11・15沖縄知事選
選挙で問われる沖縄の進路・日本の安保
新崎盛暉
意図的にはぐらかされる争点
しかも、その争点は、政府が、いまなお最良の選択肢と主張する海上基地を受け入れるか否か、というストレートなかたちをとってはいない。そうなれば、答えは明白だからである。したがって、知事選の争点は、意図的にあいまい化されている。
稲嶺氏は、海上基地には反対だが、その代わり北部に軍民共用の空港をつくり、共用期間は最長一五年間に限定する、という。建設場所は、北部というだけで、具体的ではない。
大田知事も指摘するように、普天間代替施設は、いくつかの陸上の候補地を転々としたあげく海上にはみ出したのである。場所も明らかにしないまま、北部に期間限定の軍民共用空港をつくり、「臨空港型の産業振興や特段の配慮をした振興開発をセットする」などといっても、絵空事に終わらざるをえない。
だが、この問題の核心は、これが、ただ単に普天間代替施設にすぎないのか、という点にある。いいかえれば、最新鋭基地が必要なために、普天間返還が利用されているのではないか、ということである。
食い違う日米政府の説明
海上基地が、政府が説明するように、ただ単に普天間基地の軍事的機能を移設するものではなく、新たな軍事基地強化のための施設建設ではないかという疑問は、すでに、一九九七年一二月の名護市民投票以前から提起されていたが、その疑問は、知事が海上基地建設反対の意向を表明して以後、沖縄県が入手した二つの文書によって、ますます深まっている。
一つは、米国防総省が九七年九月にまとめた「海上施設――海兵隊普天間基地移設に関する機能分析と運用構想」であり、もう一つは、九八年三月に米議会会計検査院(GAO)が公表したSACO(日米特別行動委員会)報告に関する調査報告書である。国防総省の文書は、海上基地(Sea Based Facility)を、現在普天間に配備されているヘリコプターとは、速度や航続距離において格段の差をもつ垂直離着陸可能な次世代主力輸送機MV−22オスプリ(Osprey、これまでは一般にオスプレイと表記されていた)の初の海外展開拠点と位置づけている。MV−22も基本的には強襲揚陸艦に搭載するものだが、沖縄からだと朝鮮半島も自力展開の範囲内にすっぽり入ってしまうので、「“沖縄の海兵隊プラス佐世保の強襲揚陸艦”というこれまでのマリンの展開の図式が、場合によっては“沖縄の海兵隊プラス海上施設のMV−22”に変わるという革命的な転換もあり得る」(「主力はオスプリ沖縄海上施設の実態」『軍事研究』九八年八月号)と軍事リポーターの石川巖氏は指摘する。
この国防総省の文書の内容が、地元紙で詳細に報道されたのは今年五月から六月にかけてのことだが、MV−22が次世代の米海兵隊主力機として二〇〇一年から実戦配備されることは、名護市民投票以前から知られており、政府の地元説明会などでは、住民側から、くり返し海上基地へのMV−22配備に関する質問がなされた。しかし、政府側は「普天間飛行場におけるヘリコプターの運用形態とほぼ同様」(九七年一一月六日政府公表の「海上ヘリポート政府基本案」)とごまかし続けた。
それどころか、九月一五日、防衛庁長官就任後初の沖縄米軍基地視察を行なった額賀福志郎防衛庁長官は、視察後の記者会見で、「国防総省の文書で、海上基地は(普天間飛行場の)代替施設ではないという記述がある。単なる代替基地でなく、機能強化につながるのではないか」という記者の質問に対して、次のように答えている。
「そういう正式な文書は見てもいないし、読んでもいない。普天間基地の代替基地として、海上ヘリポートが考えられていると認識している」(『琉球新報』、九八年九月一六日)。
今年三月二日に公表されたGAOの調査報告書は、「施設の恒常的な運用は、サンゴ礁など周辺の海洋汚染を引き起こす可能性がある」と環境上の問題点を指摘するとともに海上基地は四〇億ドルの建設費のほかに、年間の運用・維持管理経費が普天間基地(二八〇万ドル)の七〇倍以上にものぼる二億ドルと見積もられているので、米政府は、日本政府が維持管理経費も負担するよう要請しているという。
この点について安達俊雄内閣審議官は、県幹部との話合い(三月一一日)の中で、「GAOは日本の会計検査院と異なり気楽に報告書を出す傾向があり、間違っているとすぐ撤回するようなものである」と述べている。
防衛庁長官は一年も前に米国防総省がまとめた文書を見てもいないで、内閣審議官は米政府機関の報告書をいい加減な作文だと一蹴した上で、海上基地こそ最良の選択肢と説く。政府の沖縄に対するこの不誠実さこそ、まず第一に問題にしなければならない。
民意背景になびかぬ知事を逆恨み
だが、稲嶺陣営や稲嶺立候補確定のころから反大田の立場を露骨にしはじめた言論人や稲嶺陣営は、基地の整理・縮小が行き詰まり、沖縄振興策が具体化しないのは大田知事が政府の信頼感を失ったからであり、問題は大田知事の政治手法にある、と議論をすり替える。
たとえば稲嶺氏は、知事選に臨む基本政策発表の際の記者会見で次のように言う。
「総理と一七回も話をされた中で、お互い先方に何らかのコンセンサスを得られたと思わせたということが、問題を複雑にした。やはりイエスはイエス、ノーはノーであることが重要。私は島田懇談会(注)の副座長と作業部会長を務め、その中で政府サイドに厳しい発言をしてきた。しかし一貫して信頼関係が保てるように努力した。現実に他のプロジェクトが止まっている中、島田懇は非常に順調に進んでいる。そういう意味で私は中央に信頼感を得ていると確信している」(『沖縄タイムス』、九八年九月二二日)。
たしかに、九六年九月の公告・縦覧代行応諾から昨年末までの大田知事の優柔不断な態度は、決して褒められたものではない。だがそれも、国(中央)と沖縄(地方)の圧倒的な力関係の差を背景とした苦汁の軌跡だとすれば理解できないこともない。いずれにせよ大田知事は、最終的には名護市民投票などに示された民意を尊重して、海上基地に反対する決断をした。遅すぎたとはいえ、その決断は高く評価されこそすれ、非難される点はない。政府が知事に要求していることは、明白に表明された民意に逆らった意思決定、すなわち民主主義の否定を強要するものだからである。
だが、もう一歩のところまで知事を追い込みながら、大魚を逸した政府は、「信義を破った大田県政と手をつなぐことは絶対にしない」(自民党野中広務幹事長代理=当時、『琉球新報』、九八年七月一日)と逆恨みし、大田県政を孤立させ、大田県政が続く限りいかなる振興策も実現しないかのような閉塞感を煽り、現実対応型候補の浮上を誘導した。 最初の候補が、革新の一翼を担っていたはずの上原康助氏であり、次が八万五〇〇〇人が結集した県民総決起大会(九五年一〇月二一日)に知事とともに壇上にいた稲嶺恵一氏であった。
40年前の那覇市長選とそっくり
今回の知事選挙は、ちょうど四〇年前、一九五八年一月の那覇市長選挙と似ている。島ぐるみ闘争の盛り上がりを背景に那覇市長になった人民党の瀬長亀次郎氏が米軍布令によって追放され、その後任を選ぶ市長選挙は、沖縄社会大衆党(社大党)左派だった兼次佐一氏を人民党が支援し、社大党右派の平良辰雄氏を保守派が支援する構図で戦われた。それは、あれやこれやの政策の違いというよりは、毅然として支配者に対峙し民主主義を守るか(兼次氏)、それとも現実的対応を選ぶのか(平良氏)、という選挙だった。那覇市民は、結局、兼次氏を選んだ。
それから一〇年後、一九六八年の初の主席選挙で、革新統一候補・屋良朝苗氏の後援会長になった平良氏は、権力者に協調的であるよりも批判的である勢力が強くならない限り、沖縄の未来は開けない、と語っている。那覇市長選で妥協やむなしと主張した平良氏が、その一〇年後の主席選挙で毅然たる態度の必要性を強調しているのは示唆的である。そこに、沖縄戦後史の蓄積があった。
政府は、沖縄返還の際の国会決議で、在沖縄米軍基地の整理・縮小を義務づけられていたにもかかわらず、四分の一世紀の長きにわたってこれを怠ってきた。大田知事の代理署名拒否によってようやく重い腰をあげたものの、結局は、アメリカ側の要求に応じて、基地機能を強化しながら面積の二割程度を縮小することで終わらせようとしている。いま必要なことは、基地の整理・縮小・撤去は、国際社会に向けた平和へのメッセージであるという原点に立ち返って、あれやこれやの政策的粉飾に覆われた知事選挙の本質的な争点を浮かびあがらせることではあるまいか。
(注)官房長官の私的諮問機関。島田晴雄氏が座長。
[NSIAD-98-66] Overseas Presence: Issues Involved in Reducing the Impact of the U.S. Military Presence on Okinawa
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米会計検査院文書の検索:
http://www.access.gpo.gov/su_docs/aces/aces160.shtml