第3回口頭弁論(1999年12月8日) 

準 備 書 面

 【目次】


第一章 米軍による土地接収の経過とその違法性


第三 講和発効後の土地取り上げ

一 基地確保のための一連の法令

 1951年9月8日、サンフランシスコにおいて対日平和条約が締結された。

 右条約は翌年4月28日に発効したのであるが、これにより法的には日米間の戦争状態は終了し、形式的には日本は独立国となった。しかし、その代償として固有の領土の一部である沖縄は、同条約3条により日本から分断され、米軍の無期限かつ排他的な軍事支配の下に置かれた。この間沖縄現地においては、さきに発表されたトルーマンの「対日講和七原則」(その第3項目「領域」では、当時アメリカが享有していたと同じような有利な戦略的地位を引続き確保するため、奄美大島を含む琉球諸島や小笠原諸島を国連の信託統治下におき、米国を施政者とすることとされていた)に対する住民の抗議行動が行われ、沖縄郡島議会においても日本復帰の要請決議を可決し、同郡島政府は、ダレス特使、郡島議会においても日本復帰の要請電報を発した。また政党、民主団体等を中心に日本復帰促進期成会が結成され、全有権者の72%にあたる19万9千人の署名をあつめた。しかし、本土においてはいまだ沖縄問題の重要性は認識されず、ついに屈辱的な平和条約が調印された。

 さて、平和条約の発効により、米国の「占領」は形式的には終了するこになり、従来のへ-グ陸戦法規等の国際法、国際慣習を根拠とする軍用地の使用は、その法的根拠を失うことになった。

 講和後も引き続き沖縄の米軍基地を確保する必要のあった米軍としては、土地所有者との契約によるか、または強制収用によるかのいずれかにより、軍用地の使用権限を取得するための法的措置が必要であった。

 極東軍司令部は1952年4月30日前述の1950年12月5日付の極東軍総司令部指令を改正し、その中で米軍の基地確保に関する基本政策を明らかにした。これによると米民政府副長官は米軍の必要とする財産を「できるだけ談合のうえ購入する」ことが望ましく、もしこれができないときは「収用手段をとること」ができ、場合によっては購入をなすまでの間これを「強制的に徴発したり、借用したりすることができる」とされている。

 右指令をうけて沖縄の米軍は、既接収地の使用権限及び新規接収を根拠づける布令布告を左記のように次々と発布し、軍用地使用についての法的追認を行うと同時に新たな土地接収を強行していった。

 1952年11月1日   布令91号「契約権」
 1953年4月3日    布令109号「土地収用令」
 1953年12月5日   布令26号「軍用地域内の不動産の使用に対する補償」
 1957年2月23日   布令164号「米合衆国土地収用令」
 1969年2月12日   布令110号「賃借権の取得について」

 右の布令布告は、土地所有者の意思を無視して土地支配の「合法」性をつくろうための単なる形式にすぎないものであり、近代文明諸国に共通の権利保護規定、今日の国際法の条理に違反するものである。

二 土地取り上げの実態

 既接収地の使用権限及び新規接収の根拠となる「法令」の整備を終えた米軍は、那覇市安謝、銘苅地区、宜野湾市伊佐浜、伊江村真謝、西崎地区、那覇市具志等の各地において武装兵を導入して次々と新規の強制接収を行っていった。これは講和前にも例がないもので、住民に大きなショックを与えた。このような米軍の態度に対して住民は各地において米軍の銃剣とブルドーザーの前に座り込む等、時には米軍との流血騒ぎを起こす程の激しい抵抗を示した。

 以下、各地における土地接収の個々の事例について述べる。

1 銘苅・安謝の例

 那覇市の北部、銘苅、安謝、平野、岡野、上之屋、松原等の部落のある一帯の地域を米人住宅用地とする計画は、1947年頃からあったようである。

 収用計画では、この地域の収用を五期に分け、1955年の収用を最後に計画を完成する予定であった。

 1952年の収用は、その第三次計画であった。

 1952年10月16日、安謝、銘苅、岡野、平野の四部落の土地15万8109坪に対し、米軍から収用通告が発せられた。これによれば、同年12月10日までに土地を明け渡せというのであった。

 右のうち平野部落は国有地に建てられた基地労働者の宿舎であったから、立退きの影響は少なかったが、他の三部落、ことに94戸(430人)の農家をかかえている銘苅部落の場合は深刻であった。

 ところでこの収用通告は講和後初めてのケースであったため、立法院では、米軍にかかる強制収用権はないと主張し、当時の法務局も「この指令は別に強制的なものではない」という見解を明らかにしていた。ところが米民政府は、あくる1953年4月3日突如として布令109号「土地収用令」を発布し、4月10日これに基づき右土地に対して収用通告を発した。しかも、翌11日早朝には米軍武装兵の銃剣に守られたブルドーザーがやってきて、収用地域内の農地を次々と破壊していった。こうした強制的土地取上げは、講和後の政策についていくらか緩和を期待していた住民にショックを与え、その根拠法令である土地収用令は「占領権力」の象徴として住民の非難を浴びることになった。

2 読谷村渡具知部落の例

 同部落に対して立退通告があったのは、1953年1月であった。次いで3月、行政主席を通じて通告がなされ、8月22日には正式文書がおくられてきた。収用面積は約30万坪、立退戸数は153戸(670人)である。その中には母子世帯が48戸もあり、また一般に生活困窮者が多かった。部落の7割は農業で、農漁兼業が30〜40戸、その他に軍作業若干名という構成である。同部落は前述の楚辺部落同様、四度目の移動で旧部落に復帰したところであった。

 立退通告があった後は、米民政府土地係の二世が頻繁に部落にやってきて、立退を強要した。「立退がなければ布令109号を発動するばかりだ」という脅迫と、「言うことをきけば沖縄一の模範部落を作ってやる」という甘言を用いた「折衝」が執拗につづけられた。こうした中で同年9月1日の部落常会では、生活補償に関する9条件が認められれば立退いてもよい、という線まで後退するに至った。

 しかし、この9条件については、民政府からなんらの回答もなく、補償についての具体案の示されないまま、9月6日には右の二世がトラック2台を持ってきて部落の一部に対して立退きを求めるなど、米軍による圧力は日増しに激しくなっていった。「米軍に協力する意思があるなら、そのことを示してもらいたい」こうした二世の論法は、立退き反対は米軍に対する非協力のあらわれであり、それ即ち「反米」であることを言外ににおわせており、「反米」のレッテルを極度におそれていた住民に対しては十分に心理的な効果を発揮するものであった。

 こうした米軍の圧力の中で部落民は次第に条件派と反対派にわかれ、条件派は更に無条件派に変わっていった。無条件派といわれる人々の主力は基地労働者や青年団幹部であり「アメリカにさからってはいけない。アメリカは決して悪いようにはしないだろう。われわれはアメリカに協力しなければならない」というこの派の主張が次第に部落の反対派の勢力を抑えていった。

 無条件派は外部に情報を漏らさないよう警戒しはじめた。取材に向かった新聞記者は部落民と会うことを禁じられ、部落外まで連れ出されるといった状態であった。

 こうした中で、9月13日の部落常会は遂に無条件立退を決意し、翌14日から立退が開始された。

3 具志部落の例

 小禄具志部落は、那覇航空隊の南端と境を接しており、戸数300戸、人口1500人で、戦前は84町歩の土地を有し、消費都市那覇を控えて比較的恵まれた生活をしていた。ところが、戦争で土地の大半を軍用地にとられ、わずかに8町歩を残すのみとなった。この8町歩の土地のうち6町歩に対して、1953年11月6日軍命令で明渡が言い渡された。通告書によれば、「この土地は必要であるから、できる限り早急に農作物を撤去せよ。ただし、この土地は那覇飛行場総合計画(マスタ−・プラン)地域に含まれているから、農作物の損害賠償は支払われない」というのである。

 マスター・プラン地域とは、米軍が基地建設を計画して軍用地として留保している地域のことらしく、外観上はなんら他の私有地と異ならないが、実際には農民に解放したわけではなく、単に耕作を黙認しているにすぎない、ということらしい。しかし、米軍のマスター・プラン地域と称するものは、その場所も範囲もあらかじめ住民に公表されておらず、米軍がある地域からの立退を要求するに当たって、この地域はマスター.ブラン地域であると一方的に通告しているにすぎない。マスター・プラン地域であるという米軍の主張には土地接収を合法化し、接収を容易ならしめるための口実という感じを拭えない。土地を必要と考えるときは土地収用令を発動するまでもなく、その土地はマスター・プラン地域であると宣言すれば足りるわけである。

 米軍は具志部落に対してマスター・プラン地域であるという名目を用いたが、後述の伊佐浜部落についても同様であった。このような米軍の強引なやり方が住民の不信感をつのらせたのは当然であった。

 ところで、具志部落についていえば、米軍はマスター.プラン地域だというが、この土地は文書によらず口頭をもってなされたから、証拠書類はないが、解放されたことは事実である。部落民も村当局もそう主張した。

 部落民は村の立退対策協議会(1953年2月、同村高良、具志に対して立退命令が発せられたときに結成された)において対策を協議した結果、この土地は具志部落の最後の生命線であるから、絶対に守りとおさねぱならないという方針を決定した。ただそうなると銘苅部落で経験したように、米軍の実力行使ということも覚悟しなければならないが、これに対してどのように対処すべきか。具志の農民が選んだのは、やはり実力をもって阻止するということであった。米軍の強制接収が行われるとき、部落の警鐘を乱打する。これを聞いたら部落民は直ちに現場にかけつけて座り込みを行う、という手筈がととのえられた。米軍の実力行政は意外なほど早くやってきた。12月5日朝、部落の農民が畑に出てみると、すでに米軍のブルドーザーによる地ならしが始まっていた。直ちに部落の警鐘が乱打され、農民が押しかけて、作業を中止させたが、一時間後にトラック5台に分乗した武装兵が到着して、ブルドーザーの前に座りこんでいた農民を排除しはじめた。戦車が待機したり催涙弾が準備されるなど物々しい警戒がしかれ、具志部落はさながら戦場のような有様であった。

4 伊佐浜部落の例

 伊佐浜部落の水田13万坪に対して農耕禁止の通知がきたのは、1954年7月8日である。もっともこの日は口頭で農耕禁止が言渡されただけで、その理由が文書で明らかにされたのは14日である。理由は、水田で蚊が発生して脳炎を媒介するおそれがあるということだった。

 伊佐浜に土地を有する農民は、伊佐、喜友名、安仁屋の四部落50戸(2341人)であり、そのうち農業専業は370戸(1883人)で他は兼業か小作をさせている地主である、農家の構成は、自作248戸、小作56戸、自作兼小作34戸、小作兼自作30戸となっている。またこれらの農家のうち耕作禁止によって、農地皆無となるものは236戸(64%)であった。

 この四部落のうち、中心となるものは、伊佐区であり、なかでもこの土地の中に住んでいる伊佐浜部落(32戸)は全部が土地を失うため、最も被害が大きく、反対運動の中心となった。

 米軍による農耕禁止の理由は、水田に蚊が発生する、というのであった。そこで住民は、極力その防除に努めるから植付禁止を解除してほしいと陳情し、琉球政府経済局も意見書を提出して、行政指導に努める旨を確約した。

 しかし、単に蚊が発生するという理由で農耕を禁止するのは頷けない。土地利用の前触れではないか。立法院ではそうした疑惑を抱き、米民政府にその真意を打診してみた。しかし、民政府は、これに対し、土地収用の計画はない。衛生的理由のみであるから水田を埋めて畑にすれば耕作を許可しても良い、と言明し、米軍は住民の耕作を歓迎していると附け加えた。

 ところが民政府当局の右のような言明にもかかわらず、それからしばらく経つと、当の民政府自身が立退通告の書簡を送ってきた。これによれば、13万坪の土地は、A・B・Cの3地区に分けられ、A地区は8月1日までに、B地区(32戸の部落が含まれている)は10月1日までに、C地区は11月1日までに明渡すこととされている。さきの民政府言明で安堵の胸をなでおろしていた住民は、虚をつかれて狼狽し、琉球政府や民政府に接収中止を陳情したが、民政席は、この地域はマスター・プラン地域であって、米軍の基地建設にとって必要であるから考慮できないと回答してきた。立法院の陳情決議についても、合衆国が必要とする土地は接収するだけであるという冷ややかな回答がかえってきただけであった。

 陳情運動が続けられているうちに、A地区の立退期限はすぎ、1月余り経過していた。9月9日早朝、突如D・E(Ditrict Engineer 地区工兵隊)のブルドーザーがA地区にあらわれ、地ならしを開始した。驚いた農民がかけつけて工事を中止させたが、そのため、区長らがMPに逮捕され、基地内に連行されるという騒ぎになった。こうした米軍の実力行使がきっかけとなって、喜友名、新城、安仁屋の農民が条件闘争に切換え、伊佐の農民も遂にこれと歩調を揃えることになった。そこで要求を8項目にまとめて提出し、宜野湾村、琉球政府、民政府の三者でこの条件に付いて協議が行われ、関係農民に代替地と家屋移転費、転業資金の斡旋等について協議がまとまり、関係農民に諮ることになった。伊佐浜の農民としては部落ごとに移動するのであるから、代替地の条件を最も重要視していたのであるが、それが要求の3分の1しか認められず、一戸当たり47坪程度に抑えられたので、はなはだ不満であった。しかし、村長からは、これを受け入れないと強制収用されるといわれ、他の三部落からも、強制収用されたときの責任をもつかとつめよられ、遂に右の条件で立退きを承諾することになった。ところが、同部落の主婦の間から、こうした妥結について、不満の声が上がりはじめた。主婦達は、生活の見通しもつかないまま立退を承諾したことに憤慨していた。村長の責任が激しく追求され、伊佐浜部落は、再び接収絶対反対の態度を固めることになった。その後の陳情運動ではこれらの主婦達が主たる役割を占めるようになった。

 立法院は、この主婦達の切実な訴えに動かされて再び収用中止の要請決議を行い、民政府と折衝をつづけたが、民政府の回答は一貫して変わらなかった。

 こうした軍民の対時した中で、1955年3月11日、遂に武力による強制収用が執行された。米軍の通告によればA地区の工事だということであったが、当日になるとB地区に対しても地ならしを始めたので、住民はこれを阻止しようとして農地に座りこんだのである。そこで武装したMPが出動して実力行使の挙に出たのである。

 この伊佐浜の事件と前後して、伊江島でも武装兵による土地取上げ、家屋取壊しが行われ、これらの相次ぐ武力発動は住民の反対運動をますます激化させることになった。各地で抗議集会が開かれ、世論は米軍の赤裸々な暴力に激しい非難を浴びせかけた。また、これらの事件は日本本土にも伝わり、朝日新聞で大々的に報道されるに至って大きな反響を呼び起こしていった。こうした運動の高まりの中で、伊佐浜部落は収用絶対反対の態度を一層たかめ、再び行われる強制収用に対する対策を練りはじめた。

 7月11日、米軍から重ねて通告が発せられた、期限は同月18日である。

 部落は立退指令に応じないという方針を再確認し、その日を迎えた。部落は暁の収用を予想して、前の晩から徹夜で警戒していた。当日は早朝から、強制収用を案じた人達が各地から集まって来た。その数は時が経つにつれて増え、遂には数百名に達した。これらの人々はそれぞれ個人の資格で参加したものばかりであったが、ともかくもこうした支援の手が差しのべられたのは、これまでの収用に見られなかった現象であった。

 遂にその日は米軍は現れなかった。各地から集まった人々は、伊佐浜の農民を中心に大会を開き、「土地を守る会」を結成して、支援態勢を強化することを申し合わせた。しかし、翌19日未明、米軍の武装兵はトラック数台に分乗して現場に到着するや、付近の交通を遮断し、厳戒体制のうち伊佐浜部落の家屋の撤去を開始した。こうして伊佐浜部落は取り壊され、部落民は一時大山小学校に収容された後、8月の末、美里村高原の部落に土地を求めて移動していった。

5 伊江島の例

 1953年7月15日、伊江村に米政府土地係の二世がやってきて、同村真謝、西崎の土地に半径300フィートの地上標的を作るから農地を明渡せと通告した。明渡面積は約7万5000坪、両部落の農地が含まれている。

 村長はこの通告を受けて、中止を陳情するため那覇に出かけていった。その留守中に、米軍は右土地の地上物件を瞬く間に調べ上げ、「調査が済んだという証拠を上官に提出するため」と称して農民に署名を求めた。ところがこの書類が「立退同意書」であった。1954年6月20日、米軍は工事に着手し、圏内の四戸を立退かせた。

 射撃場の工事が終わると、早速空軍の爆撃演習が始まり、林野に火事おきたり、農作物が被害を受けることが多くなり、農民達は食糧難に苦しめられるようになった。

 ところが更に同年8月27日には米軍の係官数名が村役場を訪れ、射爆場の拡張を通告してきた。今回の拡張予定地は、真謝区78戸、西崎区74戸が含まれている。10月4日、民政府土地係が村長に「移動計画を提出するよう」勧告したが、村民はさきの四戸の立退でいかに農民の生活が破壊されるかを目の前に見ているので、容易にこれに応ずるとは思えなかった。村長は接収中止を懇願したが、至上命令だからといって取り合ってもらえなかった。種々の問題は移動後において解決しよう、まず立退いてくれ、というのが米軍の言い分だった。

 伊江島の住民が陳情をつづけるうちに、米軍から「農耕は許可する、演習は中止する」という通達があった。ところがそれから4日目の11月19日、突然米軍の測量隊がやってきて測量を開始した。驚いた住民は再び陳情運動を展開したが、米軍の方針を変えさせることはできなかった。米軍からはいくつかの条件が示されはしたものの、それは移動のための費用にすぎず、農民にとって肝心の代替地についてはなんら具体的な条件は示されなかった。

 伊江島は島全体が狭いうえに、大半を軍用地にとられているので代替地のあろう筈がなく、米軍も農民も代替地をみつけることは困難であった。この困難は農民が背負うべきものとされ、米軍は代替地が見つかれば多少の援助をしようというにとどまった。当然軍民間の折衝は行く詰まらざるを得ない。

 3月10日、米軍は、いかなる事情があろうとも演習を行う、そのため近くこの地に入域すると言ってきた。

 翌11日、ちょうど伊佐浜部落に対する武力発動が行われたのと同じ日に、米軍の工兵隊が伊江島に上陸し、演習予定地に杭を打ち始めた。急を聞いてかけつけた農民が中止するよう嘆願したが、米兵によって一人一人隔離され、身動きもできなかった。こうした空気の中で身振り手振り嘆願した老農夫が逮捕され、軍事裁判にかけるため連れ去られるという事件が起こ起こった。事件は被害者が善良な老農夫にすぎなかったため、米軍の暴圧をひときわ浮き彫りにし、住民の反感をそそることになった。

 しかし、伊江島問題の中で最も反響を呼んだのは、それから二日後の強制接収であった。同日朝、米軍の工兵隊は武装した憲兵隊に守られて真謝部落に到着し、同部落の13戸に対して取り壊し作業を開始し、ブルド−ザ−で家屋や飲料水、洗濯用の貯水タンク(同部落は水利が悪いため天水を溜めて使用していた)を破壊していった。23戸の農民はテントを貸し与えられ琉球政府の支給する食糧で当座をしのいだがその後政府から1人一日20円(B円)の生活保護と飲料水の補給を受けることになった。しかし右の生活保護は「軍用地の耕作を許されているから」という理由で、5月1日以降打ち切られてしまった。その農耕許可というのは、週二日、土曜日と日曜日に許されることになっていたことを指している。しかし、実際には土曜、日曜も演習があってほとんど農耕はできなかった。

 こうして、少ないながらこれまで支給されていた生活保護も打ち切られると、農民は最後の手段を選ばねばならなくなる。部落民は棚内、棚外の農作物を共同で取り入れて部落民全部に公平に分配し、飢えを凌ぐとともに、実力をもって棚内の農地に入り、爆撃演習下の農地で農耕を開始した。(以上、1968年1月発表された日弁連調査報告書による) 以上いくつかの例を見てきたが、講和後プライス勧告までの期間における土地接収はほとんど武装兵による強制接収の形をとっており、軍事優先政策が露骨に押し出されていたことが目立った。このような米軍の態度には、沖縄は米国に自由使用を許された地域であるとの考えが基礎にあった。しかし、いかなる理由をもってしても、人権を侵し、住民の生活を破壊することまで正当化できるものではない。

三 講和後の土地接収の法的根拠

 米軍は、講和前の土地接収については、ヘーグ陸戦法規を根拠として説明しようとしたが、講和条約発効後になると、ヘーグ陸戦法規は用いることができなくなり、代って米軍が根拠にしたのは、平和条約第3条によって米国に与えられた「施政権」(暫定的統治権)であった。米軍は、この施政権に基づくものとして、土地収用、使用に関する一連の布告、布令等を連発した。

 まず、講和条約発効直後の1952年(昭和27年)4月30日、極東軍事総司令部は、「指令」を発し、米民政副長官は米軍の必要とする財産を「できるだけ談合のうえ購入する」ことが望ましく、もしこれができないときは「収用手続をとること」ができ、場合によっては、購入をなすまでの間これを「強制的に徴発したり、借用することができる」とされている(同指令2D)

1 布令91号「契約権」

 右指令の趣旨にそって最初に出されたのが、布令91号「契約権」(1952・11・1)である。

 同布令によれば、まず琉球政府行政主席が土地所有者と個々的に土地賃貸借契約を結ぶ権限と職務を有し、次に行政主席が契約を締結すれば、当該土地は同布令の定めるところにより、自動的に米国政府に転貸されることになる。

 この布令によると契約の期間が1950年7月1日から20年間とされている。なぜ1952年11月1日に公布された布令に、契約の始期を1950年7月1日にさかのぼらせるのか、それは、当時米軍が住民の要求に押されて軍用地の使用料を支払う計画を樹てており、その始期が1950年7月1日だったからである。米軍としては、軍用地料の支払いと抱き合わせにすれば、軍用地の契約もスム−ズにいくと考えたのであろう。しかし、住民側にしてみれば、1950年頃の安い地代で、しかも20年間の長い期間に亙る土地の使用を認めさせられるのは、我慢のならないことであった。結局こうした住民の反対で、土地の契約は殆んどが失敗に終った。

2 布令109号「土地収用令」

 布令91号による契約が各地で住民の反対にあって失敗に終ったので、米軍は極東軍総指令部の「指令」に基づいて、布令109号「土地収用令」を公布した。

 この布令によれば、収用告知後30日以内に土地所有者は土地を米軍に譲渡するか否かを回答しなければならない。拒否の理由が使用料に関するものであれば、その点についての訴願が許されるが、そうでないときは、30日の経過により収用宣告が発せられ、土地に関する権利は米国に帰属する。しかも右の期間中といえども、必要があれば直ちに立退命令を発することができる。

 このような収用手続を内容とする布令を発布した米軍は、果たしてアメリカ合衆国憲法の保障している適正手続条項を頭の片隅にでも思い浮かべたことがあるだろうかと疑いたくなる。しかも、このような簡単な手続でさえも、現実の運用面では守られず、銘苅部落の土地接収の場合など、収用告知書が村当局に届いた翌日、武装兵による強制収用が行われたのである。

3 布告26号「軍用地域内における不動産の使用に対する補償」

 布令109号は新しく土地を接収する際に用いられたが、すでに講和条約発効前から使用されている土地については、講和後米軍の使用を正当づける法的根拠を欠いたままであった。そこで、米軍が出して来たのが布告26号(1953・12・5)であった。この布告の内容は、要旨次のとおりである。

 米国は該土地が収用された1950年7月1日及び翌日から「黙契」(implicd lease)により借地権を取得した。この米国の土地を保有する権利は、何ものによっても永久に害されない。米国は自らこの権利を登記する権限を与えられる。土地所有者は賃借料に不満があれば、琉球列島米国土地収用委員会に訴願できる。同委員会の裁定は最終的であり、永久に双方を拘束する。

 この布告が土地所有者と米国との間で土地の使用について「黙契」ができたという1950年7月1日は、沖縄の軍用地使用料の算定の始期と一致する。つまり、土地所有者は過去の軍用地使用料を受領したから、「黙契」により土地賃貸借契約が成立したという論理である。この論理についての批判は後で述べるが、この布告によって、米軍は講和後の土地使用の法的根拠を作りあげようとしたのである。

4 布令164号「米合衆国土地収用令」(1957年2月23日公布)

 さきに述べたように、米占領軍は布令109号「土地収用令」、布告26号を発布して、沖縄の土地を接収していった。それら布告、布合の運用の実態は後述するとおりであるが、土地接収の特徴が、武装兵による実力行使という極めて露骨なものであっただけに、県民や本土世論の総反撃を受け、以後の土地接収(新たな収用又は既使用地の使用権の獲得)が困難となった。

 そこで米本国では、この膠着状態を打開するために、米軍が使用している土地の使用料として地価相当額を一括して支払い、そのかわりその土地を無期限に使用するという、いわゆる「一括払い方式」を考え出した。この方式が実行されると、沖縄の米軍用地は、実質的に米国に買い上げられてしまい、永久に返ってこないことになる。

 この米国の方針は、1954年3月に米民政府から発表されたが、この報道は、沖縄県民にとって大変な衝撃であった。県民世論は猛然と反発し、当時の県民の代表である立法院は、のちに有名となった、いわゆる四原則決議を議決し、「アメリカ合衆国による土地の買い上げまたは永久使用、地料の一括払い」に反対したのであった。これらの県民の反対運動を受けて、県民代表がワシントンに派遣され、その県民代表の要請に応えるという形で、米下院軍事委員会から、メルビン・プライス議員を団長とする、いわゆる「プライス調査団」が沖縄に派遣された。

 この調査団が米国に帰って発表したのが、いわゆる「プライス勧告」である。この勧告の結論は「無期限に使用する必要のある土地については、永代借地権(fee title)を取得すること。これに対する補償は一括払いが望ましい」というもので、結局米国政府の既存の方針を確認したにすぎないものであった。

 これに対して、沖縄の世論は激昂し、当時の立法府、行政府まで巻きこむ、いわゆる「島ぐるみ闘争」が展開された。那覇高等学校校庭では、沖縄の戦後史上初めてという10万余の大衆を集めて、「一括払い反対決起集会」が催された。

 こうした県民の反対運動に対しては、米軍からも様々の圧力や弾圧がかけられたが、この間に出されたのが、布令164号「合衆国土地収用令」(1957・2・23)である。

 その内容は、第一に、従来の布令109号、布告26号より米国が取得した権利は、こんご布令164号による権利として引き継がれる。第二に、権利の内容としては、「限定付土地保有権」(doterminable estate)、「定期賃借権」(leasehold)、「地役権」(edsement)の三種類とする、という点に特色があり、収用手続は、布令109号と大同小異である。この布令は、布令109号・布告26号を集大成し、これに「一括払方式」を盛り込んだものである。

 この布令に対しても、当然県民の反対が強く、軍用地をめぐる紛争は益々混迷を深めていった。

5 布令20号「賃借権の取得について」(1959年2月12日公布)

 右に述べたような、「軍用地問題」打開のため、県民代表が再びワシントンに派遣され、米政府に対し、「一括払い反対」の要請を行った。その結果、米政府は代表団を沖縄に派遣し、沖縄現地で地元代表と折衝して問題の解決を図ろうということになった。

 いわゆる「現地折衝」は、1958年8月11日から11月3日まで行われ、妥結案が成立し。「一括払い方式」は、土地の買い上げという性格のものから、土地使用料の前払いという性格のものに変えられ、そのかわり、沖縄側としても、土地に対する米軍の賃借権を認めるということになった。

 こうして現地折衝の妥結案にもとづいて出されたのが、布令20号である。

 同布令によると、従来米国が占領してきた土地については、1958年7月1日に溯って、米国の占有権原が認められる。その占有権原の種類は、「不定期賃借権」と「5ケ年賃借権」の二種類である。不定期賃借権とは、米国の必要とする期間、いかなる制限もなしに使用しうる賃借権とされ、5ケ年賃借権は、その期間が5ケ年に限定された賃借権である。

 これらの賃借権の取得方法は、まず琉球政府が土地所有者と契約し契約が成立すれば琉球政府が合衆国と総括賃借契約を締結して転貸するのを原則とするが、琉球政府が土地所有者との契約に成功しなかった場合は、高等弁務官が収用宣告書を提出して強制収用することができる。また、米国が緊急に使用する必要のある場合は、いつでも「即時占有譲渡命令」を発することができる。

 この布令は、先に述べた布令91号、布令109号、布令164号の総編集という内容のものである。

 この布令は、沖縄の復帰の日まで、米軍の土地使用に形式的法的根拠を与えた法令であり、復帰後の土地使用法令の前提をなすものとして重要である。

四 講和後の土地接収の違法性

1 布令109号による土地接収の違法性

 布令109号では、米軍の収用告知が会った場合、土地所有者は告知後30日以内に、収用を受諾するか否かを回答しなければならず、拒否する場合には訴願が許されるが、訴願に対しては、価格及び適正補償に関する点だけが審理決定されるのみである。

 収用告知後30日を経過したときは収用宣告が発せられ、土地に関する権利は米国に帰属する。但し、前記30日の期間中であっても、米国が緊急に占領し、かっ使用する必要があれば、直ちに明渡しを命ずることができる、旨規定されている。

 ところでこの布令では、米国がどのような場合に土地を収用することができるのか、換言すれば、権利取得のための目的、要件について何ら規定するところがない。この立法の上からは、米軍が必要だということが至上命令であって、これに制限を加えるものは何もない。その意味では、この土地収用令は米軍の土地接収に形だけの法的根拠を与えることのみが目的とされ、適正な手続により土地所有者の権利を保護しつつ、公共の私益との調和を図るという側面が全く無視されている。この布令には、収用の手続はあっても、何らの適正性はなく、したがって、これは「適正手続を規定した法令」というより、単なる米軍の内部用の手続規定にすぎないというべきである。このことは、収用の適法性について争う方法がないこと、訴願はあっても、それは価格および補償に関してのみであること、また、たとえ訴願があっても収用宣告を発する妨げにはならないことなどが規定されていることによって、なおさら明らかであろう。

 とくに問題なのは、収用告知後30日を経過しなくても、米軍が緊急に占領し、かっ使用する必要がある場合は直ちに明渡しを命ずることができる。30日という期間が立退準備に必要な期問としてはいかにも短かく極めて冷酷な規定であるのに、この30日の期間すら守らなくてよいということになると、米軍は、いつでも好きなときに一方的に強制収用することができるということであって、このことは収用告知書が土地所有者に到達する前に武力接収した安謝、銘苅の例で経験ずみのことである。かかる人民の権利を不当に侵害する布令による接収は、国際法及び当時潜在主権を有していた日本の憲法の許容し得ない無効なものであったといわなければならない。

2 布告26号による土地接収の違法性

 布告26号が発布された経緯やその内容については、さきに簡単に触れておいたが、ここでは、同布告が土地使用権発生の論拠とした「黙契論」について、その不当性を明らかにしたい。

 布告26号はその前文の冒頭において、「1907年10月18日の第4回「ヘーグ会議」において定められた陸戦法規及び陸上戦闘の規則、慣習に関する規定第3節第52条の条項に基き、合衆国軍隊は、占領軍が必要とする不動産を収用し、これを占有した」と述べて、講和条約発効前の土地使用がヘーグ戦闘法規を根拠にするものであることを明らかにするとともに、続けて、「対日講和条約第2章第3条によって合衆国に与えられた土地収用権に基き、合衆国軍隊は、1952年4月28日以後、更に、合衆国軍隊の必要とする他の不動産を占有し、これを使用した」と述べて(第2項)、講和条約発効後の土地の使用の根拠が平和条約第3条によって米国に与えられた統治権に基くものであるという米国の考えを示した。

 しかし、その後につづく前文の第5項では、「該土地が収用された1950年7月1日及びその翌日から合衆国においてはその賃借についての黙契とその賃借料支払の義務が生じ、当該期日現在で合衆国は賃借権を与えられた」とも述べている。

 そこでまず疑問となるのは、1952年4月28日以降の米軍の土地使用の根拠を、当の米軍は何と考えていたのか、ということである。前文第2項からすると、平和条約3条によって米国に与えられた統治権が、即「収用権」になり、なんらの法的手続を採るまでもなく、米軍は当然に土地の使用権を取得したことになるとも認める。そうであれば、1950年7月1日に「黙契」によつて土地使用権を取得したという前文第5項との関係はどうなるのか。同布告は前文において、まずこのような矛盾を露呈している。

 次に、さきに引用した前文冒頭の部分では、占領期間中の土地使用を戦時国際法にもとづく強制的な徴発であるといい、前文第5項では、同じ占領期間中1950年7月1日以降は「黙契」による賃借権であるといっている。これも自家撞着した見解であり、明白な矛盾である。

 そもそも、米軍が占領中から強制的に使用していたという事実によって、その土地の使用者との間に、暗黙の合意による賃貸借契約が成立し、平和回復後もその関係が継続されるというのは、土地の私有財産制を認める文明国民の間では、とうてい通用することのない暴論である。

 米軍の見解によれば1950年7月1日以降の土地使用料を受けとったから、それによって暗黙の賃貸借契約が成立したというのであろうが、その使用料は、補償料というべきものであって、賃借料ではない。沖縄県民は当時そう考えていたのであり、1954年4月30日に立法院で成立したいわゆる「土地問題に関する四原則決議」でも「現在使用中の土地については適正にして、完全な補償がなされること」という項目を掲げている。

 従って、「黙契論」が国際社会において、土地使用の法的根拠として承認されうるはずはなく、同布告を根拠として、講和後土地を接収、使用したのは、明らかに違法といわざるをえない。

3 布令20号による土地接収の違法性

 布令20号は、布令91号、布令109号、布令164号という一連の収用法令の流れを受けて発布された法令である。

 これは、右に挙げた法令に対する県民の抵抗を柔らげるため、琉米代表による現地折衝という手続を経て米軍が制定した法令であり、布令164号で定められていた「一括払い」「限定付土地保有権(実質的には土地所有権)の取得」という点を修正して「不定期賃借権」を規定しているが、内容は前記の布告、布令を集大成したものに外ならない。

 例えば、琉球政府が土地所有者と賃貸借契約を結び、琉球政府はアメリカ合衆国に対して転貸する、という点は布令91号に定められていたし、この契約が成立しなかったときは、米国「収用宣告書」を発することができ、必要によつては宣告書を発する以前に直ちに明渡を命ずることができるということは、布令109号、布令164号に定められていたものである。

 従って、布令20号という法令に対する批判は、右の各布令に対する批判(布令164号に対する批判は布令109号に対する批判とほぼ同様であり、布令109号より「限定付土地保有権」という考え方を持ち込んだ点で、より悪質である)を引用することで足りる。

 ただ、布令20号の場合、琉米間の現地折衝という「手続」を踏み、その妥結を受けて同布令が出され、土地所有者も同布令によって琉球政府と「土地賃貸借契約」をし、琉球政府がアメリカ合衆国に土地を転貸するという形がつくられている点については、若干コメントが必要かもしれない。

 しかし、琉米の双方の代表による「現地折衝」なるものが、そもそも対等な独立国間の交渉ではなく、「占領者」たる米軍(米民政府)と「被占領者たる沖縄県民」との間、あるいは米軍の一方的任命による主席が長で、米軍の代行機関たる性格しか有しない「琉球政府」との間の圧倒的に軍事力、政治力の違う者同士の交渉であり、それまでも15年もの間米軍事権力の「力」をいやというほど見せつけられた沖縄県民あるいは「琉球政府」に、基本的な点で「否」と言える状態になかったことを考えれば、この現地折衝なるものも、民主的手続という粉飾を凝らすための一種のセレモニ−であり、その実質は多少譲渡しても米軍の基地維持目的を合法化しようとしただけのものにすぎない。その証拠に、現地折衝前と現地折衝妥結後とで、布告、布令の内容なに一つといつてよいほど変わりがない。変わったものといえば、米国が導入しようとしていた「一括払い」「土地買い上げ」が、「不定期賃借権」「土地使用料の前払い」に修正された点だけである。従来の土地使用を合法化し、将来の土地使用の法的根拠を得るということでは米国は、講和条約発効以来の方針を貫いている。

 こういう、米軍権力の前に屈した「妥結案」によって、沖縄県民は「琉球政府」と「契約」させられていき、かくして土地は米軍に提供されていったのである。このような「米軍権力の下での契約」、この米軍権力によって制定された布令20号の下での「契約」は、契約の名に値せず、いかなる意味でも自由な意志に基づく契約とはいえず、従って、従来の米軍の「実力による使用」を合法化する法的根拠とはなりえない。


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資料提供:違憲共闘会議


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