143.  元反戦米脱走兵、ジョン・フィリップ・ロウさんの歓迎会、もりあがる(01/06/186/22に一部追加

 本「ニュース」欄 No.133 でご案内した元米反戦脱走兵、ジョン・フィリップ・ロウさん(現在、アメリカで開業医)の訪日歓迎会は、6月17日夜、東京・麻布の国際文化会館で開かれ、旧ベ平連運動、ジャテック(米反戦脱走兵援助日本技術委員会)活動の参加者、演劇『お隣りの脱走兵』上演関係者ら約70人が参加して開催され、感動的な発言、いわゆる「いい話」、貴重な問題提起などが多くの参加者から続いた。以下は不十分なものだが、とりあえずのご報告。

 ロウさん自身の挨拶は参加者の胸を打つものであったが、ロウさんはそのほかにも、彼を当時アテンドしていた歌手の山本コータローさんのギターにあわせて「イェスターデイ」を歌ったり、フルートを演奏したりしたし、また、20日から東京・新宿・紀伊国屋ホールで上演される『お隣りの脱走兵』に米兵役で出演するため訪日しているアメリカの俳優・歌手であるポール・オークリー・ストーバルさんが、ギターを弾きながら本番の黒人霊歌そのものといった「We Shall Overcome 」を披露するなど、大いに盛り上がる集まりとなった。また、最後にはロウさんの歌に合わせて全員で「Browin’in the Wind 」を合唱もした。

 参加者には、発行されたばかりの斎藤憐『お隣りの脱走兵』(右の写真、而立書房刊、\1,500 + 税 この本は上記演劇の脚本全記録)が、鶴見俊輔・吉岡忍・吉川勇一編著『帰ってきた脱走兵』(第三書館、1994年刊 \1,500 + 税)とともに贈呈された。

 会は、遠藤洋一さん(福生市議)、関谷滋さん(『となりに脱走兵がいた時代』の共編者)の司会ではじめられ、まず元ジャテック責任者の高橋武智さん(翻訳家)から経過の報告があった。ついで元「イントレピッド4人の会」の世話人福富節男さん(数学者)の音頭でフィリップさん歓迎の乾杯がなされ、以下、次々と挨拶や発言がなされた。

 発言の内容はあらためて詳しくご紹介する予定だが、発言された人びとは次のとおり。(敬称略、順不同。記憶によるため、抜けた方がおられたら失礼お許しください)ジョン・フィリップ・ロウ、寺田勇文、山鹿順子、広瀬勝芳(元国民文化会議事務局長、パリ在住の日高六郎・暢子夫妻のメッセージを代読)、吉川勇一、島田昭博、北井優、吉岡忍、 多田ご夫妻(岩波書店美術出版部長)、山本コータロー、ポール・オークリー・ストーバル、キャメロン・スチール(この二人は出演のため来日したアメリカの俳優)、斎藤憐、西川信廣 、山本圭、倉野章子(4人は、『お隣りの脱走兵』の作者、演出家、出演俳優)。最後に、倉野さんから、ロウさんに花束が贈呈された。

 高橋さんは、ロウさんらを日本から脱出させる上で用いられた旅券などの偽造などの技術が、反ナチ活動、そしてアルジェリア独立闘争当時のヨーロッパでの反戦地下活動からの親身の援助で日本のジャテックに伝えられたこと、その技術の習得のために日本からフランスに渡って大変苦労した青年の話なども紹介された。当時、ジャテックのメンバーだった寺田さんと山鹿さんはこの会でロウさんの通訳の労をとられた。多田ご夫妻は、 新婚早々の家庭にロウさんを迎えて世話をされたり、また、新婚旅行先のフランスでも日高さんといっしょに来栖氏の世話されたときのエピソードを語られた。当時予備校生だった北井さんと 大学生だった山本コータローさん、島田さんは、当時、赤木山麓にある高名な作家の別荘などで、ロウさんを世話をするため長くともに生活をしたり、数少ないマイカーの所持者として、東京から赤城山麓まで延々と車を運転したなどの具体的体験を披露した。吉岡さんは、NHKの番組出演のため最近、アメリカを訪問、元脱走兵のジェラルド・メイヤーズ、テリー・ホイットモア、そして金鎮洙の義兄などにインタビューしてきた経過と感想を話すとともに、かつての脱走兵援助、ベトナム反戦の行動が、単に古き昔の思い出では決してなく、今に生き、これから生きる上での貴重な経験として息づいていることを強調した。

 ロウさんは、今回訪日して、当時ほとんど知ることのなかった自分が置かれていた日本の状況を、はじめて具体的に知ることができつつあると語り、これまで自分が元脱走兵だったということを公然と語ったことはなかったのだが、今回の訪日を機会に、今後アメリカの社会の中でそれを公然と語る決意ができたと語り、あらためて日本人の援助に感謝の意を述べた。

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 以下に、当日の高橋武智さんの呼びかけ人を代表しての挨拶、福富節男さんの乾杯の発言と日高六郎さんのメッセージ、吉川勇一さんの発言,そして、ロウさんの挨拶全文をご紹介する。

呼びかけ人を代表して、会が開かれるまでの経過とクルス君の紹介

                         高 橋 武 智

 一時期、ジャテックの責任者をしていた高橋です。
 いま紹介された本の執筆者でもある斎藤憐さんが、本を深く読み込んだうえで「お隣りの脱走兵」という台本を書き、プロダクション仕事がこれを20日から紀伊国屋ホールで上演することになりました。その準備のなかで、ベトナム戦争無経験の俳優さんたちに当時の雰囲気を語ってもらうためにも、また芝居のpromotion のためにも、元脱走兵を呼んでくれないかという話があり、白羽の矢があたったのが今日の主賓ジョン・フィリップ・ロウ氏です。当時はクルス、あるいはクリスと呼ばれていたので、今日もそう呼ばせていただきます。
 クルス君は1949年生まれ、ただ徴兵に応じると、即歩兵としてベトナムに送られるので、それを恐れ、特殊技能としての看護兵を志願し、訓練を受けました。とくに横浜の岸根野戦病院に配属されてから、戦争の悲惨、米軍の残虐さを身をもって体験し、反戦意識を高めましたが、いよいよベトナムに派遣されるという決定を知ったとき、米軍機関紙「Stars and Stripes」で「イントレピッドの四人」の脱走記事を読み、日本にも脱走援助組織があることを知って、脱走に踏み切ります。ジャテックにたどりつくまでの息詰まるような一日の記録は、先の本に載っている本人の手記「長い闇を抜けて」によく書かれています。
 ちょうどスパイ・ジョンソンの潜入によって、北海道でメイヤーズが逮捕され、北のルートが閉ざされた直後で、先の見通しのまったくない、苦しい潜伏生活を強いられます。あとでそのころのエピソードが披露されるはずですが、昨夜聞いたところでは、二年間にわたった地下生活ちゅう、一度としてgive upするつもりはなかったと決意の固さを語ってくれました。
 クルスについて特記すべきことは、熱心な読書のかたわら、英文学者の永川玲二氏のご指導と、「すばる」の初代編集長、安引宏氏の大英断で、彼自身の体験を対象化した長編小説「われらが歓呼して仰いだ旗」を執筆して、「すばる」に連載されたことです。残念ながら、これは未完に終わりますが、いわば脱走兵作家だったわけです。
 先を急ぎます。この二年間、ベ平連もジャテックも、日本からの出口を求めて、無駄に過ごしていたわけではありません。やがて歴史的な日が訪れます。1970年の12月某日、クルス君は白昼堂々、当時の大阪空港からエールフランス機に乗り込み、パリに出発したのでした。この大胆な作戦については、クルス君のガッツもさることながら、何よりも国際的な市民運動による献身的な協力のあったことを強調しなければなりません。
 第二次大戦のさなか、またその後、迫害されたユダヤ人その他の政治的難民や亡命者を支援する運動はヨーロッパを通じて盛んでしたが、それはやがて、アルジェリア戦争への支援へと流れこんでいきました。単に戦争に反対するフランス青年の脱走を助けるだけでなく、国家の命令に反して、アルジェリア人民の独立を助けるさまざまな運動に発展していったのでした。そして、アルジェリアが独立を達成したのち、1960年代後半には、これらもろもろの運動はイデオロギーの差をこえて、第三世界のいかなる闘いにも、普通非合法・非公然と考えられる技術的援助をおこなう市民運動として成立していました。華のパリの裏側で、この運動は脈々としてつづけられていたのです。
 当然援助するかどうかの決定はきわめて慎重に運ばれました。ジャテックの場合、第三世界の運動でないことは明らかですが、ベ平連が代表する日本の反戦市民運動への評価が一定程度高く、とりわけジャテックの運動が当時の第三世界の闘いを象徴するベトナム人民との連帯をめざすものだったことが彼らの決定に役立ったのだと推測されます。
 いったん決定がおこなわれると、あとは比較的簡単でした。各分野の専門家が手をとるようにして技術を伝達してくれたのです。具体性へのこだわりと、具体的条件のなかへ技術を応用し移転せずばやまない彼らの気迫から多くのものを学んだと思います。
 日本に帰ってからは、彼らのこの姿勢、この精神に学んで、少数ではありましたが、献身的で、技術的にも卓越したジャテック有志に、このことを伝えようと努力しました。もちろん不安がなかったといったらウソになりますが、その結果がクルス君出国作戦成功に結実したのです。当時の私どもは、脱走兵が捕まったとしたら蒙らなければならない同じ罰を、主観的にではありますが、引き受けていたつもりです。
 それから30年余を経て、ここにクルス君と再会でき、こんなに嬉しいことはありません。もちろんクルス君のようにハッピーエンドに終わらなかった脱走兵たちのことにも思いをいたさないわけにはいきませんが。恩赦を得たあと、クルス君は医者の免許をとり、開業して10年余になります。三児の父です。
 本のなかに、永川さんの文章も掲載されていますが、クルス君にとって、人生の師といってもよほど、親身になって援助し相談にも乗ってくれた永川玲二氏は昨年春急逝されました。クルス君は永川さんを偲ぶ会にメッセージを寄せてくれましたが、昨夜話してくれたところでは、いずれ会おうと思っているうちに亡くなってしまう知人が多い、できるだけ早い機会に会っておかなくっちゃならない、そういう気持ちから、今回プロダクション仕事の招待を受ける気持ちになったそうです。
 今日のパーティには、芝居関係者のほかに、直接間接クルス君の地下生活と出国を支援したジャテック関係者が集まっています。限られた時間ではありますが、クルス君のこの気持ちを汲んで、つとめて話し合ってください。22日朝までは芝居関係の用事がありますが、29日夕刻に帰国するまでは、小田さん・鶴見さんと会うため、24日から数日、関西に行くほかは自由な時間がたっぷりあります。いろいろな形でおひきまわし、おつきあいをしてくださいますようお願い申しあげます。(拍手)
 

ジョン・フィリップ・ローさんを迎えて

                福 富 節 男      


 きょう、ここに無事ジョン・フィリップ・ローさんをお迎えできて、誠に嬉しいことです。三分の一世紀たって、クルスさん(ジャテック内での当時のローさんのペンネーム)と再会された方は想いもひとしおでしょう。クルスさん、遠くからどうもありがとう。

 また、こんどの劇を作られた斎藤憐さん――わたしにとっては上海バンスキングの……です――、出演の山本圭さんがお出くださった。歓迎の意を表したいのです。私はミーハー老人です。

 じつはもとの著書の『となりに脱走兵がいた時代』の出版記念会のときにも、乾杯の音頭をやらされました。そのとき編者の関谷滋さん、坂元良江さんへの感謝の言葉を怠って、以来ずっと気になっておりましたので、あらためて今日申し上げます(笑声)。そして今日の会を用意された方がたに、有難うを申し上げます。

 じつは私と同業の数学者で、脱走兵を援助するチームがいくつかあったようです。五年ほど前、数学の学会のときに、京都の友人で高名な数学者が、「私もあずかりました」と、そっと私に話されました。その数ヶ月後にその方は、なくなりました。この運動は当時口に出さないことになっていましたから、その方はずっと、それを守っていて、最後にそのことを私に告げたのでしょう。

 とても大事に思えた、わたしたちの若いころでした。と同時に、今日ここに来るべくして、もはや遠くに逝かれてしまった鶴見良行さん、深作光貞さん、永川玲二さん、古山洋三さんや多くのひとたちを想いおこさないわけにはまいりません。

 しかし、今日ここに集まることの出来た人びととともに、この運動の大事な意味と、それぞれに若かった思い出と、いまの健康について、お元気なローさんを迎えたことについて、乾杯をしましょう。(拍手)

 

パリの日高六郎さんからのメッセージ

Dear クルス、

 約30年ぶり。日本に来てくれてありがとう。ぼくたちは、きみと一しょに生活したフランスの Draveill (ドラベイユ)にいるので、きみと会えないのがほんとうに残念です。

 私の鎌倉の家を出るとき、「なにが食べたい」と聞いたら、きみは「うなぎ」と答えました。そこで特上の「うな重」をとりよせた。一口食べて、きみの両目から涙がうなぎの腹の上に流れおちました。それから一気に全部たいらげた。
 人生にはわすれられない演劇的あるいは映画的場面(!)がありますね。

 いまは医者の仕事で忙しいでしょう。年老って、医者をやめたら、日本とフランスで書いたあの小説(注、雑誌『すばる』に連載されたロウの未完の小説「われが歓呼して仰いだ旗」のこと)を完成してほしいと思います。

 もうひとつ、小説かエッセイにしてほしいネタがあります。きみは日本からフランスへ、そしてフランスからアメリカへ、それから今度のアメリカから日本へと、三回の空の旅をした。三回で世界一周です。
 大岡昇平がノーマン・メーラー的とうなったきみの文学的才能で、このことも十分小説になる。
 題は「ジョン・フィリップ・ロウの世界一周、空の旅」はどうでしょう。
 これもきみの老後の仕事になるでしょう。
 もちろん、そのとき、ぼくは地球には住んでいない。しかし、きみの文才を、ぜひもう一度よみがえらせてほしい。

 どうぞ、日本滞在をたのしんで下さい。もちろん絶対に「うなぎ」もたのしんで下さい。

       Rokuro Hidaka   (拍手)

 

 偽造旅券の作成、行使は悪か

                吉 川 勇 一

 ご紹介にあずかりました吉川勇一です。司会の方は「元ベ平連事務局長」と紹介されましたが、30何年前当時私はベ平連の官僚と言われていました。たった今、ロウさんに“I was the notorious bureaucrat of Beheiren." と自己紹介していたところです。

 さて、申し上げたいことは多々ありますが、一番肝心なところは福富節男さんがおっしゃったことでつきております。それで、一つのことだけ追加させていただきます。

 ここにおいでの方はもうほとんどお読みになっていらっしゃることと思いますが、今発売中の雑誌『世界』7月号に出ている斎藤憐さんの文章のことです。

 え、まだの方もいらっしゃいますか。ではぜひお読みになってくださるようお願いいたします。6ページの文章ですから本屋さんで立ち読みもできますが、まぁ、お買い求めください。

 そこで斉藤さんは、この劇のことと、脱走兵援助、ベトナム反戦運動などについて述べられているのですが、これは感動的な文章でした。近頃珍しい、と言ったら斉藤さんに失礼な表現になるかもしれませんが、30年ほど前でしたら、それほど特別な表現とも思われなかったかもしれませんが、今ではほとんど語られることの少なくなった表現で、当時の熱気をそのまま現在に生き生きと伝える文章だと、私には思えました。そこで斉藤さんは、脱走兵援助の活動が行われていたときの時代背景を具体的にのべられているほか、旅券の偽造など、脱走兵を国外に脱出させるために、この運動の参加者がたいへんな苦労をされたことも書かれています。

 ここに、あるグループの機関誌の最近号があります。団体名や機関誌名はあえて言う必要もないと思います。ほんの一部をご紹介しますが、それでおおよその見当もつけていただけるかとも思います。その巻頭に「『非暴力』、目指す方向はそこにある」という文章が載っています。非暴力ということには、私も大賛成なのですが、その文の中にはこういう表現があります。「……重信氏の偽造パスポート作成のため、精神科の患者さんの名義盗用に僕らの仲間が関与していたとしたら、大変残念なことだ。本人及び関係者に当該メンバーのみならず、僕としては……のメンバーのひとりとして謝罪したくなる。(編集部注:重信氏自身は公判で、偽造パスポートの作成について、その過ちを謝罪し、氏自身の逮捕による多くの人々への弾圧を許してしまったことに対し、はっきりと謝罪を表明しています。)……」

 どうして「偽造パスポートの作成」が「過ち」として謝罪されなければならないのでしょうか。まったく了承も得ず、他人の名義を盗用し、それによってその人たちに被害を与えたとしたら、それ自体は確かにまったくの過ちです。無関係の人を無責任に巻き込むというようなことは、今であれ、当時であれ正当化できることでは決してありません。しかし、それと偽造パスポートの作成とは別の問題です。私たちの脱走兵援助でも、今では明らかにされているように、偽造旅券の作成をやりました。でもそれは過ちではなかったし、謝罪すべきことでもありません。もし、それが正しくないこととして行われなかったとしたら、今日ここにフィリップ・ロウさんをお迎えできていないはずです。 (拍手)

 そもそも旅券とは 国家が作ったものではないですか。国家なにものぞ、というのが、かつて脱走兵援助をやっていたときの私たちの精神でしたし、また、それでロウさんが地球をひとまわりすることになったわけでしょう? 国家が主権の名において人びとの自由な移動を管理、抑制するために考え出した仕組みではないですか。その国家が、戦争を行ない、人びとを徴兵し、兵士に仕立て、戦場に送り込み、殺し、殺させているのです。反戦のために、そして戦争を拒否した兵士を安全な場所に送り出すために、その国家の定めた法を無視し、旅券を偽造したとしても、それはいささかもやましいことなどではありません。私たちのやったことは、今でもまったく正しかったのだと私は確信しています。

 どうも、最近、「非暴力」ということを「合法」とイコールに考えてしまうような理解が多くなっているように思えます。非暴力とは、国家の定める法律に違反しないということでは決してありません。『お隣りの脱走兵』の紹介リーフレットには、「『軍を脱走しました。助けてください!』と話しかけられたら、あなたならどうしますか。」という問いかけの文章が載っています。(注) この問いは30年前だけではなく、国家が戦争を続けている以上、今後もいつ現実化するかわからぬ問いかけです。偽造旅券の作成、行使は、これからも必要となるかもしれません。

 斎藤さんの文を拝見して、そういう思いを強く抱きました。ぜひお読みになってみてください。ロウさんの歓迎会なのに斉藤さんのことばかりお話したようなことになってしまいましたが、 この運動で、たいへん苦労をなさった方々、そして脱走の後、逮捕され、軍裁にかけられたような米兵もずいぶんいたことも申し上げておかなければなりません。最後にもうひとつ追加させていただきます。

 インターネットの上にベ平連のホームページというのが開かれて、かなり膨大な資料がそこでは公開されています。ところで、最近、そのホームページ宛によせられるメールの中で、大学生や大学のゼミの参加者からのもので、卒論やゼミの報告に、ベ平連や脱走兵援助の問題をとりあげたい、ついては……というような問い合わせや質問がずいぶん増えています。書き終えた卒論を送ってくれてきた人もおり、中には非常にすぐれたレポートもあります。それを読んで、歴史というものは、努力をすれば、これくらいまでは追体験できるのだなぁ、という思いもしております。アメリカではだいぶ以前から60年代をふりかえり、検討しなおす空気が広がっていましたが、日本でもそうなりだしたのかな、という思いもいたいております。長くなりますので、この辺で……。

ありがとうございました。(拍手)

(吉川注)坂元良江・関谷滋編著『となりに脱走兵がいた時代』の帯には、次のような表現がある。
「ある日あなたが、街角で、駅で、喫茶店で、
ひとりのアメリカ兵から
『僕は軍を脱走して来たんだ。助けてくれないか』
と話しかけられたら、どうしますか?」
 なお、この文は、書評として、戸井十月さんが『沖縄タイムス』に書いた文でも引用されている。

 

最初のご挨拶

                来栖こと ジョン・フィリップ・ロウ

 皆さん、今晩は、
 今日、私がこういう形で、また日本に戻ってこられて、多くの日本のみなさんにお会いできたことを、たいへん嬉しく思っております。この間にはもちろん、いろいろなことが多くあったわけで、みなさんも変わり、私もまた変わったわけですが、とくに私は、皆さんにお付き合いできたことで、私の人生がたいへん大きく変わったということがありました。そして、今日、またこういう機会を与えられたことで、さらに私の人生が皆さんとともに変わってゆくものと期待しております。これが、新たに人生を皆さんとシェアできるような、そういう契機になるようにも願っております。ありがとうございました。(拍手)
 

集会の終わりの時のご挨拶

                来栖こと ジョン・フィリップ・ロウ

 きょう、ここで皆さんがいろいろなことをお話くださいました。私は非常に心を打たれたことがいくつもあります。ひとつは、私よりも前に米軍から脱走したいわば先輩がたくさんいて、まだ国外で暮らしていたり、アメリカに戻ったりされているのですが、その人びとが必ずしも幸福な状態でいるとは言えない、という事情を知って、驚いたり、心を痛めたことです。また、もうひとつには、ベトナム戦争はまだ終わっていない、今も問題は続いている、ということがあります。先ほども、どなたかがお話になりましたけれども、アメリカの上院議員の一人が、かつてベトナム戦争時代に、ベトナムで自分がやった虐殺行為について告白するという出来事がつい最近ありました。私自身はこれからお話ししますように、アメリカに戻って生活しておりますけれども、しかし、いろいろな事情から、私が暮らしている地域でも、また仕事の職場でも、私は自分の過去のことについては、ほとんど語ることをせず、むしろひっそりと静かに暮らしてきたという状況でした。

 今回、日本へ来る飛行機の中で、私はある本を読みました。それは、杉原千畝さんという、第二次世界大戦当時、領事として、たくさんのユダヤ人に独断でビザを発給し、ナチスの弾圧から救った人の話です。彼が自分自身で書いていることですが、非常にいい例を示してくれています。彼は、この世界には常に悪が満ちているのだが、しかしわれわれは、それに対して何かやれることがあるのだ、と言っています。私は30数年前にベトナム戦争から脱走して、ベ平連やジャテックの皆さんに助けていただきました。ですが、当時は、どうして皆さんが私にこんなに力を割いてくださるのかを、お尋ねする機会もなく、そのことについて深く知ることは出来ませんでした。今度、こういう形ではじめて日本に戻ってきて、当時の私を包んでいた状況、どんな人びとが、どういう気持ちで私に接してくださっていたのかなど、その全体の状況がようやくわかってきた、というところにいます。

 今回、演劇を公演される皆さんのところをお訪ねし、そのリハーサルなども見せていただき、いろいろお話もうかがいました。その経験を経て、はじめて私は、当時の日本の状況について知識を得ることができたように思います。その意味でも、これを書いてくださった斎藤憐さんに心から御礼を申し上げたいと思います。(拍手)

 先ほど、斎藤さんご自身も言われておりましたが、実際に起こった事実と、それを元に構成されたフィクション、その間にはいろいろな問題があることは当然でありますけれども、しかし私が見せていただいた限りでは、当時の状況をたいへんいい形で表現、再現していただいたものだ、という思いをしております。(拍手)

 皆さんとお会いできたことと、今日、リハーサルを見せていただいたことで、私は先ほども申し上げたように、過去、自分が日本でどんなことをやったのか、などをあまり周囲に語らずに過ごしてきたのですけれども、それについて、自分自身がなしたこと、また、皆さんとともになしたことに、もう一度真剣に直面し直して、今後はそれを隠すことをやめるという力を得たように思います。(拍手)

 そして、こういうことを通じて、私たちは、人間として、人間の共同体の一人として、私たちに続く次の世代に、私たちが輝かしい、価値のある歴史をもったということ、そしてそこからいろいろなことを学べるということを伝えてゆくことが出来るだろうと思っています。先ほども申し上げましたけれども、この世界には常に悪が満ちてはおりますが、しかし同時にその中には良きこと、すぐれたこともあって、それは必ずいい結果をもたらすものであるという確信を私はもつようになりました。(拍手) ありがとうございました。(拍手)

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