タイ
「地場の市場プロジェクト」中間報告NO.4
(2001年9月〜2002年3月)
2002年3月31日
日本国際ボランティアセンター
コンケン事務所 松尾康範
2001年9月後半以降の活動を報告する中間報告NO4。今回は地場の市場プロジェクトに関する活動内容を記録程度にとどめ、「ある日のこと」と題して、3月27日の日記を添付した。3人の日本からの来客と共にイサーンの文化を垣間見るよき一日となった。とても興味深い場面があったので是非一読していただきたい。
<活動状況>
このプロジェクトのきっかけとなったシーチョンプー郡にあるコークスーン&コークパークン村の朝市は、プロジェクトが始まった時点では既に、村(ムーバーン)主導の朝市から、村が約10近く集まって形成させている行政区(タムボン)主導の朝市に変容し、外からの業者中心の朝市になっていた。プロジェクトでは、幾度か村のリーダーたちとの交流を重ねた結果、朝市を開く場所を以前のように村の中心に戻し、外からの業者の販売を禁止する規則をつくった。2001年11月29日、朝市開催5周年を記念する日に再開し、現在毎日の小さな朝市が、外からの業者なしで開かれている。(火曜日のみ外からの業者を交えた市場)ポン郡にある3つの市場は、昨年度から新しく始まったふたつの朝市のメンバーも加え、定期的にチームミーティング(各市場から二人の代表)を開いている。そのことで、村人は他の村の朝市も自分たちの朝市であるかのように感じるようになり、お互いが協力しあって、それぞれの問題を解決できる体制が整った。定期的な農作物の生産ということがこれからも課題となるが、村人の意識、理解度をみると、4地域の朝市は強化されてきたといえよう。
現在、朝市のさらなる強化を目指す意味においても、近くの町の消費者と繋がる段階に来ている。チェンマイで実際に町の消費者を対象とした市場づくりを行う「イムブン」の活動を見学するツアーを組んだ。そしてその企画が功を奏し、「地場の市場」の目指すイメージが各村のリーダー間で明確になってきた。
また、タイNGOや他地域との連携を意識して活動するなかで、「地場の市場」の活動が確実に周辺村にも蔓延り始めている。下記のように2001年度中にまた新しい地域2つで朝市がはじまり、村レベルの朝市は8地域16村に広がった。また、「イサーンオルタナティブ農業ネットワーク」の他地域のコーディネーターが、この朝市の活動に興味を持ち、何度か交流を重ねた。結果、現在スリン県やローイエット県などの数箇所でパイロットプロジェクト的に朝市を始めることが検討されている。
以下2001年度にプロジェクトの波及効果として新しくはじまった朝市
・ コラート県ブアラーイ郡ワンマイデーン区クムヤナーン村
・ コンケン県ポン郡カオキーウ区カオキーウ村
<活動記録>
<9月>
28〜29日6地域村人共同ワークショップ
<10月>
5〜6日コークスーン村の村人、ノンウェンソークプラ村訪問。朝市見学&村人交流
20日ソックノックテーン村にてプロジェクトチーム会議
23〜26日JVCインターンプログラムのインターンをコンケンにて受け入れ
<11月>
1日コミュニティー循環に取り組むシーサアソーク寺を村人と訪問
5〜6日新潟から農業改良普及員の堀井修さんプロジェクト地域訪問
19日JVCタイミーティング
22〜25日イサーンNGOCOD主催反グローバリゼーション集会
29日コークスーン&コークパークン村が、毎日の村人による朝市を復活させる
<12月>
11日新しい女性スタッフのニパポン・チュムプットが活動に加わる
18日イサーンNGOCODドブロク集会
22日ノンブア&チャイパッタナー村にてプロジェクトチーム会議
29日JVCタイミーティング
<1月>
18〜20日東京にてJVC代表者会議。松尾参加。
29日タイ北部チェンマイ県に地場の市場を見学(〜2月3日)
<2月>
20〜22日ノンウェンソークプラ村にて農業生産に関する研修会及び農民リーダー・バムルン・カヨター氏の農園訪問
<3月>
3日年次計画会議
中旬年次計画及び国別戦略作成
<今後>
プロジェクト計画書通り、2002年度中に近くの村やまちに農作物を直接販売できる「地場の市場」づくりを開始できる方向で動いている。新しくポン市の町の一角に設定される市場の一角を無料で借りることが出来るので、その場を「地場の市場」のきっかけの場としたい。もちろんそこには、地場、直売、無農薬を謳う。また、教育委員会との関係も深まるなかで、町にある学校の敷地を市場として借りることも検討している。
<地場の市場プロジェクト活動地村人インタビュー>
「サトウキビと借金」
ソムサマイ・ワンサー(36/男性)
コンケン県ポン郡ノンウェンソークプラ区ノンウェンソークプラ村在住。
グローバリゼーションの荒波が"借金"という形で村人を窮地に追いやっている。
「サトウキビをつくるまでは借金を背負うほど問題は深刻ではなかった」とこのあたりの農民の誰もが吐く。コンケン県ポン郡ノンウェンソークプラ村に住むソムサマイ・ワンサー(36/男性)もその一人。
彼が子供の頃は、村の周囲にある森が遊び場であり、人々の生活の場そのものだったという。野うさぎが飛び跳ね、様々な鳥の音色が豊かな自然があることの証だった。そして田んぼには水牛がいた。彼が10歳の頃からそんな風景が塗り替えられていくのである。「金が手に入る」という外部からの誘惑とともにまずは麻の栽培が奨励された。そしてたかだか3,4年でその価格は暴落し、次に導入されたキャッサバも5年目で同じ状況となった。そこにやってきたのがサトウキビである。今から16年前のことである。話がサトウキビのことに変わった途端にソムサマイは嘆いた。
「森を脇にして水牛で田を耕していた頃は、作業も大変だったけど、借金もなく楽しかったよ。農地に肥料を投入することなんてなかったんだ。サトウキビが最初儲かってしまったのがいけなかったんだな・・・」
サトウキビを始めて1年目に貯蓄したお金が2万バーツ(現在1バーツ約3円)、2年目には6万バーツ貯蓄することができた。そしてソムサマイはその利益を元にサトウキビ運搬用の6輪トラックを20万バーツで購入するが、それもたった1年で返済した。4年目には10万バーツのお金が残った。そして今度はそれを元手に積載量の多い10輪トラックを30万バーツで購入した。全てが上り調子だったと振りかえる。
8年目には90万バーツで耕運機、そして10万バーツで脱穀機を購入したが、こうした耐久消費財購入により支出がかさみ、民間の銀行から10万バーツの負債を抱えることとなった。借金のはじまりである。
以前東北タイの農村にはロンケークと呼ばれる互助システムがあり、田植えや稲刈りに関しても、親戚や仲間たちに食事を振舞うだけで、労働賃金の心配をする必要はなかったが、この頃から金を払って人を雇うようになる。その頃の日当は100バーツで、植付けの時には約1ヶ月間20人近くの労働者を必要とし、刈り入れ時には同じ人数で数ヶ月の期間を要した。工場から指定される化学肥料の投入量は増加する一方だが、それに反比例してサトウキビの収量は年々減少した。10年前には1ライ(0.16ha)あたり10tほどあった収量が、現在ではたった4tとなった。肝心のサトウキビの生産者価格に関しても、最高時の1tあたり700バーツから、450バーツに下落していた。
東北タイの農民の土地所有平均はおよそ20ライ(3ha強)から30ライだが、この辺りの1人当たりの農地面積は、50ライから100ライと大規模である。そのためその土地を担保に金を借りられるというわけだ。借金が多い人ほど所有面積が多いというのも事実だ。ちなみにソムサマイは現在80ライの土地を所有し、50万バーツの借金を背負っている。
森を直接切ったのは農民かもしれない。しかし、麻、キャッサバ、サトウキビと続く単一作物栽培は、若干の時間のずれはあっても、東北タイのほぼ全土ですすめられていることである。輸出作物を増やし外貨を獲得するという上からの青写真に農民は当てはめられ、人々の土台となる土に関しても荒れた。
ソムサマイはいま、我々がすすめる村の朝市づくりに力を注いでいる。上からの政策や業者に翻弄されず、村人自身がつくったものをまずは自分たちの地域で販売、消費し、同時に自然資源やお金も地域内で回していくというものだ。この朝市だけを見ても莫大な借金の問題は解決しないかもしれない。しかしそこから始めていくしかない事も事実である。
(日本ネグロス・キャンペーン委員会発行バナナくらぶNO140に掲載)
<「ある日のこと」3月27日の日記>
昨日3人の来客がここコンケンに到着した。JVCスタッフでアフリカの活動に取り組む壽賀一仁さん、そして同じくアフリカに詳しいNGOスタッフの尾関葉子さん、そしてJVCタイボランティアチームに長く関わり、バンコクのチュラロンコーン大学の研究所で働いた経験のある伊藤千顕さん。
今朝は3時半に目覚めた。3人に活動地の朝市を見学してもらうためにコンケン市を5時に出発した。訪問地のクムマウ村(コラート県ブアラーイ郡ノーンウア区クムマウ村)は、コンケン市からバンコク方面に、90キロほど南下したところにある。コラート県内に位置するが、私たちの活動の中心であるコンケン県ポン郡とは隣り合わせである。
この村の朝市は昨年の2月にスタートした。村の数人の男たちが、プロジェクトの成果として4番目に始まったノンウェンソークプラ村の朝市を見学したことがきっかけである。そして彼らはその様子を村の会議で報告し、村の女性たちの賛同を得て朝市が始まることとなった。短期間で勢い良く始まったこともあり、その頃は朝市の意味が明確ではなく、外部からの業者が数多くいた。数ヶ月前に訪問したときにも見かけたが、今日は1人もいない。村人に聞いて見ると、現在では週に1回外から来る業者が1人だけいるということだった。外からの業者からは出来る限り買わないよう心がけたら、売れ行きが悪かったようで出て行ったという。村のおばちゃん中心のいい雰囲気の朝市になって来た。
この時期の旬である「カイモットデーン(赤蟻の卵)」が一袋10バーツで売られていたので早速3袋ほど買った。他にも葉物野菜を購入し、村の女性リーダーであるドックマイさん(前回の中間報告NO3にインタビュー記事掲載)の家に持っていき一緒に朝食を食べさせてもらった。昨年の12月からプロジェクトの仲間として加わった新スタッフのニパポンもこの村の出身である。彼女は僕が酒好きのことを知っているため、ドブロクを探してくれたが、見つからなかったようで、その代わりにビールを買ってきてくれた。朝日が出た後のビールはうまい。なんと言っても赤蟻の卵がつまみ。赤蟻の卵はやわらかくて若干の甘味を持ち、そこに赤蟻本体を和えると酸味が効いておいしい。タイの社会派ソング「生きるための歌」とイサーン(タイ東北部)の伝統音楽を融合させた「スースーバンド」はこの赤蟻をこう歌う。
「乾期の時期に 乾ききった ひび割れた大地 おなかを一杯にする方法がない 沼地や土に住む小蛙をつきるまで探し 今度はじっくり目をあけて上を見つめ 赤蟻を見つけたら木によじ登る・・・(スースー・カイモットデーンより)」
確かに乾期の終わりであるこの時期はイサーンにとって一番困難な時期である。そうした現状の中、都会に住む人の中には、イサーンの人は虫を食べるんだ、とあざ笑う人もいる。しかし仕方がないから食べるのではない。おいしいから食べるのだ。バンコクの大都会でマクドナルドのハンバーガーを食べている人はおいしいから食べるんだろう。勝手にすればいい。こっちは朝から赤蟻の卵だ。
次の訪問地ノンウェンソークプラ村(コンケン県ポン郡ノンウェンソークプラ区)を訪問する頃には結構いい気分だった。寝不足に朝からのビールはよく効く。ノンウェンソークプラ村のゲーオ村長の家に着くと村人たちがなにやらたくさん集まっていた。村の米を協同組合に出荷するようだ。何人かはこちらと一緒で酔っ払っていた。そして焼酎を注がれた。
「そうだこの村にはドブロクがある」
図々しくドブロクまで味見させてもらったが、もう既に時間が経ったドブロクだったので、酸味が効きすぎてあまりいい味はしなかった。
村のリーダー核であるスラポン先生の家にお邪魔すると、バンコクにあるタマサート大学の学生4人が僕たちを待っていた。4人とも社会福祉学部の生徒だ。この学部にいる理解ある先生の企画で毎年この時期にタイ東北部のNGOネットワーク「イサーンNGOCOD」に学生を派遣し、昨年から我々のプロジェクト地でも受け入れに協力している。これから2ヶ月間彼女たちは村でホームステイする。派遣される前、何度も彼女たちから電話がかかってきた。
「村ではどんなところに寝るんですか?危なくないのですか?特に必要なものはありますか?」
よくJVCが日本人向けのスタディーツアー受け入れで質問されることと全く同じである。担当の先生のところには両親から直接電話がかかってきて、泣きながらこう言った。
「うちの娘をどんなところに連れて行くのですか」
彼女らにとってイサーンはタイ東北部ではなく、イサーン国なのである。
「イサーン国にようこそ。ところでカイモットデーンはもう食べた」
と日本人である僕が質問した。やっぱり虫系は食べることが出来ないようだ。でも、もうすでに彼女たちが来て数日間が過ぎているので、だいぶ村の風習を理解して生活しているようなのでこちらとしても一安心した。
僕も入れて日本人4人、タマサートの学生4人は、ここから4キロ離れた隣村のホワイチョート村に向かった。スラポン先生はこの村の小学校の校長先生なのである。学校で少し涼んだ後、ここの村人でもあるサワット先生の農地を見学することになった。サワット先生もスラポン先生と同様、忙しい学校での仕事の合間に、複合農業に取り組む。
「この椰子やマンゴは1年前俺の農地と同じ時期に植えたのにもうこんなに大きくなっている」
とスラポン先生がうらやましそうに言う。確かに4キロしか離れていないのに、ここはスラポン先生の農地に比べ土がいい。「土をよくする」ということが何よりもの課題であるため、プロジェクトの研修でも先日、イサーンの農民リーダー・バムルン・カヨター氏の農地での研修を主催したが、そこにサワット先生も参加した。そしてうれしいことに、その見学を活かして、様々な植物を使った液肥づくりにもうすでに取り組んでくれているではありませんか。
「これまでも色々な研修に参加したけれど、"忙しい"を言い訳に実践できないでいたんだ。いまは見たものをそのまま実行するよう心がけている」
プロジェクト側としては非常にうれしい話を聞いた。
植えて1年も経っていない小さな木が立ち並ぶ農地を少し歩くと、農地の一番隅に井戸のような穴が掘られ、2mほどの丸太を幾つも重ねて周囲を補充してあった。
「サーンですか?」
スラポン先生に聞いた。
「うん。サーンだよ。数十年前にはこの辺りは森だったので、いまみたいなため池を掘る必要がなかったんだ。この程度の窪みを掘って置けば水が確保でき、その水を活かして食べるための野菜なども自分たちで作っていた。複合農業の原型だよ」
僕たちは農地を後にして、村に入った。イサーンの村を歩いた人ならご存知かと思うが、村と農地が数キロ離れているというのはざらである。100世帯前後の村のかたまりがあり、そこを抜けると乾ききった農地が延々と広がり、数キロ行くとまた村のかたまりがあると言った感じである。イサーンの村の特徴でもあるが、これが昔あった森の豊かさの象徴でもある。森には虎などの野獣がいたため、村を一体にすることで村人たちは身を守ったという。村の団結力はこうして生まれるのであるが、このイサーンの文化も少しずつ廃れてきている。サワットさんの隣の家の裏庭にはタバコが植えられていた。小学校の校長先生であるスラポンさんは、タマサートの学生と日本人のグループに向け、説明してくれた。
「昔はどこの家庭にもこのようにタバコが植えられていたんだよ」
「タバコを吸わない人も?」
「うん。いまイサーンでは、お客さんが来ると水を振舞うことが風習であるが、昔はタバコも振舞いの一つで、ちょっと寄っていっての一言と一緒に手作りのタバコが出てきたんだ。タバコを植えていない家があると、その家は礼儀がない、とまで言われたんだ。そこにある小さな道具でタバコの葉をこすり、乾燥させた物を丸めて吸うんだよ」
道具には直径10センチほどの穴があいており、その穴にタバコの葉を丸めて、目一杯詰めて擦ることで葉っぱを細かくしていくという。まさに地域の智慧である。最後にこの村の養蚕を紹介してくれた後にスラポン先生がつぶやいた。
「こうした文化はここにいるタマサート大学の学生たち、若い世代に伝承されるかな。この先どうなるのかな・・・」
深く考えるとさびしくなるだけである。
夜は元気にしこたま酒を飲んで1日を終えた。
おわり
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