封印解かれた体験記

活劇のような面白さ

評者・森 まゆみ (『朝日新聞』1998/7/5)

 一九六七年秋、劇団を主宰する一人の東大生が、ヒッピーのたまり場新宿風月堂で二人の米兵に泊めてくれと頼まれ、考えた末、べ平連(「ベトナムに平和を!市民連合)に連絡した。べ平連は彼らを本郷のマンションにかくまったあと、別ルートで援助を求めてきた二人と共に、ソ連経由でスウェーデンに脱出させた。すなわち航空母艦「イントレピッド」の四人である。

 これを皮切りに、「もうベトナムで人殺しをするのは嫌だ」と米軍を脱走した兵士をかくまう専門組織「ジャテック」ができた。本書は当時かかわった人びとが、「自分の見聞をはなし、あるいは自分自身で書いた」三十年ぶりの記録である。

徹夜して一気に読んだ。活劇のように面白い。アポロが月に届き、安田講堂が落ち、巷にはフランシーヌ−ヌの場合」が流れていた時代の、中学生であった評者には乗りそこねた時代の、活動と魂の記録である。

 二度目は研究的に読んでみた。いかにかくまったか。スクリーニング(対面調査)−泊める場所の確保、輸送―次に泊める場所の確保−移動−カウンセリング、そのくり返し。いかに多くの人がひそやかに協力したか、運転手、炊き出し、マンションの提供、資金力ンパ、通訳、機関紙編集……。

 「特別な人しかかかわることができない」運動であるよりも「だれでも交代できる」オープンな活動をめざした。とはいえ、スパイが侵入すれは、かくまう場所や協力者の秘匿は不可欠だ。信頼と警戒、このせめぎあいに誠実に対処したことで、この運動は陰惨な結末から救われたように思える。

 脱走兵には「いいヤツもしょうがないヤツも」いたらしい。金は一日で使い果たすわ、ニワトリを包丁もって追いかけるわ、麻薬や女は欲しがるわ、自分の中産階級的な英語と米兵のスラングの落差を感じた人もいた。そう、彼らは反戦の英雄ではなく「具体的に食欲も性欲もある」ふつうのアメリカ人だった。

 いま思い起こす。「その体験によって、私は、根本的なところでなにがしか自由になれた」 「人生はほんとうに豊かなものになった」。いちばん若い担い手が五十代に入りかけ、この活動はようやく後々に封印を解かれ、未来へつながるものとなった。 (作家)

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あなたは脱走兵を助けるか

評者 戸井 十月 (『沖縄タイムズ』1988/6/19夕刊 共同通信配信)

 ベトナムに向かうため、横須賀に投宿(びょう)する米海軍航空母艦・イントレピッド号から、ある日四人の若き兵士が脱走した。日本語をしゃべれず、土地勘も金もない兵士たちは進退極まり、東京・新宿の路上で同世代の日本人大学生に声をかける。

 「安く泊まれるところはないか?」

 大海に小石を投げたような出会いはすくに波紋となって広がり、やがて無数の人々を巻き込んで大きなうねりとなってゆく……。

 そのことにかかわった人々の記憶を集め、整理することで、つまらぬ冒険小説やサスペンス小説の想像力をはるかに超えた「物語」の、始まりから終わりまでを再現したのが本書である。

 ダイナミックでスリリングな「物語」だが、しかしもちろん、これはフィクションではない。ほんの三十一年前の一九六七年、この国の街の隅で、路上で、だれかの部屋の中で、息を潜めてあたりの気配をうかがいながら、しかし無数の人々が確信を持って紡いだ歴史なのである。

 若きアメリカ人脱走兵。彼らの逃避行を助ける日本の青年たち。彼らをかくまい、国外脱出の道を深る日本の大人たち……。「物語の真の主人公は、無数の市井の人々だった。

 そのうねりとネットワークは、やがて「JATEC(ジャテック=反戦脱走米兵援助日本技術委員会)」という名の市民運動体へと組み上げられてゆく。そして「JATEC」は伝説となった。

 この種の「物語」は、それを知らない者たちこそが読むべきだし、読まれてこそ意味がある。つまり、三十一年後の「若造」たちにこそ読まれるべき「物語」なのだ。

 帯に、こう書かれてある。

 ある日あなたが、街角で、駅で、喫茶店で、/ひとりのアメリカ兵から/「僕は軍を脱走して来たんだ。助けてくれないか」/と話しかけられたら、どうしますか? この問いが、届くべき者たちへ届けばいいのだが。

          (戸井十月・作家)

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米兵の脱走援助したベ平連の活動の記録

アメリカやアジアにも誇りうる歴史的事実

評者 鎌田 慧 (『週刊朝日』1998/6/26)

 ベトナム戦争が終わって、二十三年たった。いまではベトナムにたいするアメリカの「経済協力」も強まっている。かつての戦争の記憶が薄らいでいるのは、米軍の出動基地になっていた日本ばかりのことではないようだ。

 それでも、米軍がまき散らした枯れ葉剤は、二世代にもわたって、ひとびとを苦しめているし、敗戦国・アメリカに遺された心の傷の深さは、映画などでも馴染みがふかい。

 日本にとっても、ベトナム戦争は、朝鮮戦争につぐ「特需」をもたらし、その後の「夜郎自大」的な傲慢さを増幅させることになったが、一方では、「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)に代表される、反戦、平和運動をひろげ、政党や労組に依存しない、市

民運動の新しい波をつくりだした。 べ平連の運動で特筆されるのは、脱走米兵を援助して国外に逃亡させた「ジャテック」の活動である。この国際的な反戦運動は、いわば伝説的にしか語られてこなかったのだが、この本によって、新事実もふくめてかなり詳しく知ることができる。

 それはたんにベトナム反戦運動の回顧録というようなものではない。ひとつの「事件」と出会ったひとたちの決断が、どのような豊かなひろがりをもたらしたか、その毛かを具体的に示す例証として、これからの市民運動への勇気をあたえる。

 ジャテックをつうじて、日本から海外へ送りだされた「反戦脱走米兵」は、十九人と公表されている。多いというひともいるだろうし、少ないと思うひともいるかもしれない。

 アメリカの戦争に協力している日本政府のもとで、それも「ガイジン」がいまほど日常的に街を闊歩していなかった時代に、市民が脱走兵を匿い、四方海にかこまれた島国から、非合法的に、海外に逃亡させる困難と葛藤は、たとえば、「金大中」ひとりを韓国にはこぶために、政府の秘密機関が全面的に関わっていなければできなかったことを考えあわせる必要がある。さらに戦争のまっただなかで、兵士が公然と戦争を批判し、「脱走」した社会的衝撃も重ねあわせることも肝要だ。

 六百五十ページにもおよぶこの大著は、当時の関係者の記憶を掘り起こしたポルタージュや証言、脱走兵地震の文章などによって構成される。

 一九六七年十月、新宿の「風月堂」。

若ものたちの溜まり場としてよく知られていた喫茶店の前で、ひとりの学生がふたりのアメリカ人に話しかけられた。それが運動のはじまりである。いわば偶然だった。アメリカ人は北爆のため、横須賀からトンキン湾にむけて出港する航空母艦「イントレピツド号」の乗組員で、彼らはあとふたりの仲間とともに、脱走を決意していたのだから、必然的な出会いでもあった。 その学生がべ平連に連絡したからこそ、四人は無事に横浜港から出港するソ連船に乗り込み、モスクワ経由でスウェーデンヘ亡命できた。その後、釧路沖合の公海上でソ連船にドッキングしたり、羽田空港から偽造パスポートでエールフランス機に搭乗した脱走兵もいる。

 時効になったいまだからこそ、明らかにされた事実である。この国境と法を越えた運動が、やがてアメリカ本国での反戦、厭戦気分と呼応して、ついには、大国アメリカの敗北に結びついたのはたしかなことである。

 クリントンが「徴兵忌避者」だったことはよく知られている。が、「脱走兵」は、彼のような恵まれた存在ではない、というジョン・フィリップ・ロウの手記は、胸を打つ。

 米軍基地の提供国である日本で、米兵の恐怖を信頼に転換させた運動があった事実は、アメリカばかりかアジアのひとったちにも誇りうる。この日米の、ひそかで、こまやかなネットワークの成功は、日米軍事同盟の解消に向う方向を今なお示唆している。

 風月堂に米脱走兵があらわれてから十年たって、アメリカ政府は、「D徴兵拒否者」と「脱走兵」にたいする恩赦を発表した。  (ルポライター)

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