『兄弟よ 俺はもう帰らない』の「 補遺へのもう一度の追加」
補遺へのもう一度の追加
吉 川 勇 一
本書の著者ポイットモア氏を二五年ぶりに日本に招請しようということがきまり、その最初の打ち合せ会があったのが本年一月一六日のことだった。その席で私は、ソ連が崩壊して以後、ソ連共産党の秘密文書などがつぎつぎと暴露されてきており、やがてこの脱走兵援助との関係でも、べ平連にKGBの手先がいたなどの情報が出てくるかもしれない、と話した。すでに、ソ連時代にアメリカに亡
命した元KGBのレフチェソコの手記などでも、それを匂わせるような話は出ていたからだ。
ところが、あまりにもタイミングがよすぎて私は驚いたのだが、その翌日、『産経新聞』から電話があって、KGB議長アンドロポフ署名入りの秘密文書を入手したが、それによると、一九六八年の二月に、べ平連事務局長だった私がソ連大使館でKGBと接触し、脱走兵の援助を依頼、金銭的援助まで要請したとある、と言ってきた。翌日の同紙は、大見出しでそのニュースを伝え(版によっては二面のトップ)、私の談話ものったが、同時に「国を売る行為」と非難の声も″との見出しなどとともに「KGBとの結び付きは国を売る行為だ」という評論家の談話も出された。
「国を売る」あるいは「売国奴」という表現が、脱走兵への援助と開達して言われたのは、右翼からの罵詈雑言は別として、まずなかったことで、ましてや新開の大見出しになることは戦後初めてと言っていいだろう。
一九六八年二月と言えば、まさに、ポイットモア氏らを旧べ平連が匿い、日本から脱出させる方策を模索していた時期だった。前年一〇月の初の脱走兵、「イントレピッドの四人」の日本脱出の時以来、脱走兵をスウェーデンに送ることについて、私が東京のソ連大使館と接触していたことは事実だ。しかし、大使館員がKGBの名刺を出すわけはなし、相手がKGBだったかどうか、私には知るよしもない。ただ、ソ連の国境警備隊、沿岸警備隊は、ソ連政府の入国管理部門でも、ソ連軍でもなく、KGBの管轄であって、パスポートなしにソ連領へ脱走兵が入るとすれば、KGBがまずそれを担当するということは、至極当たり前のことの筈だ。
しかし、私がここで言いたいのは、そういう弁明めいたことではない。 ここに六七年一一月二三日づけの『読売新聞』夕刊にのった近藤日出造の一コマの政治漫画がある。それは「脱走五人組」と題されていた。
べ平連が横須賀停泊中の米空母「イソトレピッド」号からの四米兵の脱走を発表したのは同年一一月一三日で、その日以来、新開、テレビ、週刊誌などマスコミは一斉にこの事件を報じ、四人の若者の写真も紙面やブラウン管の上にたびたび大きく登場し、その姿も顔も人びとによく記憶されるまでになっていた。
近藤日出造の漫画は、まず手前にその四人の似姿を描き、そしてその背景に、これもまた誰でもそれとわかるあのリンカーンの像を配して、そして「脱走五人組」と題したのだった。表現されていることは明瞭だった。ベトナム戦争を拒否して軍隊から脱走した四人は、まさにかのリンカーンの民主主義の伝統を継ぐ仲間として描かれているのである。この表現は決して特異なものではなく、当時の新聞読者層に共有されていた感情だった。ベトナム戦争の拒否、軍隊からの脱走は、日本の民衆の多くから受入れられていたのであり、それへの支援活動もまた、人道にかなう行為として強い支持を与えられたのだった。
つい最近NHKが二週連続で放映した『私が愛したウルトラセブン』(脚本=市川森一、演出=佐藤幹夫)も、後半で脱走兵援助をとりあげ、当時のそういう民衆感情をよく表現していた。作者の市川氏は、雑誌『世界』の対談の中で、「これ(脱走兵援助)は政治問題ではなくて人権問題、あらゆるもので人権が大事なんだということを基調にしていると、僕には思えたんです。明らかに、国家よりも優先するものがある。それが人権だ。個人の尊厳だ。誇りだ。(中略)……べ平連は、そういうことを言っているのかなァ、と思ったりしていました。」と語り、「一般市民の間でもべ平連は人助けをやっているという漠とした信頼感はありましたね。」とも言っている。(『世界』93年3月号「ウルトラセブンと脱走兵」)
だが、このように、戦争の拒否、軍隊からの脱走が、人道にかなうものとして受け止められるというのは、もちろん、古くからのことではなかった。今から五〇年はど前までは、脱走とは反逆、裏切り、通敵、売国、国賊などと同義語の許されざる行為であって、事実、日本軍隊から脱走した兵士をもった一家は、村八分同然の扱いを受け、その兄弟の中には、一家の「汚名」をそそぐため特攻隊を「志願」するといった事例も、少なからずあった。(たとえば小中陽太郎『ぼくは人びとに会った』
(日本評論社)の中の「神の掟と人の法」) 評判になったNHKの連続TVドラマ『おしん』にもそういう脱走兵が登場し、最後には雪山の中で憲兵隊に射殺されてしまう。
こうした脱走兵にかんするイメージが逆転するのは、敗戦以後、憲法第九条の登場と並行してのことであり、とくに、六〇年代後半、激化するベトナム戦争に反対する運動が大きく展開される中でのことだ。
そしてまた今、それから四半世紀がすぎて、脱走兵への援助に「国を売る行為」なる見出しをつけて報じる新聞が出だした。この回帰は、自衛隊の海外派兵とともに盛んに論じられだした改憲への動きと無緑ではない。
本書の再刊の意義はますます大きくなったと感じ、「あとがき」に追記した次第である。
(1993.3.1)