タイ
「地場の市場プロジェクト」中間報告NO.3
(2001年3月〜8月)
2001年9月10日
日本国際ボランティアセンター(JVC)
松尾 康範
4月の猛暑が通りすぎると5月から雨期入りする。しかし、今年のイサーン(タイ東北部)は田植えの時期となる7月に至るまで雨量が例年に比べ非常に少なかった。ある村人は田植えが出来ず、ある村人は乾いた田んぼにそのまま種籾をまいた。8月に入り、その数ヶ月分の雨が豪雨となってあらわれることとなった。我々の活動地のあるコンケン県の西側に位置するペチャブン県(北部)のロムサック郡では、洪水により120人もの死者が出るという悲惨な状況にみまわれた。
プロジェクトの進捗状況としては2年目に入り、徐々に我々のエネルギーと村人のエネルギーが一致し始めている。中間報告A(2000年10月〜2001年2月)に続き現在のプロジェクトの様子をまとめる。
□ 循環型農業及び堆肥づくりの視察
と き:2001年4月23−24日
目 的:昨年度の活動の中で村人から挙げられた今後の課題のひとつである「生産技術能力(複合経営農業)の向上」、同時に朝市に出荷する作物の安定を計る。
参加者:
村人−ノンウェンソークプラ村・ノンウェンコート村・ノンウェンソークプラ村の3村共同の朝市に取り組む村人が中心。他にもクマウット村(新しく朝市が始まった村)やフアイチョート村(プロジェクトに興味を示している村)の村人が参加。
NGO関係者−バムルン・カヨター(貧民フォーラム)、プラシット・パノムローク、スメート・パーンチャムローン(イサーン・オルタナティブ農業ネットワーク)、スラポン・トンミカー(貧民フォーラム)
訪問地:コラート県ワンナムキィヨ区「クルム・ソンスーム・ライ・サーンピット(無農薬促進グループ)」(23日)バンコク市ノンジョック地区「ノンジョック自然農園」(24日)
1)クルム・ソンスーム・ライ・サーンピット(排農薬促進グループ)
コラート県ワンナムキィヨ区
1999年に設立。このグループの活動が始まったきっかけとして、バンコクの元知事であり、92年の民主化運動では、市民の側に立ち、働きかけたチャムロン氏が率いるサンティアソーク(信仰宗教)の影響が大きい。現在会員は496世帯(5行政区内)。グループの敷地内及び会員からの無農薬野菜をバンコク(80%)とコラート県の市街(20%)に配送する。
ここに住む村人たちは、10年前から土地の権利問題を巡って政府と対立してきた。村人は数々のデモに参加し、自分たちが置かれている現状を社会に訴え続けてきた。そして、その地域の中で生きていくという思いは、無農薬農産物の生産活動を生むこととなった。こぶしをあげるだけの運動ではなく、しっかりと根の張った活動を対置し、少しずつ、そして着実に会員を増やしている。
2)ノンジョック自然農園
バンコク市ノンジョック区
JVCが1998年から力を入れてきた活動。JVCタイ代表の村上真平が農園責任者となり活動をすすめてきた。自然農業の実践による研究と普及活動、及びその農法を学びたいとする人々へのトレーニングの機会提供することで、人材を育成することを目的に設立された。
JVCとTHAIHOF、GREEN NET、BANRAKという3つの地元NGOとの共同で取り組んでいる。また農作物の販売に関しては、CSA(Community Supported Agriculture)というシステム(消費者が年間契約で生産物を購入し、生産者を支えるという生産者と消費者の顔の見える関係を作り上げる)を取り入れ、農場の経済的自立を計っている。なお、今年度から農園の事実上の責任はタイ人スタッフに任せ、村上はアドバイザーとしてサポートしている。
ここでは、特に農の基礎となる土の実態について村人たちは学んだ。土には、一体どういった成分が含まれているか、また土を基礎とする生態系には、どういった循環が繰り広げられているか、という村上からの話しを聞き、村人たちは、普段接している"土"に関する知識が皆無に等しいことに気づかされた。
問題点:
プロジェクト地域近辺の日帰りの見学や研修だと、女性陣の参加が可能だが、1泊以上ということになると、女性たちはなかなか家を空けられない。結果として、今回の見学に参加出来た女性は30人のうちたった3人だけであった。女性がこうした活動に参加できるよう、調整して行くことが、今後の課題として挙げられる。
□ 松尾一時帰国
5月の約1ヶ月間、日本に一時帰国した。JVC東京での報告だけではなく、以下の順番で、プロジェクト支援グループを訪問し、プロジェクトの現状を報告した。
福岡県久留米市・久留米海外ボランティアサークル、佐賀県唐津市・直売所「みなとん里」、広島「百姓や会」、神奈川県リサイクルショップ「WE21」、千葉県・地球市民基金「アーシアン」。またタイで"生きるための歌"というジャンルの歌を歌うバンド「スースー(ZUZU)」と共に、長井市「レインボープラン」や千葉県成田「実験村」に関わる人たちと交流した。
短い期間の中、地域の活動に励む多くのグループから多くの知恵とエネルギーをいただき、とても充実した日々でした。この場を借りて感謝いたします。
□ WE21のプロジェクト地域訪問
2001年7月10日から16日にかけ、プロジェクト支援グループの1つである「WE21」が活動地域を訪問した。
WE21は、アジアの女性支援とリサイクルの推進を目的に、設立されたNPO法人である。1998年に一号店をオープンし、現在では神奈川県内に30店舗のリサイクルショップを持つ。神奈川の生活クラブの運動、市民政党「神奈川ネットワーク運動」、そしてリサイクルショップWE21の活動に関わる今回の参加者の顔ぶれは、多面的で、全員が女性であったため、プロジェクト地域の村人やタイ東北部のNGOスタッフたちによき刺激を残してくれた。
まず、プロジェクト活動地域に来る前に、バンコク市にあるノンジョック自然農園(上記)に1日滞在し、熱帯の農業やNGO・開発について学び、翌日タイ東北部に向け出発した。
タイ東北滞在中は、プロジェクト対象地域を訪問するだけではなく、タイ現地のNGOと交流する時間を持った。タイの農村問題を語るときに看過できないスラムを見学した後にプロジェクト地域の農村を訪問、ホームステイして、最後にタイ東北部のNGOネットワーク組織「イサーンNGOCOD」のメンバーと交流する場を設けた。
ツアーの参加者が全員女性で、その活動に関しても女性グループが全て責任を持って取り組んでいること、そしてその活動が自分たちの利益のためだけではなく、日本社会、そしてアジアの人々ともつながろうとしているその姿は、村人やタイのNGOの人々に多くの刺激を与えた。
□ プロジェクト地域の現況
1.ノンウェンソークプラ村・ノンウェンコート村&ノンヤプロン村
プロジェクト対象地域の中で一番最後に朝市が始まったノンウェンソークプラ朝市(2000年10月〜)がいまリーダーシップを取り始めている。次のような朝市委員会の規則に従って、朝市は本物の"村人による朝市"となっている。
1.販売者はこの村に住む村人でなければならない。2.販売する商品は、一般の市場より安価でなければならない。3.販売する作物には、農薬・化学肥料を使用しない。 これまで、他村と同様に、他地域から来る業者がこの朝市で商品を販売することを禁止してはいるが、ここの村人が外からのものを仕入れ、販売することは禁止していない。しかし、規則のなかに"村人による朝市"ということをうたっているため、外からの商品が除々に減り、村人が作ったもの、もしくは、地域の自然資源から得たものが大半となっている。個人レベルの加工品(お菓子やおかず)も増えてきた。例えばそんな中からこんな活動が生まれた。タイにアジ科の魚でプラートゥーという魚がある。イサーンの町の市場に行っても必ず見かけるほど、イサーンの食にも馴染んでいる魚だ。もちろんこれは海から来たもの。このプラートゥーを販売するに際しても、ただ単に町から購入して朝市に並べるようなことはせず、若者がグループを立ち上げ、そのグループが町からまとめてプラートゥーを購入し、蒸す。それによって、町で蒸された状態で売られているプラートゥーよりも安い価格で販売できている。また、村人たちの数人が実験的に村人による薬草入りシャンプー作りを始めているが、徐々に朝市で販売している。また、朝市で売り切れないほど余剰生産物も少しずつ増え始めてきた。我々のプロジェクトの目的2にある「近くの村や町を巻き込んだ地場の市場づくり」ということをそろそろ考える段階に来ている。
2.ノンブア村&チャイパッタナー村
コンケン県ポン郡ノンブア村&チャイパッタナー村では2年前に始まった村の小さな朝市が、消滅してしまっていた。10前後の村(ムーバーン)が集まった行政区(タムボン)レベルの活動を取り仕切るオーポートー(行政区運営機構)が活動に参入し権限を握ったことにより、外からの商品を中心に販売する市場に塗り替えられ、村人による朝市は町の定期市となんにも変わらないものとなった。しかし、幸か不幸か、その後すぐにこの朝市は潰れた。同時に村人による小さな朝市も消えた。私たちプロジェクトチームは、少し落ち着いた時点でこの朝市のフォローアップを始め、村人たちと村人による朝市の本当の意味は何かを考え直す話し合いの場を何度か繰り返してきた。また、他村で朝市を取り組む村人との交流も行なった。その結果、村人の作物を売買するという本来の朝市が今年5月に再開した。月・土・日と週3回小規模に取り組まれ、前回の朝市にはなかった朝市委員会も設けられた。ノンウェンソークプラ村の朝市委員会を参考に、上記と同様の3つの規則をしっかりと据えた。外の業者が入ってくるとどういった影響を村に与えるか、身にしみて感じた村人たちは、いま新しい朝市に精力的に取り組んでいる。
3.ノンテー村&ヤナーン村
98年に日本の農村を訪問したサナンさんが住むノンテー村&ヤナーン村では、これまで通り小規模な毎日の朝市が地道に取り組まれている。広がりをもった朝市にしていくために、一人、二人のリーダーだけではなく、多くのリーダーの育成に力を入れている。これまではプロジェクトの活動がある場合、まずはその話しをサナンさんのいるノンテー村側に伝え、そしてノンテー村の村人からヤナーン村の仲間たちに話しを持っていく、という形態をとっていたが、現在は偏りをなくすためにヤナーン村にも同時に話し掛けるように心がけている。そのため女性グループの参加が強まった。以前朝市委員会は、4人のうち3人が男性だったが、新しく再編されている朝市委員会は、女性の数を多くするよう調整している。現在の時点でも朝市に関する会議には女性の参加数が多くなっている。
4.コークスーン&コークパークン村
このプロジェクトが始まるきっかけとなったヌーケンの住む村・シーチョンプー郡コークスーン&コークパークン村の朝市は、行政区主導で外部からの商品が中心の朝市となってしまったままである。朝市から時間帯を変え、夕市にしていくという計画はあるが、まだなされていない。村のキーパーソンとなるヌーケン自身もイサーン各地で起きている農地立ち退きの問題に疾走し、村の開発に関わりきれていない。現在村では、村の相互扶助の活動に力を入れているため、それが落ち着く間は様子を見ていこう、とヌーケンとの間で話している。
5.その外の村の朝市
プロジェクトの波及効果で新しく始まった朝市のうちコラート県ブアラーイ郡ノーンウア区ノーンチャン村の朝市はフォローアップがしきれないまま休息している。ポン郡ソークノックテーン区ソークノックテーン村&ソークノックテーンパッタナー村&ソークカームノーイ村の朝市は継続されているが、これに関してもフォローアップしきれていない。コラート県ブアラーイ郡ノーンウア区クムマウ村&スワンモン村では活気のある朝市が継続されている。村人たちは、農作物はもちろんのこと、女性グループによる手作りシャンプーなども販売している。ただ、行政区長は町にあるようなきらびやかな市場を望んでおり、その関係を調整していくことは難しい。そのためこの朝市には、外からの業者が入り、洋服や日常品も同時に販売している。ただ幸運にも朝市に参加している村人は、そうした外からの商品がこの朝市で売られることに関して、多くの疑問を持ち始めている。
プロジェクトチームでは、いまパイロ・モンコンブンルールート(通称バン)が中心になり、これまでの活動をタイ語でまとめ、村人の意見を付け加えた後に小冊子としてまとめる計画でいる。しっかりとした資料を残す、ということはもちろんのこと、村人がその小冊子を通じて自分たちの活動の意味を認識することで朝市を強化していくということ、そして他地域にもこの朝市の活動を普及していくということが、この小冊子作成の目的である。
タイ東北部で複合経営農業をすすめるイサーン・オルタナティブ農業ネットワークと随時情報交換をしているため、他地域でも我々の活動に興味を持つ人たちが増え始めている。7月末には、イサーン・オルタナティブ農業ネットワーク・スリン県地域(同じくタイ東北部)の会議に松尾が足を運び、朝市について村人たちと交流した。
多くの村の名前が出てくるため確認として、前回の中間報告でも掲載した現在朝市が開かれている場所を再度記載しておく。合計6地域14村。
・ コンケン県シーチョンプー郡シーチョンプー区コークスーン村&コークパークン村
・ コンケン県ポン郡ペックヤイ区ノンテー村&ヤナーン村
・ コンケン県ポン郡ノンウェンソークプラ区ノンヤプロン村&ノンウェンソークプラ村&ノンウェンコート村
・ コンケン県ポン郡カオニイウ区ノンブア&チャイパッタナー村(2001年5月に復活)
・ コンケン県ポン郡ソークノックテーン区ソークノックテーン村&ソークノックテーンパッタナー村&ソークカームノーイ村(2000年9月16日〜)
・ コラート県ブアラーイ郡ノーンウア区クムマウ村&スワンモン村(2001年2月21日〜)
・ コラート県ブアラーイ郡ノーンウア区ノーンチャン村(2001年2月17日開始・休止中)
□活動地域村人へのインタビュー
1.チュアム・バットマーク(47歳・男性)
コンケン県ポン郡ペックヤイ区ヤナーン村在住
チュアム・バットマーク。1954年、ヤナーン村に生まれる。その当時の村人のほとんどがそうであったように、彼は小学校4年までの学校教育を受けた。(当時の義務教育は小学校4年まで)以後、家庭の事情で、隣郡のウェンノーイ郡に住む親戚の家で農業を手伝いながら少年時代を過ごす。
17歳になると、自分の教育レベルを上げたいという自らの意思で、中学校を卒業するに値する教育を得ることが出来る成人向けの学校に通いはじめた。その学校は村から約80キロ離れたコンケンの町にあったので、毎週土日になると、自宅のヤナーン村からコンケンの学校まで通うという生活を送っていた。実家に戻っていた彼は、そのほとんどの時間を両親が営む農業の手伝いに費やしていたが、暇を見つけては勉学に勤しんだ。
その頃、彼のおじいちゃんはよくこんなことを話してくれていたようだ。「チュアム、いまここで獲れたたくさんの魚を長く保存するにはどうしたらいいと思う?それは、たくさん獲れた魚を自分一人で食べてしまうのではなく、まわりの人たちにおすそ分けすることだよ。自分が魚を獲れなかったときは、今度はまわりの人たちが分けてくれるだろう」その頃の生活には、飢えるということもなかったし、借金に困ることもなかったという。
両親がやっていた農業は、意識しなくても今でいう複合経営農業そのものだった。村人たちは、豊かな森と小さな農地からの資源を活かし、食べ物だけではなく、自分たちの衣服や住まいに関しても、自分たちでつくっていた。
ちなみに、その頃村人たちに全く借金がなかったということではない。その頃は外部から来た高利貸し業者に関しては皆無だったが、村の中に個人の貸し手がいたという。貸し借りをする人たちは少なかったが、利子は10%以上といま並に高かったという。
そうした彼らの生活が著しく変わりはじめたのは、1970年頃だという。村人は外からの業者のすすめにより、麻、そしてキャッサバなど外部に売る作物を単一に作り始めた。しかし、まだ1980年代半ばまでは、水牛を中心とした農村の風景がこの村にはあったという。その風景に変化が見られたのは、1987年である。約20%の村人が耕運機を購入したことで、その耕運機を用い、村人ほぼ全員の田んぼが耕運機によって耕されるようになった。つい10数年前のことである。支出が増える一方で米の価格も不安定となり、92年には、米を作ってもマイナスになるという状況になった。
現在でも米だけでは儲からない、と村人たちは自覚しながらも、なかなか具体的な数字をはじき出すという行動をとらないため、村人は借金に悩まされている。しかし、チュアムさんは1ライあたり(タイの単位:ライ=0.16ha)の米の収支をしっかりと頭の中に入れている。以下の通りである。
1ライあたりの米の収支(チュアムさんより聞き取り)
<支出>*1バーツ=2.7円(2001年9月現在、ちなみにタイの麺クゥイティオ1杯20バーツ)
耕運機を借りた場合の人件費1回目130B
2回目100B
田植え(人件費) 500B
稲刈り(人件費) 500B
脱穀 20B
運搬費 100B
田植え・稲刈り時の労働者への食事200B
化学肥料 150B
合計 1700B
<収入>
1ライ400kg(籾・うるち米)×5B(kg)=2000B
* タイではうるち米の方がもち米より高価である。村人はもち米を食用、うるち米を販売用と分けている。しかしここ数年、うるち米の価格は下落する一方で、とうとう5バーツを切り、もち米の価格と大差なくなってしまった。ベトナムからの安価な米が入り始めていることが影響か?
この支出に関しては、かなり少なめに見積もった数字であり、米価に関しても時期がいいときの価格である。ほとんどの農民が、借金を返すために、稲刈りを終えるとすぐに米を販売するという状況にあるため、キロあたりの米価はさらに安価になる。また米の収穫量も不安定であることは言うまでもない。自分たち家族の労働賃金も含まれず、食費などの生活にかかった全ての支出が借金になるというわけである。少し前までは、イサーンの田舎では、田植えや稲刈りなど人員が必要とされるときは、ローンケークと呼ばれる共同作業が行なわれていた。そのため、支出に関しては彼らに対する食費やお酒を振る舞う程度のもので済んでいた。しかし、現在ではそうした伝統も消え始め、一人あたり1日100〜120Bの労働賃金を払い、食費に関しても雇い主が振る舞っている。化学肥料等の支出に関しても増える一方である。
こうした状況を理解する彼は、その代案として、いま牛飼いを中心とした複合経営農業に取り組んでいる。そして彼は、現在ノンテー&ヤナーン村朝市委員会の中心メンバーとなり村の開発にも貢献している。彼は同じ村人の立場で、他の村人たちに情報を伝えることが非常にうまく、朝市に関する会議でもまとめ役となっている。だからと言って強引に自分の意見を押し通すようなことはしない。バランス感覚の優れた人である。
2.ドックマイ・オーンスワンチャン(47・女性)
ナコンラチャシマー県(コラート)ブアラーイ郡ノーンウア区クムマウ村在住
プロジェクトの波及効果として、コラート県クムマウ村&スワンモン村の朝市が始まって半年が経った。その朝市の中心で、村の女性グループが作った手作りのシャンプーを販売している女性がいる。ドックマイ・オーンスワンチャン。彼女から話しを伺った。
この村人の多くは、ノンウェンソークプラ村と同様にマーハーサラカム県ボンラブー郡から移住してきた。彼女の両親もボンラブーから移住して来た人のひとりである。ドックマイさん自身は、クムマウ村で生まれた。彼女が子どもの頃は、村に電気はなく、生活用水に関しても近くの小川から毎日運んで来ていたという。また、村人は収穫した米を15キロ離れたコンケン県ポン郡の町まで歩いて運び、販売していた。
この村に電気が入ってきたのは、1980年であるが、その頃の村人の生活の変容はチュアムさんの村の状況と同様である。水田・畑・桑・綿、そして水牛のある風景が商品作物によって均一化されてしまった。そして村人に借金だけが残された。
1994年、この村で新しい形のグループが二つ形成された。ひとつは複合経営農業グループ、もうひとつは相互扶助グループである。主に男たちは、複合経営農業グループを担当し、相互扶助グループは女たちの役割となった。ドックマイさんは、9つの村から成る行政区レベルの相互扶助グループの委員長を勤めている。また、朝市で販売している手作りシャンプー女性グループの委員長も担う。
朝市に関して幾つかの質問をした。
−最初にここの村人が、ノンウェンソークプラ村の朝市を見学しに行ったとき、ドックマイさんはいませんでしたよね。
「最初は村の男たち数人がノンウェンソークプラ村の朝市を見学し、そのときの様子を村の会議で報告してくれました。そして私たち女性グループもその場で朝市の活動に賛同したことで、朝市が始まることになったのです。」
−そして実際に朝市がはじまってどうですか。
「複合経営農業を始めてから、少量多品目の作物を栽培するようになったのはいいのですが、自分たちが食べ切れない作物に関しては腐らしてしまうことが多かったです。しかし、朝市が出来たことでその販売先ができました。そしてそれが家族の収入にもつながるので、とっても便利です。」
−外からの業者が来て、洋服や日常品を売っていますがどう思いますか。
「この朝市は村人のものです。村人が販売する分には、村内でお金が回ることになりますが、外からの業者が来ては、そのお金が外に逃げていってしまうことになります。でも、村人たちは、その業者に対して、出て行け!!なんて言えませんので、行政区運営機構のメンバーに相談して、なんとか本当の村の朝市に変えていきたいと思います」
−業者が持ってきたものに関しては村人が買わない、というのも業者を追い出す1つの方法かもしれませんね。
ドックマイさんには、3人の子どもがいる。長女27才、次女は25才、そして長男19才。子どもが大きくなったことでより一層村の活動に積極的に参加することが出来ている。村の開発にはこうした元気なおかあちゃんは欠かせない。
以上
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