No. 78 | ||
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1996年9月15日 | ||
東京都千代田区三崎町 | ||
2-2-13-502 | ||
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沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック |
ついに9月13日午後、知事が公告縦覧に応じてしまった。
21世紀にわたって沖縄の基地が固定化される恐れが、これによって強まることにならないのであろうか? 50億円の振興対策金が、2015年までの基地撤去プランを葬り去ってしまうのではないのか?
着席した三好裁判長、
「開廷します。」
「本件上告を棄却します。」
「閉廷します。」
これで終わり。
まことにあっけない幕切れ。前回(七月十日)のあの証言を、最高裁の裁判官たちはどう聞いていたのだろう?理由も述べずに、足早に立ち去る裁判官の後ろ姿は、橋本内閣の番犬の黒い影に変わった。
こんな、憲法を無視・否定した判決に、傍聴席は抗議と要求の声で騒然となった。その声を押さえるように、
廷吏 終了しました。法廷は終わりました。
傍聴者 理由も言わずに閉廷とは何だ!裁判官を呼んで来い。
廷吏 裁判は終わりました。こちらからお帰り下さい。
傍聴者 裁判官の国民審査の時、Xをつけよう!
それまで待ってられない!
廷吏 どうぞ退廷して下さい。
傍聴者 理由を聞かずに帰れるか!
裁判官を呼んで来い!
理由を聞かせろ。
廷吏 判決理由は代理人に渡してあります。代理人にお聞き下さい。
傍聴者 理由を聞きたいから来ているんだ!
直接聞かせろ!
なぜ言わないんだ!
廷吏 退廷して下さい。
傍聴者 法廷の様子を裁判官に伝えて、どうしましょうって聞いて来い!
廷吏 退廷していただくのが私の仕事です。
傍聴者 理由をきかなければ帰れない!
こうした抗議・要求を背に、某氏から「反戦地主や弁護士の方々は、外に出られました。外の集会に合流しましょう。抗議のシュプレヒコールを挙げて新たな闘いに出発しよう!」と行動提起。法廷に残った六十余人、これを拍手で確認してシュプレヒコール。
「上告棄却、弾ガーイ!」
「強制使用、許サーン!」
「大田知事と一緒に闘うゾー!」
「特別立法、許さんゾー!」
それでも席を立って外に出る人少なく、行動提起をした某氏に、「さあ、外の闘いに合流しましょう」と促されても、
「出るんですか?」
「出たくないなあ!」
の声があがる。
廷吏の方はあい変わらず、
「退廷して下さい。」
「こちらからお帰り下さい。」
の繰り返し。
さきほどの某氏ら、何人かで今後の対応を相談。再入廷を保障させるため廷吏の同行を求めて外の仲間と連絡をとることになる。ややあっての報告は「残った人は残った人で、人間らしく自分で判断して!」とのこと。
それを受けてさらに相談。「傍聴者の意思をまとめて裁判官に伝え、その上で外の集会に合流しよう」というになる。まとめられた意思は以下の通り。
1996年8月28目
最高裁大法廷傍聴者一同
最高裁大法廷判事
三好裁判長 殿
16時10分、これを拍手で採択。代表者が下平・主席書記官に手交。受領書と抗議文のコピーを三部受け取って帰廷。
「がんばろう!」でしめくくり、16時20分、座り込み状態を解く。
前号(77号)で、防衛施設庁による、反戦地主の個人調査が組織的におこなわれ、しかも、職員が意識的に外部に漏らした件で、反戦地主会ら三団体が7月11日に申し入れたことをお知らせしました。
翌12日に、着任したばかりの嶋口武彦那覇防衛施設局局長が会見をおこない、土地使用についての協力を県に要請したついでに、かの職員へは「厳重に注意」を強調するばかりでした。これは、前日の橋口氏の弁と何ら変るところはなく、こんなことでお茶を濁されてはたまりません。七月末の回答期限から一か月以上。施設庁は開き直っているとしか思われません。三団体としては、再び回答を促し、あくまで追及していきます。ひきつづき注目して下さい
午前十時半からは参議院議員会館で百万人署名運動(正式名称:沖縄の米軍用地強制使用のための特別立法に反対する百万人署名運動)の全国会議があった。この運動には違憲共闘、反戦地主会、一坪反戦地主会の代表とならんで関東ブロックも代表委員が運動の呼びかけ人に名を連ねているので、この時間にはまだ羽田目指して飛行中であった沖縄側の派遣代表団の代理として関東ブロックの上原が会議に出席した。
傍聴券の抽選は一時半からということになっていたが、早くから来る人もあることを見込んで、関東ブロックの運営委員は十一時には最高裁前に集まった。最高裁と警察は前回七月十日の口頭弁論のときの混雑に懲りて、今回は南門から正門の間の歩道の半分を傍聴者の待機場所として指定してあった。十一時半頃から傍聴者が集まり始め、十二時過ぎには沖縄からの代表団も到着し、予定通り十二時半から歩道を埋め尽くして事前集会が開始された。有銘違憲共闘議長、池原反戦地主会事務局長などが判決公判に臨む決意をこもごも語った。
詰めかけた傍聴希望者は七百人に達し、前回七月十日口頭弁論をしのぐほどであった。傍聴者の中から多くの人が関東ブロックに抽選券を提供してくれたので、三十数人分の傍聴券が確保できて、沖縄から上京してきた代表の皆さんは全員裁判所内に入ることができた。ウィークデーの昼間わざわざ裁判所まで来ていながら、折角の抽選券をわれわれに提供してくれた方々の厚意には全く頭が下がる。心からの感謝を申し上げたい。
判決内容はすでにマスコミで大る的に報じられている通りであるが、十五人の裁判官の中に一人もあの判決に反対を唱える者がいなかったというのはショックであった。大野正男判事は、かつて全電通本社支部の千代田丸事件で最高裁まで争って解雇を撤回させた庶民派弁護士。いくらかはの期待を持っていたが、やはり最高裁の判事ともなれば、国家第一主義になるのだろうか、それとも沖縄に対する差別意識から抜け出せないのだろうか。
「本件上告を棄却する」という判決は数秒で終わり、上原はかねて用意していた「不当判決(上告棄却)」巻紙を持って法廷を飛び出し、待機場所で判決の結果を待っていた支援者に結果を伝えた。たちまち「不当判決を糾弾するぞ!」の大合唱が巻き起こった。そうこうするうちに有銘違憲共闘議長らも法廷から出てきて、形式的な判決のやり方と、判決内容について糾弾の声を上げた。法廷では残った傍聴人がたった数十秒の言い渡しに憤激、裁判官らの再出廷を求めて、一時間以上にわたって法廷内に居座り続けた。(報告)
四時からは「沖縄連帯・基地をなくす共同行動のための全国連絡会議」の発足会が衆議院第二議員会館会館で行われ、池原秀明、島袋善祐の両反戦地主と関東ブロックの上原成信が出席して連帯の挨拶を行った。この「全国連絡会議」は沖縄の県民投票の直前に支援連帯の大衆集会を開くこと、実弾演習移転先の地域の反対運動との連携、十月二十二日に「基地撤去・特別立法反対」の大集会の開催などの方針を決めた。
さらに、同じ四時から東京弁護士会館ホールでも「沖縄県知事の『代理署名拒否』裁判を支援する市民・大学人の会」と「教科書検定訴訟を文援する全国連絡会」の主催で判決報告集会が開催されていて、上記の三人は「全国連絡会議」を中座して判決報告集会に向かい、池原、島袋が連帯挨拶を行った。この報告集会には終わり頃に県側弁護団から八人の弁護士が出席し、今後の裁判闘争についてこもごも決意を語った。
関東ブロックの他の運営委員は六時半からの抗議集会に備えて、判決後直ちに日比谷野外音楽堂に向かい、会場の設営に取りかかった。六時からは続々と集会参加者が集まり、定刻六時半には「最高裁判決抗議集会」が開始された。運営委員の一部は沖縄県弁護団の声明を集会場で「一坪通信号外」として配布するため印刷所に急ぎ、集会の最中に「号外」配布が行われた。
日比谷野音には三千五百人から四千人が参集し、目標の三千人を上回った。抗議集会は違憲共闘事務局長の房前三男さんが司会をして進められ、一坪反戦地主会北部ブロックの安次富浩さんが呼びかけた「沖縄反戦地主のたたかいを支援する基金」ヘのカンパが集まった。この集会には護憲フォーラム、全労連、全労協の三系列の団体からメッセージが寄せられ、沖縄の違憲共闘会議のメンバーの代読で発表された。
デモは会場から東京駅八重洲口近くの国労会館前まで、沖縄代表を先頭に展開された。解散地点では最初に到着した沖縄代表が次々に到着するデモ隊を拍手で出迎えたが、デモは延々と続き、最終部隊が到着するまで、一時間近くかかった。
(上原成信)
「県民投票」の結果に一番ほっとしたのは大田知事であろう。何しろ全有権者の過半数が基地に対しノーと突き放したのだから。この結果を受け、大田知事は公告縦覧の拒否を貫いてもらいたいのだが、実際にはそうは行かなくなりそうである。
大田知事は結果が明らかになったのを受け、コメントを発表。その中で「日米地位協定の見直し及び基地の整理縮小を図るという、県民の意思を尊重し、基地問題の解決に向けて、引き続き努力していきたい」と言っている。しかし、公告・縦覧についての質問には明確な答えをしていない。本来ならぱこれだけ民衆の意思が明確に出されたのだから、知事はもっと態度をはっきりさせても良いはずだが、そうはならなかった。先に最高裁判決を報告に来た県弁護団の中野団長は現在継争中の公告縦覧訴訟について「百パーセント勝ち目はない」との報告を大田知事に行った。大田知事も面食らっただろうが、団長自ら敗北宣言を行ったのであるから、ことは穏やかではない。
昨年来の米軍基地を巡る一連の動きは、民衆の思いに答えるかのように決定を下してきた大田知事ともう一方で民衆のエネルギーを利用しながら日米政府に迫り適当なところで幕を引こうとする動きが常に交錯をしながら動いてきたように見える。大田知事は最初こそ危なつかしかったが、昨年の9月28日の県議会での代理署名拒否以来、わりと落着いで民衆サイドで事を運んできた。この間も節目節目で政府と妥協を図ろうとする動きは見え隠れしてきた。しかし、全国を含む多くの民衆の力がその動きを封じてきたと言える。だが今回は違う、一連の行動計画の総決算という形で「県民投票」は位置づけられていたに違いない。だからここいらで幕を引こうという計画なのだろう。政府に十分「沖縄県民」の意思も知らしめた。後はその「意思」を後ろ盾に対政府交渉をすればいい。と考えている部分があるに違いない。それが先の弁護団長発言ともなっていると見るのが妥当だ。だが今回の「県民投票」はそのような姑息な政治主義を吹き飛ばすものとして位置づけられる。それは条例制定を求めた連合沖縄の思惑をも越えた民衆意思の発露として動き出している。
「県民投票」はその設問の不十分さや投票率の低さなど、さまざまに取り沙汰されること以上に初めて米軍基地に対し、自分たちの意思を表明するというところにその意義があった。
自分達のことは自分達で決めるという当たり前の姿にたどり着いたのである。これまで余りにも強大でどうにもならないと思いこまされ、また自分たちも思いこんでしまった米軍基地が案外勤くかも知れないと感じ始めてきたことは大変なことである。安保や基地は国の権限であり民衆に口をはさむ余地はないとする政府の官僚たちに任せてはおけないと意思表示をしたのである。この民衆の意思表示に対し、大田知事は改めて重く受け止めるべきである。そうすれば公告縦覧問題に対する結論も自ずと見えてくる。大田知事頑張れ、民衆の力を今一度信じると声を大にして訴えねばならない。
(那覇市議会・議員)
司会は城間めぐみさん(みるくの会)。映画「GAMA」のテーマ曲「月桃の花」の合唱で始まり、仲宗根京子さん(一坪会員)も琉舞を披露。間をぬって、個人や賛同団体からアピ−ルがたくさん寄せられた。
「米軍基地問題はこれまで、沖縄だけ大変と思われてきた。けれど四月の再定義で日米安保は質的に大転換を遂げたにも拘らず、国民の意思は問われず、さらに民間の空港や港湾を米軍が自由に使えるような内容の、防衛協力指針の見直しが勝手に取引されている。ぜひこの機会に、沖縄問題を日本全体の問題として考えてみようではありませんか!」
道ゆく人達に意思表示してもらおうと“チバリョ一(ガンバレ)大田知事”の寄書き・「命どう宝」新発行の署名・ピンポン玉投票(殆ど基地撤去に賛成)が用意された。沖縄県人余青年部からはエイサ一出演とアンケートが出され、冷戦構造が終わったのに何故米軍が居座るのか? と問い掛けがあった。
灼けつくような陽射しのもと、熱心にアンケートに応えている人達の姿がとても印象的で、高校生など若い世代の関心も高い。
盛り沢山のプログラムは大平師匠率いる敏風会の皆さんによる琉舞、大阪県人会の我謝さんとのエ−ル交換と続き、最後は真南風の垣花暁子さんの三線と民謡で盛り上がりを見せた。実行委員の佐藤さんから、県民投票への意見広告が載った琉球新報・沖縄タイムスも紹介されて、この日のキャンペーン完了。
さて、道ゆく人達に訴えはどこまで響いたか?ちなみにこの日の結果
七月末にジュネーブで開かれた国連の先住民作業部会に沖縄人として参加、こう主張したのは早稲田大学在学中の松島君(市民外交センター)。国連で沖縄の独立を主張したのは彼が初めてだ。
各国から参加した民族独立をめざす人々は七○○人。すべて国内では先住民族だ。いずれも困難な課題をかかえて、「どうしたら独立・自立できるか?」はもちろん、「ほんとうに独立・自立できるのか?」悩みつつ参加した人々も多かったという。
在京の沖縄出身者からのカンパと激励を受けてジュネーブに出発した松島君は元気いっぱい、自信に満ちて帰国。去る八月二日午後に、中野で六○人が参加して報告会を開催した。
先住民会議ではエリカ・ダイスさんが「民族として認められるための四項目」を提案。この四項目すべてを沖縄人は、彼によるとクリアーできているという。沖縄人は独立志向で一致した認識に達しているのかどうか、という厳しい質問もあったが、彼は「現在のところはそこまで達していないが、希望はもてる」と報告したという。
彼によると、沖縄に居座っている米軍も国際法からは住民の合意を得ていない点で重大な「違法」性が指摘される可能性があり、基地撤去運動の発展が独立・自立志向の運動を強化させることにもなると指摘する。
報告会では沖縄から日雇労組(沖日労)の嶺井さんも参加。本人の沖縄人としての闘争経験の紹介し、「勇気ある独立の主張をした松島さんを評価し今後も注目していきたい」と発言した他に会場からは松島君を支持、協力したいという多数の発言があった。
今回彼はたった一人で参加したためジュネーブでは他の参加者との連携や事務局とのロビイングなどもすべて自分だけでしなければならず、たいへんだったという。しかし自信に満ちて帰国した彼の報告を聞いて、来年は彼と一緒に参加したいというメンバーもいるようだ。そうすればもっと大きな声でジュネーブで「沖縄人も独立したい!」と語ることができる。その第一歩を彼が踏み出した意義は大きい。
は、
アンケート 114枚
署名 1423名
カンパ 40466円
寄書きは実行委員の一ノ瀬さんが県へ持参。