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貧乏記者のアフガン現地ルポH  (11月25日号/182号)

最速の男
カンダハールからカブールへ

 窓の外の闇にかすかに青味が混じるころ、モスクからアザーン(祈りを呼びかける声)が聞こえてくる。カンダハールを発つ日が来た。5時過ぎには荷物をすべてまとめトイレも済ませスタンバイを完了するが、通訳のファクールは、まだ外が暗いので30分後に出発しようという。
 夜明け前の薄暗がりのなかでファクールと話をした。彼はカブールで生まれた。姉が3人、妹が1人、男は彼だけ。父親は彼が12のときに肝臓ガンで亡くなった。母親は主婦だったので、結婚してイランにいる姉が彼の学費を工面して高校まで出してくれたという。「いいお姉さんだね」と言うと、「そうだ」と言って微笑んだ。イランの姉のところへ行くのには、ここからさらに西のニムルーズ州の砂漠を抜けていくのだそうだ。途中の宿はシャージュイの宿よりもっとひどくてドアも窓枠もないそうだ。「そんなところでも金を払わなきゃいけないのか?」と聞くと、「もちろんだ」と言う。
 カブール行きの発着場は客の取り合いで騒然としていた。エイブラハムという22歳のパシュトゥーン人のタクシーに乗ることにした。乗客は私たちを入れて3人。1人25ドル。来るときと同じポンコツのカローラだがスピードがまるで違う。何百回も同じ道を通ったのだろう。道を知り尽くしている感じだ。この国では速さは安全を意味する。腕時計をしている私にときどき時間を聞いてくる。時間に対する意識がある証拠だ。クラクションをほとんど鳴らさないのも好感が持てる。
 この少年の面影を残したドライバーは出発してから一台の車にも抜かれなかった。途中で2回パンクしたが(たいがいの車はスペアタイヤを4、5本積んでいる)、修理中に追い抜いていった車も、そのあとすべて抜き返した。おそらくこの日カンダハールへ向かうドライバーのなかで最速の男に違いなかった。
 ところでアフガンの乗用車の99%は日本車(の廃車)だと前に書いた。ということは当然右ハンドルということだ。しかしこの国では車は右側通行になっている。追い越すときに前方の確認がしにくく危なくてしょうがない。助手席に乗る者は正面から対向車が飛び出してくるわけだからいつも肝を冷やす。車の実情にあわせて左側通行にするべきではないか。カルザイさん。

西洋文化が小便の仕方を変える?

 シャージュイ村を通過したのが11時。パンク2回でも前に雇ったサルドールより3時間速い。遅い上にサルドールはトイレが近かった。ときどき車を止めては砂漠のなかにしゃがみ込む。アフガニスタンでは男もしゃがんで小用を足す。道の途中で車が止まっていると、その周辺では必ず3〜4人の男が座り込んでいた。立ってしている姿はついに1人も見かけなかった。そうなると「連れション」をするときなど、こっちも立ってするのがなんだかとても恥ずかしい。それで座ってすることになるのだが、これがとてもやりにくい。
 アフガンの男の平服はカミース・パルトゥークといって、ゆったりとした丈の長い上着にだぼっとしたズボンの組み合わせになっている。座ってもイチモツを取り出しやすい。しかし私の穿いているジーパンは座ってするようにはできていない。チャックを開け自分のものを引っぱり出し砂漠へ向かってしゃがむのだが、尿道が圧迫されてなかなかオシッコが出てこない。試してみればすぐわかる。
 カブールではドルと英語が氾濫している。若者には西洋風のズボンを穿く者も少しずつ増えてきている。いつか立ちションをするやつが出てくるだろう。と思っていたら、カブールを発つ前日、ついに見つけた。それはジーパンを穿いた小学生くらいの子どもだった。子どもは正直だ。

多民族国家で生きていくということ


 陽が傾いてきた。カブールまであと2時間ほどのところでポンコツタクシーが立ち往生し、数台の車が止まっている。おそらく仲間なのだろう、わがドライバーも車を止めた。見ると後輪の車軸が後ろにずれてタイヤがカバーとこすれている。これは修理工場にでも持っていかなければなおらないだろうと私には思われた。しかしわが最速ドライバーは何やら言いながら自分の車からジャッキを持ち出してきた。それを後輪部分にあてて持ち上げ、仲間に車をバックさせるように指示する。そして数人で車体を支えながらヨッコラショと車軸をもとの場所におさめてしまった。その手際の鮮やかなこと。
 車は再び走り出したが、用心してゆっくり走る仲間の車を先に行かせ自分は後からついていく。少しでも早く着いてほしい客の立場からしたら迷惑な話だが、彼らはこのようにして同じ民族や親戚や家族や仲間で助けあって生きてきたし、助けあわないと生きていけないのだ。
 一方でファクールがカンダハールで見せたように、異民族の街にいるときはピリピリとした警戒心を示す。3年前のコソボでもそうだった。セルビア系の村に入るとアルバニア系の通訳は顔面を蒼白にしけっして車から降りようとしなかった。どちらの場合も恐怖感は具体的だった。多民族国家の平和はもろく、一度壊れると修復は難しい。
 夜のとばりが降りるころカブールに帰り着いた。


 
[街道で「道普請」をする子どもたち]
                     
                    

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