以外、明日この成田からタイに戻る。彼らにとっては日本ツアー最後の晩餐となったのである。
この交流会には、「地場の市場つくり」支援グループのひとつである地球市民交流基金「アーシアン」が参加した。
「アーシアン」は生活クラブ生協千葉に関わる有志から生まれたNGO。女性が中心となり活動を繰り広げている。湾岸戦争の悲惨な状況を知った人たちが生活クラブ生協の会員に支援カンパを募ったことがきっかけで、継続性のある活動の必要性を知り、「アーシアン」は設立された。すでに我々の「地場の市場づくり」の活動地に2回訪問してくれて、活動を共にする仲間たちと顔の見える関係での支援をしてくれている。
交流会は深まり、カラシン県から参加しているウムの顔色が変わってきた。
「明日俺はタイに帰るぞ!!」
と叫び、日本に来たことのうれしさ、日本でも自分たちと同じように、社会活動に参加する仲間がいることのうれしさを表した。木の根ペンションと言われている今日の宿泊先は成田闘争当時、団結小屋として機能していた。階段の脇の壁にはその当時、鍬を持って集結した農民活動家の写真が何枚か飾られている。ウムはそれを見て言った。
「俺たちの活動は、ここからだよな、鍬からはじまるんだよな」
胸いっぱいの発言だった。しばらくして目を閉じかけたウムを僕とガイの二人で、寝床となる二階へと運んだ。
次の日、バムルン・カヨターさん以外のカラシン組は、無事帰国した。
15日は、タイからの残りのメンバー3人と山形県に一緒に同行したフィリピンからのメンバーがパネラーとなり、WE21ジャパンシンポジウム「民衆支援から平和をつくる」が開かれ、16日の午前中は、WEショップ座間のメンバーと交流、WE港南ショップでは、コンケンのスラムを支援しているので、そのスラムにおける事業についての交流をした。15日と16日は両日ともWE21のメンバー(瀬戸山氏宅/小林氏宅)の家に宿泊し、日本の町に住む人たちとの交流を満喫した。
・広島は平和の象徴?
12月17日。「百姓や会」の原伸幸さんと交流するために、ここ広島にやってきた。原爆が投下された町として海外にも知れ渡るHIROSHIMA。
原さんは言う。平和記念公園のあるこの町はけっして平和の象徴ではない。市の中心にある紙屋町の交差点から横断歩道が消え、町はコンクリートで固められている。この土のない町にけっして平和はないと。20世紀は機械と火による開発が続いた。21世紀は、火を水に変え、機械を命に変える必要があるという。そして命の根本は食、食は農から。土を守る有機農業を中心としたあらたな社会をここ広島でもつくっていく必要があると。
原さんは長崎生まれの広島育ち。自分の誕生日は2回あるとよく言う。原さんの父親は長崎で被爆し、そのときに妻と子どもは死んだ。そしてその後再婚、その新しい妻との間の子として生まれたのが原さん。皮肉なことにあの8月9日の出来事がなかったら、この世に生まれていなかったのだ。8月9日がもう一つの誕生日。
原さんは若い時分にドヤ街を渡り歩いた。先日タイの仲間も訪れた寿町にも住んでいたことがある。その後、広島に戻ってから有機農産物による食を提供する「のらや」を開店した。僕たちが広島を訪問すると、いつもこの「のらや」が宴会の場となり、いま店を切り盛りする奥さんにはいつも迷惑をかけてしまっている。「のらや」の運営が多少軌道に乗ると、自然食品を販売する「百姓や」をオープンさせた。ここは単に自然食を販売するだけではなく、広島の有機農家が作った作物を町の消費者に届けるという、農家と町の消費者を結ぶ役割をもつ。有機農家を支え、かつ消費者に安全な食を届けているのである。
・久留米海外ボランティアサークル(KOVC)
広島から福岡県久留米までの移動はレンタカー。広島でレンタカーを借りて久留米で乗り捨てするという移動方法をとった。レンタルした車がけっこう新しいタイプの乗用車だったので、スラポン先生が、今日はいままでにないサービスだなと言って冗談さながら喜んでいたが、これが最も安くすむ移動手段だったのである。
8月にスースー・バンドと移動したときにも同じ方法でバンをレンタルして、久留米まで向かった。8月6日、7日と広島に滞在し、8月8日に久留米に移動した。そんな時期だったため、久留米海外ボランティアサークル(KOVC)が主催するコンサートのタイトルは「アジアの農村から平和のメッセージを!」だった。スースーは広島の余韻を残す久留米へのこの道中で新しい歌を作詞していた。そしてコンサート開演当日にその歌は完成し、舞台裏で急遽その歌を日本語に訳した。
安らかな地の子守唄
私たちは地球の平和を求めて
ケーン(笙)の音色は愛情を求めて
ケーンの音色はあたたかい心を求めて
差別のない平和な社会を求めて
ケーンの音色は愛する相手を求めて
私たちの夢は
地球の人々が一緒に生きていくこと
このコンサートを企画して、今回の農民ツアーの受け入れも引き受けてくれたKOVCとの出会いは1995年。久留米公民館が主催した海外ボランティアツアーをJVCが受け入れたことから始まる。ちょうどそのとき僕はJVCのボランティアとしてタイ滞在中で、そのツアーを現地でコーディネートすることになったのだ。その第一回目のツアー参加者が中心になり、タイの旅を単なる思い出に終わらせないためにと「久留米海外ボランティアサークル(KOVC)」を立ち上げたのである。
今回の訪問も、私たちが農作物の流通を学びに来たことを受け、自然食品店を営む鶴久ちづ子さんの自宅での交流会、次の日は地域の農家が運営する直売所を案内してくれた。
その交流会でのこと。
「KOVCのメンバーのような若い人たちがいる限り、これからの社会も希望があるな」
と校長先生であるスラポンさんが笑みを浮かべながらKOVCを評価した後、若い女の子たちのグループがいる席に移動していた・・・。
・直売所「みなとん里」
12月19日、最後の訪問先となる佐賀県唐津市湊に一行は向かった。KOVCの仲間が車を出してくれた。
この「地場の市場づくり」プロジェクトの始まったきっかけとして、アジア農民交流センター(AFEC)を通じた日本とタイの農民交流ツアーがあるが、ここ唐津市湊にはAFECの代表で農民作家の山下惣一さんが住む。この地域にある直売所 「みなとん里」のメンバーと共に僕たちの活動の応援をしてくれている。
こうして、タイの人が日本に来たときに、受け入れ先になってくれたり、1999年、プロジェクトが始まる調査段階で、この直売所の元気のいいおかあちゃんたち7人がはるばるタイまで来てくれたりもした。
「みなとん里」 は 1991年に発足した。 海辺の直売所だったため、 途中台風の影響で、 村人たちが協力しあってつくられた直売所が潰れてしまうという不運にも見まわれたが、98年には 「かあちゃん加工部」 を立ち上げ, お饅頭や地元の材料で作った麦味噌などを販売し、 10年以上続く現在でも日に日におかあちゃんたちのエネルギーがパワーアップされている。 朝4時起きして饅頭をつくっても決して負担と思わず、お金のためでもなく、生きがいとして、生き生きと活動に取り組む姿がそこにはある。
今回も忙しい中、仕事が終わった夜に山下惣一さんの家に集まってもらい、店のシステムや規約について交流することができた。
タイに帰る前日に今回のツアーのまとめ代わりとして、あらためてタイのメンバーが訪問した日本の農業について、山下さんからかお話を伺った。
タイに戻り、校長先生であるスラポンさんは各方面での報告をしたが、我々プロジェクト地域の村人を対象とした報告では、この山下さんの話から、日本の近代化、農政に翻弄された日本の農民たちの姿を中心に報告してもらった。
それを聞いた村人の1人の感想。
「近代的で開発の進んだ日本を誰もがイメージしているが、今回のこの報告で、日本社会、特に農村地域の深刻な部分を知った」
スラポンさんは応えた。
「たんなる日本への旅行だったら、日本に対するイメージはいままでと変わらなかっただろう。いい仲間たちに出会えたよ」
最後に唐津から福岡空港に移動する日は、あいにくの雨になってしまったが、もうすぐタイに戻るという安堵感と日本の旅に満足していたこともあり、スラポンさんとヨーさんは満面に笑みを浮かべていた。ただ、チュアムさんだけは体調を崩してしまい、電車に乗ると、静かに目を閉じていた。
おわり
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