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タイ
「地場の市場プロジェクト」中間報告NO.5
(2002年4月〜2002年11月)



2002年12月2日
日本国際ボランティアセンター(JVC)
タイ・コンケン駐在 松尾 康範
 
 
「地場の市場プロジェクト」中間報告第5回。プロジェクトの現状、半年間の主な活動、そしてこの12月に日本を訪問する村人スラポン氏のインタビューを記す。添付資料としてプロジェクトの相談役である農業ジャーナリスト・大野和興氏が7月に活動地域を訪問したときの報告と12月に同じく来日するチュアム・バットマート氏のインタビュー記事(中間報告NO3で既に報告)を付け加える。長くなりますが一読していただければ幸いです。
 
<プロジェクトの現状>
この半年間、本当に多くのことがあり、身のある期間となった。バタバタとした活動の合間に、プロジェクトでは活動に関わる村人たち中心に、これまで継続してきた村内における朝市の次のステップとなる近隣の町の消費者を巻き込んだ"むらとまちの市場"をどのように形成していくか、ということに関する話し合いの場を繰り返し重ねてきた。これはプロジェクトを始めた当初から構想していたことで、いま、村人たちの気持ちが一致し、村人からの提案として、その市場はスタートすることとなった。
 その第一回目は去る11月4日。開催地は活動地域の中心となるコンケン県ポン郡の郡役所敷地内。地場産・無農薬を謳い文句に毎週月曜日の開催となった。一般の村人たちが開く市場に郡役所の敷地を使用することは異例なことであると言える。プロジェクトではこれまで積極的にポン郡行政や郡長、町の開発に関わる様々な立場の人を巻き込むことを意識して活動してきたことが、いい結果として実った。市場には、村の小さな朝市と同様に村人自身が作った野菜や加工品が並べられ、町の人たちが楽しそうにその商品を買うという新しい風景がポンのまちにつくられた。
 村レベルの朝市は波及効果として10箇所以上にも広がったが、このむらとまちを結ぶ市場は、プロジェクトに直接関わりを持つ5地域(@ヤナーン&ノンテー村、Aノンブア&チャイパッタナー、Bノンウェーンソークプラ&ノンウェーンコート&ノンヤプロン、Cクンマウ&スワンモン、Dソークノックテーン村&ソークノックテーンパッタナー村&ソークカームノーイ村)からの代表者によって、委員会がつくられ運営されている。販売者は、その5地域の村人中心に、オルタナティブ農業ネットワークのメンバーなど他の村数箇所が加わり、毎回50人以上の生産者が集まり、新鮮な農作物を販売している。販売者はポン郡市場づくり委員会を通さなければ販売してはならない(外部の人は販売してはならない)、商品は村人が自分で作ったもの、販売作物は無農薬、一般の市場で販売されているものよりも高く販売してはならない、などの規約を設け、運営維持のために委員会が販売者から場代として3バーツを徴収している。
この市場はスタートしてちょうど1ヶ月経つが、現在1ヶ月の経験をもとに、少しずつその規約を明確にしている段階である。規約がはっきりしていないとこの村人たちによる市場がいつのまにか外部者優位のものになりかねない。そうなっては身も蓋もない。

<この半年の主な出来事>
 5月の松尾一時帰国は短い時間のなか、日本全国を訪問する機会に恵まれ、「地場の市場プロジェクト」についても様々な地域で報告、交流することができた。
6月には、プロジェクト支援グループのひとつ「アーシアン」がプロジェクト地域を訪れた。千葉の生活クラブから生まれた「アーシアン」のプロジェクト訪問は今回が2回目。2000年11月以来の訪問である。ノンテー村での交流がよかった。ちょうどそのときに同じイサーン(タイ東北部)のスリン県から30人以上の女性生産者グループが活動地を訪問し、村のお寺での交流会は国際会議となった。スリン県はカンボジア国境に接しており、県南部地域の人たちのほとんどはクメール語を話す。イサーンの小さな村での集まりに、タイ語、イサーン語(ラオス語系)、クメール語、日本語が飛び交った。ちなみに、そのときのスリンから参加のグループが、戻ってから自分たちの地域(2地域)でも朝市を始めたというニュースがその後すぐに届いた。
7月にはプロジェクトの相談役である農業ジャーナリスト・大野和興氏がプロジェクト地域を訪問し、始まって3年目となる地場の市場の活動地域を歩いてもらった。ちょうどそのときの村人との会議では、ポン郡の郡長が参加し、ポンの町における"むらとまちを結ぶ市場"つくりを推進してくれることを確約してくれたのだ。大野氏には非常に面白い角度でこのプロジェクトについて分析、評価していただいた。(詳しくは添付資料参照)
8月、「スースーバンド」日本ツアー。2001年5月にJVCの招聘ですでに来日したスースーバンドは、タイで"生きるための歌"を歌う代表的な存在だ。「生きるための歌」は、1970年代、タイで民主化の運動が盛んになり、若者たちが社会や政治の歪みを歌にしてに訴えたことに端を発する。彼らたちが日本全国を訪問したこの記録はメンバーの1人でベースを弾くエディーさんが「SEASON」というタイの雑誌に詳細を綴ってくれたので、タイで音楽に興味のある人たちにも日本の人々との交流の様子を伝えることが出来た。
9月には、JVCタイが今年度から始めた北タイでの調査活動に関する話し合いや、JVC各現場のスタッフがここコンケンに集まり、開発の仕事に関する交流会が開かれた。また、日本で開発に興味のある人たちにタイの現場で学ぶ機会を提供する「タイ・インターンシッププログラム」がスタートして5年経過したが、その評価を10月に開くなど、この間、多くの他の仕事とも重なったが、プロジェクトでは、この数ヶ月は入念に村人たちとまちの市場に関する話し合いの場を繰り返した。
そして11月4日第一回目のポン郡"むらとまちを結ぶ市場"がスタートするに至った。

<村人インタビュー>
スラポン・トンミーカー
1959年、コンケン県ポン郡ノンウェーンソークプラ区ノンヤプロン村に8人兄弟の6番目の子として生まれる。現在は同区のノンウェーンコート村に、奥さんと子ども3人の5人暮らし。本職はホアイチョート小学校の校長先生。プロジェクト地域の村人の1人として、地場の市場プロジェクトの相談役を担う彼に、その生い立ちを聞いた。
幼少の頃、彼の父はノンヤプロン村の村長。その父の口癖は、大人になったら農民だけにはなるな、だった。確かにその頃の村は貧しかったという。自分のズボンは制服用ズボンと農民服の2つだけ。あるとき村の火事があり、唯一の制服用ズボンがその場で焼けてしまったのだ。彼は次の日から学校に履いていくズボンがなく、数日間恥ずかしくて学校に行くことができなかった。彼にとって幼少の頃のとても悔しい出来事のひとつである。しかし言い換えれば、わざわざ市場から洋服を買う必要もなかったという。家族が身につける全てのものは母親の手作りだった。家に借金もなかった。
そんなある日、村に始めてポン郡の郡長がやってきた。村人たちは数日前からその準備に追われた。郡長の周りには、果物や地鶏の焼き鳥やご馳走、そして豪華なお土産までも並べられた。しまいには横になった郡長の周りを村人数人が囲み、マッサージを始めた。スラポンさんは村長の息子だったため、そんな姿を目の前でみせられた。いまでもその光景は目に焼きついているという。そのときの素直な気持ちは、こんな人になりたい、だった。
もうひとつ記憶に残る出来事を彼は話してくれた。ノンヤプロン村は、バンコクから約360キロ。BKKとラオスの国境ノーンカーイを結ぶ2号線、通称フレンドシップロードから西に4キロほど離れたところにある。この2号線はベトナム戦争時代にアメリカ軍の基地があったウドンターニーに向け、アメリカの援助によって結ばれた道で、彼が4歳のときにその道路が貫通するとアメリカの軍隊の姿が目立つようになった。村の人たちが始めて見た外国人だ。彼をはじめ、子どもたちは2号線の横に並び、米軍が通るのを見ては大きく手をあげ、パンやお菓子、ジュースを乞った。運がいいと軍服や軍帽など軍が身につけているものも手に入れることができたという。
中学に上がると、ポン郡の町の学校に通うようになった。その当時、ノンヤプロン村から中学に通うことが出来たのは、彼1人だけだった。ノンヤプロンと2号線のちょうど中間にある本村ノンウェーンソークプラ村には6人の仲間がいたので、計7人で中学校まで通っていた。朝5時に家をでて、4キロ先の2号線まで歩き、乗合のバスでポンの町まで行き、そこからまたさらに2キロほど歩いた。片道だけで3時間以上の通学時間を要した。両親はそれを見かねて2号線沿いにある親戚の家に息子を預けることにするが、そのことが彼の今後の人生を大きく変えることになる。学生運動から生まれた社会派ソング「生きるための歌」を歌う「バングラデシュ・バンド」のメンバーの1人がその村の出身だったため、そこには多くの活動家が集まったからだ。自分よりもひとまわりも年上の活動家たちが話す言葉に少しずつ触発されていく。彼らが置き去りにした多くの本や資料にも目を通すようになった。共産党の運動家たちが集まるカラシン県プーパーン山脈にも行き来するようになったのもこの頃である。中学校では学級委員長も担い、ポン郡では若年運動家として彼の名が通るようになっていた。1973年。学生を中心とした軍事政権に対する民主化の運動「10月14日の政変」が起きたときと重なるが、そのときは正直、先輩たちが勝利した、と思うぐらいの意識だったよ、と振り返る。
76年には民主化を唱えた運動家たちが襲撃されるという「血の水曜日」事件が起こり、多くの運動家が地下に潜るという惨事があったが、党の命令で彼は町に残り、大学はマーハーサラカム大学に進んだ。大学では自分の田舎の農村開発と党の活動に関わり、移動の毎日に明け暮れていた。
 この学生運動に関わるきっかけがなかったら、村長だった父親が言っていたように農民には目を向けず、きっといまでもマッサージをしてもらう郡長を自分の目標においていたと振り返る。現在彼はその運動で鍛えた能力を活かし、自分の村や地域の開発活動に勤しむ。たまに政治色のある活動に走ってしまう癖が抜け切れないが、例えば今回地場の市場が、ポン郡の郡長を含めた行政とともに活動が出来ているのも彼の力は欠かせない。子どもの頃偉大と思っていた郡長といまは肩を並べて仕事をしているのだ。
よく酒を飲みながら彼は僕に語りかける。「この地場の市場プロジェクトに出会わなかったら、きっとまだ声を発するだけの地に根っこを張ることが出来ない活動に走っていたよ。自分の地域から変えていくことが大切だよな」と。普段は校長先生という立場からポン郡全体の学校経営の仕事にも追われている毎日だが、最近は土日や夕方などの空いた時間を利用しては、自分の農地に足を運び複合農業を楽しむ。たかだかこの1年で、彼の農地は複合的な豊か農地に変化した。しかし・・・、夜になると毎晩のように仲間たちと晩酌。3人息子の冷たい視線を浴びながら、今日もきっと仲間たちと酒を浴びていることだろう。

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以下中間報告NO3より

チュアム・バットマート(47歳・男性)
コンケン県ポン郡ペックヤイ区ヤナーン村在住
1954年、ヤナーン村に生まれる。その当時の村人のほとんどがそうであったように、彼は小学校4年までの学校教育を受けた。(当時の義務教育は小学校4年まで)以後、家庭の事情で、隣郡のウェンノーイ郡に住む親戚の家で農業を手伝いながら少年時代を過ごす。
17歳になると、自分の教育レベルを上げたいという自らの意思で、中学校を卒業するに値する教育を得ることが出来る成人向けの学校に通いはじめた。その学校は村から約80キロ離れたコンケンの町にあったので、毎週土日になると、自宅のヤナーン村からコンケンの学校まで通うという生活を送っていた。実家に戻っていた彼は、そのほとんどの時間を両親が営む農業の手伝いに費やしていたが、暇を見つけては勉学に勤しんだ。
 その頃、彼のおじいちゃんはよくこんなことを話してくれていたようだ。「チュアム、いまここで獲れたたくさんの魚を長く保存するにはどうしたらいいと思う?それは、たくさん獲れた魚を自分一人で食べてしまうのではなく、まわりの人たちにおすそ分けすることだよ。自分が魚を獲れなかったときは、今度はまわりの人たちが分けてくれるだろう」その頃の生活には、飢えるということもなかったし、借金に困ることもなかったという。
両親がやっていた農業は、意識しなくても今でいう複合経営農業そのものだった。村人たちは、豊かな森と小さな農地からの資源を活かし、食べ物だけではなく、自分たちの衣服や住まいに関しても、自分たちでつくっていた。
ちなみに、その頃村人たちに全く借金がなかったということではない。その頃は外部から来た高利貸し業者に関しては皆無だったが、村の中に個人の貸し手がいたという。貸し借りをする人たちは少なかったが、利子は10%以上といま並に高かったという。
 そうした彼らの生活が著しく変わりはじめたのは、1970年頃だという。村人は外からの業者のすすめにより、麻、そしてキャッサバなど外部に売る作物を単一に作り始めた。しかし、まだ1980年代半ばまでは、水牛を中心とした農村の風景がこの村にはあったという。その風景に変化が見られたのは、1987年である。約20%の村人が耕運機を購入したことで、その耕運機を用い、村人ほぼ全員の田んぼが耕運機によって耕されるようになった。つい10数年前のことである。支出が増える一方で米の価格も不安定となり、92年には、米を作ってもマイナスになるという状況になった。
現在でも米だけでは儲からない、と村人たちは自覚しながらも、なかなか具体的な数字をはじき出すという行動をとらないため、村人は借金に悩まされている。しかし、チュアムさんは1ライあたり(タイの単位:ライ=0.16ha)の米の収支をしっかりと頭の中に入れている。以下の通りである。

1ライあたりの米の収支(チュアムさんより聞き取り)
<支出>*1バーツ=2.7円(2001年9月現在、ちなみにタイの麺クゥイティオ1杯20バーツ)
    耕運機を借りた場合の人件費1回目
    130B
    耕運機を借りた場合の人件費2回目
    100B
    田植え(人件費)
    500B
    稲刈り(人件費)
    500B
    脱穀
    20B
    運搬費
    100B
    田植え・稲刈り時の労働者への食事
    200B
    化学肥料
    150B

    合計
    1700B

<収入>
1ライ400kg(籾・うるち米)×5B(kg)=2000B
* タイではうるち米の方がもち米より高価である。村人はもち米を食用、うるち米を販売用と分けている。しかしここ数年、うるち米の価格は下落する一方で、とうとう5バーツを切り、もち米の価格と大差なくなってしまった。ベトナムからの安価な米が入り始めていることが影響か?

 この支出に関しては、かなり少なめに見積もった数字であり、米価に関しても時期がいいときの価格である。ほとんどの農民が、借金を返すために、稲刈りを終えるとすぐに米を販売するという状況にあるため、キロあたりの米価はさらに安価になる。また米の収穫量も不安定であることは言うまでもない。自分たち家族の労働賃金も含まれず、食費などの生活にかかった全ての支出が借金になるというわけである。少し前までは、イサーンの田舎では、田植えや稲刈りなど人員が必要とされるときは、ローンケークと呼ばれる共同作業が行なわれていた。そのため、支出に関しては彼らに対する食費やお酒を振る舞う程度のもので済んでいた。しかし、現在ではそうした伝統も消え始め、一人あたり1日100〜120Bの労働賃金を払い、食費に関しても雇い主が振る舞っている。化学肥料等の支出に関しても増える一方である。
こうした状況を理解する彼は、その代案として、いま牛飼いを中心とした複合経営農業に取り組んでいる。そして彼は、現在ノンテー&ヤナーン村朝市委員会の中心メンバーとなり村の開発にも貢献している。彼は同じ村人の立場で、他の村人たちに情報を伝えることが非常にうまく、朝市に関する会議でもまとめ役となっている。だからと言って強引に自分の意見を押し通すようなことはしない。バランス感覚の優れた人である。

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2002年9月
 
東北タイの社会運動の流れとJVC・地場市場づくりについて

報告 大野和興

1、 3年目にはいった地場市場プロジェクト
 2002年7月、2年ぶりに地場市場プロジェクトの現場を訪ね、このプロジェクトが東北タイの村社会にすっかり溶け込んでいることに感銘を受けた。なぜそうなのか。ここでは同プロジェクトの中身そのものに直接言及するのではなく(プロジェクトの進み具合や成果、問題点などは松尾中間報告でみてほしい)、なぜこのプロジェクトがタイの村にこれほどなじんでいるのかを考察し、そのことを通して同プロジェクトの持つ意味を考えてみたい。
 松尾報告(3月31日)によると、2000年に三つの村で始まった朝市づくりは、現在8地域16村に広がっているという。そのすべてがJVCによる地場市場プロジェクトによって進められたものではなく、波及効果で広がっていったものである。さらに、同プロジェクトのパートナーであるイサーンオルタナティブ農業ネットワークによって、東北タイの他の地域にも広がろうとしている。
 このことは、地場市場プロジェクトはいまの東北タイの農業と農村が置かれた状況を乗り越えるための対案として位置付けられ、村に受け入れられているのだと思う。ではその状況とはどういうものか。

1)過去30年にわたって進められてきた市場指向型の商業的農業が行き詰まり、借金の累積、出稼ぎの増加と恒常化などにみられるように小農経済が行き詰まってきたことが誰の目にも明らかになった。
2) 97年に経済危機以降、都市で失職した村からの流失労働力が農村に貫流し滞留、村の相対的過剰人口がいっそう目立つようになったが、村では彼らを食べさせていける余裕がなくなり、新しい雇用を作り出す力もない。
3)市場指向型農業にかわる対案として、NGOによる複合農業の薦めが盛んに行われたが、生産物の交換の過程に対案がなかったため、せっかく作ったものが余ってしまい、自給ということ以上の意味をもち得なかった。
4)その一方で、生活のあらゆる面で都市型の消費文化が流入、日常の食までもが「買う」という行為によって成り立つといういびつさが目立つようになった。また、その結果営農・生活両面でお金がなければ何も出来ないという状況が生まれた。

地域内の小さな生産と小さな消費をつなぎ、資源と経済の循環をはかる地場市場づくりは、上記のような状況に対する対案として村に受け入れられたのだと考える。3年目にはいったこのプロジェクトは、いよいよ村レベルの朝市から近隣のまち場を包み込む、よりいっそう大きな循環の輪をつくりあげる段階に入ろうとしている。今回の訪問で、朝市を実施している7つの村の代表が集まっての会議を傍聴する機会があった。それぞれの底面を報告すると同時に、村と町をつなぐ地場市場をどう作り上げるかが大きな議題であった。会議の後半にはポン郡の郡長のやってきて、積極的推進の立場を表明、「これは社会を変える運動だ」と発言した。地場市場づくりは行政組織も無視できない流れになっていると感じた。


2、 東北タイの社会運動の流れと地場市場づくり
 この1,2年、東北タイの農民運動に新しい潮流が巻き起こっている。地域の知恵を取り戻そういう合言葉で進められている運動で、一見、伝統文化回帰運動のように見えるが、わたしは現在の状況に対するきびしい批判を込めた新しい社会運動であると見ている。
 私自身、90年代に東北タイを舞台にたたかわれた農民運動に接する機会を得ることが出来た。バムルン・カヨタらをリーダーとするイサーン小農民連合は、万を数える農民の大結集を背景に政府と直接交渉で諸課題を解決する運動論、組織論をとり、90年代半ばまで何次にもわたる大行進、集会、座り込みを敢行、それぞれの局面ではそれなりの成果をあげてきた。しかし、グローバリゼーションの進展はそうした成果をすべて帳消しにしたばかりでなく、いっそうの矛盾を生んだ。農民ばかりでなく社会の諸階層に、地球規模の市場化とそれに伴う開発が生んだ「新しい貧民」が生まれ、それらを結集した「貧民連合」(サマッチャ・コンチョン)と呼ばれる社会運動が90年代後半に生まれた。それら新しい貧民は彼らの諸課題を掲げてバンコクの首相官邸前に長期座り込み(住み込み)を敢行するなど、やはり直接行動による運動を繰り広げた。しかしここでも、まず食っていかなければならないという現実の厳しさと権力の厚い壁に阻まれ、「新しい貧民」という概念を提起、画期的な組織論・運動論を作り出しながら、運動の停滞を余儀なくされている。(タイの社会運動の潮流については『月刊オルタ』2000年11月号の特集「タイ社会運動の底力」参照)。
 こうした経過を経て、シアトルやバンコクではなく自分の足元で状況を作り直していこうという動きが出てきた。それが冒頭に紹介した「地域の智恵を取り戻す」運動である。当初は反グローバリゼーション運動の一環として、農漁民が作り出してきた伝統的なくらし方や文化の大切さをアピールする動きとして始まったこの運動は、次第に地域で自分たちの自己決定権を獲得する運動に発展していった。市場化と開発に対抗して、生産、生活、交換に関して、地域を舞台に自分たちが主役をなれる仕組みをつくりだそうというものだ。
 その典型が、いま東北タイ、北タイの農村に大きく広がろうとしているドブロク運動である。2001年春、遺伝子組み換え反対運動の市民組織に依頼され、東北タイの農民運動のリーダーの一人であり、貧民連合の世話人の一人でもあるウィラポン・ソーパーさんを日本の招聘した。そのとき彼に頼まれ、三里塚闘争の中で生まれたドブロク作り運動や日本の造り酒屋を案内した。彼によると、タイにも日本と同じ酒税法があり、酒を作ることも売ることも禁止されている。日本でも酒造りの権利奪回は農民運動の古い要求事項だったというと、彼はその運動をタイで起こそうと考えていると語り、タイの農民は1年で1万バーツの酒を飲む。100戸の村だと100万バーツを毎年酒独占に搾りとられている。これを農民の手に取り戻し、地域でコメ作りと酒造りをやり、地域でそれを売り買いしてコメ・酒・酒飲みの地域内循環をつくりあげる。これでつかまり、留置場が満杯になっても皆やるはずだ。たちまち何万、何十万人が参加する農民運動になる、足元からの反グローバリゼーションの運動だ、と怪気炎をあげて帰っていった。
 それから1年数ヶ月しかたってないが、今回東北タイの村を歩くと、どこへいってもおいしいドブロクが振舞われた。どれもビンに詰められ、きれいなレッテルがはられて、商品化をめざしていることは一目でわかった。久しぶりであったウィラポンはこの運動に参加している農民は北と東北で各1万人、南タイでも5,6千人に上るといっていた。
 もう一つの例をあげると、タイ農民運動の英雄バムルン・カヨタはカラシン県の彼の村に戻り、複合農業と堆肥作りを地域に根付かせる運動に力を入れている。90年代の多くをほとんど村に帰らず、国の内外を飛び歩いていた彼を知っているものにとって、この変貌は驚くべきものであった。彼は地域農業づくりの一環として近くの市の生ゴミを堆肥化し、地域の農業に投入、そこで生産されたものを地域で消費するという構想をもっている。素手の市長の了解は取り付けていた。彼の友人である山形・長井市の菅野芳秀さんのレインボープランをモデルのした構想で、タイでもレインボープランと名づけると語っていた。
 話を地場市場プロジェクトにもどすと、村人にとって朝市づくりもまた、こうした足元で自己決定権を取り戻す運動のひとつの流れとしてとらえられているということではないかと考える。地場市場プロジェクトが村に受け入れられ、大きく広がっているかという設問を、冒頭掲げた。その答えはここにあると今回の村歩きで感じた。同プロジェクトは東北タイの村々で芽生え、大きな潮流となろうとしている新しい社会運動の一翼を担っているのだと思う。
 

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